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三章 廻転

二十二.喜六郎秀孝の死

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 じめじめとした空気の漂う六月。
その日は曇っていた。

 織田信長と達成の同腹の弟の喜六郎きろくろう秀孝ひでたか(十五歳)は一人で遠駆けをしていた。
遠くの花にアゲハ蝶がヒラヒラと飛んでいるのを見て、ふと去年信長夫婦や妹達と遊んだ事を思い出す。
〈楽しかったな…〉
たかが虫や植物の話だったが、知らない事ばかりだった。
 また、訪ねたいーーー。

そう思い、守山城の近くの庄内川沿いに馬を歩かせていく。
丁度そこでは、守山城の城主となった叔父の織田右衛門尉うえもんのじょう信次が川漁を行っていた。
それを横目で見ながら、秀孝は橋の上を通った。
それを見た信次の家臣である洲賀すが才蔵さいぞうが弓矢を手にする。
「ご城主の御前を馬上のままで過ごすなどと無礼な奴め!」
そう怒り矢を放った。
それは、運悪く秀孝の首に突き刺さった。
「がっ…」
瞬間、秀孝の脳裏にはあの日の兄や妹達…そして、優しく接してくれていた達成の姿が浮かんだ。
 ドサリ
落ちた秀孝に気付いて、信次がやってくる。
「何事か」
「はっ、此奴が馬上のまま通りまして…」
そう言う洲賀すが才蔵さいぞうの横に立って秀孝を見て数刻。
信次はガクガクと体を震わせ始めた。
「ま……まさ、か…、き、喜六郎秀孝…?!」
その言葉に、家臣達もザワつく。
織田喜六郎秀孝は信長が寵愛する弟だ、と有名なのだ。
…女のように白い肌、朱い唇に麗しい見目ーーー信長によく似た顔!
「う………うあああーーー!!」
信次は恐ろしくなってその場から離れて馬に乗り、逃げた。
「殿!」
「殿お待ちを!!」
数名が追っていったが、矢を射た洲賀すが才蔵は、事切れた秀孝の前に座り込んで震えていた。



「喜六郎が殺されたと?!」
報が届いたのは末森城の方が早かった。
「馬を持て!! 守山城を攻める!」
そう叫んで織田勘十郎達成みちなりはズカズカと早足で歩いていった。

 急いで家老や農民達が達成みちなりの小姓・近習の後を追っていく。

守山城に来た達成みちなりは、鬼のような形相で叫ぶ。
「城下を焼き払え! 我が肉親を殺した罰を与えよ!!」
その下知で城下の家や邸が燃やされた。
「信次はどこだ!」
「それが、見当たりませぬ!」
「おのれ逃げたか!?」
そう、怒りを露わにする達成みちなりの姿に、柴田勝家は織田信長の姿を重ね見た。
〈いつも穏やかな殿が、これ程怒り狂われるとは…〉
そう思いながらも、柴田勝家は達成の側に行く。
「一度退きましょう。兵も整っておりませぬ…このまま敵対するのは…」
「分かっておる! 退くぞ!」
達成みちなりの号令で、兵士達も集まった。


 その半刻(一時間)程前に報せを聞いた信長も、すぐさま飛び出して愛馬で駆けていた。
〈喜六郎ーーー!〉
聡明で将来はまつりごとを任せたいーーーそう思って可愛がっていた弟が、叔父の家臣に殺された…。
 どうしてくれようか…
ただ殺すだけでは物足りない。
牛に引かせて体を千切らせるか?
それともじわじわと首を切れないのこぎりで引かせるか?
 それともーーー
考えていると、さすがにいつも乗り回している愛馬でも三里(約十二km)は疲れたらしく、歩き始めた。
「…少し休むか」
信長は遠くを見ながら、矢田川で馬に水を飲ませる。
 来た道を見れば、馬だけが走ってきていたり、遠くから走ってくる小姓達の姿があった。
その内に、犬飼内蔵がやってくる。
「右衛門尉さまは何処かへ逃げ去り、城にはどなたもおりません。城下は勘十郎達成みちなりさまが焼き打ちをなさいました」
そう報告すると、城に戻っていく。
そこに、翔隆がやってくる。
「喜六郎様はお一人で馬に乗られていたそうです。そして、右衛門尉様の側を馬上のままで通った為に家臣の洲賀すがが射た、と…」
「…その者は」
「自害したようです」
それを聞き、信長は溜め息を吐いて守山城を見た。
「…我が弟ともあろう者が、供も連れずに出歩くとは正気の沙汰ではない。喜六郎も悪いのだ…」
「………」
それは、御身に似たのでは?
 などと思っても言えず、翔隆は必死に走ってきている小姓達を見つめた。
「今はお戻りを。途中の馬などは対処します」
「…ん」
答えて信長はまた馬を清洲に向かって走らせる。
信長も、達成と同じように信次を殺す気でいたが、達成に先を越されて冷静になれた。
 伴の一人でも付いていれば起こらなかった事件だ…。
〈たわけが…!〉
悲しみと共に、小姓一人でも伴っていなかった秀孝を責めた。
そうする事で、悲しみを閉じ込めたのだ。

「お待ちを…!」
「おや…お屋形さまっ!」
皆がまた必死に信長を追い掛ける。
信長の愛馬は毎日鍛えてあるので何里であろうとも走れる。
ーーーが、他の者達はうまやに繋いだままなので、何里も馬を走らせられないのだ。
翔隆は小姓や家老達と合流し、倒れた馬を回復して歩けるようにしたり、落馬して怪我をした者を回復して励ましながら、清洲城に戻った。

 去年の春には、元気に笑っていた喜六郎の姿が蘇る。
〈喜六郎様…〉
翔隆は眉をひそめて歩く。
 まだ十五歳…早過ぎる死だ。




その後、守山城は行方不明の信次の家老達が守っていた。


評定では林兄弟、佐久間大学、佐久間信盛、森可成、金森らがいて口論となっている。
「是非、信広さまを!」
林美作守が強く主張する。その横では兄の林佐渡守がいたが、城を貰ってからは沈黙を保っている。
「信時さまが、よろしいかと…」
信盛が言う。信時は信長も達成みちなりも信頼している異母兄である。
「それは筋違いであろう!」
「何の違いでござろうか!?」
先程から、この二人の言い争いが続いている。
美作守が執拗に信広を推すのには、訳があった。
信広の妹が義龍の正室となっており、既に義龍との親睦も深めて謀っているからである。
「あーっ、もう良い!」
信長は延々と続く口論に嫌気が差して、立ち上がる。
「守山には喜蔵信時を置く! …兄上は、義元に城を落とされた事がある。故に信時にする。良いなッ!」
「はっ―――」
そう言われてしまうと、もう何も言い返せなくなってしまった。
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