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第三章   愚者の愚者たる所以3

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「言えないわね」
「言えねえよな」
 二人、同時に溜め息を吐く。
 市内の病院で、真一と美浜の二人は沈鬱(ちんうつ)な面持ちで一緒に待合室の席に座っていた。
 松原志枝への見舞いはすでに済ませてある。元々、この二人は彼女への見舞いが目的ではない。
 知り合いが二人、それも身近な人物が交通事故に遭ったり起こしたりして精神的に少々参っていたが、それに輪を掛けて嫌な事態が一つ起きていた。
「まさかあの野郎が轢かれた相手だとはな。畜生(ちくしょう)、どうせならもっと別な奴に轢かれろよ」
 不謹慎な悪態を吐き、真一は美浜に目をやる。一応言っておくと、彼女の木刀はちゃんと専用の入れ物にしまわれてある。さすがに木刀片手に見舞いをするほど馬鹿ではない。
「確認したはいいけど、状況は最悪ね。事故件数が多い上に人死にが出てないから警察も届けが出されない限り動かないけど、これであっちはこれを盾にしてこっちに干渉できるわね」
「ほんと、最悪だな」
 また、溜め息を吐く。
 周りはそんな二人を見て誰かが取り返しのつかない、またはそれに近い不幸にでも遭ったと勝手に取り、遠巻きに同情の目を向けている。
 もちろん、こんな様子の人間は二人以外にも一杯いたので、そういう人たちとまとめられて向けられた視線だった。
 そしてそれを感じて、二人はまた重く暗い気分に沈んでいくのだ。
 松原女史に撥(は)ねられたのは、有邨篠生(ありむらしのい)だった。
 全身打撲に骨折箇所が手足だけという、どう考えても自足百キロを超えていた車に撥ねられたとは思えない奇跡的な生還だった。
 命に別状もなく、意識を失っていただけでそれも三時間前には目覚めている。商売道具のカメラやボールペン、他にもあった携帯電話なども壊れて使えなくなっていたがホテルに置いておいたノートパソコンが無事だったので警察には届け出ないと言っていた。
 入院費も自腹で良いと言っていたが、その代わりに出る条件を考えると気分はどうしても悪くなる。
 幸いなのは本人がしばらく病院を動けないということ。手も使えないのであっちが出すであろう〝取材〟は早くても一ヵ月後までなさそうだ。
「ま、あの二人への取引材料にしないようにできただけ、結果オーライといこうぜ。考えても埒(らち)があかねえし、俺たちで上手く切り抜ければ良いだけだ。ただ、問題なのはこれが透たちに知られることだな。あいつ、ぜってぇこれをネタに脅してくるだろうしな」
「うん……」
 珍しく言葉少なな美浜。どうやらだいぶ精神的に参っているようだ。
 これからのことを考えてか、透たちに隠し事をしなければならないことか、これまでの嫌な事件全部が重く圧(の)し掛かってるのか、とにもかくにもきつそうである。
「行こうぜ。明日は遊びに行く約束、してただろ? そんな顔してたらダメだかんな。いっちょ、今から嫌なこと忘れに行こうぜ」
「そうね。うん……それがいいわね」
 まだ元気が戻ったわけではないが、笑顔を見せるだけの力は取り戻したようだ。
「おう、嫌なことはすっぱりさっぱりその時まで忘れてようぜ」
「そうと決まったら盛大にぱーっとやらないとね」
 悪戯(いたずら)を思い付いた思慮深き賢者のような顔をして美浜は言った。


 ★☆★☆★


 空に淡く光る月が見えた。
 透は息を切らして走りながら、どうしてそんなことに気が付くのだろうと思った。
 吹き出る汗は体をじっとりと濡(ぬ)らし、目には汗が入ろうと躍起(やっき)になって進軍してくる。絶えず掛けられる緊張が体力を想像以上に奪い、判断力を削(そ)いでいく。
 ただただ強迫観念気味に走り続ける。
 無様だ。
 どこまでも、どうしても、どう見ても、無様でしかない。
「は、はは」
 笑いが込み上げて来る。ただそれは人には気管が詰まった程度のものにしか思えなかったが。
 透は体が訴える限界のシグナルを無視して動き続け、回らない頭のせいでどんどんと人気のない道へ道へと入って行った。
 それは、相手がそうなるよう誘導しているところもあったが――これは主にアウローによって――それでもこれは酷過ぎだった。
 透にそれなりのまともな意識が戻った時、そこはすでに使われなくなって久しい廃工場だった。
「ど、どこだここ」
 大きく肩で息をしながら、それでも後ろから迫ってくる恐怖に体を休ませることもできない。
「廃工場さ。五年ほど前に使われなくなった、な。地元の奴でも工場とかはどこにあるかってのはけっこう知らねえもんなんだよな」
 声を響かせて言ったのは、金茶の男だった。汗をほとんど掻かず、いつの間に現れたのか工場の入り口に立っていた。
「悪いな。俺はバイク使わせてもらったぜ。もっとも、追い掛けてたのはもっぱら俺の死神だけどよ」
 音立てねえように運転すんのがきつかったけどよ。
 そして、どこで調達したのか鉄パイプを肩に引っ下げていた。
「おう? こいつが気になるか? いやな、こいつでちょっとスイングの練習でもさせてもらおうと思ってな。もちろん、てめえの体で」
 ブルン、と大きく振って鳴らす男。とても野球をやっているようにもやっていたようにも見えない。
「安心しろよ。まだ殺しはしねえよ。なにせてめえはメインディッシュだからな。まずは逃げられねえよう下拵えをしてやるってだけだからよ」
 大きく体を震わせ、くつくつと暗い声を出す。
「にしてもてめえ、死神を使わねえってのはどういうことだ? それとも今まで一度も戦ったことがなくて怯えてんのか? 情けねえよなあ。そんな力持ってんのにただ逃げるだけってのはよ」
 あからさまに相手を下に見、そして嘲(あざけ)りの言葉を投げ掛ける。
 挑発ではない。ただの揶揄(やゆ)だ。
「ふん、これだけ言ってもだんまりか。……つまんねえな。やっぱ他の奴痛めつけてるところを見せねえとな」
「他の?」
 透が思わず訊き返す。それに気を良くしたのか、男はおうと言って頷いた。
「ああそうだ。てめえのせぇで殺し損ねた女とかを、てめえの前で甚振(いたぶ)ってやんのさ。泣いて助けを焦がれてるのを、おまえは何にもできずに眺(なが)めて悔しがるのさ」
 そして与太話はこれで終わりだというように一歩、前に踏み出す。
 手にした鉄パイプを見せびらかすように振り回し、透がその顔を強張らせるのを見て楽しむ。まさに最低のやることだ。
「さってと、どこがいい? 手と足のどっちからだ? 頭は下手すると殺しちまうかもしれねえからパスな。胴体は這(は)い蹲(つくば)ってからにしてやるよ」
 上へ下へと無駄に音を立てながら片手で鉄パイプを操り、体が硬直したようにその場を動かない透に質問する。
 その口調の端々に酔った様子が見え隠れし、これから自分のする一方的な結末に心を躍(おど)らせていた。
「そうらっ」
 鉄パイプの届く位置に入った時、男は掛け声を上げて鉄パイプを横薙ぎに放つ。
「くっ」
 慌てて後ろへ跳び退(すさ)り、その一撃をなんとか回避する透。だが攻撃はそれで終わらなかった。
 今の後に、上から振り落とされ、次にはまた横に振るわれ、そして等々(とうとう)突きが出て透は胸を打たれた。
「へっ、逃げるのだけはマジで得意だな、おい」
「か、かはっ」
 突かれたことで一時的に呼吸に支障を来(きた)し、胸を押さえて蹲(うづくま)る透を見て男は唾を吐き捨てた。
「はん、この程度で気ぃ失うんじゃねえぞ。てめえのおかげで被(こうむ)った被害はまだまだ返してねえんだからよっ」
 そして尚も透を叩き続け、とりあえずまともに立てなくなるほどに傷(いた)めたと思ったところでようやっと、その手を止めた。
「ちっ、そこで寝てやがれ」
 最後に一蹴り入れてから男は透に背を向けた。
「まずはどっちの女にするかだな。殺し損なった方か、運良く元から巻き込まれそうになかった方からか」
 その言葉に透は体を震わせたが、起き上がることはなかった。
 体の状態は判然とはしないが手足は折れていないだろう。焼きつけるような痛みと熱で意識を半濁(はんだく)させながら、透は今言われたのに該当(がいとう)する二人の顔を思い浮かべていた。
 男の言っていることは訳の分からないことが多く――特に殺し損なった云々(うんぬん)の辺りなどが――死神を使役できていることも驚きでとにかく何が何やらだった。
 それでも、男が危険な存在であることは確かで、友人が狙われていて特に明里と愛夏が危ないことを透は理解できていた。
 透はなけなしの勇気と力を振り絞って立ち上がろうとした。
 再びその体が蠕動(ぜんどう)する。まるでこれからが本番だというように。
 しかし、体は少し持ち上がったところで痛みがぶり返し、透はまたもやその場に頽(くずお)れてしまう。
「う、ああ」
 痛みに呻(うめ)き、透は涙を流す。
 どうして立ち上がれないのか。体はただ痛むだけで、骨が折れてるわけでもないというのに。
「違う」
 透は否定した。
 立ち上がれない自分を否定した。
 立てないわけじゃない。
 自分はただ恐れているだけだ。
 立ち上がっても勝てるとはしれない相手に立ち向かうことを、恐れてるだけだ。
 この体の痛みに甘えて、立てないことの言い訳にしてるだけだ。
 透は今一度、立ち上がるために息を整えた。
 ただ、息を整えた。
 体から力を抜き、意識も少しだけ、薄ぼんやりとしたものに変えていく。
 そして、一気に立ち上がった。
 形振(なりふ)り構わず、立ち上がることにだけ専念した。
 理不尽で不条理なこの出来事に、透は身の内に湧き上がる気持ちをエネルギーに代えて立ち上がった。
 身の内に湧き上がるそれが義憤と呼ばれるものなのかは分からない。
 一つ言えることがあるとすれば、それは許せないということだ。
 男の言葉から推測した想像に過ぎないが、男が殺人者であることは間違いない。
 事故に見せかけて、これまで一体何回人を殺したのだろう。
 透が知る限り、関わったのはどうもあの事故一つだけらしいが、それでも平気で人を殺せるのは疑う余地がない。
 立ち上がって、それからどうするのか。全く考えていなかった。
 こうして立ち上がったことで、様々な考えが頭の中に渦を巻いて現れてくる。
 何ができる? 何をすればいい? どうしたら男を止められる?
 一気に、堤防が決壊したダムから放たれた鉄砲水のようにとりとめもない思考と感情が押し寄せてくる。
「また、かよ」
 体が竦(すく)んで動けない。
 せっかく立ち上がったのに、せっかく体が動いたのに、それ以上できなかったら意味がないじゃないか。
「何を、すればいい?」
 違うだろ。
「どうすればいいか、考える?」
 ふざけるな。
 また、逃げるのか?
「また、何もできないかもしれないのに」
 数ヶ月前の飛行機事故の時のように、叫びを上げても無駄にしかならなかった。
 今度もまた、そうならないと言い切れるか?
「そんなこと、関係ないだろ」
 無策で向かってどうにかなるのか? なるわけないだろ。ここは何か道具を探して――。
「ふざけるな(、 、 、 、 、)」
 語気を強めた最後の言葉だけが聞こえたのか、男はちょうど、現れた時と同じ出入り口のところで立ち止まった。
「あん?」
 振り返る。そして見た。透が立っているのを。
「なんだ、往生際の悪い」
 その先は続けなかった。
 鼻を鳴らしてせせら笑うそいつは、もう透のことなど眼中にないから。
「面倒なこと、増やすなよ」
 悪い子だなぁ、とでも言うように西日の差す扉から言ってくる。
「……おい、その目は何だよ」
 やっとまともに透の顔を見たそいつが、透の力強い眼光を見て怒る。
 ぶちのめした相手がそんな目をしていることなど男にとっては不快でしかなかった。
「何か言えよ!」
 透は何も言わず、反応せず、静かに顔に掛けられた眼鏡を外した。
 バキリ
 破壊音。それは、透の右手――眼鏡から発せられたものだった。
「気にし過ぎていたんだ。何もかもに」
 そう独白する透の顔は、清々(すがすが)しいの一言に尽きた。
「はあ?」
「細かいことに拘(こだわり)り過ぎていたんだ」
 疑問の声を無視し、透は鋭く男を睨み付ける。
 自分はかっこいい人間(ヒーロー)じゃない。武術をやっているわけでも、身体能力(ちから)に優れているわけでもない。ただの学生だ。
 当たり前のことで、だけど誰もが望む夢の形。
 どこかの話に聞いたような素晴らしい成果なんて、望むべくもない。
 多くの人間が囚(とら)われる理想の願望に固執し過ぎていた。
 誰だって、かっこよくありたい。
 特に男であるなら。
 何を考えてるのかと思うだろう。
 でもこれは世界の誰もが持っているものだ。
 誰だって持ってるから、現実とのギャップに折り合いを着けようとして色々な理由を付けてできないことを肯定する。
 まさにさっきまでの自分がそうではないか。
 透は思い出していた。
 ほんの少し前に聞いた、騎士の物語。
 自分はその騎士とは違い最後まで報(むく)われない道化(ピエロ)だ。
 その上あの騎士以上に弱くて馬鹿で愚かだ。
 少なくともあの騎士は勇敢(ゆうかん)だった。一途だった。真っ直ぐだった。
 たとえ狂気に犯されたとしていても、あれほどに直走(ひたはし)ることができるならそれはきっと素晴らしく羨(うらや)ましいことなのだろう。
 人から話を聞いただけで間違いは大いにあるのかもしれないが、透は素直にそう思っていた。
 迷いがないといえば嘘になる。怖くないと言えば嘘になる。勝てると言えばそれも嘘になる。
 それでも透は一人の、愚か者として(、 、 、 、 、 、)なら戦える。これは本当のことだ。
 かっこよくあることを捨て去れば、自ら愚か者になれば、これほど体は軽い(、 、 、 、 、 、 、 、)。
「なあ」
 落ち着いた、それでいてよく響く声で透は語り掛けた。
「ぶっとばしていいか?」
「――――っ、ははっ。頭おかしいのかてめえっ!」
 ガン、と鉄パイプを近くにあった物にぶつけ怒り狂う男。
 瞬間、透は走り出していた。
「ん、くぉのっ」
 余計な動作をしたせいで反応が遅れた。
 男は透の脇腹(わきばら)に一撃を入れると同時に殴られていた。
「がっ」
「うっ」
 ダメージは男の方が大きい。内側に入っていたことと、一瞬早く決まったパンチのおかげで威力が少しだけ小さかった。
「な、めてんじゃ……ねえぞおおぉっ!」
 だが、それまでに受けていたダメージの違いから、透にはもう素早い動きができなかった。
 やられる!
 そう思った時、
「たああぁぁぁぁっ!」
 二人のどちらでもない気合いが男を狙って放たれた。
 後ろにある夕日と相俟(あいま)って、透にはその一撃に残光が伴(ともな)っているように見えた。
「くそっ、外したっ」
「大丈夫かっ、透!」
 そこに現れたのは、木刀を構えた美浜と汗だくになって近寄ってくる真一だった。
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