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第四章 ~災厄の蹂躙者~ 1
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暗い闇の底。
少年はそこから瓦礫を退けて這いずり出た。
何が起こったのか、思い出せない。
気が付いたら研究所と呼ばれたところはなくなっていた。
全ては瓦礫(がれき)の中。
残ったのはこの身一つ。
与えられた名も、与えてくれた者がいなくなれば用は成さない。
与えた名も、与えられた者がいなくなれば意味を成さない。
何もかもがどうでもよくなっていた。
そう思ったときに、思い出してしまった。
彼女が消えてしまってすぐに、一体の化け物が研究所に現れた。
とても醜い化け物だった。
どうしようもなく、取り返しのつかないほどに醜い化け物。
暴れ回った。手向かう者を殴り倒し、蹴り付け、握り潰した。
研究者たちは、いつも最後に去って行くドアから逃げ出した。逃げ遅れた者は化け物に殺された。
警備員。
そう呼ばれている者たちは応戦し、皆敗れ死んだ。
飛散した物体が辺りをコーディネイトする中、すぐそこにいた自分たちには不思議と被害はなかった。壁やガラスという隔てる物があったせいかもしれない。
化け物は辺りを見回し、手当たり次第に破壊活動を行った。
そしてその化け物は、ついに彼女の消えた試験管を破壊せんと手を伸ばす。
「あ……あ、ああぁぁぁっ」
それは、いけない。
やらせたくない。
それだけは、嫌だ。
気が付いたら化け物のいる部屋へと入っていた。
初めて嗅ぐにおい。ここではほとんどにおいはない。だからにおいというのは新鮮な感じをいつも与えていた。
だがここのにおいは、とても強くて好きになれそうにないにおいだった。
元は白かった壁も床も天井も、すべてみな赤い色を加えられていた。
模様は一箇所に集中したものと斑点のようになっているもの、そしてその二つを繋ぐ筋状のもの。ただ天井には筋状のものはほとんどなかった。
「うあぁぁぁぁっ」
いままで一度も発したことのない声量と言葉を出す。
当たり前だ。そんな必要はここではありえないのだから。
化け物はこちらが声を出す前から気が付いていたが気に掛けていない。
それよりも目の前にある〝面白そうな物〟を壊すことに御執心のようだった。
このままでは間に合わない。
そう思った瞬間に体は自然と手近にあった研究道具――ビーカー――を投げていた。
勢い良く当たったそれは壊れた。
「ぐる」
煩(わずら)わしそうな顔をしてこちらを見る化け物。
二メートルの大きさで天井までは五十センチほどの隙間がある。
手足は獣のそれをより凶悪にしたフォルム。今は濡れてぽとぽとと滴るものがある。
なによりその姿を最も醜悪(しゅうあく)足らしめているのはベトベトの粘液だった。
体中に滑(ぬめ)るようにあるそれは酷く厭らしい物に思えた。
そして顔は欲望剥(む)き出しで端まで裂けた口を開いていた。開かれた口からは口に含んだものの一部が汚らしく散らばっている。牙は短いが数が多く鋭い。そのうちの幾つかに布が絡まっているのが見てとれた。
化け物は邪魔はされない方が良いと判断したのか、標的をこちらへと定めた。
ぐしゃっ。
何か軟らかいものを踏んだがそのままバランスを直して化け物へと突き進む。
頭の中にあったのはあれにだけは何もさせたくない。
という単純なものだった。
後から考えて随分と未練があったんだなと思うがそれはいまではない。
化け物は素早くはない。
飛び掛かりはしないがその腕と脚でもって敵を蹴散らす。
蹴りがくる。
だが巨体と狭い場所であるため速さはない。
目標が小さいこともあってそれは大きく外れた。
腕が振られる。
大きく横に動かされる腕が大雑把だが確実に獲物を仕留めるコースを辿る。
その爪に引っ掛かっただけでも終わりだが縦の長さがないのと腕が床にまで届かなかったのとでしゃがんで回避した。
「ぐがぁっ」
業を煮やした化け物は前に出ながら両手で掴もうとした。
辺りにあった物品が容赦なく化け物の体に飲み込まれていく。
「が、あ」
逃げ切れず捕らえられ、後は捻り潰されるのを待つのみとなった。
目を閉じて備えるも、握られた痛みはしてもそれ以上力が加えられる様子がない。
目を閉じていたのは数秒。
目を開けると目の前にもう片方の手で試験管を握り潰そうとしている化け物の姿が映った。
「やめ……」
搾(しぼ)り出すもすぐに息が尽きて声が出ない。
そして試験管は、割れた。
「――――」
無意識のうちに漏れ出ようとした声も、息ができなければ出ることはない。
無言にてそれを見るしかなかった。
「ぐおぉぉぉぉっ」
歓喜の声。
どうやら頭の中身は幼い子供と変わらないらしい。
一人遊びで達成した目標を素直に喜んでいた。
そして次の遊び。
目付きで分かった。
手足を引き千切って遊ぶのだろう。そこからもがく姿を見て笑うのだろう。後はこいつの気分しだい。潰すもよし、ほっとくもよし。
なんでこんなのにこんなことをされなきゃいけないんだ。
それは、これから自分や他の仲間がされることに対してではなかった。
少年の目は割れた試験管にのみ捧げられていた。
「ぐぅぅぅ」
それに気付いたのか、面白くなさそうに唸る。
こちらに気を惹かせようと、さっそく脚を一本体から外そうと指を伸ばす。
そのために緩む手の圧力。
最低限の息しかできなかったのが声を出せるまでになった。これも相手の狙いだろうか。
だがそんなことはどうでもよかった。
ただ、今は思うままに言葉を吐き出す。
「な……んで、お前なんかに」
こちらに顔を向けたのがえらく気に入ったのか、小さな子供がするような声を出してはしゃぐ化け物。
どうして、こんなのに。
「ぐるあぁぁっ」
右足を摘まれた。
割れた試験管。床に飛び散った液体。それは、彼女の残骸。
骨すら残さず消えた彼女の、仲間たちの遺骸(いがい)とも言えるもの。
足にゆっくりと力が加えられていく。
取り戻したい。
瞬間。頭の中で何かが噛み合わさる感じがした。
取り返したい。
引っこ抜く前に足が潰れぬよう加減された指先が、少しずつではあるものの今までとは違う動きを始める。
何もかもをこいつから。
こんな嫌なことをなかったことにしたい。
閃(ひらめ)いた。
「で……ろ。〝ユニオン〟」
実験体の中、唯一の怪物使い(ワンダーシープ)。心で作った怪物を呼び出せる存在。今までははっきりとした意思もなくいなかった。だが今は違う。極限の状態によって自身が望む怪物を作り出した。
作り出される怪物に共通していること。それは宿主の心を元に創造(つく)られるということ。美醜は心の在り様に関係する。
言ってしまえば心が綺麗なら美しいものに、汚ければ醜悪なものになる。
いま作り出され、生み出された怪物の姿は、透明だった。
不定形に揺れる姿は全長一メートルほど。まるでアメーバのようだった。
それが目の前の化け物と、割れた試験管と液体を取り込んだ。
「が、がぐあぁぁぁっ」
一瞬にして広がった体は宿主を避けて化け物を包み込み、床にある試験管と液体をも身の内に封じた。
思い付いた〝なかったことにする方法〟がこれだった。
全部、取り込んでしまえばいい。化け物も、彼女の残骸も。
飲み込み終えた〝ユニオン〟はそのまま形を変えていった。
「あ、あ……ああ」
なんてことをしてしまったんだ。
後悔しても遅かった。
貧弱な想像で全てを〝なかったこと〟にできるほど世の中は甘くない。
宿主の願いを叶えるだけの〝ユニオン〟は消え、新たな別の〝心の怪物〟が生まれた。
それは先程までいた化け物に似ていた。だがまったくに違う。
まず大きさ。天井に届くのに十分な身長があった。体もあの嫌な滑(ぬめ)りとにおいはない。
より人型に近くなり、目の色もしっかりとした意思があるように思われた。
何より違ったのは印象。凶暴で凶悪な感じは受けず、誰か知っている人のような気がした。
顔は相変わらず醜悪と言って差し支えない物だったが、口は端まで裂けておらず牙も少なくなっていた。いや、それだけじゃない。牙と言うよりも歯と言った方がしっくりくる状態になっていた。
腕の爪も、どうやら自由に出し入れできるようになっているらしい。長い爪がなければ人間の手をそのまま大きくしたような形だった。
「ごあぁっ」
不意に怪物が少年を掴んだ。だがそれは少年を痛めるものではなかった。
十分に力の加減がされ、まったく痛くなかった。ただ手足が自由に動かせなかったが。
そして、抱き抱えた。
それと同時、地震が起こる。どこかで何かが爆発する音も聞こえた。
「がぁぁぁっ」
怪物が咆えた。天井が壊れ、瓦礫が頭の上に落ちてきた。
「ぐぅぅぅ」
片腕でそれを弾き、開いた穴から上へと跳ぶ。
着地し、足場が崩れそうになる。しかし怪物は足場がなくなる前に前方に進んでいた。
「がぁぁぁっ」
再び咆える。
怪物は走っていた。
「あ、皆が……」
まだ残っている。あの場所に。
だが怪物はそんなことはお構い無しに先へと進む。
じたばたと動いたが怪物はうんともすんとも言わず、走り続ける。
そして思わず頭を庇(かば)ってしまうほど大きな揺れが起こる。
それが、最後の記憶だった。
気が付いたとき、あの怪物の姿はなく辺りは瓦礫に埋もれて暗かった。
それから時間を掛けて瓦礫を退け、辺りを見回した。
そこにあったのは、死体。何かの死体。それと化け物の死体。
けれども化け物の死体は原形を留めているのに対して原形を留めていない死体はどこかで見たことがあるように思えた。
「う……」
それは、あの地下の研究所で見たものと同じだった。
つまり、人の死体。
大部分が喰われ、それでも残った一部。
驚いて急いで周囲を見やると、まだ生きている化け物と人がいた。
見たことのない服装をした人たちが。見たことのない、けれども白衣の者たちが言っていた化け物の姿に酷似した奴らが。
それはここから離れた場所の光景だった。どちらもまだ気付いていない。少なくとも人間の方には気付くだけの余裕がなかった。
化け物たちが大群で襲っていたのだから。
見る間に一人二人と化け物たちに飲み込まれていく人間。必死に飲み込まれまいと抵抗するも終わりは時間の問題と思われた。
不意に、数匹の化け物がこちらに気付いた。そいつらは突如としてこちらに向かって来る。それに釣られるようにして他の一部までもがこちらに進路を変えた。
その動きからこちらのことを人間の方も気付いたがとても助けに来られるような状況ではなく、目の前の敵を屠(ほふ)るに留まった。
「う、うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
地面は化け物に覆われ、空がそのおぞましい様子など知らぬ存ぜぬといった形で蒼い。ちょうど良い感じに仕上がった雲も幾つか見えた。
フラッシュバックする過去の記憶。あの時は感じなかった恐怖が体を支配していた。
「来るなっ。来るなっ。来るな来るな来るなぁっ!」
あらん限りに声を張り上げるも、少年はその場から一歩も動けなかった。自分が喰われるのが怖いのではない。喰われるなんてあそこでもたまにあったことだ。
人の姿を忘れた仲間が人間を食うことがある。そういうことには慣れていた。
では何が少年に身動きを取らせないのか。答えは敵意。
あの気色の悪い化け物も、人ではなくなった仲間も、敵意は持っていなかった。
あの化け物は喜悦や快楽を表に出し、仲間も腹が減ったとか怖いといった感情が表に出ていた。だが目の前の化け物は違う。あれらは明確な殺意を持って向かってくる。
恐ろしい。初めてではないが、人の持つ根源的な恐怖を体が覚えたのだ。
あと数十メートル。そこまで迫ったとき、異変が起きた。
自分の近くに質量を持った何かがいる、という感触(・・)。そう、まさにそれは感触(・・)だった。
半ば反射的にそれを感触がした場所から引き出した(・・・・・)。
現れたのは、自分を抱えて逃げた怪物だった。
咆えることもせず、息遣いだけが聞こえる。傍らに立ち、敵を迎え討つ。
一振りで目の前にまで来た怪虫を幾体か倒す。それを何度か繰り返してから周りを囲まれる前に少年を持って離れたところに跳躍する。
周囲を気に掛ける余裕ができたとき、他に人間はいなくなっていた。
怪虫の大群がこの場にいるただ一人と一体の敵を目指して進撃する。
怪物は敵の猛攻を退(しりぞ)けながら何度も場を変える。
片手だけで幾体も倒せるとはいえ、数が多すぎた。いまだ疲れを感じさせない動きを見せる怪物も、事態に気付いてはいた。
「もう逃げ場が……」
辺りは完璧に怪虫で埋め尽くされ、狂ったようにただこちらを目指してくる。しばしば前にいるのに昇って前に出てくるのも見えた。
怪物は、意を決したように前を見た。そして少年を両手で護るように抱えて跳んだ。
折り重なっている怪虫たちを足場に、次の跳躍を行う。何度もそれを繰り返し、等々間のある場所へと辿り着いた。
見える大地。その色はお世辞にも良い色とは言えなかったが、安堵を感じるには十分過ぎるほどだった。
それから、怪物は敵を殲滅した。
ただ突っ込んでくるだけの相手に怪物は負けなかった。
気の遠くなるほど長い時間、同じことを続け、一夜明けて太陽が大分昇ったころに決着を見た。
残りの数があと数百となったとき、一旦大きく間を取った怪物が一気に勝負を仕掛けた。
いままでは護りながらの戦いだったのが、ただ攻めるだけとなったときに圧倒的な強さで数を減らした。
これで、キルクノーアのすぐ近くで起きた大災厄は幕を閉じた。突如現れた一人の少年と怪物によって。何も知らず、ただ生きる事のみに力を注いだ者が終わらせた。
世界で初めて起きた駈虫の大移動。本来少数で群れを成す彼らが何故このような大群となったのか詳しいことはいまだ不明。噂として〝アイレーンの災禍〟が関わっていると流れ、多くの者に信じられた。
少年はそこから瓦礫を退けて這いずり出た。
何が起こったのか、思い出せない。
気が付いたら研究所と呼ばれたところはなくなっていた。
全ては瓦礫(がれき)の中。
残ったのはこの身一つ。
与えられた名も、与えてくれた者がいなくなれば用は成さない。
与えた名も、与えられた者がいなくなれば意味を成さない。
何もかもがどうでもよくなっていた。
そう思ったときに、思い出してしまった。
彼女が消えてしまってすぐに、一体の化け物が研究所に現れた。
とても醜い化け物だった。
どうしようもなく、取り返しのつかないほどに醜い化け物。
暴れ回った。手向かう者を殴り倒し、蹴り付け、握り潰した。
研究者たちは、いつも最後に去って行くドアから逃げ出した。逃げ遅れた者は化け物に殺された。
警備員。
そう呼ばれている者たちは応戦し、皆敗れ死んだ。
飛散した物体が辺りをコーディネイトする中、すぐそこにいた自分たちには不思議と被害はなかった。壁やガラスという隔てる物があったせいかもしれない。
化け物は辺りを見回し、手当たり次第に破壊活動を行った。
そしてその化け物は、ついに彼女の消えた試験管を破壊せんと手を伸ばす。
「あ……あ、ああぁぁぁっ」
それは、いけない。
やらせたくない。
それだけは、嫌だ。
気が付いたら化け物のいる部屋へと入っていた。
初めて嗅ぐにおい。ここではほとんどにおいはない。だからにおいというのは新鮮な感じをいつも与えていた。
だがここのにおいは、とても強くて好きになれそうにないにおいだった。
元は白かった壁も床も天井も、すべてみな赤い色を加えられていた。
模様は一箇所に集中したものと斑点のようになっているもの、そしてその二つを繋ぐ筋状のもの。ただ天井には筋状のものはほとんどなかった。
「うあぁぁぁぁっ」
いままで一度も発したことのない声量と言葉を出す。
当たり前だ。そんな必要はここではありえないのだから。
化け物はこちらが声を出す前から気が付いていたが気に掛けていない。
それよりも目の前にある〝面白そうな物〟を壊すことに御執心のようだった。
このままでは間に合わない。
そう思った瞬間に体は自然と手近にあった研究道具――ビーカー――を投げていた。
勢い良く当たったそれは壊れた。
「ぐる」
煩(わずら)わしそうな顔をしてこちらを見る化け物。
二メートルの大きさで天井までは五十センチほどの隙間がある。
手足は獣のそれをより凶悪にしたフォルム。今は濡れてぽとぽとと滴るものがある。
なによりその姿を最も醜悪(しゅうあく)足らしめているのはベトベトの粘液だった。
体中に滑(ぬめ)るようにあるそれは酷く厭らしい物に思えた。
そして顔は欲望剥(む)き出しで端まで裂けた口を開いていた。開かれた口からは口に含んだものの一部が汚らしく散らばっている。牙は短いが数が多く鋭い。そのうちの幾つかに布が絡まっているのが見てとれた。
化け物は邪魔はされない方が良いと判断したのか、標的をこちらへと定めた。
ぐしゃっ。
何か軟らかいものを踏んだがそのままバランスを直して化け物へと突き進む。
頭の中にあったのはあれにだけは何もさせたくない。
という単純なものだった。
後から考えて随分と未練があったんだなと思うがそれはいまではない。
化け物は素早くはない。
飛び掛かりはしないがその腕と脚でもって敵を蹴散らす。
蹴りがくる。
だが巨体と狭い場所であるため速さはない。
目標が小さいこともあってそれは大きく外れた。
腕が振られる。
大きく横に動かされる腕が大雑把だが確実に獲物を仕留めるコースを辿る。
その爪に引っ掛かっただけでも終わりだが縦の長さがないのと腕が床にまで届かなかったのとでしゃがんで回避した。
「ぐがぁっ」
業を煮やした化け物は前に出ながら両手で掴もうとした。
辺りにあった物品が容赦なく化け物の体に飲み込まれていく。
「が、あ」
逃げ切れず捕らえられ、後は捻り潰されるのを待つのみとなった。
目を閉じて備えるも、握られた痛みはしてもそれ以上力が加えられる様子がない。
目を閉じていたのは数秒。
目を開けると目の前にもう片方の手で試験管を握り潰そうとしている化け物の姿が映った。
「やめ……」
搾(しぼ)り出すもすぐに息が尽きて声が出ない。
そして試験管は、割れた。
「――――」
無意識のうちに漏れ出ようとした声も、息ができなければ出ることはない。
無言にてそれを見るしかなかった。
「ぐおぉぉぉぉっ」
歓喜の声。
どうやら頭の中身は幼い子供と変わらないらしい。
一人遊びで達成した目標を素直に喜んでいた。
そして次の遊び。
目付きで分かった。
手足を引き千切って遊ぶのだろう。そこからもがく姿を見て笑うのだろう。後はこいつの気分しだい。潰すもよし、ほっとくもよし。
なんでこんなのにこんなことをされなきゃいけないんだ。
それは、これから自分や他の仲間がされることに対してではなかった。
少年の目は割れた試験管にのみ捧げられていた。
「ぐぅぅぅ」
それに気付いたのか、面白くなさそうに唸る。
こちらに気を惹かせようと、さっそく脚を一本体から外そうと指を伸ばす。
そのために緩む手の圧力。
最低限の息しかできなかったのが声を出せるまでになった。これも相手の狙いだろうか。
だがそんなことはどうでもよかった。
ただ、今は思うままに言葉を吐き出す。
「な……んで、お前なんかに」
こちらに顔を向けたのがえらく気に入ったのか、小さな子供がするような声を出してはしゃぐ化け物。
どうして、こんなのに。
「ぐるあぁぁっ」
右足を摘まれた。
割れた試験管。床に飛び散った液体。それは、彼女の残骸。
骨すら残さず消えた彼女の、仲間たちの遺骸(いがい)とも言えるもの。
足にゆっくりと力が加えられていく。
取り戻したい。
瞬間。頭の中で何かが噛み合わさる感じがした。
取り返したい。
引っこ抜く前に足が潰れぬよう加減された指先が、少しずつではあるものの今までとは違う動きを始める。
何もかもをこいつから。
こんな嫌なことをなかったことにしたい。
閃(ひらめ)いた。
「で……ろ。〝ユニオン〟」
実験体の中、唯一の怪物使い(ワンダーシープ)。心で作った怪物を呼び出せる存在。今までははっきりとした意思もなくいなかった。だが今は違う。極限の状態によって自身が望む怪物を作り出した。
作り出される怪物に共通していること。それは宿主の心を元に創造(つく)られるということ。美醜は心の在り様に関係する。
言ってしまえば心が綺麗なら美しいものに、汚ければ醜悪なものになる。
いま作り出され、生み出された怪物の姿は、透明だった。
不定形に揺れる姿は全長一メートルほど。まるでアメーバのようだった。
それが目の前の化け物と、割れた試験管と液体を取り込んだ。
「が、がぐあぁぁぁっ」
一瞬にして広がった体は宿主を避けて化け物を包み込み、床にある試験管と液体をも身の内に封じた。
思い付いた〝なかったことにする方法〟がこれだった。
全部、取り込んでしまえばいい。化け物も、彼女の残骸も。
飲み込み終えた〝ユニオン〟はそのまま形を変えていった。
「あ、あ……ああ」
なんてことをしてしまったんだ。
後悔しても遅かった。
貧弱な想像で全てを〝なかったこと〟にできるほど世の中は甘くない。
宿主の願いを叶えるだけの〝ユニオン〟は消え、新たな別の〝心の怪物〟が生まれた。
それは先程までいた化け物に似ていた。だがまったくに違う。
まず大きさ。天井に届くのに十分な身長があった。体もあの嫌な滑(ぬめ)りとにおいはない。
より人型に近くなり、目の色もしっかりとした意思があるように思われた。
何より違ったのは印象。凶暴で凶悪な感じは受けず、誰か知っている人のような気がした。
顔は相変わらず醜悪と言って差し支えない物だったが、口は端まで裂けておらず牙も少なくなっていた。いや、それだけじゃない。牙と言うよりも歯と言った方がしっくりくる状態になっていた。
腕の爪も、どうやら自由に出し入れできるようになっているらしい。長い爪がなければ人間の手をそのまま大きくしたような形だった。
「ごあぁっ」
不意に怪物が少年を掴んだ。だがそれは少年を痛めるものではなかった。
十分に力の加減がされ、まったく痛くなかった。ただ手足が自由に動かせなかったが。
そして、抱き抱えた。
それと同時、地震が起こる。どこかで何かが爆発する音も聞こえた。
「がぁぁぁっ」
怪物が咆えた。天井が壊れ、瓦礫が頭の上に落ちてきた。
「ぐぅぅぅ」
片腕でそれを弾き、開いた穴から上へと跳ぶ。
着地し、足場が崩れそうになる。しかし怪物は足場がなくなる前に前方に進んでいた。
「がぁぁぁっ」
再び咆える。
怪物は走っていた。
「あ、皆が……」
まだ残っている。あの場所に。
だが怪物はそんなことはお構い無しに先へと進む。
じたばたと動いたが怪物はうんともすんとも言わず、走り続ける。
そして思わず頭を庇(かば)ってしまうほど大きな揺れが起こる。
それが、最後の記憶だった。
気が付いたとき、あの怪物の姿はなく辺りは瓦礫に埋もれて暗かった。
それから時間を掛けて瓦礫を退け、辺りを見回した。
そこにあったのは、死体。何かの死体。それと化け物の死体。
けれども化け物の死体は原形を留めているのに対して原形を留めていない死体はどこかで見たことがあるように思えた。
「う……」
それは、あの地下の研究所で見たものと同じだった。
つまり、人の死体。
大部分が喰われ、それでも残った一部。
驚いて急いで周囲を見やると、まだ生きている化け物と人がいた。
見たことのない服装をした人たちが。見たことのない、けれども白衣の者たちが言っていた化け物の姿に酷似した奴らが。
それはここから離れた場所の光景だった。どちらもまだ気付いていない。少なくとも人間の方には気付くだけの余裕がなかった。
化け物たちが大群で襲っていたのだから。
見る間に一人二人と化け物たちに飲み込まれていく人間。必死に飲み込まれまいと抵抗するも終わりは時間の問題と思われた。
不意に、数匹の化け物がこちらに気付いた。そいつらは突如としてこちらに向かって来る。それに釣られるようにして他の一部までもがこちらに進路を変えた。
その動きからこちらのことを人間の方も気付いたがとても助けに来られるような状況ではなく、目の前の敵を屠(ほふ)るに留まった。
「う、うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
地面は化け物に覆われ、空がそのおぞましい様子など知らぬ存ぜぬといった形で蒼い。ちょうど良い感じに仕上がった雲も幾つか見えた。
フラッシュバックする過去の記憶。あの時は感じなかった恐怖が体を支配していた。
「来るなっ。来るなっ。来るな来るな来るなぁっ!」
あらん限りに声を張り上げるも、少年はその場から一歩も動けなかった。自分が喰われるのが怖いのではない。喰われるなんてあそこでもたまにあったことだ。
人の姿を忘れた仲間が人間を食うことがある。そういうことには慣れていた。
では何が少年に身動きを取らせないのか。答えは敵意。
あの気色の悪い化け物も、人ではなくなった仲間も、敵意は持っていなかった。
あの化け物は喜悦や快楽を表に出し、仲間も腹が減ったとか怖いといった感情が表に出ていた。だが目の前の化け物は違う。あれらは明確な殺意を持って向かってくる。
恐ろしい。初めてではないが、人の持つ根源的な恐怖を体が覚えたのだ。
あと数十メートル。そこまで迫ったとき、異変が起きた。
自分の近くに質量を持った何かがいる、という感触(・・)。そう、まさにそれは感触(・・)だった。
半ば反射的にそれを感触がした場所から引き出した(・・・・・)。
現れたのは、自分を抱えて逃げた怪物だった。
咆えることもせず、息遣いだけが聞こえる。傍らに立ち、敵を迎え討つ。
一振りで目の前にまで来た怪虫を幾体か倒す。それを何度か繰り返してから周りを囲まれる前に少年を持って離れたところに跳躍する。
周囲を気に掛ける余裕ができたとき、他に人間はいなくなっていた。
怪虫の大群がこの場にいるただ一人と一体の敵を目指して進撃する。
怪物は敵の猛攻を退(しりぞ)けながら何度も場を変える。
片手だけで幾体も倒せるとはいえ、数が多すぎた。いまだ疲れを感じさせない動きを見せる怪物も、事態に気付いてはいた。
「もう逃げ場が……」
辺りは完璧に怪虫で埋め尽くされ、狂ったようにただこちらを目指してくる。しばしば前にいるのに昇って前に出てくるのも見えた。
怪物は、意を決したように前を見た。そして少年を両手で護るように抱えて跳んだ。
折り重なっている怪虫たちを足場に、次の跳躍を行う。何度もそれを繰り返し、等々間のある場所へと辿り着いた。
見える大地。その色はお世辞にも良い色とは言えなかったが、安堵を感じるには十分過ぎるほどだった。
それから、怪物は敵を殲滅した。
ただ突っ込んでくるだけの相手に怪物は負けなかった。
気の遠くなるほど長い時間、同じことを続け、一夜明けて太陽が大分昇ったころに決着を見た。
残りの数があと数百となったとき、一旦大きく間を取った怪物が一気に勝負を仕掛けた。
いままでは護りながらの戦いだったのが、ただ攻めるだけとなったときに圧倒的な強さで数を減らした。
これで、キルクノーアのすぐ近くで起きた大災厄は幕を閉じた。突如現れた一人の少年と怪物によって。何も知らず、ただ生きる事のみに力を注いだ者が終わらせた。
世界で初めて起きた駈虫の大移動。本来少数で群れを成す彼らが何故このような大群となったのか詳しいことはいまだ不明。噂として〝アイレーンの災禍〟が関わっていると流れ、多くの者に信じられた。
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