喫茶うたたねの魔法

如月 凜

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第2話 黄金のフレンチトースト

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リィリィリィ……
ジー ジー
 
秋風が虫の恋歌を運ぶ夜。

階段を挟んだ隣の部屋からは、父さんのいびきがリズム良く聞こえてくる。
 
俺は表情だけが描けない真弓さんの絵に視線を落としたまま、仄かに温もりが残る珈琲のマグカップに口を付けた。
 
小鈴ちゃんがいなくなった翌日から急に冷え込む日が続いた。

九月も終わろうとしている今は、景色もすっかり秋めいている。

「うちで働かないか」

シンさんにそう言われたのは、つい二日前。

無収入の俺は、あの海の日以来店に行くのを控えていた。
 
我慢の糸が切れたのがその日の朝だった。

貯金は生活費に充てている俺の財布は、虚しい小銭の音を立てていた。

それでもどうしても体の奥底からあの珈琲が恋しくて、節約の為の我慢大会は呆気なく幕を下ろした。
 
そんな念願の一杯を少しでも長い間楽しめるよう、じっくり味わいながら飲んでいた時だった。
 
思い出すと落ち着かない。

スケッチブックを置いて、正座で固まった膝裏の筋を伸ばしながら唸る。

突然、音を切ったままにしていたスマホがブーンと机の上で振動し、慌てて正座に戻った。

画面には《シンさん》と表示されていた。

「は、はい。こんばんは」

「ごめんね、連絡するって言ってたのに。さっき出先から帰ったところで、遅くなってしまった」

「いえ、大丈夫です。ずっと起きてたので」
 
電話なのだから見えるはずもないのに、言いながら頭をぶんぶんと振ってしまう。

「昨日、翼さんから書類頂きました。時給、あんなに頂けません。接客業なんてやった事ないから、寧ろ最初は修行しなくちゃいけないくらいだと思うんです。だから――」

「何言ってるの。働くんだから、お給料が発生するのは当然だよ。接客って言ったって、うちは殆どが常連さんばかりだから緊張しなくても大丈夫だよ。敦士君も顔見知りの人もいるだろうし。時間はいくらでもあるんだから、料理とかはゆっくり覚えてくれたら良いしね」
 
料理、という単語に思わず心臓が大きく鼓動を打つ。

本当に大丈夫だろうか。

俺が作った料理を食べて、お金をいただくのだ。

不安の波が押し寄せて、スマホを持つ手に力が籠ってしまう。

「じゃ、特に持って来て貰う物も無いから。書類にも書いてたと思うけど、八時半に来てくれたら良いよ。とにかく今夜はゆっくり休んで」
 
通話を切り、スマホをテーブルに伏せる。

「明日から、あの店で……」

四分の一だけ開けていた窓を閉め、電気を消して布団に潜る。

父さんのいびきを遠くに聞きながら、ゆっくりと眠りについた。


「敦士、何やってるんだ」

階段を降りてきた父さんの乱暴な言い方に、水筒の蓋を開けようとした手が止まった。

「お茶の用意だけど」
 
ぱちぱちと白身が弾けだした目玉焼きの火を弱め、眉をひそめて答える。

麻痺した右足を引きずりながら寄って来たかと思うと「どけ」と野良犬でもあしらうみたいにコンロの前から追い払われた。

「何するんだよ」
 
むっとする俺と目も合わせようとしない。

父さんは白身の縁が茶色く焦げ付いた目玉焼きを、フライ返しで掬って皿に滑らせた。

「さっさと仕事に行け」
 
食器棚から茶碗を取り出し、炊飯器を開けて炊き立てのご飯をよそう。

それらをお盆に乗せる父さんの表情は文字通りの仏頂面で、思い当たる節も無い俺の不安を駆り立てる。

「わかってるよ。でもまだ時間もあるし、父さんの――」

「良い歳して何が父さんだ」

「は?」

「いつまでこの家にいるつもりだ」

あまりにも攻撃的な物言いじゃないだろうか。

言うだけ言って、お盆を手に居間へと入る。

麻痺で傾いた後姿は、昨年よりもまた一回り小さくなったように見えた。

そんな身体の父さんは、この家で独りで暮らすつもりなのか? 

そんなの、出来るわけないじゃないか。

喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、ただ壁際で立ち尽くすしかできない。

「それとな」

テーブルに朝食を置いて、自分もどっかりと胡坐をかくも、一向に俺とは目を合わせようとしない。

何か意地でもあるのか、頑なに視線はテレビや料理だけに注がれる。

「十月から住む家を探せ。どうしても金が足りないなら、家の貯金から出せばいい」

「ちょ、何言ってるんだよ。そんなの――」

「出ていけ」
 
動揺する俺を遮ったその言葉は、これまでに聞いたどんな言葉よりも強く、冷たく、俺を突き放した。

「いいから。さっさと行け」


「敦士君、早いね。おはよう。制服とエプロン用意してあるから着替えようか」
 
シンさんはホースの先から花壇へと弧を描いていた水を止め、一緒に店へと入った。

開店前の店は初めてだ。

真紅のベロアカーテンは既に開けられているが、店内は鳥の囀りと葉擦れの音が囁き、静謐な空気が満たしている。
 
店に入って左手にある階段の下でシンさんが足を止めた。

「二階の奥の部屋が空いてるんだ。昔、翼が泊まりに来た時に使ってた部屋でね。もうあの子が泊まる事も無いし、そこを好きに使ってくれたら良いよ」

言われた通り部屋に向かうと、着替えは部屋の中央に置かれた楕円のテーブルに置いてあった。
 
フローリングの六畳ほどの部屋は掃除が行き届いていて、空き部屋特有の誇り臭さもまるで無い。
 
壁際のホワイトウッドのチェストに並べられたテディベアやウサギのぬいぐるみ。

赤い屋根のドールハウスなんかも、きちんと手入れをしているのか、埃ひとつ見当たらない。
 
ただ、この部屋に翼さんが出入りしていたのだと思うと長居するのも気が引けてしまう。

早々にシンさんとお揃いの服に着替え、腰巻きの黒い無地のエプロンの紐を蝶結びにした。

「こっちが紅茶で、そっちの棚が珈琲。種類も多くて戸惑うかもしれないけど、大抵は決まったものばかり使うから。引き出しも適当に開けてくれて構わないし、物の場所はすぐに覚えると思う」
 
壁に並んだ三つの棚を順に説明してくれたシンさんが、流し横の作業台に向き直り、布巾で作業台を拭く。

「料理は注文を受けたメニューから一つずつ覚えていこう。とりあえず、お水やお絞りを出したり簡単な事からやってくれたら良い。間違うのは当然だし、困った事があればいつでも聞いて。とにかく焦らなくて良いからね。敦士君が楽しく働けなきゃ意味が無いから」
 
シンさんは「あぁ、それと」と、人差し指を立てて付け加える。

「お客さんの前で、その人の事をこそこそ話さない事。お客さんが注文したそうにしていたら聞きに行くのは構わないけど、そうでなければ行かない。急かしてるみたいだし、来てもらったからって絶対に何か注文してもらわないと駄目なわけじゃないから。のんびりしたいだけの人もいるだろうし。うちは満席になる訳でもないし、回転率とか気にしないで、ゆったりして貰えるように心がけてね」

「わかりました。頑張ります」
 
エプロンの端を緊張気味に掴んだ俺の背中を「気楽にね」と、目じりに皺を溜めながら軽く叩いた。

この時間は人が来ることも少ないから、とよく出る珈琲や紅茶の淹れ方を教わった。
 
サイフォンやエスプレッソマシンの使い方。

「他にも……」と冷凍庫を開けて取り出した、使い込まれた風合いの袋状の布は、ネルフィルターと言うらしい。

「最近はこれで淹れるお客さんが来ないから冷凍してたんだ。使う時に水にさらして解凍するんだけど、頻繁に使う時は水を張ったタッパーで冷蔵庫に保管する。簡単に言えば、ペーパーフィルターが布になったものだよ。目が粗くて、豆の特徴をしっかりと感じられるんだ。でもまろやかで、飲みやすい。起毛のある面と内面があるだろう。裏と表で少し味も変わるんだ」

「サイフォンとかエスプレッソマシンは使ってるのは何度も見ましたが、これは初めてです」

「そうだね。まぁでも時々使うから覚えておいても良いと思う。好きな人は必ずこれで淹れて欲しいって言うからね。とりあえず、僕が淹れてみせるから飲んでみようか」

端から端までびっしりと世界中の珈琲豆が並んだ三段の棚の一番上。

右からふたつ目のキャニスターを手に取り、ミルにセットする。

「ネルドリップは中挽きね。布の目が粗いんだ。一時期はよく注文あったんだよ。ほら、ここに来る途中にガラス工房があるだろう。あそこの館長さんが、食後に頼んでくれていてね」

「コモレビ……でしたっけ。僕は多分、お会いした事無いですよね」

「そうだね」
 
シンさんはそれ以上何も言わず、挽いた珈琲豆が入ったネルに湯をゆっくりと注いだ。

ぷっくりと膨らみ、芳ばしい香りが鼻孔をくすぐり、思わず深く息を吸った。

緊張していた身体中の力がすっと抜けるのを感じる。

「はい、どうぞ。こっちは起毛を内側にして淹れたもの。で、今から淹れるのが起毛が外側ね。ネルの起毛は珈琲の油分を吸収するんだ。内側にしたら、油分を吸ってすっきりとした味わいになる。逆に外側にしたら、コク深い味わいになるんだよ」
 
最初に淹れた方を半分ほど飲み、その後に淹れた方を飲む。
 
シンさんがいつも座って外を眺めている出窓から零れ落ちる木漏れ日が、きらきらと光の粒となってカウンターに降り注ぐ。

なんて穏やかな朝なんだろう。

「本当ですね。へぇ……面白いですね。道具は同じなのに味が変わるんですね」

「そうだね。同じ道具を使っても淹れ方ひとつ、何なら淹れる人が変わるだけでも味に変化がある」
 
コンロの上で煮立つ小鍋にネルを入れ、今度はタッパーに張った冷水に浸して冷蔵庫に仕舞った。

「水は毎日取り換える。もし数日使うことが無かったら、また冷凍庫に仕舞う。その時はまた説明するから」

「あれ、でもガラス工房の館長さんは最近来ないんじゃ?」
 
シンさんは「まあね」と、冷蔵庫の扉を閉めながら、出窓の向こうに視線を向けた。

「何となく。そろそろ来てくれる気がするんだ」


「よし」
 
シンさんに教えてもらい、蓄音機にレコードをセットして針を落とす。

パチパチ、と静電気のような音がして、滑らかなメロディが店内を心地よく流れ始める。
 
曲名カードとして渡された紙にはグランドピアノと踊るように散らばる音符、珈琲がデザインされていた。

作曲者名と曲名を書き、入り口のガラス玉で縁どられた額に入れるのだ。

「えっと……ドビュッシー、と。曲名は……亜麻色の髪の乙女」

筆圧が弱く、うっかりするとナメクジの這った跡みたいな字になる。

ペンで一発書きな事に緊張しながらも、息を止めたまま最後の女の文字を書いて、ふぅ、と安堵の息を吐いた。

「シンさん、書けました。って……」
 
初めての蓄音機に四苦八苦したからか、文字を書くのに集中していたからか、いつのまにかお客さんが来ていることに気付かなかった。

「あの――」
 
言いかけて口をつぐんだ。

「僕、ちょっと忘れ物したから取って来るね」
 
シンさんは「すぐ戻るから」と二階へと行ってしまった。

改めてお客さんを目の前にして、緊張で背筋が伸びる。

今にも身体が吊りそうなくらい筋肉が強張っているのがわかる。

えっと、えっと、と頭の中でもう一人の俺が右往左往しているみたいだ。

「い、いらっしゃいませ」
 
お客さんは、今まで何度も見かけた事のある人だ。

店の一番奥のソファの指定席。

そういえば、あの男性のテーブルに珈琲があるのを見たのは数回程度だろうか。

と言っても珈琲カップを前にして大抵は、ぼんやりと景色を眺めていたり。

珈琲を直接口に運んでいる姿は見たことが無い。

それよりも、店内の様子を穏やかな表情で見ている――というか楽しんでいるような人だ。
 
物静かで上品な雰囲気はシンさんにも似ている。

シンさんが言っていた『のんびりしたいだけのお客さん』というのは彼の事なのだろうか。
 
几帳面に整えられた真っ白の薄い毛と、灰色のシャツにえんじ色のベスト姿は、いつもと同じ。

男性は声を掛けた俺をじっと見つめたかと思うと、ふわりと表情を緩めた。

そうして再び、窓の向こうに視線を戻してしまう。

二階から戻って来たシンさんの手には、時代めいた時計が握られていた。

懐中時計と呼ばれる物だ。

小説の中では登場する事もあるし、テレビで映像も見た事があるが、実物を目にするのは初めてだ。
 
手のひらに収まる可愛らしいサイズで、色はアンティークゴールド。

首から下げられるように同じ色のチェーンが付いているそれを、俺の手に握らせた。

「え、これ……」

「それは敦士君にあげるよ。料理や紅茶を蒸らす時間も計らないといけないからね。デジタルじゃないから慣れるまでは不便に思うかもしれないけれど、一秒ごとに時を刻む針を見るのは案外良いものでね。時間の感覚というのが身体に刻まれていくんだよ。どうしても慣れなかったら、デジタルにするから遠慮なく言ってね」
 
蓋の表面に付いた小さな傷や錆びが、この時計が刻んできた時間の重みを感じさせる。
 
蓋を開けて確信した。

これはシンさんが大切にしてきたものだ。

文字盤の透明なガラス風防には指紋ひとつ無い。

こんなにも古い物だ。きっと大切にしてきたのだろう。
 
そんな大切な物を渡してくれた。
 
思うと、不安の風に圧されてくすぶっていた勇気という名のちっぽけな心の灯火が、温もりとなって心を満たしていくのを感じた。

次第に高くなる太陽がソファ席のテーブルにレモン色の陽光を落とし始めた頃、ドアベルの音が軽やかに響いた。

シンさんから借りていたレシピノートを慌てて閉じ、棚の引き出しに仕舞う。

「いらっしゃいませ」

男性はシンさんに軽く会釈するとすぐに視線を剥がし、手前から二番目のソファ席に迷うこと無くそっと腰を下ろした。
 
第一印象は大人しそうな三十代後半、と言ったところだろうか。

もしかすると四十歳をいくらか超えているかもしれない。

そう思ってしまうのも、酷く痩せこけた頬にさす灰色の影と、落ち窪んだ瞼のせいだろう。

ちょっと強風が吹けば、枯れ葉の如く飛んで行ってしまいそうだ。
 
男性は重い視線を手元のメニューに落としていた。

そんなに時間を掛けて見るほど品数が多いとも思えないが、ようやくカウンターに視線を向けられたのは二十分も経ってからだった。
 
たっぷりと時間を掛けた末に頼んだのがブラックの珈琲だけだったので、俺は妙な間の後で「以上でよろしいですか?」と訊ねた。

男性は机の隅にメニューを立てながら「お願いします」と蚊の鳴くような声で呟いた。

シンさんが迷うことなく棚からキャニスターを取り出す。

「彼のはこれね」

「ネルドリップ……」

「そうだよ。さっき練習したでしょ」

「それは、まぁ。もしかして――」

ガラス工房の館長さんですか、そう言おうとしたがシンさんは「はい」とミルを俺の前に置いた。

お客さんの前でこういう話はしちゃ駄目なのだ。
 
豆をセットし、手動で回すミル。

この店では、豆を挽く音すらこの上ないBGMで、それを挽かせてもらえる事が何より贅沢な気がした。
 
珈琲を淹れている間、館長さんはソファの背にもたれかかったまま、窓の外に目を向けていた。

時折やって来る鳥にも反応せず、どことも無く一点を見つめたまま。

珈琲を飲む横顔は、細く差し込む陽の光に、灰色の陰影がくっきりと刻まれていた。

指定席の紳士と館長さんの静かな空間に、カランコロン、とベルの音が響いた。

「どうも」

館長さんに気付いて小野さんは何か言いかけたが、すぐに開きかけた口をキッチンの俺に向けた。

「おう。久しぶりだな、敦士君。なんでそっちにいるの」

「ふふっ、今日からうちの店員なんだよ。小野さん、お腹空いてるんじゃない?」
 
久しぶりに会った小野さんは、いつもの一番手前のソファ席にどっかりと座ると「よくわかるね」と笑いながら、ビジネスバッグから新聞を取り出した。

「オムライスと珈琲はいつものね。いやぁ、驚いたな。もしかして敦士君が作ってくれるの?」
 
そうなんですか?と戸惑いの視線をシンさんに向けると、ためらいなく「そのつもりだよ」と頷いた。

「へぇ、楽しみだな」
 
そう言えば、このところ小野さんは夕方に来る事が多いと言っていた。

だから会う機会も無かったのだ。
 
スーツ姿にビジネスバッグと新聞の、見慣れた装いはいつも通り。

だが新聞を読みながらも、ちらちらとスマホに意識を削がれているようにも見える。

「強火だよ。ケチャップは……そうそう、そのくらい。目分量で悪いね」
 
玉ねぎと鶏もも肉を炒め、フライパンにケチャップを入れる。

縁にフライ返しを叩いてカンと爽快な音が鳴り、ケチャップの水分が一気に音を上げながら弾けていく。

そこにご飯を入れて混ぜ合わせていく。

「うん、それくらいかな。あまり混ぜすぎるとべたべたするから。こっちのお皿に取り出そうか」
 
一度フライパンを綺麗にし、今度は卵を流し入れ、チキンライスを戻す。

ここからがオムライスの一番の緊張の場面と言っても過言では無い。

「大丈夫」
 
シンさんから白い丸皿を受け取り、頭の中でシミュレーションをする。

 よし、いける――はず。
 
その最後の一瞬に現れた弱気な心のせいかもしれない。

よりによって、盛り付けのてっぺんになる部分に大きな裂け目が出来てしまった。

間から鶏もも肉が覗いていて、修復の仕様も無い。

なんてこと。最悪だ。

「す、すみません」

「大丈夫、大丈夫。敦士君の癖も見たかったから、ちゃんと説明しなかった僕が悪いんだよ。ごめんね」

「そんな事無いです。僕が不器用で……」

「じゃあこれは、敦士君のお昼ご飯にでもしよう。そろそろそんな時間だしね」

良かった。こんなのをお客さんに出して恥をかくくらいなら、自分で食べたほうが百倍、いや千倍マシだ。
 
失敗作にラップをかけて脇に避けていると、シンさんは「今度は大丈夫だよ」と新しい卵を持ってきた。

「破れてても平気なのに。まあ別に急いでるわけでも無いから、練習だと思って。敦士君、ゆっくりやってくれたら良いよ」

そう言ってくれた小野さんの好意に甘え、もう一度卵を割った。

今度はシンさんにコツを教わりながら、ひと思いに皿に滑らせた。

「お、上手いじゃない。ねぇシンさん。合格でしょ」

「うん、バッチリだね。僕より勘が良いよ」
 
照れ笑いするのもまた恥ずかしくて、唇を噛み締めながら、渾身のオムライスを小野さんのテーブルに運んだ。

オムライスひとつにこんなに冷や汗をかくなんて思わなかった。

スプーンを手にした小野さんが、口いっぱいのオムライスで頬を膨らませながら親指を立てて破顔した。

「最近色々あってさ。いやあ、美味しいもの食べて元気出たよ。ありがとう」

面と向かって言われると、どう反応して良いのかわからない。

でも、やっぱり心のどこかでは嬉しくて、平静を装おうとしていた頬の筋肉が緩んでしまう。

「敦士君は一生懸命だからね。失敗しても、必ずできるようになる子だよ」
 
指定席の紳士は、そんな俺やシンさん、お客さんたちの様子を見守るように目を細めていた。

「ごちそうさまでした」 
 
館長さんが席を立つのを見計らって、シンさんがレジに立った。

「来てくれてありがとうね」

「ガラス工房、今月で閉めようと思うんです。片付けもあるので暫くはいますけど」
 
財布から出した小銭をシンさんに手渡す。

「そうかい。でも、顔を見せに来てくれて嬉しいよ」

「今日でもう一年が経ちます」

「そうだったね」

解っていたようにゆっくりと頷いた。

話の内容がわからない俺は、ただ横で突っ立っているしかなかった。
 
館長さんは今にも溢れ出してしまいそうな感情の波を抑え込むように、大きく息を吸い込んだ。

「いつも以上にあの日を思い出しちゃって。気付いたら、ふらふらここに来てました」
 
ゆっくりと店内に視線を巡らせる。

その瞳は乾き切っていて、疲労感を抱いているように見える。

「でもやっぱり、フレンチトーストは食べられないです」

財布をお尻のポケットに仕舞い、苦笑する。

「あ、あの――」
 
俺は一番近くにあったカウンターテーブルのステンドグラスのランプと、入り口のガラス玉の額縁を交互に指さした。

「凄く、凄く綺麗です」
 
館長さんは「あぁ」と懐かしむようにそれらを見つめると「ありがとう」と僅かに笑みを浮かべた。

それからシンさんに、小野さんに。そして俺にも丁寧に会釈をしてから店を出て行った。

その後、小野さんが「大丈夫かな、高塚君」と言ったので、館長さんが高塚さんだという事だけはわかったけれど、シンさんは「どうだろうね」と言うだけで、それ以上の事は聞けないままだった。
 
高塚さんが帰り、暫く珈琲を飲みながら新聞を読んでいた小野さんは――この時もやっぱり手元のスマホを気にしていた様子だったが、三時過ぎにおもむろに新聞を畳んで会計を済ませた。

「敦士君の記念すべき初出勤に来られて良かったよ。オムライスも食べられたし、珈琲もシンさんに負けないくらい上手に淹れられてたし、こりゃあこの店を継ぐのは敦士君に決まりだな」
 
シンさんからお釣りを受け取ると「はい、ありがと」と財布に戻した。

「そんな、僕はただのバイトで……」

「あぁでもあれか。翼ちゃんも継ぐかもしれないし。良いねぇ、この店の未来も安泰だ」

「ははっ。でもまだ僕が現役だからね」

「そりゃそうだな。じゃあ、また来るよ」
 
俺は先回りして玄関ドアを押し開ける。

「ありがとうございました」
 
シンさんと声が重なる。

背を向けて歩き出した小野さんは、すぐにスマホを出して視線を落としながら、緩いカーブを時計塔広場へと進む。

西日の強い夕方の公園に、スーツの後ろ姿が白く溶けていった。



シンさんに教わる料理や珈琲、紅茶の淹れ方はどれも丁寧でシンプルなものだった。
 
飲み物に関しては細かい温度や時間はあるものの、きちんとメモを取って頭にさえ入れれば間違うことは無い。

それでも、シンさんが淹れる珈琲と同じ工程で作っている筈なのに、どうもしっくりこないのだが。

「やっほーう、青年。何見てんのー。エロ本?」

「翼さんですか」

「やだぁ、突っ込んでもくれないじゃん。大学終わりに雨のなか来たのにさ。冷たーい」

「ほら、タオル。早く頭を拭きなさい」
 
階段を降りてきたシンさんが、バスタオルを翼さんに手渡す。

窓の向こうで二度、雷光が白く閃いた。

「何それ。賃貸、情報?」
 
ポニーテールをほどきタオルで乱暴に拭きながら、カウンター席に座る俺の手元を覗き込む。
 
その瞬間、大地を裂くような雷鳴が轟いて、翼さんのオフショルダーから覗く小麦色の肩が素早く上下した。

「ひゃあ、もう嵐だね。で、独り暮らしするの?ここの二階に住めば良いじゃん」

「シンさんもそう言ってくれましたが、流石にそこまでは」

「ふうん。真面目だねぇ」

翼さんは毛先をタオルで挟みながら「ちょっと着替えてくるわ」と二階へ上がって行った。  

十月に入って間もない午後。
外は突然降り出した夕立に、辺り一面白く煙っていた。
 
今日のお客さんは菊池ミヤコさんという、これまでも何度か見かけたことのある、杖をついた八十五歳の老女だけだった。

その菊池さんも、この雨が降り出す前に帰って行った。
 
指定席の紳士は、今日は来ていない。

休憩がてらにテーブルに広げていた賃貸情報誌を閉じ、エプロンを着けようと席を立った。

「翼だけだから構わないよ」

「いえ、勤務時間ですし」

エプロンを腰に巻いてキッチンに立つ。

まもなくして翼さんが軽快な足取りで階段を下りてくると、さっきまで俺が座っていた席――今の俺の真正面に座った。

「ジャンナッツのミルクティー、アイスね」
 
シンさんから習った通りに紅茶を淹れる。
我ながら順調に動けている気がする。

そんな俺を、シンさんは窓辺の丸椅子に腰かけたまま見守ってくれていた。


閉店時間の五時半には、あんなにもどす黒く染まっていた空の切れ目から、筋状の光が差していた。

「あぁ、綺麗だねぇ。光芒だね。天使のはしごってやつだ」

「天使のはしご……良い名前ですね」

白銀に縁どられた雲間から地上に一直線に指す柔らかなバター色の光は、確かに天使でも降りてきそうだ。

今までもこういう現象はあったはずなのに、じっくり美しいと感じる事は無かった。

「お疲れ様。悪いけどそれ、宜しくね。会えなかったら明日で良いから」

「はい。じゃあ、失礼します。お疲れさまでした」
 
翼さんが忘れて行ったスマホを手にシンさんと別れた。

雨上がりの綾瀬の森公園は、瑞々しい緑の匂いが立ち込めていた。
 
翼さんが出て行ったのは、ほんの数分前。

今日は歩きだったようだし、次の電車までに十分はあるから、上手くいけばホームで会えるかもしれない。
 
コンクリートの水たまりを避け、木のトンネル小道のぬかるんだ地面を慎重に歩いた。

大きな水たまりを飛び越えた先で跳ねた泥水が、つま先に染み込んだらしい。

親指がじっとりと濡れているのがわかる。
 
小道を抜け、ふとガラス工房の方を見やると、桂の樹の下に真弓さんの姿があった。

視線に気づいたのか、真弓さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。

驚いて固まる俺に「あら」と口元が動く。

親し気に胸の前で手を振られて、反射的に思わず振り返す。

嬉しさと恥ずかしさで、頭のてっぺんまで一気に熱を帯びていくのを感じた。

コンロの上で沸かされるやかんみたいだ。
 
話したい。でも翼さんにこのスマホを返さないと。
 
欲求と使命の狭間でもじもじする俺に、真弓さんが手招きした。

あっというまに使命よりも欲求で埋め尽くされてしまった俺は、スマホをリュックに仕舞った。

「こ、こんにちは」

「こんにちは。隣、どうぞ」

座りかけて、お尻の先がベンチに触れた瞬間に腰を上げた。

当然だが、ベンチはびしょ濡れだ。

リュックを漁り、念の為にと入れておいた大判のハンドタオルで拭く。

ハンドタオルは、絞るとぼたぼたと滴るほどに水を吸い上げた。

「真弓さん、濡れてませんか?」

綺麗なベージュのワンピースが濡れてしまっては大変だ。

だが真弓さんは「平気です」と涼しい表情で答えるだけだ。
 
結局、雨水をたっぷり吸い込んだ木製のベンチは、表面を拭ったくらいではどうにもならなかった。

諦めて座ったが、ジーンズのお尻にじわあと水気が広がる。

あまりの不快感から顔が歪んでしまったが、真弓さんの横顔に、俺の顔も心も無意識に緩むのだった。

ガラス工房コモレビは、九月末にひっそりと閉館していた。

がらんとした敷地の入り口にロープが張られ、玄関は冷たく白いシャッターが下ろされている。

その傍に【ガラス工房 コモレビ】の手作り立て看板が、もの悲しく無造作に倒れていた。

「寂しくなりますね」
 
観光客など沢山の人が出入りしていた場所が無くなってしまうと、建物までもが一層悲し気に見えるのが不思議だ。

「賑わっていた頃が夢だったみたいに、がらんとしてしまう」

笑顔が溢れる場所であればあるほど、終わる時というのはうら寂しい。
 
この工房が賑わっていたをの最後に見たのは、小学一年生の夏だった。今でも覚えている。
 
当時、公園ではボランティアイベントが開催されており、入り口すぐの憩いの広場はお祭りみたいな賑わいをみせていた。
 
そのイベントには、この工房も参加していたのだ。

でも俺は楽しそうに工房に入って行く親子や、漏れ聞こえてくる笑い声が苦しくて、逃げるように時計塔広場へと走り抜けた。
 
時計塔広場のベンチには、当時の父さんよりも年上らしき――恐らく六十手前の男性が、ひとり空を見上げていた。
 
時計塔の陰で独りぼっちで泣いていた俺に、その男性が声を掛けてくれたのだ。

その日、俺はクラスメイトに幽霊が見える事がばれてしまったのだ。

その瞬間までは上手くいっていた学校生活。

俺の普通の子供の日常が、音を立てて瓦解した日だった。
 
男性は泣いている俺の頭をそっと撫でてくれた。

大きな手から伝わる温もりは今でも覚えている。

俺はずっと俯いたままで、その人の顔すらはっきり覚えていない。

ただ男性が掛けてくれた言葉は、朧げにだが今でも覚えている。
 
その言葉は、当時の俺には月並みに思えた。

いつまでもぐずる子供を慰める為の、その場しのぎの言葉。

だが、彼の包み込むような声色は、心の片隅で、そんな陳腐な言葉さえも信じたいと思わせるようなものだった。

「館長さんも、このままどこかへ行ってしまうんでしょうか」
 
さっきから一方的に喋っていることに、ようやく気が付いた。

「すみません、うるさいですよね」
 
真弓さんはとても静かな人だ。

いつもこうして、この場所にひとりでいる。

恥ずかしくなって小さくなる俺に、真弓さんは「そんなこと無いですよ」と、再び工房に視線を向けた。

「私は、続けて欲しいなと思います」

「でももう辞めてしまったんですよね。今は後片付けだけで来ているようですし」

並んだ四つの窓の向こうに、人影が行き来するのが見える。

片付けは殆ど終えてしまったのだろうか。

ここから見る限りでは、壁付けの棚は虚しいほどに空っぽだ。

工房の建物とブロック塀の間の通路には、段ボールや無造作に置かれたテーブルが積み上げられていた。

「後悔でいっぱいなんでしょうね。優しい人だから」

「後悔、ですか」

真弓さんは「えぇ」と窓に映る人影に目を向ける。

長く繊細なまつ毛がゆっくりと瞬く横顔を、雨上がりの淡い光が儚く照らす。
 
ふぅ、と真弓さんがベンチの背にもたれると、ワンピースから覗く柔らかそうなきめの細かい白い腕が、僅かに俺の左腕に当たった。

俺はさり気なく、ほんの少し右に体をずらした。

「とても優しそうな人ですよね。今日、喫茶店に来てくれました」
 
言うと、真弓さんが「え?」と反応して俺の目を真正面から見た。

こげ茶色の大きな瞳に見つめられて

「そこの喫茶店で働いてて――」
 
咄嗟に口にして、舌を噛んだ。

いつも表情の薄い真弓さんが、一気に笑顔になって瞳がきらきらと光を反射した。

「じゃあフレンチトースト作れるんですか?」

「え……いや、それは」

まだ教えてもらっていない。

言おうとしたが、真弓さんの何か期待した嬉しそうな表情を見ると、それ以上言葉に出来なかった。

「ここの館長さんに食べさせてあげてください。絶対、絶対です」

「でも館長さん、食べられないって今日――」

「大丈夫です。きっと目の前に出てきたら食べずにいられませんから」

「そ、そうなんですか」

「えぇ。まだちょっと勇気が出ないだけなんです」
 
全く気乗りしない俺の手を取ると、半ば強引に指切りをされてしまった。

しなやかな白い指が俺の小指に絡まって

「嘘ついたら針千本のーますっ」
 
まるで子供みたいな無邪気な笑顔に、心臓が小さく跳ねた。

ぎこちない笑みを浮かべるしかできない俺は、その瞬間、肌に感じた哀しい冷たさに気付かないふりをした。


その日、父さんとの会話は無かった。

ただいま、おかえり、おやすみ、おはよう。

必要最低限の挨拶だけは交わしてくれるのが救いだ。

それ以外は話す気にもなれず、部屋に籠って賃貸情報誌とにらめっこをしていた。

「ずっと見てると、何が良いのかわからなくなるな」

嘆息しながらページを閉じた。

代わりに、隣に置いていたスケッチブックをぱらぱらとめくる。

手を止めたのは、描きかけの真弓さんの絵だ。

今日、改めて話せたお陰で今なら描ける気もする。

だが、色鉛筆を手に取れないのは――。
 
考えて、深く、重いため息を吐いた。
 
別れ際に交わした指切り。

あの時の彼女の手の冷たさの理由は解っている。

「あーあ」
 
弱弱しい声が漏れると同時に、鼻の奥がツンとしてくる。

いつもなら気付いてしまうと苛立ちが勝るところだが、今回はそれよりもどうしようもない虚しさが押し寄せてくる。 
 
好きになっても希望の欠片も無い想い。

情を抱いたところで、相手は幽霊。

この世に存在しない者。

普通の人からすれば「無い」ものであり、オカルト話でしかない。
 
自分が見ているこの世界はいったい何なのだろう。

天井の木目を見ていると人の顔に見えるというのを小学生の時に話していた子がいた。

そんな時、俺には本当にそこに人が見える事があるのだ。
 
母さんに引き取られた六畳一間の錆びたアパートもそうだった。

夜中に目を覚ますと、真上から老女が覗き込んでいた。

月明かりに照らされた、蜘蛛の糸みたいな白い毛と、青白い血管の浮き出た枯れた指。

ひび割れた灰色の唇が三日月に微笑みながら鼻先まで迫っていて、思わず叫んだ。

母さんが仕事でいない夜だった。

傍で煙草をふかしていた母さんの恋人に思い切り殴られた。
 
それからも、俺が「何か」を見るたびに殴られた。

勿論、蹴られる事も、襟首を掴んでベランダに放り出された事もあった。
 
そして遂には母さんに「こんな気味悪いガキ、連れてくんじゃねえよ」と喚いた。

離婚して引き取ってくれた母親だ。

母親は子供を守ってくれる。庇ってくれるはず。
 
そんな期待を抱いた幼心は、母の冷たい視線に凍りついてしまった。

冷たく愛情の欠片も感じられないその瞳には、それから一度も、僅かたりとも、光が灯ることは無かった。
 
苦い思い出を振り払うように、スケッチブックを机の上に乱暴に放り投げて布団に潜る。

いつの間にか、また雨が降っていたらしい。

かすかに聞こえる雨音の陰にひっそりと隠れてしまっているのだろうか。

いつもなら賑やかな秋虫の合奏も聞こえない。

世界から雨以外の音が消えてしまったと錯覚してしまうような、静かな夜だった。


翌日、少し遅れて出勤すると

「私のスマホを返してくれぇ」
 
飢えたゾンビ状態の翼さんが、俺の両肩に掴みかかった。
 
スマホの事なんてすっかり忘れていたなんて言えるはずも無く、何食わぬ顔で「どうぞ」とリュックから取り出した。
 
浪人したとは言え、彼女はまだ大学生。

友人たちとの連絡のやり取りもあったのかもしれない。

謝罪しつつ、ここでの飲食代はおごりますと言う話で、罪悪感を昇華させてもらう事にした。
 
今日は、指名席にあの紳士が座っている。

灰色のシャツにえんじ色のベストの彼の前には、一杯の珈琲だけが置いてあった。

俺と翼さんの様子を楽しそうに観察しているみたいだ。

「で? 良い物件は見つかりそうなわけ?」

「まぁ、一応。ここに来る前、不動産屋に行ってきたんです」

翼さんは「おー、行動が早い。良いねぇ」と顔をくしゃっとして笑う。

ミルクティーをストローで吸い上げ「おいし」と、氷をカラカラとかき混ぜた。
 
行動が早いというよりも、父さんの無言の圧に居心地の悪さを感じてしまうからだ。

「敦士君、次はカスター液に浸して焼くんだよ。砂糖、牛乳、卵ね。詳しいレシピはこれからこのノートを見て。懐中時計持ってる?」

「はい、ここに」
 
エプロンのポケットに入れておいた懐中時計の蓋を開けて見せる。

一分たりとも狂い無し。

「フレンチトースト? あたし、味見してあげよっか」

「翼は食べたいだけだろう」
 
シンさんは呆れるように笑いながらも、翼さんを見る目はいつだって優しい。

孫が可愛くて仕方ないのだろう。

母さんは、俺にこの目を向けてくれたことはあっただろうか――

「おや、いらっしゃいませ」

「おはようご……こんにちはですね」

高塚さんが壁掛けの時計を確認して、恥ずかしそうにベージュのバケットハットのつばを押さえた。

「お席へどうぞ」
 
バターを溶かしたフライパンに食パンを乗せながら、レジ前から動こうとしない高塚さんに声を掛けた。

だが、彼は「いえ」と頭を振った。

「今日はご挨拶に伺ったんです。本当は明日に改めてと思っていたのですが、片付けも済んでしまって。もうここを出ようと思っています」
 
四枚切りの山形食パンに染み込ませたカスター液がバターで弾けて、じゅわじゅわと音を立てて焼けていく。

懐中時計を確認――あと三十秒。

「あ、あの……フレンチトースト、食べませんか?」
 
ただでさえ疲れたようにやつれ、顔色の良くない高塚さんの顔が一瞬曇った。
 
フレンチトーストが、よほど心の大事な部分に触れるものだったのだろうか。

悲しそうに眉をひそめた。

僅かに口元が歪んで、だがその感情を飲み込むように、ぎこちない笑みを顔に貼り付ける。

「あ、今作ってるのは練習用なので、シンさんに作ってもらって――」

「いえ。結構です。本当に挨拶をしに来ただけなので。昔、お世話になって……」
 
声がくぐもったかと思うと「それだけなんです」と話を切り上げた。

高塚さんは深々と頭を下げ、俺たちに背を向けた。

「待ってください」
 
あと数秒あるが、フライパンの上の食パンをひっくり返してから再び顔を上げた。

「食べて行ってください」

「どうしてですか」

ようやく怪訝な顔になった。何言ってるんだ、の視線が痛い。
 
高塚さんだけじゃない、翼さんの視線も同じ類だ。

でも折れるわけにはいかない。引き下がっちゃいけない。

真弓さんの寂し気な横顔が記憶のスクリーンに浮かび上がって、胸が苦しくなる。

「あなたを……気にかけている人の為です」
 
言葉が見つからなかった。

それ以上の真実を話す勇気の無いことが、真弓さんに申し訳ない気持ちを生む。
 
高塚さんは、絞り出した精一杯の説得の言葉に「もしかして」と真っ直ぐに俺を見た。

「君、何度かうちの工房の前にいたよね。ほら、ベンチのところ」

「え、えぇ、まあ」
 
高塚さんは、思案するようにそのまま俺を見つめる。

視線を合わせる事も苦手な俺は、まだ焼き目が甘いとわかっているのに、意味も無くフレンチトーストを少しめくってみる。

「わかりました。じゃあ、フレンチトーストをお願いします。それ、翼ちゃんの注文ですか?」
 
以前と同じ手前から二つ目のソファ席に腰を下ろした高塚さんは、カウンターに座る翼さんの背中に視線を移す。

「いえ、これは練習用で。これから作ります」

「じゃあそれをください。シンさんに教わりながら作ったんでしょう?僕、それが良いです。食後はアイス珈琲を頂きます」
 
そう言って、隈の濃い目元を緩めた。

弱火で両面じっくり焼いたフレンチトーストに、濃厚な黄金色のメープルシロップを、とろりと垂らした。

「ありがとう」
 
こんがり焼き色の付いたフレンチトーストを前にしても暫く手を付けなかった高塚さんが、ゆっくりとフォークとナイフを手にする。
 
分厚い食パンにナイフを入れると、たっぷり染み込んだカスター液が、じゅわりと滲み出た。

パンにお皿に垂れたメープルシロップを拭い、味わうように「美味しい」と幸せな笑顔になった。
 
それからは黙々と。だが時折、窓の向こうを見つめ、そして向かいのソファに追懐するような眼差しを向け、またひと切れ食べる。

「あたしもフレンチトースト貰おうかな。もちろん、敦士君のね」

さっき教わった通り、レシピも確認しながら食パンを弱火で焼いていく。

「敦士君、ばっちりだね」

シンさんのオッケーサインが出る。

「わーい、いただきます」
 
言うが早いか、早速、大きめのひと口を頬張りながら「うまひぃ」と満面の笑みを浮かべた。

嬉しい。

自分が作ったもので喜んでもらえるなんて、こんなにも嬉しいものなんだ。

「ふふっ、良かったね」
 
うっかり喜びが顔に出ていたらしい。

シンさんは、言いながら珈琲のキャニスターを取り出した。

「敦士君、食後はこれね」
 
そうだ。高塚さんの珈琲だ。

以前は常連だったのもあって、シンさんは聞かなくてもどの珈琲かわかっているらしい。

迷うことなく手に取った珈琲とミルを俺の前に置いた。
 
そろそろ準備しておいても良い頃だろうか。

ふと高塚さんの方を見やって、キャニスターの蓋に掛けていた手が止まった。

泣いていた。
 
高塚さんが、声を押し殺すように唇を真一文字に噛みしめ、肩を震わせている。

「もう少ししてからにしようか」

「はい」

キャニスターとミルを脇に避け、シンさんが洗ってくれた調理道具を拭こうと布巾に手を伸ばす。

「あれ……」

気のせいだろうか。

一瞬、高塚さんの座る窓の向こうに真弓さんの姿を見た気がした。


「お疲れさまでした」

「お疲れ様。良かったね、高塚さんにも喜んでもらえて」
 
シンさんがタッセルを解き、紅いベルベットカーテンを引きながら言う。

「ガラス工房も敦士君が続けて欲しいって言ったら、考えるって言ってくれたもんね。片付けまで済ませて最後の挨拶に来たのに。なんでだろ」
 
玄関を出た翼さんが、自転車のスタンドを蹴り上げた。

「さ、さあ。これで失礼します。また来週、宜しくお願いします」

「うん。明日はゆっくり休んでね」
 
シンさんと、そしてまだもう少し店にいるらしい紳士に会釈をして店を後にした。

翼さんと公園を歩く。

翼さんが昨日見たテレビの話や、新しいカフェができて行ってみたけれど、シンさんの紅茶が恋しくて浮気は止めたなどという他愛のない話に、俺はどこか上の空で生返事をしていた。
 
もうわかっているのだ。

あの瞬間、あの場に見えた真弓さんの姿。

高塚さんがフレンチトーストを食べるのを嬉しそうに見ていた彼女の優しく、愛のある眼差しの意味を。

「で? 独り暮らしの物件、どのあたりの家を見学に行ったの?」

「あぁ、えっと――」

「どうかした?」

「すみません、先に帰っててください」

「ちょっと、何よ急に」

翼さんの声を背に、俺は桂の樹の下に一人佇む真弓さんの元へと駆け出していた。

「あら、敦士さん。今日はありがとうございました」

「やっぱりあの時、高塚さんのこと……」

「あの人……雄介、初めて泣いたんですよ」

「え?」
 
真弓さんは、艶のある黒髪を耳に掛け、ひっそりと佇むガラス工房に目を向けた。

「私が事故で死んでから、一度も泣いてなかったんです。泣けなかったみたい」
 
そよぐ風が紅葉した木々をさざめかせ、地面に散らばる陽の欠片が煌めく。

「あの事故は誰のせいでもないんです。なのに、雄介は自分が代わりになれば良かったなんて思ってるみたい」
 
工房の前に無造作に転がされた立て看板に、一羽のすずめが舞い降りた。

ちょん、ちょんと歩いては小首を傾げて。
 
右へ左へと二往復して飛び立ったかと思うと、今度は俺と真弓さんの間に降り立った。

真弓さんが足元に寄って来たすずめに人差し指を差し出すと、不思議そうに見上げて愛らしく囀る。

「事故に遭ったのが雄介だったらなんて酷いですよ。本当、酷いんだから」

すずめに真弓さんの姿が見えるのかわからない。

彼女の指には触れる事無く、桂の樹へと飛んで行ってしまった。
 
俺は、すずめを見送る真弓さんの後姿を、ただ黙って見つめていた。

「私、雄介が死んじゃったら苦しすぎて生きていられないもの。だから、これで良かったんです」
 
振り返った真弓さんのワンピースの裾がふわりと膨らんで、ゆっくりと元の形に戻る。

「大切な婚約者に苦しみを代わってもらうなんて、私の方が酷いのかな」
 
ざあ、と強く吹き抜けた風が、樹を大きくざわめかせた。

枯れ葉と共に、秋の乾いた香りが巻き上がる。

「今日はありがとう。きっとあの人はもう大丈夫だと思う。敦士さんのお陰です」

目を三日月にして、まるで生きている人のように頬を赤く染めてほほ笑んだ。

最後にもう一度、ガラス工房を見やって――茜色に染まる夕空に溶けるように。
 
淡く黄葉した桂の樹の、ハート形の葉がさらさらとたてる葉音に吸い込まれるように。 
 
光の粒子となって、木漏れ日に溶け、最後は柔らかな風と共に消えてしまった。

 ありがとう
 
鈴の音のような繊細で優しい声は頭の中に柔らかな波紋となって広がり、やがて静かに霧散してしまうのだった。



真弓さんがいなくなって二週間が経った。

紅葉はますます色濃くなり、いつもは静かな綾瀬の森公園にも、観光客や散歩の地元民の姿を多く見るようになった。

「お母さん、お姉ちゃん、早く早く」

美術館の方向から坂道を駆け下りてきたのは小学校低学年くらいの少女だ。

待ちきれないようにぴょんぴょん飛び跳ねると、三つ編みのおさげがリズム良く弾む。
 
つい小鈴ちゃんの姿を重ねてしまう自分がいる。

「お兄さん、こんにちは」

「こんにちは」

「お絵描きしてるの? わぁ、上手」

「あ、あはは……ありがとう」
 
俺はぎこちない笑顔を作ってみせた。

「すみません。ほら、体験の時間になっちゃう。二人でお揃いのグラス作るんでしょ」
 
追いかけてきた母親と中学生くらいのお姉さん。

少女と並ぶと三人全く同じ顔だ。

同じ眉の下がり具合と、涙袋の下のほくろの位置までお揃いだ。

 親子って、こんなにも似るんだな。
 
シンさんと翼さんだって同じ位置にほくろがあったのを思い出す。

祖父と孫でも似るのだ。親子なら尚更だろう。
 
俺自身も母親と似ているところがあるのだろうか。

「バイバイ」
 
真夏の半袖焼けが残る腕を大きく振る少女に会釈を返す。

俺は改めて色鉛筆と水筆を握り直し、スケッチブックに視線を落とした。

子供が大好きだ高塚さんがプロポーズをした翌日。
泊まったホテルからの帰りに事故に遭ったのだと、高塚さん本人から教えてもらった。
 
子供が大好きで、高塚さんとの未来の話を真弓さんは幸せそうに話していた。

その足で真弓さんのご両親に挨拶に行こうとしていた矢先。

もう数十メートルで家だという時。

横断歩道を渡ろうとしていた小学生の男の子に、信号無視のトラックが突っ込もうとしていたのだ。
 
高塚さんよりも数秒先に気づいた真弓さんが咄嗟に走り、道路に飛び出した。

男の子を突き飛ばし、真弓さんはそのまま――。

男の子は膝をすりむく程度だった。
 
俺は描きかけていた真弓さんの絵を一から描き直すことにした。
 
悩んだ。ものすごく。
 
未来を想像して、幸せな二人を描くことも考えた。
でも、そうしなかった。
 
あんなに時間が掛かっていた真弓さんの絵が、嘘みたいにするすると筆が進む。

「よし……っと。できた」
 
あの時の俺が真弓さんの絵を描けなかったのは当然だ。

「あーつーしー君。お? 何、絵描いてたの?」

後ろから聞き慣れた声がして、咄嗟にスケッチブックを閉じた。

後ろから覗き込む翼さんの栗色のポニーテールが、さらりと俺の肩に触れる。

スタイリング剤の、甘い匂いがした。

「見せてよ」

「嫌です」

「なんでよっ」

「プライバシーです。侵害しないでください」

「うわぁ、何よそれ。言うようになったなあ」

「や、やめてください。痛い痛い」
 
こめかみを拳でぐりぐり押された俺の悲鳴は、工房からの楽し気な声にかき消された。 

 【ガラス工房 コモレビ】
 
看板は、店の前に立てかけられていた。

開いた窓から人影が行き来するのが見える。
その中にエプロン姿の高塚さんの姿もある。
 
喫茶うたたねのテーブルにあるステンドグラスのランプや、玄関横の青いガラス玉の額縁は、真弓さんがデザインして高塚さんが形にしたもの。
 
この工房は、ふたりの幸せで大切な想い出もある場所なのだろう。
 
高塚さんは、以前よりも少しふっくらとしていた。

色味の戻った顔色で、お客さんたちに交じって笑っていた。

この絵は、高塚さんにプレゼントしたら喜んでもらえるだろうか。
 
不審に思われるかもしれない。不気味に思われるかもしれない。

だが、今の俺にはそんな恐怖よりも、真弓さんの最期の想いを伝えたいと思った。

想いと言っても言葉じゃない。
 
高塚さんの気持ちが少し落ち着いたら渡してみようか。

姿が見えなくなっても、この世に留まり続けたひとりの女性の想いを。
 
大切な恋人を心配し、想い、愛しむ、真弓さんの眼差しを。

「ほら、もうお店に行きますよ」

しつこく絡んでくる翼さんを押しのけ、スケッチブックをリュックに仕舞い立ち上がった。

「あ――」

「なに? 知り合いでもいた?」
 
美術館と正反対の方角に位置する池の方角の木陰に、スーツ姿の男性がいた。
 
今年の夏、追いかけてくる幽霊から逃げ込んだこの公園で出会った鳶色の瞳のビジネスマンだ。

男性はこちらに来ることは無く、右手を軽く上げて口角を緩めただけで、ゆったりとした足取りで池の方角へと消えてしまった。
 
翼さんと歩きながら、もう誰も座っていないベンチを横目で見て、すぐに視線を喫茶店へ続く道へと戻す。

あの時、俺が真弓さんの絵が描けなかったのは当然だ。
 
彼女の瞳はずっと、高塚さんだけを映していたのだから――。


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