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三章 廻転
二十六.命懸けて〔一〕
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鈴虫達の声が心地良い十月。
翔隆は禾巳を連れて、久方振りに睦月の下を訪れていた。
「大きくなったなぁ、雪乃宮!」
翔隆は五歳になった雪乃宮を抱き上げる。
「きゃははは!」
雪乃宮は無邪気に喜び、すっかり翔隆に懐く。
その側には禾巳と睦月がおり、少し離れた所に拓須が居る。
禾巳はムッとして翔隆に抱き付く。
「そいつも家臣か?!」
「いや…。そうだ、睦月…この子を修業させてくれぬか?」
「ん? 構わんが、忍にするのか?」
「まあ、取り敢えずは…」
言い掛けると、突然
「ならん!!」
と、怒鳴り声が上がる。
振り返ると、拓須がすぐ側まで来て目を吊り上げていた。
そんな拓須に怯む事なく、睦月は微笑んで言う。
「拓須…わたしの身を案じているのだろうが、もうこの通り元気になった。いつまでも小屋に籠もっていては、それこそ体がなまってしまうよ…」
「ならん!」
やはり、思った通り駄目だの一点張りだ。
「…わたし自身が、やりたいんだよ」
「………」
そう言われてしまうと、弱くなる。
「分かった…。咳込まぬ程度なら、許そう。体の調子を見て、私が代わりに修業を付けてやる」
拓須の思ってもみない発言に、翔隆は勿論、睦月も驚愕した。
翔隆は戸惑い、どもりながら言う。
「あ、ありがとう…。よ、よしなに、頼む…」
「用は、それだけか」
早々に帰らせたい拓須が言うと、翔隆は悲しげに眉を寄せる。
「…睦月…一つ、どうしても聞きたい事がある…」
「ん…?」
翔隆はためらいながら、口を開く。
「…義成は――――何故、突然今川に戻った…? 俺の事すら忘れて…!」
「それは……」
睦月はちらりと拓須を見てから、か弱い声で言う。
「…戻った訳ではないし…敵に回ったのは本意ではないのだ…」
「では何故…」
「――――お前の、弱みだからだ」
拓須が代わりに喋る。
「…え?」
「お前は、義成を兄のように慕っている。刃は向けられぬであろう? それは最強の武器となる。故に操っているのだ。元より、今川の者であるというのもそうだが…。まあ…義成自身は、今川は死しても戻らぬと言っていたな。…憎んでいたからな」
「操る…?! 誰が…」
「新蓮だ。奴は、心の隙を衝いて暗示を掛ける術を得意としておる」
「!!」
それを聞くと、翔隆は小屋を飛び出した。
〈…おかしいとは思ったが、そういう事か…!!〉
まさか操られていたとは!
翔隆は激怒して全速力で走った。
数刻と経たずに、気が付けば今川館を前に、剣を構えて立っていた。
そして中へ入ろうと一歩駆け出した時、後ろから両肩を押さえ込まれた。
返り見てそれが前の集会で配下となった高信だと分かると、翔隆は怒鳴る。
「離せっ!!」
「なりませぬ! 一体何をお考えか!!」
高信の他にも、数名の同族が翔隆を押さえる。
「こんなに殺気立って…城内の狭霧がこれに気付き待ち構えているのが分かりませぬか?!」
「うるさい! 離せっ!!」
「…とにかく、退いて頂きます!」
何を言っても無駄だと判断した高信は、強引に翔隆を森の中に引き摺り込ませた。
そのまま臣下二名に嫡子―――いや〝長〟を押さえさせておくと、溜め息を吐く。
「…翔隆様…貴方は、お幾つになられました?」
「何…?」
唐突に聞かれて、少し正気に返る。
「歳を、聞いているのです」
「二十だ。…それが何だ」
「…その歳にもなって、何と未熟な行動を取られるのか。竹中殿の方が余程しっかりしておりますぞ」
「…分かっている!」
「分かっていません!! 貴方は既に各地に臣を持つ長なのですぞ!!」
逆に怒鳴られて正気に返った翔隆は、己が行いを振り返り首を項垂れた。
落ち着いたと見て、高信は臣下の手を放させる。
「一体、いかがなされたのですか?」
「何としても〝奴〟を殺さねばならぬのだ…今すぐに! でなければ俺は…身動きが取れなくなる…っ!」
「…落ち着いて、ご説明下さい。事によって、策を講じます故…」
そう言われて、翔隆は焦る気持ちをぐっと堪えた。
翔隆はなるべく落ち着いて話す。
「義成…今川の長子を、助けねばならぬ」
「助ける?」
「義成は…俺が物心付いた時に、傷を負っていたのを助けて集落に入れた人だ。剣術や兵法、世の習いなどを教えてくれた…兄とも言える俺の、大切な師匠だ…! その人を新蓮が操り、いいように使っているのだ!」
「新蓮といえば、今川家に取り入り軍師の太原雪斎の弟子となっている筈…。仲々、困難ですぞ」
家臣の一人が言う。
高信は、横を向いて悔しげに目を瞑っている翔隆を見て頷く。
そして、しばし考えた後に指示を出す。
「まずは、城内にどれ程の狭霧が居るか……加納、詳しく探ってこい!」
「はっ」
「生島は、駿河で集められるだけの一族を集めよ!」
「はっ!」
命じられた二人は、すぐ様実行に移す。
高信は、震えている翔隆の肩をそっと触る。
「今暫く、ご辛抱下さい。私が、旨くいくように取り計らいます故」
翔隆は蒼白したまま、何も言わずに頷いた。それに頷き、高信は懐から駿河の絵図を出す。
それには城や砦の構造から人口、狭霧の配置や林や森の位置、川の浅瀬や深瀬、各村に幾つ家があり、人口はどのくらいか等、事細かに書き込まれている。
その絵図を睨みながら考え込んでいる高信を見て、翔隆はふと思った。
〈…あんなもので長と見てくれただけなのに、こんなにも俺の為に動いてくれるなんて…〉
自分や犬千代達が、信長の為に動くのなら分かる。
しかし、高信は翔隆の事を何一つ知りもしないというのに、同じくらい…いやそれ以上に尽くしてくれる…。
そんな事を思う内に、生島が不知火二百名余りを連れて待機させ、一刻後には加納が少し手傷を負って戻ってきた。
「…今川館には八十、重臣屋敷に霧風、新蓮と六十余り。侍屋敷に修隆、陽炎、疾風他五十程がおります」
「ご苦労。…肝心な奴が重臣屋敷とは…奴の役目は分かってか」
「どうやら、番兵の行き届かぬ点を見回る事の他に兵の目付であるようです」
「…では出てくるのを待つしかない、か。…城外の狭霧は?」
「正門と、裏に合わせて九十余り」
「…ともあれ、出てくるのを待って陽動を仕掛けて討つしかありますまい」
「ん…」
今までの話を黙って聞いていた翔隆が、静かに話す。
「なれば―――手を貸してくれぬか…?」
「手を貸すなどと…何なりと、ご命令あれ。我らは、長に従います!」
その言葉にじんと感激しながらも、翔隆は皆を見る。
「この中で一番、知謀に長けるのは?」
「江藤かと…」
そして強者は、勿論高信と加納だ。
翔隆は今まで習った戦法や兵法などから、この不利な条件下での最良の方法を探す。
「ならば…加納は一族六十名と共に、城外の狭霧を遠ざけろ」
「はっ」
「江藤は五十名を率いて、町屋に潜伏。俺の雷を合図として出来る限り狭霧を撹乱しろ。生島は新蓮が出て来たらおびき寄せろ。町から半里程引き離せれば十分だ。それまで大手門の前で待機!」
「はっ!」
答えてそれぞれが散っていくと、高信を見る。
「…高信は、残る一族を率い合図と共に城内に入り、江藤を助けてくれ」
「しかし、それでは…―――」
「俺は、奴に〝借り〟を返す…一人で、やらせてくれ」
「…分かりました。お気を付け下さい…」
こんな策が通用するか否か、不安が残る。
…しかし、やるだけやるしかないのだ。
ここで無謀に正面から乗り込んだとて、陽炎と義成に阻止されるだけだ…。
ただ、鳴りを潜めて待つ…。
そして、丑の二刻(午前二時半)皆が寝静まった頃に大手門から新蓮が手燭を持って現れた。
暫く歩いていた時、手燭を狙って矢が放たれる。
「何奴!」
新蓮が言うと、草むらがガサガサと動いた。
「そこか!」
ボッと炎を放つと、そこから人が逃げていく。
新蓮はその逃亡者がさ程強くもない不知火であると判断すると、後を追う。
幾ら足の速さが自慢の生島でも、逃げる間に炎の矢を放たれては逃げ切れない。
その内の一つが背を直撃し、生島は転がるように倒れた。
「ぐおぉっ!」
着物に付いた炎を払おうと、転がっていると新蓮にその背を足蹴にされる。
「虫ケラが…死ね!」
ニイッと笑って炎を出した時、新蓮の真後ろに雷が落ちた。
――――空は晴天…雲一つない。
「まさか…!」
蒼白して振り向くと、そこには雷気を帯びた翔隆が立っていた。
「義成は…今川に憎悪を抱いていた……死しても決して戻らぬと! 貴様は、その〝誇り〟を傷付けたのだ!」
言いながら、翔隆は一歩前に出る。
「断じて許さん……義成を、返してもらうぞ!!」
叫ぶと同時に戦いが始まった。
咄嗟に生島は転がって、その場を離れる。
怒りに火が付いた翔隆は、狂ったように剣を振るい《術》を使いまくる。
その時、城の方から喧騒の声が上がる。
〈しまった…!〉
生島は、町から一町(百九m)程しかおびき出せなかった己の無力さに舌打ちした。
新蓮もそれに気付き、攻防戦をしながらも城の方角を見る。
「ぬぅ…計ったな!」
「それがどうしたっ!」
翔隆は剣も術も両方使いこなせる…新蓮の方が不利だ。
そう判断し、新蓮はピイーと指笛を鳴らす。
すると、何処からともなく霧風が現れ、瞬時に状況を見て取ると加勢してきた。
…いかに全力を出しての戦い、とはいえ攻撃を新蓮に、防御を霧風に集中すると力が二分されて不利になる。
攻撃をするよりも、防御する方が多くなっていく…。
〈このままじゃまずい…!〉
焦りと苛立ちが、余計に心を混乱させていく。
「もしも敵わぬ敵を、倒そうと思うのであれば、よく見て相手の虚を衝け!!」
―――義成の言葉が、頭に響く。
〈……術を使う、一瞬を…狙う!!〉
翔隆は冷静に様子を窺いながら、戦った。
その内に新蓮が手を組み《印》を作ろうとした。
〈今だ!!〉
一度…一度しか許されない好機。
翔隆は一気に剣を突き立てた。
――――が、それはまた霧風にとっての好機でもあった。
ザシュ …鈍い音が、二重に聞こえる。
「ぐお…っ!」
翔隆の剣が新蓮の胸を―――霧風の刀は翔隆の背を…二つの刃は体を突き抜けていた。
新蓮は虚空を掴むように倒れ、霧風は刀を引き抜いて甲高い笑い声を残して消えた。
翔隆は血を吐きながらも気丈に剣を持って、新蓮を見下ろす。
「……これで…術は…解ける」
そう呟き立っている姿を、生島はただガタガタと震えながら見つめていた。
「あ…う…」
言葉も出なければ、指一本動かせずにいた。
そこに、見慣れぬ者がやってきて、ちょうど後ろへ倒れた翔隆を抱き止めた。
「どうした!」
と、駿府の混戦を切り抜けた高信達もやってきた。
生島は涙を流しながら、指を差す―――。
月明かりに、重なり合う二つの影があった。
「…と…翔隆様……!!」
それ以上は、言葉にならなかった。
駿河、不知火の集落。
鬱蒼と繁る森の奥。
切り立った崖にある洞窟の中で不知火約百二十名が住んでいた。
それだけ深く、高さがあるのだ。
その奥に、瀕死の翔隆が寝かされており、周りでは介抱の為に慌ただしく人が動いている。
翔隆の側には、高信とその腹心四名、そして金色の瞳の男がいた。
「俺が…俺が側にいながらっ…すいませんっ!!」
先程からずっと、生島が泣きながら謝り続けている。
「お主らに非はない。…言わば…俺の…責任だ」
男が言った。ここで高信がハッと気付いたように、話し掛ける。
「貴方が…今川の長子…」
男は辛そうに頷く。
「…今川、義成だ…」
「…何とか…ならぬのか? 長は、貴公の為にと…こんな目に遭われたのだぞ!」
「…済まぬ…」
その内、高信は怒りを抑え切れずに義成の胸ぐらを掴む。
「謝って……謝って済む事かっ!? もし…―――もし、長が死んだらっ…どうしてくれるのだ…っ?!」
怒鳴りながら涙を流す。もう出来る限りの手は尽くしたのだ。
…だが、翔隆は虫の息…。
「何とか言ったらどうなのだ!!」
バシッと高信の手が弾かれる。
義成は眉を吊り上げて、高信を押しのけ翔隆の枕元に寄った。
そして、いきなり翔隆の頬を思い切り叩く。
「?!」
「起きろ!! …いつまでそうしているつもりだ!?」
「狂ったか?!」
高信が後ろから義成を押さえるが、それでも尚義成は容赦なく平手打ちをして怒鳴る。
「誰がそんな事をしろと言った?! …お前は信長公に仕える身で……たかが俺一人に命を懸けて…っ! 一体、今まで何を学んできたのだっ!! お前には―――〝一族がいるのだ〟という事が、分からんのか! 残された一族や…信長公はどうするのだ…っ!!!」
その言葉で、どういう器の男なのかがよく分かった。
高信が手を放すと、義成はギュッと翔隆の手を握り締める。
「翔隆、よく聞け…! もう、お前は子供ではない。やたらに命を懸けて…いつも助かるとは限らぬのだ…頼むから――――命を無駄に、しないでくれ…!! 死ぬな……っ!!!」
義成は優しく切なげに言った。
するとピクリと翔隆の指が反応した。
そして淡い光が生じ、翔隆の体を包み込んだのだ。
まるで義成の呼び掛けが、奇跡を起こしたかのように。
暫くすると翔隆の顔に生気が戻り、うっすらと目を開ける。
「う……?」
「翔隆…っ!」
「義…成…! 正気に……返った、のか…?」
「…ああ…お前の、お陰だ」
「良かった…!!」
翔隆は泣きながら、子供のように義成に抱きついた。
義成も微笑んでそっと、抱き締める…
まるで、実の親子のように。
翔隆は禾巳を連れて、久方振りに睦月の下を訪れていた。
「大きくなったなぁ、雪乃宮!」
翔隆は五歳になった雪乃宮を抱き上げる。
「きゃははは!」
雪乃宮は無邪気に喜び、すっかり翔隆に懐く。
その側には禾巳と睦月がおり、少し離れた所に拓須が居る。
禾巳はムッとして翔隆に抱き付く。
「そいつも家臣か?!」
「いや…。そうだ、睦月…この子を修業させてくれぬか?」
「ん? 構わんが、忍にするのか?」
「まあ、取り敢えずは…」
言い掛けると、突然
「ならん!!」
と、怒鳴り声が上がる。
振り返ると、拓須がすぐ側まで来て目を吊り上げていた。
そんな拓須に怯む事なく、睦月は微笑んで言う。
「拓須…わたしの身を案じているのだろうが、もうこの通り元気になった。いつまでも小屋に籠もっていては、それこそ体がなまってしまうよ…」
「ならん!」
やはり、思った通り駄目だの一点張りだ。
「…わたし自身が、やりたいんだよ」
「………」
そう言われてしまうと、弱くなる。
「分かった…。咳込まぬ程度なら、許そう。体の調子を見て、私が代わりに修業を付けてやる」
拓須の思ってもみない発言に、翔隆は勿論、睦月も驚愕した。
翔隆は戸惑い、どもりながら言う。
「あ、ありがとう…。よ、よしなに、頼む…」
「用は、それだけか」
早々に帰らせたい拓須が言うと、翔隆は悲しげに眉を寄せる。
「…睦月…一つ、どうしても聞きたい事がある…」
「ん…?」
翔隆はためらいながら、口を開く。
「…義成は――――何故、突然今川に戻った…? 俺の事すら忘れて…!」
「それは……」
睦月はちらりと拓須を見てから、か弱い声で言う。
「…戻った訳ではないし…敵に回ったのは本意ではないのだ…」
「では何故…」
「――――お前の、弱みだからだ」
拓須が代わりに喋る。
「…え?」
「お前は、義成を兄のように慕っている。刃は向けられぬであろう? それは最強の武器となる。故に操っているのだ。元より、今川の者であるというのもそうだが…。まあ…義成自身は、今川は死しても戻らぬと言っていたな。…憎んでいたからな」
「操る…?! 誰が…」
「新蓮だ。奴は、心の隙を衝いて暗示を掛ける術を得意としておる」
「!!」
それを聞くと、翔隆は小屋を飛び出した。
〈…おかしいとは思ったが、そういう事か…!!〉
まさか操られていたとは!
翔隆は激怒して全速力で走った。
数刻と経たずに、気が付けば今川館を前に、剣を構えて立っていた。
そして中へ入ろうと一歩駆け出した時、後ろから両肩を押さえ込まれた。
返り見てそれが前の集会で配下となった高信だと分かると、翔隆は怒鳴る。
「離せっ!!」
「なりませぬ! 一体何をお考えか!!」
高信の他にも、数名の同族が翔隆を押さえる。
「こんなに殺気立って…城内の狭霧がこれに気付き待ち構えているのが分かりませぬか?!」
「うるさい! 離せっ!!」
「…とにかく、退いて頂きます!」
何を言っても無駄だと判断した高信は、強引に翔隆を森の中に引き摺り込ませた。
そのまま臣下二名に嫡子―――いや〝長〟を押さえさせておくと、溜め息を吐く。
「…翔隆様…貴方は、お幾つになられました?」
「何…?」
唐突に聞かれて、少し正気に返る。
「歳を、聞いているのです」
「二十だ。…それが何だ」
「…その歳にもなって、何と未熟な行動を取られるのか。竹中殿の方が余程しっかりしておりますぞ」
「…分かっている!」
「分かっていません!! 貴方は既に各地に臣を持つ長なのですぞ!!」
逆に怒鳴られて正気に返った翔隆は、己が行いを振り返り首を項垂れた。
落ち着いたと見て、高信は臣下の手を放させる。
「一体、いかがなされたのですか?」
「何としても〝奴〟を殺さねばならぬのだ…今すぐに! でなければ俺は…身動きが取れなくなる…っ!」
「…落ち着いて、ご説明下さい。事によって、策を講じます故…」
そう言われて、翔隆は焦る気持ちをぐっと堪えた。
翔隆はなるべく落ち着いて話す。
「義成…今川の長子を、助けねばならぬ」
「助ける?」
「義成は…俺が物心付いた時に、傷を負っていたのを助けて集落に入れた人だ。剣術や兵法、世の習いなどを教えてくれた…兄とも言える俺の、大切な師匠だ…! その人を新蓮が操り、いいように使っているのだ!」
「新蓮といえば、今川家に取り入り軍師の太原雪斎の弟子となっている筈…。仲々、困難ですぞ」
家臣の一人が言う。
高信は、横を向いて悔しげに目を瞑っている翔隆を見て頷く。
そして、しばし考えた後に指示を出す。
「まずは、城内にどれ程の狭霧が居るか……加納、詳しく探ってこい!」
「はっ」
「生島は、駿河で集められるだけの一族を集めよ!」
「はっ!」
命じられた二人は、すぐ様実行に移す。
高信は、震えている翔隆の肩をそっと触る。
「今暫く、ご辛抱下さい。私が、旨くいくように取り計らいます故」
翔隆は蒼白したまま、何も言わずに頷いた。それに頷き、高信は懐から駿河の絵図を出す。
それには城や砦の構造から人口、狭霧の配置や林や森の位置、川の浅瀬や深瀬、各村に幾つ家があり、人口はどのくらいか等、事細かに書き込まれている。
その絵図を睨みながら考え込んでいる高信を見て、翔隆はふと思った。
〈…あんなもので長と見てくれただけなのに、こんなにも俺の為に動いてくれるなんて…〉
自分や犬千代達が、信長の為に動くのなら分かる。
しかし、高信は翔隆の事を何一つ知りもしないというのに、同じくらい…いやそれ以上に尽くしてくれる…。
そんな事を思う内に、生島が不知火二百名余りを連れて待機させ、一刻後には加納が少し手傷を負って戻ってきた。
「…今川館には八十、重臣屋敷に霧風、新蓮と六十余り。侍屋敷に修隆、陽炎、疾風他五十程がおります」
「ご苦労。…肝心な奴が重臣屋敷とは…奴の役目は分かってか」
「どうやら、番兵の行き届かぬ点を見回る事の他に兵の目付であるようです」
「…では出てくるのを待つしかない、か。…城外の狭霧は?」
「正門と、裏に合わせて九十余り」
「…ともあれ、出てくるのを待って陽動を仕掛けて討つしかありますまい」
「ん…」
今までの話を黙って聞いていた翔隆が、静かに話す。
「なれば―――手を貸してくれぬか…?」
「手を貸すなどと…何なりと、ご命令あれ。我らは、長に従います!」
その言葉にじんと感激しながらも、翔隆は皆を見る。
「この中で一番、知謀に長けるのは?」
「江藤かと…」
そして強者は、勿論高信と加納だ。
翔隆は今まで習った戦法や兵法などから、この不利な条件下での最良の方法を探す。
「ならば…加納は一族六十名と共に、城外の狭霧を遠ざけろ」
「はっ」
「江藤は五十名を率いて、町屋に潜伏。俺の雷を合図として出来る限り狭霧を撹乱しろ。生島は新蓮が出て来たらおびき寄せろ。町から半里程引き離せれば十分だ。それまで大手門の前で待機!」
「はっ!」
答えてそれぞれが散っていくと、高信を見る。
「…高信は、残る一族を率い合図と共に城内に入り、江藤を助けてくれ」
「しかし、それでは…―――」
「俺は、奴に〝借り〟を返す…一人で、やらせてくれ」
「…分かりました。お気を付け下さい…」
こんな策が通用するか否か、不安が残る。
…しかし、やるだけやるしかないのだ。
ここで無謀に正面から乗り込んだとて、陽炎と義成に阻止されるだけだ…。
ただ、鳴りを潜めて待つ…。
そして、丑の二刻(午前二時半)皆が寝静まった頃に大手門から新蓮が手燭を持って現れた。
暫く歩いていた時、手燭を狙って矢が放たれる。
「何奴!」
新蓮が言うと、草むらがガサガサと動いた。
「そこか!」
ボッと炎を放つと、そこから人が逃げていく。
新蓮はその逃亡者がさ程強くもない不知火であると判断すると、後を追う。
幾ら足の速さが自慢の生島でも、逃げる間に炎の矢を放たれては逃げ切れない。
その内の一つが背を直撃し、生島は転がるように倒れた。
「ぐおぉっ!」
着物に付いた炎を払おうと、転がっていると新蓮にその背を足蹴にされる。
「虫ケラが…死ね!」
ニイッと笑って炎を出した時、新蓮の真後ろに雷が落ちた。
――――空は晴天…雲一つない。
「まさか…!」
蒼白して振り向くと、そこには雷気を帯びた翔隆が立っていた。
「義成は…今川に憎悪を抱いていた……死しても決して戻らぬと! 貴様は、その〝誇り〟を傷付けたのだ!」
言いながら、翔隆は一歩前に出る。
「断じて許さん……義成を、返してもらうぞ!!」
叫ぶと同時に戦いが始まった。
咄嗟に生島は転がって、その場を離れる。
怒りに火が付いた翔隆は、狂ったように剣を振るい《術》を使いまくる。
その時、城の方から喧騒の声が上がる。
〈しまった…!〉
生島は、町から一町(百九m)程しかおびき出せなかった己の無力さに舌打ちした。
新蓮もそれに気付き、攻防戦をしながらも城の方角を見る。
「ぬぅ…計ったな!」
「それがどうしたっ!」
翔隆は剣も術も両方使いこなせる…新蓮の方が不利だ。
そう判断し、新蓮はピイーと指笛を鳴らす。
すると、何処からともなく霧風が現れ、瞬時に状況を見て取ると加勢してきた。
…いかに全力を出しての戦い、とはいえ攻撃を新蓮に、防御を霧風に集中すると力が二分されて不利になる。
攻撃をするよりも、防御する方が多くなっていく…。
〈このままじゃまずい…!〉
焦りと苛立ちが、余計に心を混乱させていく。
「もしも敵わぬ敵を、倒そうと思うのであれば、よく見て相手の虚を衝け!!」
―――義成の言葉が、頭に響く。
〈……術を使う、一瞬を…狙う!!〉
翔隆は冷静に様子を窺いながら、戦った。
その内に新蓮が手を組み《印》を作ろうとした。
〈今だ!!〉
一度…一度しか許されない好機。
翔隆は一気に剣を突き立てた。
――――が、それはまた霧風にとっての好機でもあった。
ザシュ …鈍い音が、二重に聞こえる。
「ぐお…っ!」
翔隆の剣が新蓮の胸を―――霧風の刀は翔隆の背を…二つの刃は体を突き抜けていた。
新蓮は虚空を掴むように倒れ、霧風は刀を引き抜いて甲高い笑い声を残して消えた。
翔隆は血を吐きながらも気丈に剣を持って、新蓮を見下ろす。
「……これで…術は…解ける」
そう呟き立っている姿を、生島はただガタガタと震えながら見つめていた。
「あ…う…」
言葉も出なければ、指一本動かせずにいた。
そこに、見慣れぬ者がやってきて、ちょうど後ろへ倒れた翔隆を抱き止めた。
「どうした!」
と、駿府の混戦を切り抜けた高信達もやってきた。
生島は涙を流しながら、指を差す―――。
月明かりに、重なり合う二つの影があった。
「…と…翔隆様……!!」
それ以上は、言葉にならなかった。
駿河、不知火の集落。
鬱蒼と繁る森の奥。
切り立った崖にある洞窟の中で不知火約百二十名が住んでいた。
それだけ深く、高さがあるのだ。
その奥に、瀕死の翔隆が寝かされており、周りでは介抱の為に慌ただしく人が動いている。
翔隆の側には、高信とその腹心四名、そして金色の瞳の男がいた。
「俺が…俺が側にいながらっ…すいませんっ!!」
先程からずっと、生島が泣きながら謝り続けている。
「お主らに非はない。…言わば…俺の…責任だ」
男が言った。ここで高信がハッと気付いたように、話し掛ける。
「貴方が…今川の長子…」
男は辛そうに頷く。
「…今川、義成だ…」
「…何とか…ならぬのか? 長は、貴公の為にと…こんな目に遭われたのだぞ!」
「…済まぬ…」
その内、高信は怒りを抑え切れずに義成の胸ぐらを掴む。
「謝って……謝って済む事かっ!? もし…―――もし、長が死んだらっ…どうしてくれるのだ…っ?!」
怒鳴りながら涙を流す。もう出来る限りの手は尽くしたのだ。
…だが、翔隆は虫の息…。
「何とか言ったらどうなのだ!!」
バシッと高信の手が弾かれる。
義成は眉を吊り上げて、高信を押しのけ翔隆の枕元に寄った。
そして、いきなり翔隆の頬を思い切り叩く。
「?!」
「起きろ!! …いつまでそうしているつもりだ!?」
「狂ったか?!」
高信が後ろから義成を押さえるが、それでも尚義成は容赦なく平手打ちをして怒鳴る。
「誰がそんな事をしろと言った?! …お前は信長公に仕える身で……たかが俺一人に命を懸けて…っ! 一体、今まで何を学んできたのだっ!! お前には―――〝一族がいるのだ〟という事が、分からんのか! 残された一族や…信長公はどうするのだ…っ!!!」
その言葉で、どういう器の男なのかがよく分かった。
高信が手を放すと、義成はギュッと翔隆の手を握り締める。
「翔隆、よく聞け…! もう、お前は子供ではない。やたらに命を懸けて…いつも助かるとは限らぬのだ…頼むから――――命を無駄に、しないでくれ…!! 死ぬな……っ!!!」
義成は優しく切なげに言った。
するとピクリと翔隆の指が反応した。
そして淡い光が生じ、翔隆の体を包み込んだのだ。
まるで義成の呼び掛けが、奇跡を起こしたかのように。
暫くすると翔隆の顔に生気が戻り、うっすらと目を開ける。
「う……?」
「翔隆…っ!」
「義…成…! 正気に……返った、のか…?」
「…ああ…お前の、お陰だ」
「良かった…!!」
翔隆は泣きながら、子供のように義成に抱きついた。
義成も微笑んでそっと、抱き締める…
まるで、実の親子のように。
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あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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