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四章 礎
三十四.姉との別れ
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三河・岡崎城に入り〝翔隆〟と名を告げると、すぐに二ノ丸に通される。
床の間には、松平元康(二十歳)と侍女、小姓達がいて床に眠る藺姫がいた。
翔隆は一礼してすぐに藺姫(三十二歳)の元に駆け寄った。
「藺姫!」
「……と、びたか……」
藺姫はうっすらと目を開けて微笑し、震える手を翔隆に差し出した。
その手を握り締め、翔隆は悲しげに眉を寄せる。
「しっかりして下さい!」
「どう…しても、言わなくては…ならない、事が……あるの………」
「余り話されぬ方が…」
そう言うと、藺姫は静かに首を横に振った。
「いいの……全て、思い…出したから…」
「え…?」
「楓として、言う事が…あるのよ……」
その言葉で、翔隆は事情を察した。
今目の前にいるのは、斎藤家の養女〝藺姫〟ではない!
十五年間共に過ごした姉・楓なのだ、と。
元康も何かを察して人払いをする。
苦しげな息のもと、楓は起き上がろうとする。翔隆は慌ててその細い背中を支えた。
「よく、聞いて……あなたの本当の、父は…羽隆、といって…。…あし、かがに…仕えて、いるの…」
「足利…?」
それを聞いて翔隆はドキッとした。
思い当たる人物がいるからだ。
「名は…義羽、景凌というの…あなたの兄は…ゴホッ…」
「もう分かったよ!」
楓の言葉を遮り、翔隆は涙を浮かべてそっと楓を抱いた。
「分かっているから! 陽炎も、疾風も……清修も、修隆も! みんな、知っているからっ! だから……死んじゃ駄目だっ!」
翔隆は、子供のように泣きながら言った。
その頃から、修隆と一成もいたが、まるで気付く様子が無い。
「無理言って…困らせ、ない…ゴホッ…」
「死んじゃ嫌だ姉さんっ! 俺はまだ、何もしてあげられていない! 父さんと母さんの仇も討てていないっ! 一族だって…っまだ……!!」
「翔隆………本当に…立派に、なって……父さんと母さんに………いい話を…持っていってあげられるわ………」
楓は嬉しそうに微笑んで、翔隆の頬を撫でた。
「駄目だ! 死んだりしたら義成だって…!」
「……あの人に…………ごめんなさい…って……。…短い、間だったけれど……幸せでした…と…伝えてね……………」
「姉さん!」
「生きる…のよ………………」
「姉さん!! 姉さん!?」
楓は安らかな笑みを浮かべたまま、息絶えた。
「………」
翔隆はぎゅっと楓を抱き締めてから、そっと寝かせる。
そして拳で涙を拭うと、元康の方にきちんと座り直した。
「ありがとうございました…。…藺姫…いえ、姉も浮かばれます」
「…姉君であったと分かれば、もっと早くに知らせてやれたろうに……済まぬな」
元康は静かに、申し訳無さそうに言った。
「いいえ。充分です…」
答えて、沈黙が訪れる。
しんとした空気の中、炎が揺らめく。
「…わしはな、信長公のお陰で岡崎に帰ってこられた」
ふいに元康が話し出した。
「覚えておるか? 北条の助五郎どの。…無事帰ったそうだ。北条氏規と名を改めてな…」
「はい、覚えております…」
「我らはのぉ…密かに、信長公に感謝しておるのだ」
「元康様…」
翔隆は微苦笑を浮かべる。
話題をわざと変えて、翔隆を元気付けていたからだ。
この時世、いつまでも人の死に留まってはならぬ、という心遣いが分かった。
「…元康様、貴方が自由になられて私も…無論、信長様も嬉しい限りです」
「ふふ……これからは、今川より独立するつもりだ」
「…心強いですね」
その言葉に、元康はフッと笑う。
〈こ奴…同盟するであろう、と先を見越しておるのか…?〉
そう思うが、敢えて口にはせずに翔隆を見る。
「…お主も、頼もしゅうなったな。信長公もお主を手放すまいて」
「はあ…」
翔隆は苦笑にも似た笑みを浮かべた。
また、会話が途絶えて虫の声が響く。
「――――乱世だな…」
ふいに元康が呟く。
虚空を見つめて切なげに眉を寄せるその姿は、信長と重なって見えた。
〈元康様も、信長様と同じ志なのだな…〉
そう思い、元康をじっと見つめると翔隆はニコリと微笑む。
「必ず鎮めて下さいます、信長様が!」
「自信ありげよの…。いや、あるいは…―――」
その先は何も言わなかった。
言わなくても、互いの真っすぐな眼を見れば何を言わんとしているかが分かったからだ。
「そろそろ戻ります。…藺姫を連れていく事、お許し下さいますか?」
「うむ、身内なれば構わん。…達者でな」
「はい」
明るく答えると、翔隆は一礼して楓を抱き上げ立ち上がり、修隆を見た。
「…知らせてくれて、感謝する」
「いや…」
互いに微笑し、何も言わずにすれ違う。
「行くぞ、一成」
「はっ…あ……」
返事をしかけて、一成は思わず口に手を当て、気まずい顔で修隆をちらりと見る。
すると、修隆も訝しげに一成を見た。
先程聞いた名と違う…いや、それだけではなく、その名は…。
「お前…」
修隆が何か言おうとすると、一成は一礼して小走りで行ってしまう。
「修隆、どうかしたか?」
「いえ、何も…」
元康の問い掛けに答えて、修隆は顎に手を置く。
〈〝いっせい〟…とは、もしや――――。いや、そんな筈もない〉
一瞬、名付けた我が子を思い出したが、それ以上は考えずに元康の元に行った。
翔隆は一成と楓の遺体を乗せた馬を走らせ、自分は轡を取って走って尾張の己の邸に戻った。
邸に着くと、翔隆は楓を抱き抱えて一成を連れて入る。
「翔隆様…」
迎えた忌那蒼司、矢苑忠長、似推里が驚く中、翔隆は黙って広間に行き、楓の亡骸を寝かせる。
そして、義成をその前に座らせた。
「短い間でも幸せだった、と…言っていたよ」
そう告げて、障子を閉めて二人きりにする。
そして、皆を自分の座敷に集めた。
すると、一成が平伏してきちんと謝る。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「…ご無事で何より」
篠姫が微笑んで言うと、罵声を浴びせようとしていた忠長は止まってしまった。
それを見て苦笑すると、翔隆は一成の隣りに座る。
「…一成には、家臣としてここに居てもらう事とした。よろしく頼む」
「分かりました」
明智光征と蒼司が答える。
それに頷いて、翔隆は気まずそうに言い出す。
「それとな……上杉家にも、仕える事になった」
「やはりまた増えた!」
忠長が呆れながら言い、疾風が頷く。
それに対して、一成が何か言おうとしたのを翔隆は目で制し皆を見回した。
十一歳の幼な妻の篠姫、侍女の葵と鹿奈。
我が子の樟美と浅葱(二歳)。弟の疾風(二十三歳)と黒豹の緋炎。
家臣の明智四郎衛門光征、忌那蒼司、矢苑佐馬亮忠長、椎名雪孝、矢月一成。蒼司の妻の弓香…そして最も愛する似推里…。
「殿…?」
篠の呼び掛けにも答えず、翔隆は黙ったまま虚空を見つめた。
〈…どうも、考えるより先に体が動いてしまうのが悪い癖だ…。このままでは本当に主君が五人十人と増えていってしまい兼ねない…〉
そして、しまいには身動きが取れなくなってしまう。
そうは分かっていても、どうしてもその場その場で言いたい事を言い、やりたい事をやってしまう。
上杉景虎に仕えたのも、ただ一成を返してもらう為だけではない。その魅力があったからだ…。
考え込んだ翔隆を見て、またか、と思った皆は黙って何か言うのを待っていた。
翔隆が考え事をし始めると、何を問い掛けても集中し過ぎていて聞いていないからだ。
翔隆は腕を組んで目を瞑る。
〈…これから、この子達を養わなければならない…〉
その為には銭がいる…。
信長からは昨年の論功行賞にて月四十貫に引き上げられた。
武田信玄からは、出仕の都度に三貫、戦に来れば手当として五金戴ける。
そして、上杉景虎には出仕すれば五貫…しかし、そんなに他に出仕に行ける訳も無い。
皆の生活で三分の二、民に残りの半分を使うのでギリギリの生活となってしまう。
〈…こんな、私の生き方では暮らしていけぬ。皆に不自由はさせたくない……かといって…〉
こんな時に睦月がいたら…それとなく良い考えを言ってくれる――――。
そんな考えに至った時、翔隆はカッと目を見開いて立ち上がる。
「光征!」
「はいっ?!」
光征は突然呼ばれて驚き、かなり素っ頓狂な声を上げた。
「睦月は見つかったか」
「い、いえ全く…手掛かりすら……申し訳ございません」
「――――決めた! 疾風、ついて来い!」
「え、はい!」
翔隆がスタスタと歩いていくので、慌てて疾風がついていった。
来た場所は清洲城。
中に入って廊下を歩いて行く。座敷の前まで来ると、信長が走ってきて翔隆の後ろに回る。
「?!」
疾風が呆気に取られていると、ダダダッと足音がして薙刀を持った帰蝶がやってきた。
「まあ! またそうやって翔隆を盾になさって! いつもいつもっ!」
「話せば分かると言っておるであろう!」
「分かりませぬ!」
また喧嘩か…翔隆はクスッと苦笑して二人を見た。
「お二人共、落ち着いて下さいませ。…今度は、何の戦にござりまするか?」
翔隆が問うと、帰蝶は溜め息を吐いて薙刀の切っ先を降ろす。
「七人目の側女が事じゃ! 事もあろうかお福を室に上げると申すのじゃっ!」
「だからそれはの、〝七福神〟という縁起の良い神の名に…」
「まあ! 神など崇めぬお方が、よく言いますこと!」
そのやりとりは、いつ見聞きしてもきりがない。
「…………」
翔隆はしばし考えた後、頷いて言う。
「…分かりました。信長様、濃姫様は美濃より連れて参られた可愛い侍従を、貴方様の毒牙に掛けたくはないのですよ」
主君に対して酷い言い方である。
「何ッ?! 毒牙などと…」
「はい。信長様は寵愛する小姓を、濃姫様に取られる事を、いかに思われまするか?」
「ぬ…」
「これもまた、濃姫様の刃で切り刻まれたくはありますまい?」
「まあ!」
「…ですから、側女の事は考え直した方がよろしいかと存じまする」
翔隆は涼しい顔をして二人に言う。
すると、信長と帰蝶はムッと睨み合った。
そして帰蝶がむくれた顔をして、そっぽを向いて行ってしまう。
それを見送り、翔隆は後ろに隠れる信長を見た。
「…信長様…」
「おお、すまんすまん。全く…あ奴にも困ったものよ」
あれだけの悪口を言われても、信長は笑っている…。
そんな主従を見て、疾風はその深い絆を目の当たりにした気がした。
「…お話しがござりまする。中へ、お座り下さい」
「ん?」
信長は離れて座敷の中に入り、座る。
翔隆は疾風と共に中に入って信長の前に座ると、両手を撞いて平伏する。
「…今の私の任、この弟、疾風にやらせて頂けませぬか?」
「?! 兄者…!」
これには疾風が驚いて何か言おうとするが、目で制されてしまう。
「この子はまだ二十三ですが、私よりも立派に不知火を率いれられまする」
「ふん…。して、そ奴を〝饗談頭領〟にしてお主は何をするのだ?」
「…武将として、仕えさせて頂きたく…」
真面目に言うと、信長は大笑いした。
「ハハハハハ! そうか。して、何が良い」
「…仰せであれば、何なりと」
翔隆にとっては一大決心であった。武将となりたい、というのは本心ではない。
本当は、武将になどなりたくないのだ。
しかし、知行を得るには武将となった方がいいからである。
翔隆の表情から、そんな心を読み取ったのであろう。信長は耳をほじりながら言う。
「では、近習で良い」
「ですから…っ!」
「分かった! ふむ…」
翔隆の必死な思いが伝わってくるので、信長は言葉を遮り苦笑する。
そして顎を掻きながら考え始めた。
暫くして、信長はポンと膝を叩く。
「〝取次奉行〟となれ!」
「は…?」
「要はもてなしや他国への外交よ。そうだな……知行は疾風が六十、お主は百じゃ。どうだ!」
「…有り難き仕合わせ!」
心中を察しられて、翔隆は心から感謝して平伏した。
疾風も、大役に胸を躍らせながらも平伏する。
二人は、一礼して城を後にした。
…これで、生活が豊かになるだろう。その事情を説明すると、疾風は喜んで承知してくれた。
「初めから言って下されば、俺だって何か考えたものを…。兄者は言葉が足りなさ過ぎる!」
「済まない…」
邸に帰って、それを皆にも説明する。
すると楓との別れが済んだ義成が、草鞋や籠を作って売ると言い出した。
「義成…気持ちは嬉しいが、私の代わりに百姓達の薬師となってくれないか?」
「……分かった」
義成は微笑んで承諾してくれる。
これで、翔隆自身の自由になる時間が少し増えた。
翔隆はその時間を利用して、各地の不知火の頭領達を直に訪ねて説き伏せよう…と決心していた。
床の間には、松平元康(二十歳)と侍女、小姓達がいて床に眠る藺姫がいた。
翔隆は一礼してすぐに藺姫(三十二歳)の元に駆け寄った。
「藺姫!」
「……と、びたか……」
藺姫はうっすらと目を開けて微笑し、震える手を翔隆に差し出した。
その手を握り締め、翔隆は悲しげに眉を寄せる。
「しっかりして下さい!」
「どう…しても、言わなくては…ならない、事が……あるの………」
「余り話されぬ方が…」
そう言うと、藺姫は静かに首を横に振った。
「いいの……全て、思い…出したから…」
「え…?」
「楓として、言う事が…あるのよ……」
その言葉で、翔隆は事情を察した。
今目の前にいるのは、斎藤家の養女〝藺姫〟ではない!
十五年間共に過ごした姉・楓なのだ、と。
元康も何かを察して人払いをする。
苦しげな息のもと、楓は起き上がろうとする。翔隆は慌ててその細い背中を支えた。
「よく、聞いて……あなたの本当の、父は…羽隆、といって…。…あし、かがに…仕えて、いるの…」
「足利…?」
それを聞いて翔隆はドキッとした。
思い当たる人物がいるからだ。
「名は…義羽、景凌というの…あなたの兄は…ゴホッ…」
「もう分かったよ!」
楓の言葉を遮り、翔隆は涙を浮かべてそっと楓を抱いた。
「分かっているから! 陽炎も、疾風も……清修も、修隆も! みんな、知っているからっ! だから……死んじゃ駄目だっ!」
翔隆は、子供のように泣きながら言った。
その頃から、修隆と一成もいたが、まるで気付く様子が無い。
「無理言って…困らせ、ない…ゴホッ…」
「死んじゃ嫌だ姉さんっ! 俺はまだ、何もしてあげられていない! 父さんと母さんの仇も討てていないっ! 一族だって…っまだ……!!」
「翔隆………本当に…立派に、なって……父さんと母さんに………いい話を…持っていってあげられるわ………」
楓は嬉しそうに微笑んで、翔隆の頬を撫でた。
「駄目だ! 死んだりしたら義成だって…!」
「……あの人に…………ごめんなさい…って……。…短い、間だったけれど……幸せでした…と…伝えてね……………」
「姉さん!」
「生きる…のよ………………」
「姉さん!! 姉さん!?」
楓は安らかな笑みを浮かべたまま、息絶えた。
「………」
翔隆はぎゅっと楓を抱き締めてから、そっと寝かせる。
そして拳で涙を拭うと、元康の方にきちんと座り直した。
「ありがとうございました…。…藺姫…いえ、姉も浮かばれます」
「…姉君であったと分かれば、もっと早くに知らせてやれたろうに……済まぬな」
元康は静かに、申し訳無さそうに言った。
「いいえ。充分です…」
答えて、沈黙が訪れる。
しんとした空気の中、炎が揺らめく。
「…わしはな、信長公のお陰で岡崎に帰ってこられた」
ふいに元康が話し出した。
「覚えておるか? 北条の助五郎どの。…無事帰ったそうだ。北条氏規と名を改めてな…」
「はい、覚えております…」
「我らはのぉ…密かに、信長公に感謝しておるのだ」
「元康様…」
翔隆は微苦笑を浮かべる。
話題をわざと変えて、翔隆を元気付けていたからだ。
この時世、いつまでも人の死に留まってはならぬ、という心遣いが分かった。
「…元康様、貴方が自由になられて私も…無論、信長様も嬉しい限りです」
「ふふ……これからは、今川より独立するつもりだ」
「…心強いですね」
その言葉に、元康はフッと笑う。
〈こ奴…同盟するであろう、と先を見越しておるのか…?〉
そう思うが、敢えて口にはせずに翔隆を見る。
「…お主も、頼もしゅうなったな。信長公もお主を手放すまいて」
「はあ…」
翔隆は苦笑にも似た笑みを浮かべた。
また、会話が途絶えて虫の声が響く。
「――――乱世だな…」
ふいに元康が呟く。
虚空を見つめて切なげに眉を寄せるその姿は、信長と重なって見えた。
〈元康様も、信長様と同じ志なのだな…〉
そう思い、元康をじっと見つめると翔隆はニコリと微笑む。
「必ず鎮めて下さいます、信長様が!」
「自信ありげよの…。いや、あるいは…―――」
その先は何も言わなかった。
言わなくても、互いの真っすぐな眼を見れば何を言わんとしているかが分かったからだ。
「そろそろ戻ります。…藺姫を連れていく事、お許し下さいますか?」
「うむ、身内なれば構わん。…達者でな」
「はい」
明るく答えると、翔隆は一礼して楓を抱き上げ立ち上がり、修隆を見た。
「…知らせてくれて、感謝する」
「いや…」
互いに微笑し、何も言わずにすれ違う。
「行くぞ、一成」
「はっ…あ……」
返事をしかけて、一成は思わず口に手を当て、気まずい顔で修隆をちらりと見る。
すると、修隆も訝しげに一成を見た。
先程聞いた名と違う…いや、それだけではなく、その名は…。
「お前…」
修隆が何か言おうとすると、一成は一礼して小走りで行ってしまう。
「修隆、どうかしたか?」
「いえ、何も…」
元康の問い掛けに答えて、修隆は顎に手を置く。
〈〝いっせい〟…とは、もしや――――。いや、そんな筈もない〉
一瞬、名付けた我が子を思い出したが、それ以上は考えずに元康の元に行った。
翔隆は一成と楓の遺体を乗せた馬を走らせ、自分は轡を取って走って尾張の己の邸に戻った。
邸に着くと、翔隆は楓を抱き抱えて一成を連れて入る。
「翔隆様…」
迎えた忌那蒼司、矢苑忠長、似推里が驚く中、翔隆は黙って広間に行き、楓の亡骸を寝かせる。
そして、義成をその前に座らせた。
「短い間でも幸せだった、と…言っていたよ」
そう告げて、障子を閉めて二人きりにする。
そして、皆を自分の座敷に集めた。
すると、一成が平伏してきちんと謝る。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「…ご無事で何より」
篠姫が微笑んで言うと、罵声を浴びせようとしていた忠長は止まってしまった。
それを見て苦笑すると、翔隆は一成の隣りに座る。
「…一成には、家臣としてここに居てもらう事とした。よろしく頼む」
「分かりました」
明智光征と蒼司が答える。
それに頷いて、翔隆は気まずそうに言い出す。
「それとな……上杉家にも、仕える事になった」
「やはりまた増えた!」
忠長が呆れながら言い、疾風が頷く。
それに対して、一成が何か言おうとしたのを翔隆は目で制し皆を見回した。
十一歳の幼な妻の篠姫、侍女の葵と鹿奈。
我が子の樟美と浅葱(二歳)。弟の疾風(二十三歳)と黒豹の緋炎。
家臣の明智四郎衛門光征、忌那蒼司、矢苑佐馬亮忠長、椎名雪孝、矢月一成。蒼司の妻の弓香…そして最も愛する似推里…。
「殿…?」
篠の呼び掛けにも答えず、翔隆は黙ったまま虚空を見つめた。
〈…どうも、考えるより先に体が動いてしまうのが悪い癖だ…。このままでは本当に主君が五人十人と増えていってしまい兼ねない…〉
そして、しまいには身動きが取れなくなってしまう。
そうは分かっていても、どうしてもその場その場で言いたい事を言い、やりたい事をやってしまう。
上杉景虎に仕えたのも、ただ一成を返してもらう為だけではない。その魅力があったからだ…。
考え込んだ翔隆を見て、またか、と思った皆は黙って何か言うのを待っていた。
翔隆が考え事をし始めると、何を問い掛けても集中し過ぎていて聞いていないからだ。
翔隆は腕を組んで目を瞑る。
〈…これから、この子達を養わなければならない…〉
その為には銭がいる…。
信長からは昨年の論功行賞にて月四十貫に引き上げられた。
武田信玄からは、出仕の都度に三貫、戦に来れば手当として五金戴ける。
そして、上杉景虎には出仕すれば五貫…しかし、そんなに他に出仕に行ける訳も無い。
皆の生活で三分の二、民に残りの半分を使うのでギリギリの生活となってしまう。
〈…こんな、私の生き方では暮らしていけぬ。皆に不自由はさせたくない……かといって…〉
こんな時に睦月がいたら…それとなく良い考えを言ってくれる――――。
そんな考えに至った時、翔隆はカッと目を見開いて立ち上がる。
「光征!」
「はいっ?!」
光征は突然呼ばれて驚き、かなり素っ頓狂な声を上げた。
「睦月は見つかったか」
「い、いえ全く…手掛かりすら……申し訳ございません」
「――――決めた! 疾風、ついて来い!」
「え、はい!」
翔隆がスタスタと歩いていくので、慌てて疾風がついていった。
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「?!」
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「分かりませぬ!」
また喧嘩か…翔隆はクスッと苦笑して二人を見た。
「お二人共、落ち着いて下さいませ。…今度は、何の戦にござりまするか?」
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「七人目の側女が事じゃ! 事もあろうかお福を室に上げると申すのじゃっ!」
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「まあ! 神など崇めぬお方が、よく言いますこと!」
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「…………」
翔隆はしばし考えた後、頷いて言う。
「…分かりました。信長様、濃姫様は美濃より連れて参られた可愛い侍従を、貴方様の毒牙に掛けたくはないのですよ」
主君に対して酷い言い方である。
「何ッ?! 毒牙などと…」
「はい。信長様は寵愛する小姓を、濃姫様に取られる事を、いかに思われまするか?」
「ぬ…」
「これもまた、濃姫様の刃で切り刻まれたくはありますまい?」
「まあ!」
「…ですから、側女の事は考え直した方がよろしいかと存じまする」
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すると、信長と帰蝶はムッと睨み合った。
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「おお、すまんすまん。全く…あ奴にも困ったものよ」
あれだけの悪口を言われても、信長は笑っている…。
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「…お話しがござりまする。中へ、お座り下さい」
「ん?」
信長は離れて座敷の中に入り、座る。
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「…今の私の任、この弟、疾風にやらせて頂けませぬか?」
「?! 兄者…!」
これには疾風が驚いて何か言おうとするが、目で制されてしまう。
「この子はまだ二十三ですが、私よりも立派に不知火を率いれられまする」
「ふん…。して、そ奴を〝饗談頭領〟にしてお主は何をするのだ?」
「…武将として、仕えさせて頂きたく…」
真面目に言うと、信長は大笑いした。
「ハハハハハ! そうか。して、何が良い」
「…仰せであれば、何なりと」
翔隆にとっては一大決心であった。武将となりたい、というのは本心ではない。
本当は、武将になどなりたくないのだ。
しかし、知行を得るには武将となった方がいいからである。
翔隆の表情から、そんな心を読み取ったのであろう。信長は耳をほじりながら言う。
「では、近習で良い」
「ですから…っ!」
「分かった! ふむ…」
翔隆の必死な思いが伝わってくるので、信長は言葉を遮り苦笑する。
そして顎を掻きながら考え始めた。
暫くして、信長はポンと膝を叩く。
「〝取次奉行〟となれ!」
「は…?」
「要はもてなしや他国への外交よ。そうだな……知行は疾風が六十、お主は百じゃ。どうだ!」
「…有り難き仕合わせ!」
心中を察しられて、翔隆は心から感謝して平伏した。
疾風も、大役に胸を躍らせながらも平伏する。
二人は、一礼して城を後にした。
…これで、生活が豊かになるだろう。その事情を説明すると、疾風は喜んで承知してくれた。
「初めから言って下されば、俺だって何か考えたものを…。兄者は言葉が足りなさ過ぎる!」
「済まない…」
邸に帰って、それを皆にも説明する。
すると楓との別れが済んだ義成が、草鞋や籠を作って売ると言い出した。
「義成…気持ちは嬉しいが、私の代わりに百姓達の薬師となってくれないか?」
「……分かった」
義成は微笑んで承諾してくれる。
これで、翔隆自身の自由になる時間が少し増えた。
翔隆はその時間を利用して、各地の不知火の頭領達を直に訪ねて説き伏せよう…と決心していた。
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bekichi
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戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
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