鸞翔鬼伝 〜らんしょうきでん〜

紗々置 遼嘉

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六章 決別

二十六.団欒

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  躑躅ヶ崎つつじがさき館に戻った翔隆は、義信の事を口にしなかった。
信玄は駄目だったのだろうと思い、何事もなかったかのように振る舞った。

 そして看経間で、翔隆は久し振りに信玄の背中を揉んでいた。
側には、伊織と義深が居る。
ふと信玄が言う。
「いつまでここにるのじゃ?」
「はあ……そうですね。来年まではお仕え出来るかと存じまする」
「ふむ…今までの分も、働いて貰わねばのぅ…」
そう言われて翔隆は苦笑しながら、信玄の背中を指圧する。
信玄は、気持ち良さそうに目を瞑りながら喋る。
「…どうであった? 南や北は……」
「はい。全て廻った訳ではありませんが、四国、九州などはとても穏やかで暖かく、武将方も温厚な方が多かったです。…北は山と谷に囲まれており、とても雪が深くて冬は難儀至しそうで…」
「……そうか。そうそう…織田と友好を結ぶ事にしたぞ。きゃつめ、姫を貰うてくれと言ってきたな…仲々の切れ者よ」
「…左様で」
「お主も、確か正室がおったよな」
言われて翔隆は沈んだ表情で、微苦笑を浮かべた。
「はい…。ですが、二年前に病で逝きました…。次女を産んで、肥立ちが悪く……」
「そうであったか…」
それを聞いた伊織が驚愕し、涙を滲ませていた。そんな伊織を見て、翔隆は胸を痛めるが敢えて何も言わなかった。
「では、わしの娘でも娶るか?」
「い、いえ!」
「はは。その女子だけを思っていく気か? 嫡男が居なくては長は務まるまいて…」
「はあ………ですが、当分は独りの方が……」
「…忘れ形見もおるしの…。良い、戯言じゃ」
そう言い信玄は起き上がって、背伸びをする。
「さて…。お主の子や幼い家臣を呼んで参るが良い。相手をしてやろう」
「は……有り難き幸せ」


  庭に四人の子供を集めると、信玄は木刀を取り出した。
そして、樟美に小さめの木刀を持たせる。
「さ、掛かって参れ。遠慮は要らぬぞ!」
「では!」
樟美は全力で掛かっていく。
何度も叩いては、サッと逃げる……子供の割りには大したものだ。
だが、修羅場を潜ってきた信玄には通じない。全て受け流されてしまうのだ。
「そら、どうした! 当ててみよ!」
「はああっ!」
カーーン…  樟美にしては、会心の一撃であった。
―――が、いとも容易く弾かれて、首もとに木刀を突き付けられてしまった。
〈強い…!〉
心底、思った。
幾ら自分が幼いとはいえ、一族とそれなりに戦う自信があるだけに動揺した。
…だが、強いからこそ一族などに屈しないのだという事も同時に分かった。
「参りました!」
「うむ。仲々強かったぞ、精進至せ。さ、次!」
信玄が言うと、樟美が木刀を拾って龍之介に持たせる。
「やれ」
「で、でも俺……」
「父上に殴り掛かった気迫を思い出せ」
言われて龍之介は口唇を噛み締めて、ギュッと木刀を握り信玄を見る。
〈……あの人は悪い奴…あの人は悪い奴…!〉
龍之介はそう心で繰り返し念じてから、木刀を掲げて走っていく。
「やああああっ!」
「……ふふ」
気合は十分なのだが、隙だらけで笑ってしまう。
〈…幼い頃の四郎のようじゃ〉
そう思いながら、信玄は龍之介の木刀を軽く弾いていく。
その内に、龍之介が足元を取られて尻餅を衝いてしまう。
「まっ、参りました!」
大声で言うと、浅葱が走ってくる。
「あたしやる!」
そう言い龍之介から木刀を奪い取った。
すると、樟美が駆け寄る。
「大丈夫か?」
「うん!」
「…泣いたって知らないぞ」
そう言って樟美が下がると、浅葱は両手でしっかりと木刀を構えて信玄を見る。
それを微笑ましく思いながらも、信玄は木刀の先を向けた。
「ええーい!」
浅葱は懸命に木刀を振り回す。
本人は真剣なのだが、その姿が可愛らしくて笑みが零れる。
「えい! やあっ!」
幾ら振り回しても、擦りもしないので浅葱はだんだんと涙目になって、ついには座り込んでしまう。
「うぅー…」
「…ぐずってしもうたか。ほれ」
信玄は優しく笑って浅葱を抱き上げる。
すると、いきなり浅葱は信玄の頭をペシッと叩く。
「やっと叩けた!」
「おお、ふふ…強い強い」
信玄は浅葱を縁側に降ろしてやる。
…千景は怖がっているので止めておいた。
ふいに信玄は翔隆を見る。
「…翔隆、伊織」
「はっ」
同時に答え、二人は跪く。
「お主らの剣技を披露して貰おうか」
「はっ!」
伊織が先に答えて庭に行き、太刀を構えた。
「……では…」
翔隆は戸惑いがちに立ち上がり、近習から刀を貸して貰い庭に行く。
信玄は縁側に腰掛けて、二人を見た。
子供達も座ってじっと見つめる。
「手加減無しで、お願い至す」
伊織が真剣に言ってきた。翔隆は微苦笑を浮かべて頷く。
…同じ師の下で鍛えた剣技…手抜きされるのは、確かに嫌だろう。
「参れ!」
「てやああっ!」
掛け声と共に伊織が先制攻撃に出た。
とても女とは思えない剣捌きで、激しく切り付けてくる。
それを受け流しながら、翔隆はふと義成の事を思い出す。
〈似推里に…言った方がいいのだろうか…?〉
しかし、こんな時に言ったら力が半減してしまうだろう。
〈…いつか、言えばいいか…〉
そう考えた時、左腕に痛みが走った。
「つっ…」
「何を呑気に考え事などされておられるのか! 真面目になされよ!」
真剣に叱られて、翔隆は微笑する。
〈女子は……思ったよりも、ずっと強いんだな…〉
そう、実感した。
「強くなったな!」
「当然です!」
「そうか……では、少々…本気でいくか!」
言った途端に、翔隆は真顔になって反撃に出た。 
ガッ ギィン  激しい攻防戦が繰り広げられていく。
基本的な剣捌きは同じだが、やはり場数が違い過ぎる。
素早い翔隆の刀が徐々に見えなくなっていき、伊織の刀が弾き飛ばされて、首元に切っ先を向けられた。
〈……強い…本気だったら、すぐに殺されているわね…〉
「そこまでじゃ!」
信玄が拍手をしながら言う。
翔隆はすぐに刀がこぼれしていないかを調べてから、近習に返した。
「はい、ありがとう」
ためらいもせずに相手の方へ柄を向けて、己を刃の的にして返してくる翔隆を見て、近習達は驚き戸惑っていた。
「う、うむ……」
刀を受け取りそれを鞘に収めると、翔隆はにこりと笑って信玄の下へ行く。
 その無邪気な笑顔から、自分が周りからどう見られているかが分かっていない、という事がよく分かる。
近習達は皆、信玄の寵愛を欲しいままにする翔隆を憎んだり恨んだりしているのだが…。
〈…この男は刺すやもしれぬ相手に対して、平気で無防備に接するのだな…〉
自分に刃を向けて相手に柄を渡すなど、忠誠を誓う時の行為…。
改めて近習達は嫉妬抜きに、翔隆を見直す事にした。
 その間に、信玄は立ち上がって千景を左手で抱え、浅葱と手を繋ぐ。
「さて、遠駆けにでも行こうかの」
「あい!」
浅葱が元気良く答える。
「では…」
と、伊織と翔隆がついて行こうとすると、信玄に制されてしまう。
「お主らは看経間にて待て。ほら、樟美に龍之介も参れ」
そう言い、子供達と近習らと共に行ってしまう。
二人で居させてやろうという、信玄なりの配慮であろう。
取り敢えず、二人は言われた通りに看経間で帰りを待つ事にした。


二人きりで向かい合って座ると、何だか気まずくなって俯いてしまう。
先に口を開いたのは伊織であった。
「…篠さま、亡くなられたのね」
「ああ……二年前の七月に。…女童めのわらわを残して…な」
「何て…名なの?」
「冬音。冬の音と書く…」
「そう…。でも、いつまでも気を落としていては駄目よ? 長なのだから…新しく女子おなごを娶って…嫡子を作らなければならないし、示しも付かないから……」
そう言ってから伊織は口を押さえた。
もう翔隆の恋人でもなければ、侍女でもないというのに、差し出がましい事を言った事に気が付いて戸惑ってしまう。
 翔隆も、違う意味で戸惑っていた。
一度は別れた愛しい女………。
いざ目の前にして、どう接すれば傷付けないか…どう言葉を掛ければ自然なのか、迷っていた。
 そんな内に、沈黙が訪れる。
〈…義成の事を言うべきなのか…? いや、言えば狭霧に狙われるかもしれないし、言わぬ方がいい〉
そう思うと、今度は話題が無くなったのに気付く。
〈…畏まるのも変だし……このまま黙っているのも悪いし…〉
翔隆は思い切って、いつも通りに話し掛けた。
「元気そうで何よりだ。どうしていいか分からずに泣いていないか、心配してたんだ」
「泣いたりしないわ! 覚える事も、やる事も山程あるんだから!」
そう言って伊織は笑う。
ここへ来てから、初めて女らしくしていた。それを見て、翔隆は心中で安堵する。
「…晴信様は、優しくして下さるか?」
「ええ、とっても……。お優しくて国思いで良い君主だわ。…少し贔屓も見られるけれど……でも、とても慕われていて…」
「…良かった」
翔隆は満面に笑みを浮かべて言った。―――つもりだった。
だが、実際は悲涼な笑みとなっていた。
それを見ても敢えて伊織は何も言わず、明るい笑顔で応えた。その内に、翔隆が話し始める。
「…色々な事が、あった…。四国の大名の一人がな、光秀の親族を娶っていて話もしたし…その重臣の一人が一族と関わっていた。九州では一族と親交を持つ武将とも会った。とても気が合う人で……。後は若くして、とても頼もしい頭領とも会ったし、主君も持ってしまったんだが……島津義弘様といってな…若いながらに知勇がある方で…」
伊織は微笑みながら、黙って聞いていた。
ずっと独りで色々と思い悩み、誰かに話を聞いて貰いたかったのだろう、と察したからだ。
「中国は狭霧が多くて……毛利家も狭霧を使っていたが、中にはそれを嫌う一門の方が居て…陣中で会ったのだが、あの人がいればいつか狭霧を追い払ってくれるだろう。…その毛利と敵対する尼子に、山中鹿介という男が居てな。主家の為だけに生きている人だった……」
そこまで言って、翔隆は突然涙を流した。
驚いた伊織はすぐに側に寄り、翔隆の肩を触る。
「翔隆…?」
「…私のせいで…将軍が……っ」
「えっ?」
「私が毒殺などしたから…っ! そのせいで三好共がっ!」
「…翔隆、落ち着いて話して」
「…銭が、必要だったんだ……。その為に…松永から仕事を請け負って……去年…三好の者を、将軍の名を語って……! それで松永が三好らを率いて二条を包囲して…! 陽炎と清修まで二条に来て…義輝様に、本当の父も仕えていたんだ…義輝様が討たれて、父まで、陽炎に討たれたのにっ…! 私は…っ、私は何も出来ずに……!」
「翔隆…」
「ず……ずっと、私も捨てられたのだと思っていたのに……なのに、父さんは、いつでもずっと側で守ってくれていたんだ……風麻呂かざまろに化けて、ずっと…っ!!」
「あの烏に…」
「何度も……駿府で殺され掛けた時も、越後で殺され掛けた時も、助けてくれたのに…っ! 私はっ! ……何も……何も出来ず…しようともせずっ! ただ見ていただけで…っ! どうし……どうして…何で、兄である陽炎が父を………っ!!」
…慰めの言葉も出なかった。
翔隆が養父と養母を陽炎に殺されているのは知っている。
そして、陽炎が兄である事も…。
その上、実の父までも殺されたとあっては慰めようもない。
伊織はそっと包み込むように、泣きじゃくる翔隆を抱き締めた。
そうする事が、一番の慰めだと思ったからだ。
「いつも……私のやる事は裏目に出てしまう………どうして…っ!」
その言葉に、伊織は首を横に振って言う。
「翔隆………それは違う。貴方のせいじゃない。…いつかきっと、報われる日がくる。貴方のやった事で救われている人も沢山いる! 家臣達も……それに、お屋形さまだってそう。貴方がいなかったら、ここは狭霧の魔の手に落ちていたかもしれない。…総てが悪い訳ではないわ。良い事だけを……信じる道だけを見つめて歩かなくては駄目! 見失えば、貴方や…残された家臣や子供も共に落ちてしまうのよ!!」
「…似推里……」
「泣いていては駄目。…今は泣く時じゃないわ! 一生懸命、信長さまに許される為に頑張って、再士官出来た時まで、涙をとっておくの!」
そう諭され、励まされて…翔隆は心の重荷が総て取れ、無くなったような気がした。
…ずっと、誰かにそう、言ってもらいたかったのだろう…。
翔隆は涙を拭って離れると、穏やかに笑う。
「済まん………ありがとう」
「いいえ」
そう言い笑う伊織の顔を見て、翔隆は〝似推里を愛しているのだ〟と、つくづく思った。
伊織を愛するからこそ、他にもう女子は娶るまいと決意したのだから…。
娶れば、その女子を悲しい目に遇わせてしまうから―――と。
 それからは、明るく笑い合って話をしながら信玄の帰りを待った。
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