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六章 決別

三.海津城にて

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  信濃に入ると、野宿をしながら進む。
 既に浅葱は珂室かむろに懐いている。
梅の花が咲く森林を進んでいく。
珂室かむろ、あれはなぁに?」
「あれは山毛欅ぶなです。実からは油が取れるのですよ。樹皮は染料にもなります」
「ふぅん、くわしいのね」
「詳しくなくては、薬草も作れませぬよ。浅葱様もよく覚えて下さいね」
そんな会話に和まされながら、野麦街道に入り北上した。


  五月雨が続く五月。

 翔隆は海津城を訪れた。
「篠蔦翔隆と申します。高坂様にお目通り願いたい」
「しばし待たれよ」
番兵が去り陽の暮れる中待っていると、その内二ノ丸の一室に通される。
翔隆は珂室と子供達を後ろに控えさせて、正座して待つ。
しばらくすると、高坂昌信(三十八歳)がやってきて笑顔で座った。
「久しいな!」
「お久しゅう、ございまする」
翔隆は立場をわきまえた上で、敬語で言い平伏する。
すると子供達と珂室も平伏した。
それに気付き、昌信は人払いをする。
「いつも通りにして良いぞ。翔隆」
「……元気そうで何より」
翔隆は笑って言い、昌信を見た。
昌信も笑って翔隆の肩を叩いた。
「お主も息災で…」
そう言い、翔隆の後ろを見る。
「そちらは?」
「同胞の珂室かむろと、私の子の樟美と浅葱だ」
「…そうか。しかし、こんな所まで来るなどと…何かあったな?」
「うむ…織田家を、解任された……」
「解任! 道理で………だが、だからといって御屋形さまに顔を見せぬのはならぬぞ! お主は、武田家からは解任されてはおらぬのだからな」
「ん、分かっているが…その…」
言い掛けると、昌信は微苦笑を浮かべて言う。
「良い」
「え…?」
「実はな、知っておるのだ。一族を結束させる為に旅に出たのであろう? 御屋形さまより聞いて、知っていたのだ」
「昌…」
「それに、元々お主は織田家を一番尊重するとしているものを、御屋形さまが強引に仕えさせたのだ。責めはしないさ!」
そう言って昌信は悪戯っぽく笑った。
知っていて翔隆の反応を見てからかったのだ。
「昌信……意地の悪い…」
「済まん、済まん。…だが、五日程は御屋形さまの下に居て差し上げてくれよ? お主を寵愛されておられるし…心配されておられた故」
「ん……そのつもりだよ」
そこへ小姓が酒とつまみ、そしてお茶と菓子を運んできた。
「子供達とご同胞は連れていってくれ。わしはこの者と呑む故に…」
「はっ」
小姓達が答えて、樟美と浅葱と珂室かむろは奥の間に連れていかれ、接待を受ける。
「さ! どんどん飲め! 武士は蟒蛇うわばみでなくばな!」
「ふふ…もう充分飲めるさ」
「いやいや、一斗は飲めねば!」
「……ぷっ」
何だかおかしくて、二人は笑い出した。
お互い身分も立場も違うというのに、古くからの友であるかのようにこんな話をしているのが、嬉しくなったのだ。
 二人は暫く無言で酒を酌み交わした。
「久方の…」
ふいに昌信が言う。
「久方の光のどけき春の日に」
「しづ心なく花の散るらむ」
翔隆が下の句を続けて言うと、昌信は微笑する。
「わしはこの句が好きでな。茶などたしなまぬが…」
「昌信…?」
何が言いたいのか、分からない…。
何だか暗くなりそうな雰囲気なので、翔隆は話題を変えた。
「秋山殿は、息災か?」
「おう、ぴんぴんしておる。わしの事を口煩いと言って…」
「立ち寄ろうと思ったのだが…地理的に行かれなくてな…」
「なぁに、今度戦で会えばいいさ。あの男はそんな些細な事を気にしたりはしない」
「うむ…」
返事をして酒を呑み、翔隆はふと外を見た。いつの間にか日も暮れて小雨になり、まるで雪が降っているかのように見える。
それを見ていたら、ふいに遠い昔を思い出す。

 …やっと集落から出る事を許された七つの年…。
雪の中、馬に片膝を組んで乗っている一人の少年を見付けた。
…まだ九歳の吉法師…。
幼い信長が、少女と見紛いそうな清らかで美しく、されど凛々しい顔になって、遠くを見つめ
「何故なのか…」
そう鈴虫のような声で呟き、声も立てずにその頬に涙を流していた。
……その姿が余りに悲しく、切なくて、目が離せなかったのだ…。

 そんな事を思っていると、昌信の声が聞こえてきた。
「翔隆、どうした…?」
「え…?」
翔隆は何かと思って振り向く。
「…お主…泣いておるぞ」
「え…? あ…」
気付かない内に、涙が雨のようにポタポタと溢れ落ちていた。
翔隆は恥ずかしくなって、苦笑して指や手首で涙を拭う。
「いや、何でもないんだ。…済まない……泣くつもりは無いのだが……あれ…? おかしいな…」
拭っても擦っても、涙は意志に反して勝手に溢れて流れる。
仕舞いにはとうとう腕で両目を覆って俯いてしまった。
それを見て、昌信は笑いも叱りもせずに、盃を渡した。
「ほら」
「…済まぬ……」
翔隆は左手でそれを受け取り、酒を注いでもらう。
〈…余程、信長公に惚れておるのだな…〉
昌信は微笑して酒を呑んだ。
剛直で凛然なだけが武士の在り方ではない。
こういう時こそ勇士であれ、などとは思わない。
情が厚く、時に情けなくとも良い…と、思っているのだ。
「泣きたい時は、泣けばいいさ。雨が洗い流してくれよう…」
「―――っ!」
昌信の言葉に、翔隆は声を押し殺して泣いた。
〈……信長様…――――〉 
 その夜は、泣き止んでからも沈黙して酒を酌み交わしていた…。



  翌日は晴天で、すっかり地面も乾いていた。
 そんな中、二人は庭に出て刃を交える。 
キィン、ガシィン…  という金属音が、庭中に響き渡って心に染み入る。
互いに違う意味で、曇った心を晴らす為に真剣勝負をしていたのだ。
といっても、翔隆は見破れぬように手加減はしている。
剣技の披露ではなく、共に修羅の剣。
戦場で鍛えられた刀術だ。
火花が散り、殺気が交差する…。
小姓や、預けてある樟美達が遠巻きに見ているのも気付く様子もなく、二人は二刻も戦っている。
 ふいに、翔隆が本気を出し始めた。
「ぬっ…!!」
これまで互角と思っていた昌信は、防戦一方になった。
 「弓栩羅ゆくらは北に…」 
あの言葉が、頭から離れない。
弓栩羅は富士に追いやった………北の、何処に現れる?
来るとしたら、どの様な武器と策を使ってくる?
もしも出会ったら…子連れのままで、どう対処したらいいのか!
考える内に、翔隆は目を光らせ獲物を狙うかのように昌信を追い詰めていた。
昌信はゾッとしながらも必死に防御するが、刃を折られる。
それでも翔隆は、そのまま首を狙って一撃を放とうとした。
「父上!!」 
樟美の叫び声で翔隆はピタリと止まり、正気に返った。
 …刃は、昌信の首の一寸程で止まる…。
「っ! す、済まぬ昌信!!」
翔隆は慌てて刀をしまい、昌信に怪我がないかを見る。
昌信は、ほー…と安堵の溜め息を漏らした。
「いや、大事ない………いやはや、お主が〝鬼〟なのだという事を、忘れておったわ…。そういえば、透破すっぱよりも強いのであったな!」
そう言って、昌信は笑った。
翔隆はこれ以上無い程、申し訳なさそうな顔で昌信を見つめる。
「…こんなつもりではなかったのだ……」
「良い! 上がって着替えよう、汗だくだ」
翔隆が謝る前に、昌信は笑って言い館に入っていった。

 着替えた昌信がふと翔隆を見ると、しゅんと落ち込んでいた。
昌信は苦笑して翔隆の前に座る。
「気に至すな。掠り傷しか負うておらぬし、お主の強さが見れたのだ。わしは、嬉しいぞ?」
「昌信…」
そんな気遣いをされて、余計に申し訳なく思う…。
すると、昌信が顔を覗き込んで言う。
「…誰か、脅威を感ずる者でもおるのか?」
「え…?」
「張り詰めた顔をしておった。…一族とやらか?」
「……うむ」
答えて翔隆は俯く。
脅威…………弓栩羅もそうだが、陽炎もいる…。
 どちらも〝脅威〟だ。
「わしで良ければ、聞くぞ? ああ、無論他言はせぬ故、安心至せ」
昌信は微笑んで言った。
その言葉に、翔隆は苦笑した。
「何……から話して良いか…」
昌信の事は、利家達同様に信頼出来る………しかし、何をどう話せば良いものか…。
悩んでいると、昌信は立ち上がり、暫くして茶を運んできた。
「ほら、喉が渇いただろう? まずは飲んで落ち着くといい」
「…ありがとう」
翔隆は茶碗を手に取り、一口すすってから外を見る。
…完全に人払いがされていた…。
珂室かむろは別の館に居るし、樟美と浅葱は〝身内〟なので隣りの間に居た。
「…これから話す事は、独り言のようなものだが……聞いて欲しい」
そう言い、翔隆は遠い日の…集落を追われた事や、しつこく陽炎達に狙われた事―――弓栩羅という底知れぬ恐ろしさを持つ敵の存在を、淡々と話した。
大まかな事を話し終えると、昌信は真剣な顔で翔隆を見つめる。
「……そうか」
それしか、言葉が無かった。
 一騎打ちにしても戦にしても、それ程てこずり勝利が三分といった者を相手にしなくてはならず、援軍も期待出来ぬ状況下の翔隆に、何と言っていいものか…さすがの昌信にも分からなかったのだ。
「織田家から追い出そうとしてきたり…色々とあるが………今は一族の中で済んでいるようだ」
「…他に、そういった一族はいないのか?」
「聞いた事が無いな……機会があれば聞いてみるよ」
そう言い、翔隆は苦笑して冷めた茶を飲み干した。
「力になれなくて、済まんな」
「いや。こんな話をしても戸惑うだろうと思い、今まで言わなかったのだ。…迷惑ではないか?」
その言葉に、昌信は頷いて苦笑した。
「……確かに、回答には困るが………お主を知る事が出来て、嬉しく思うぞ」
「…ありがとう」
翔隆は微笑して言う。すると、昌信は考えてから喋る。
「…この際だ、何でも受けるといい。この世の業を総て背負えば……悔いもあるまい」
昌信なりの、励ましの言葉であった。
 …その通りであろう。
何でも受け入れて、落ちるもはまるも流されるままに生きていく………その方が、翔隆らしい。
「うむ…」
「しかし、己は見失わずに…な」
「ん…心掛けるよ」
二人は笑い合って、握手をした。

  その日の昼過ぎに、翔隆一行は海津城を出た。
「…ありがとう」
城を見て呟くように言い、翔隆は歩き出した。
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