上 下
222 / 237
七章 帰参

三.五徳姫

しおりを挟む
  一五六七年(永禄十年)、五月。
 ついに五徳姫が岡崎城へ発った。
護衛は森可成(四十五歳)と、池田恒興(三十二歳)である。
五百の兵の中に、五徳姫を乗せた輿と侍女達が居る。

 順調に進んでいたが、一行が熱田神社を過ぎた辺りで事件が起こる。
いきなり五徳姫が輿から飛び出して、駆け出してしまったのだ!
「おひいさま!」
「森さま! 姫が…」
侍女達が騒いで、恒興がすぐに気付いて馬を降りて走って追い掛けた。
「五徳さま!!」
「いやじゃ! 父上さまの所へ帰りたい!」
姫は泣きながら走っていく。
「なりませぬ!」
森の中を兵士達と共に追い掛けている内に、姫が斜面で足を滑らせて崖下に落ちてしまったのである!
「五徳さま!!」
すぐさま恒興が駆け寄って崖の下を見ると、そこには五徳姫を抱いた男が立っていた。
男は軽く崖を飛びながら登ってきて、恒興の横に立つ。
「元気そうだな、恒興」
「とっ、翔隆!! どうしてここへ…」
翔隆はそれに微笑で応えて歩き出す。
「とび…」
よく遊んで貰っていた五徳姫は、嬉しそうに笑ってぎゅっと翔隆にしがみついた。
翔隆はそのまま可成の下へ行く。可成は驚いて翔隆を見た。
「お主…」
「お久しゅう、可成殿」
「久しいが…いや、そうではなく…」
「五徳様の護衛に参りました。ご同行させて頂けないでしょうか?」
「………」
可成は黙り込んで考える。
いかに目を掛けて可愛がっている家臣の一人とはいえ、この儀ばかりは受け兼ねた。
「しかしな、翔隆…」
「家康様ならば、この事は知っておられます。どうか内密で入れては貰えませぬか? お願い致します!」
翔隆は五徳姫を抱えたまま、深々と頭を下げる。しかし、可成は首を横に振る。
「ならん。これは、戦ではない…済まぬが」
「…分かりました」
翔隆は落ち込んで俯いた。
「さあ、五徳さま。輿へお戻り下さい」
可成が手を差し伸べて言うと、五徳姫は翔隆の首に手を回してしがみついた。
「嫌じゃ!」
「五徳さま!」
「とびがおらねば嫌じゃ!」
「―――…」
ここで無理矢理に輿に乗せて、岡崎に着いてまた泣きじゃくられたら困る。
可成は深く溜め息を吐いて、翔隆を見る。
「…わしから、お願いする。五徳さまを頼む」
「―――はい!」


 そこから翔隆はずっと五徳姫を抱いて歩いた。
 五徳姫が離してくれなかったのだ。
岡崎に着くまで、嫁いでからどうすればいいのかを説明していた。

 そして岡崎城に着くと、翔隆は五徳姫を降ろす。
「さあ、姫。ここからは、きちんとご自身の足で歩いて下され」
「とびは? 共に参るのであろう?」
「私は使者ではありませんので…」
言い掛けると、五徳姫の瞳が潤む。
今にも泣き出しそうな五徳姫を見て、翔隆は困惑して可成を見る。
可成は苦笑して頷く。
「家康公も承知しておられるのならば、共に入っていいぞ」
「…かたじけない」
翔隆は頭を下げて、五徳姫の前にしゃがむ。
「…私の言った事、お分かり頂けましたか?」
「…ん……」
「では、参りましょう」
にっこり微笑んで言うと、五徳姫は寂しげに頷いた。

  出迎えた本多重次(三十九歳)と共に来た広間には、家康(二十八歳)と竹千代(九歳)、宿老の酒井忠次(三十六歳)、鳥居元忠(三十歳)、傅役(もりやく)の平岩親吉(二十六歳)などが居た。
「遠路よう参られた」
「はっ。徳川さまにはよしなにとの仰せ。このめでたい婚儀に顔を出せずに申し訳ない、と」
森可成が言うと、家康が首を横に振って言う。
「いやいや、迎えに行かぬこちらが悪い。信長どのは悪くはない」
可成はただ、頷くように頭を下げた。
「ほら竹千代、あの可愛らしい姫が、そなたの嫁じゃ」
言われて竹千代は、吊り上がった目でじっと五徳姫を見る。
すると五徳姫も、動じずに竹千代を見つめ返した。
「そちが五徳か」
「あい」
「…参れ、城を案内あないする」
そう言い竹千代は立ち上がり、少し頬を赤らめて手を差し出した。
それに対して五徳姫は戸惑いながら、ちらりと翔隆を見る。
翔隆は頷いて、五徳姫の背を軽く叩いた。
五徳姫は顔を赤くして立ち上がり、竹千代の手を取る。
竹千代は五徳姫を連れてそのまま歩いていった。
それを傅役もりやくの平岩がついて行く。
 姫が居なくなっては、翔隆が居る意味が無くなる。
翔隆は一礼して立ち上がった。
それを家康が呼び止めた。
「翔隆」
「はい?」
「平八らが会いたがっておった。顔を出してやれ」
「はっ。失礼致します」
翔隆は一礼して立ち去る……と、すぐに話し声が聞こえてくる。
「翔隆ではないか! いつここへ…」
「…姫の護衛に当たらせて貰ったんだ」
「そうか。平八も喜ぶぞ。あちらで話でもしよう」
そう言って榊原小平太康政(二十歳)は、翔隆を連れて行く。
その会話を聞いた可成が、眉を顰めて家康を見る。
「もしや、あ奴を…?」
「ああ…。信長公に言うでないぞ? わしとあ奴は、十五年来の友じゃ。故に、友として昨年ここへ置いた」
「左様で…」
可成は内心、動揺していた。
こんな事が信長に知れたらどうなるか…。
そう思ったのだ。
それは、恒興も同じであった。

 可成達は、接待を受けてから退出した。
邸を出る途中、奥の部屋から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
ふと立ち止まって見ると、翔隆が小平太康政と平八郎忠勝(二十歳)、大久保七郎右衛門忠世(二十一歳)と共にはしゃいでいるのが見えた。
「あはは! 平八など、この間かわやに行った時、寝惚けて池に落ちて…」
「七郎! それを言わずとも…っ」
「いいではないか」
すると康政も話す。
「そう言う七郎こそ、昨日馬から落ちて…」
「言うな!」
大久保忠世はそう言って康政の口を押さえる。
そんな光景を見て、恒興は眉を顰めて歯噛みした。
…本来ならば、それ・・は利家や成政などであったものだ。
織田家以外であってはならない…。
すると、可成が苦笑して恒興の肩をポンと叩く。
「あ奴は、友になら誰にでもああやって明るく接するのだ。嫉妬するな」
「妬いてなどおりませぬ! さあ参りましょう!」
そう言って恒興は、苛立った様子で歩いていった。
〈…大殿のお気持ち、分かる気がする〉
可成も、嫉妬を含んだ目を向けてから、歩いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

幼女のお股がツルツルなので徳川幕府は滅亡するらしい

マルシラガ
歴史・時代
(本文より抜粋) 「ここと……ここ。なの。見て」  霧が着物の裾を捲って、二人に自分の股ぐらを披露していた。  な、なにをしておるのじゃ?  余三郎は我が目を疑った。  余三郎側から見ると霧の背中しか見えないが、愛姫と百合丸の二人は霧の真っ正面に頭を寄せて彼女の股ぐらを真剣な目で観察している。 「ううむ……ツルツルじゃな」 「見事なまでにツルツルでござるな」  霧はまだ八歳児だぞ、当たり前だろうが!  余三郎は心の中で叫ぶように突っ込んだ。 「父様は霧のこれを見て……殺すしかないと仰った。なの」  二人は目を見開いて息を呑んでいた。聞き耳を立てていた余三郎の顔は驚愕で歪んだ。  な、なにぃー!? 自分の娘の股ぐらがツルツルだから殺すとな!? 立花家はあれか? みな生まれた時からボーボーじゃなきゃダメなのか?

【R18・完結】鳳凰鳴けり~関白秀吉と茶々

みなわなみ
歴史・時代
時代小説「照葉輝く~静物語」のサイドストーリーです。 ほぼほぼR18ですので、お気をつけください。 秀吉と茶々の閨物語がメインです。 秀吉が茶々の心を開かせるまで。 歴史背景などは、それとなく踏まえていますが、基本妄想です。 短編集のような仕立てになっています

忍び働き口入れ(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)藩の忍びだった小平治と仲間たち、彼らは江戸の裏長屋に住まう身となっていた。藩が改易にあい、食い扶持を求めて江戸に出たのだ。 が、それまで忍びとして生きていた者がそうそう次の仕事など見つけられるはずもない。 そんな小平治は、大店の主とひょんなことから懇意になり、藩の忍び一同で雇われて仕事をこなす忍びの口入れ屋を稼業とすることになる――

Jesus Christ Too Far(神様が遠すぎる)

湖灯
歴史・時代
数々の戦場で勇猛果敢に戦い騎士十字章を授かった英雄ルッツ軍曹の部隊は、ノルマンディーに向かう途中のカーン攻防戦で敗れルーアンに撤退を余儀なくされ、そこで知り合ったジュリーと言う娘との恋に落ち、パリで別れ際に終戦後のクリスマスに会う約束をします。 はたしてルッツとジュリーは、終戦まで無事生きていられるのでしょうか? そしてクリスマスの約束は果たされるのでしょうか? ノルマンディ上陸作戦後から物語は始まり、ヒトラー暗殺未遂事件を経て、パリの解放から終戦とその後までを描く物語。 ドイツ軍歩兵の中でも特にエリート部隊と呼ばれる、空軍降下猟兵の分隊長ルッツ軍曹と、その分隊が遭遇する戦場物語です。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

処理中です...