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一章 天命
十二.嫡男
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翔隆は、死に物狂いで修行した。
昼までは信長と共に相撲や竹槍合戦をし、夕刻まで修行をした。
いつもの修行場である山に篭もり、滝に打たれて《印》を結び霊力と〝気〟を高め、精神を鍛える。
そして〝気〟が頂点に達すると、それを〝塊〟にして真上に向かって放つ。
それを数百回と繰り返す内に、やっとその〝気〟によって滝を真っ二つに割る事が出来る様になった。
それが成功すると、間髪容れずに焚き火の炎を己の意志で操る訓練に取り掛かる。
「強くなる!」
ただその思いだけで、がむしゃらに。
大自然の力総てを、操れる様にと…。
出仕と修行の日々を二十日余り続けると、やっと〝炎〟と〝水〟を操れる様になっていた。
そして五月の始めには、己の意志で雨雲を呼べる程度になった。
だが、これでは駄目だ。
こんなものでは、まだまだ拓須の足元にも及ばないのだっ!
〈駄目だっ! …駄目だ…駄目だ、駄目だっっ!! こんなもんじゃ駄目だ……俺では駄目なのかっ?! この程度の《力》しかないのかッ!?〉
ガッッと地面に拳を叩き付けて、唇を噛み締める。
《力》が無い事に歯痒さと絶望を感じ、悔しくて涙が滲んでくる。
本人はそう思っているのだが、それでも翔隆は見違える程、成長していた。
剣技においても、体術においても彼はたかが一月余りで睦月にも劣らぬ程に強くなっていたのだ。
ただ、本人に自覚が無いだけで………。
〈じっとなどしていられない…! ただ指を咥えて待っているだけなんて俺には出来ない! 何もしないで待っているなんて嫌だっ!!〉
そう思うと、翔隆は小屋に戻っていった。
小屋に入ると、すぐ様床板を外す。
中には万一に備えての武器や粉薬が入っている。
翔隆は意を決して小刀を背にし、懐剣を腰に差して立ち上がった。
〈………。皆に…どう思われようとも、俺は…助けに行く!!〉
キッと、壁を見つめると一つの紐を手にする。
この布は義成が片時も離さず、額に着けていた物だ。
…何でも〝母親の形見〟なのだそうなのだが……。
翔隆はそれを、腰に巻いた。
〈義成……必ず、正気にさせてやる……!!〉
自分のやる事が〝正しい〟と信じて…翔隆はじめじめとした雨の降る中、走り出した。
〝生死〟よりも〝意地〟を
〝善悪〟よりも〝義〟を。
何より、信じる者の為に
不快な天候だ…。
紫陽花が、雨を喜ぶ様に咲き誇っている。
ここは駿河・今川治部大輔義元が居城、今川館。
睦月の〝ここ〟での役目は、〝見張り〟である。
だが、そんな気分にはとてもなれない。
独り残してきた〝愛弟子〟の翔隆の事が気掛かりで憂鬱になってくる。
一番の頼みの綱であった義成は〝嫡男〟の上総介氏真(十四歳)、東海一の軍師と名高い太原雪斎(四十七歳)そして義羽陽亮と名乗る陽炎と〔狭霧一族〕の長…京羅(四十歳)とその腹心、霧風と共に花見をしながらの茶会…。
睦月は再び溜め息を吐いて、座り込んだ。
〈何をしているのだ? わたしは…? こんな所で…さぞ、淋しい思いをしているだろうに…翔隆…――――!!〉
固く目を閉じて遠い、尾張に思いを馳せる。
翔隆と初めて会ったのは、自分が京羅の側近として働いていた十一歳の頃―――。
睦月は、当然のように幼い頃から厳しい訓練に耐え、技を磨きのし上がっていった。
誰を殺そうが、仲間の子供が死のうが何とも思わずに、ただただ京羅の為だけに戦って敵の頭領の首も取っていた。
首を捧げて、褒められるその時が唯一の幸せの瞬間。
唯一無二の、誇らしい最高の主君…―――絶対的な存在の為だけに、生きていた。
しかし、翔隆に出会って接する内に、その世界が覆された…。
一五四一年の春の半ば辺りだった。
京羅が不知火の嫡子を気に掛けて居たので、暗殺を買って出た。
そして怪我を装い拓須と共に潜入した……。
だが、殺せなかった。
修行を付けてやる内に翔隆は睦月達の小屋に入り浸り、共に寝るようになった。
初めは疎ましかったのだが、その安心しきった寝顔を見る内に、何故か心が安らぐような不思議な感覚に囚われた。
その感情が何なのかは分からないまま、睦月は厳しく、そして丁寧に忍術を教えていく。
なのに、いつも翔隆に振り回されている自分がいた。
よく小川で魚を追い掛けて溺れたり、ちょっとした岩場で落ちそうになったり…。
その度に助けてくたくたになったが、なんだか楽しかった。
翔隆は睦月にべったりとくっつくようになり、とても懐いていた。
「睦月大好きー!」
そう笑って言いながら抱き付いてくる翔隆を抱き締め返す内に、自分の心に変化が生じているのに気付いた。
そして、木登りが苦手な翔隆を木に登らせている内に、気付いた心。
翔隆を失いたくない。
何を犠牲にしても、守りたいという強い意思―――。
それなのに今、敵となってしまっているとは…!
〈……済まない…こんな時に、側に居てやれないなんてっ! 拓須に真相を聞いて、絶望しているのだろうに…! …義成は〝操られ〟…拓須は元から〝敵対〟して…〉
そう自責していると、ふいに拓須が側に来る。
「どうした?」
「! 何でも、ないよ……」
俯く睦月の頭を撫でて、拓須は苦笑して行ってしまう。
何故………〔狭霧〕に生まれてきたのだろうか。
何故――――――〔不知火の嫡子〕が、翔隆だったのだろう!
悔やんでも悔やみきれない。
今更……詮無き事なのか……?
睦月は己の運命を呪い、恨み、雨を受ける紫陽花を見つめた。
その隣りの座敷では、今川義元が絵師に自画像を描かせていた。
少し描いたのを見ては、
「そうではない! もそっと膨よかに!」
と言い元の位置に戻って床几に座る。
義元自身は普通の体型なのだが、どうしても〝太っていて髭の生えた姿〟がいいらしく、先程からずっと同じ事を繰り返している。
「だから! もっとふっくらと!」
それを聞いていた太原雪斎がくすりと笑った。
〝じい〟としては、そんな義元が可愛らしかったのだ。
「…膨よかだと、何かいいのか?」
ふと陽炎が尋ねると、義成は苦笑した。
「さあ……平安絵巻のような都人が良いのだろう」
「…変わっているな」
そう言い陽炎は首を傾げた。
その言葉に義成はただ微笑する。
一方。
今川館の近くの森に潜む、一人の少年がいた。
――――――翔隆である。
〈…どうやって忍び込むか……。助けるにしても誰から、どうやって助ければいい?〉
来たはいいが、何も考えずに飛び出して来てしまった。
まず、落ち着いて考えねばならない。
一体、誰を救うのか。
誰が敵なのか…。
拓須は…〝助け〟など、必要としないだろう。
救うとしたら、睦月と義成だ。
では…敵は?
まず、倒さなければならないのは……?
陽炎――――は、とても敵う相手ではない。
今の自分に倒せる相手…――――…新蓮!!
まずは一人ずつ、敵を倒していかねば他人を〝助ける〟事など出来ない。
翔隆は細心の注意を払って〝気〟を消しながら、じっと城の様子を窺った。
その時。
城壁沿いに、見回りをする人の姿が見えた。
遠くからでも〝それ〟が誰なのか、今の翔隆には一目で判った。
…新蓮…。倒すべき敵だ。
新蓮は、翔隆の目と鼻の先まで来た瞬間に、いきなり《雷撃》を放ってきた。
ザッ…
翔隆は地を蹴り宙に舞うと、新蓮の前に降り立つ。
「やはり貴様か、小僧!」
「今度こそ倒す!」
叫んで《剣の印》を結ぶと左手を天に翳した。
すると雨がその掌に集まり、一つの〝塊〟と化す。
「む……!」
新蓮が身構えるより早く、〝水の塊〟は滝の如く激突した。
「ぐお…!」
正面から喰らって倒れ込むと、
「まだだ!!」
翔隆は、両手の平から炎を作り出した。
〈馬鹿な…!?〉
たかが一月余りで、ここまで出来るなんて!
「炎よ! 〝矢〟となれ!」
叫ぶと炎は矢のように凄い勢いで、新蓮に向かっていった。
「………っ小癪なあぁっ!」
その力に腹を立て、新蓮はすぐ様《結界》を張って防ぐ。
…が、その内の一つが結界を破って衝突する。
「ぬうっ!!」
新蓮はかなりの打撃を喰らって、後退る。
〈このままでは殺られる!?〉
そう悟り逃げの態勢に入ると、翔隆が立ち塞がる。
「逃がさん!」
そう言い渾身の《力》を込めて〝気〟を天に向けた。
すると、雨が風を受けて石礫の如く降り注いできたのだ。
「ぐっっ!」
目漬しを食らい、新蓮は明らかな〝隙〟を見せた。
〈今だ!!〉
翔隆は瞬時に小刀と脇差を両手に構え、斬り掛かっていった。
「しまっ……っ!」
気付いた時には、刃はもう目前。
二人が〝死〟を確信したその刹那!
横からいきなり、翔隆に向けて《衝撃波》が発せられたのだ!!
「ぐあうっっ!!」
翔隆は悲鳴を上げて、木に激突した。
「く…うう………」
呻いて起き上がり、それを放った張本人を見て愕然と立ち尽くす。
――――塀の上に、《雷気》を帯びた拓須が立っているではないか!
「た…くす……!」
「小賢しい奴め…。やはり〝あの時〟殺すべきだったのだ!」
憎しみを込めた目を向けて、拓須は新蓮の側に降り立つ。
「〝導師〟様!!」
「大儀であったな。戻って良いぞ」
「はっ」
新蓮がそそくさと立ち去るのを見送って、拓須は冷たい…氷の如き眼差しを翔隆に向ける。
「拓須…」
「ふん、どうしたものか。まあ…とりあえず、京羅の下へ連れて行くとするか」
呟き、拓須は面倒臭そうに〝印〟を結ぶ。
そして容易く、幾つもの稲妻を翔隆に浴びせた。
「…拓…須……っ」
翔隆は成す術も無く、地に伏した。
…拓須の冷酷な笑み……。
翔隆は、そのまま気を失った。
――――…霧の中…――――
視界が開けると、果てしない金色の稲穂が風になびいて波打っている。
義成…?
幼い…八・九歳の自分が、いる。
必死に、稲穂を掻き分けながら義成の姿を探している。
〈義成っ! 義成?!〉
必死に、どこまでも走って行く。
どこまでも、どこまでも続く金色の波……掻き分けても、掻き分けても途絶えない。
〈よしなりっ! むつきぃー! たくすぅ―――――っっ!!〉
声が、木霊した。
ドンッと、人にぶつかる。
〈義成!!〉
翔隆は喜んで、子犬の様に飛び付いた。
「翔隆、済まぬ…」
義成は悲しげに告げると、霧の様に消えた。
急に、場面が変わった。
睦月と忍術の修行をしている時だ。
「遅いぞ翔隆!」
翔隆は必死に杉の頂上を目指して、枝から枝へ飛び移る。
そして辿り着いた頂上には、腕組みする拓須が居た。
〈…拓須〉
翔隆は十二歳…。
「クックックックックッ! …愚かな虫けらめ! 〝狭霧導師〟であるこの私が、直々に殺してくれよう!!」
〈拓須?!〉
《気の刃》が、降り注ぐ。
うわああああああああっっ!!
じっとりと、まとわりつく様な雨。
両手が……両足が………重い
体中が―――――――痛い…
「う……」
ぼんやりと目を開けた。
手足がギリギリと締め付けられる……雨が、雹の様に体に突き刺さる。
〈寒い…〉
体が凍て付く。
…目の前に見えるのは、どこかの縁側と座敷……?
翔隆は雨の滴を振り払い、目を凝らす。
縁側に……白茶の髪の者が四人―――――…その内の三人は知っている。
左から、拓須、睦月、霧風………。
座敷には新蓮と義成、陽炎も居た。
「――――…!」
ハッと我に返って、飛び出そうとする。
が、動かない!
ここに至って、翔隆はやっと己の置かれた状況を知った。
〈しまった…!〉
後悔、先に立たず。
翔隆は中庭の―――十字の丸太…〝磔〟に、掛けられていたのだ。
暴風雨の中、両手足をぎっちりと縛り付けられて…。
「クックックッ。お前が〝奴〟の子か」
見知らぬ狭霧の者が言う。
翔隆は、寒さと出血多量による目眩の中で、気丈に相手を見据えた。
「貴様ら……何の為に、こんな真似を…」
「……ふん」
男は鼻で笑って、顎をしゃくった。
すると拓須が頷いて、手を上げる。
《霊術》が来る―――!!
……と分かっていても、何も出来ない。
そのまま、《気の塊》の直撃を受けるしかなかった。
「……っ!!」
余りの激痛に、声も出ない。
それを見て、男はせせら笑った。
「何故、か……。訳を、教えてやろうか」
「止めて下さいっ!」
…突然、睦月が叫んだ。
「……何だ、睦月」
「ま……まだ、言わないで下さい…!」
その言葉に、翔隆がピクリと反応する。
「まだ……? そうやって、いつも隠すのだな、睦月っ!」
「…翔隆っ?!」
「〝敵〟からでもいいっ! 俺は、真実を知りたいのだ!」
「っ!」
睦月は、悲しげに目を潤ませた。
代わって、男が言う。
「それ程知りたいのならば教えてやる。…お前の父は〔不知火の長〕! 当の昔に〝追放〟された長! そして、お前は〔嫡男〕だ」
「――――…え……?」
呆然とすると、尚も男は続ける。
「その銀鼠色の髪、藍の目が不知火の〔嫡流〕たる証しだ。……知らなかったか…?」
え…?
翔隆は、目を見開いて愕然とした。
〈……俺が…嫡男………?!〉
不知火の〝長〟の子供…?
では……では、本当に志木は父ではないと?!
弥生は母ではないのか?!
楓は姉ではないというのかっ!?
そんな馬鹿な………!!
そんな筈……そんな筈はない――――!!
そう、叫びたかったのだが……男の言う〝言葉〟は嘘とも思えず、どれも当てはまり過ぎていて…―――!
…そうだ。
あの〝集落〟で、自分だけが銀鼠色の髪、藍の眼で…異形で……なのに、皆は可愛がってくれて…―――。
異形なのは、生まれ付いての物かと思っていた。
おかしいとは思っても、そこまで頭が回らなかったのだ――――!
「だ…だから、俺を殺すのか? もう〝長〟は殺したのか?!」
精一杯の言葉だったのに、哄笑された。
「何がっ、おかしいっ!」
「ハハハハハハハハ! 不知火に〔長〕などおらぬわ」
男が答えた。
「長が…いない…?!」
「〝奴〟はとうの昔に〝掟〟を破り、追放されておる」
追放!! 思わずギクリとした。
「この親にして、この子あり」
そう―――――言われた気がしたのだ。
〈そんな…っ。一族は、どうなるんだ……父も俺までも掟破りで…頼れる筈の〝長〟がそんなじゃ…っ!〉
翔隆は、悲しくなって空を見上げた。
それを見て、死を覚悟したと思った男が言う。
「ククククク。我が名は京羅。冥土の土産だ、覚えておくがいい」
もう、言葉も出なかった。
義成が刀を持って立ち上がり、雨の中に出て来た。
止留めは、義成…か?
「よし…なり…」
「私に討たれる事を、至上の幸せと思え」
無表情でそう告げると、義成は刀を抜き払い真上に翳す。
〈ああ…もう、どうにも出来ないな……ごめん、義成、睦月〉
ニ人を見て、翔隆は目を閉じた。
そして、刀が振り落とされた時―――――
ギャリイィィンン
という金属音が、目の前で響いた。
目を開けると、男の後ろ姿と刀を弾かれた義成の屈辱の表情…。
翔隆を庇う様に刀を構えて立つ男の髪は銀鼠色で、がっしりとした体型………老人?
それとも――――…
〈…ま…さか………〝父さん〟………?!〉
胸が、締め付けられる様にズキッと痛む。
その〝男〟を見て、嬉笑しながら立ち上がったのは陽炎。
陽炎は、異国の朱槍を手にして近付いて来た。
「ふ…ふふ…ハハハハハハハッ! やはり来たか、羽隆!!」
陽炎は大声で叫ぶ。
「………」
〝羽隆〟は何も答えない。
「〝元〟不知火の長………羽隆…」
羽隆は黙ったまま、ピクリとも動かない。
その内 義成が座敷に上がり、代わりに陽炎が近寄って来た。
「やはり、我が子が可愛いのか? 羽隆…分かるか? 今、私がどれ程、嬉しいか!! 貴様には分かるまい!? 生まれ出でてよりこの二十五年間、一度たりとも忘れた事など無い! ずっと…ずっと! 私は貴様を憎み、恨み続けてきたのだっ!!」
その、震える体と吊り上がった眉で…どれ程の怒りかが伝わってきた。
「貴様を―――――殺す為に!!」
そう叫び陽炎は渾身の力を込めて、斬り掛かってきた!
「……!」
殺られる!
そう直感した時には、辺りが真っ白になって翔隆達は消えていた……。
昼までは信長と共に相撲や竹槍合戦をし、夕刻まで修行をした。
いつもの修行場である山に篭もり、滝に打たれて《印》を結び霊力と〝気〟を高め、精神を鍛える。
そして〝気〟が頂点に達すると、それを〝塊〟にして真上に向かって放つ。
それを数百回と繰り返す内に、やっとその〝気〟によって滝を真っ二つに割る事が出来る様になった。
それが成功すると、間髪容れずに焚き火の炎を己の意志で操る訓練に取り掛かる。
「強くなる!」
ただその思いだけで、がむしゃらに。
大自然の力総てを、操れる様にと…。
出仕と修行の日々を二十日余り続けると、やっと〝炎〟と〝水〟を操れる様になっていた。
そして五月の始めには、己の意志で雨雲を呼べる程度になった。
だが、これでは駄目だ。
こんなものでは、まだまだ拓須の足元にも及ばないのだっ!
〈駄目だっ! …駄目だ…駄目だ、駄目だっっ!! こんなもんじゃ駄目だ……俺では駄目なのかっ?! この程度の《力》しかないのかッ!?〉
ガッッと地面に拳を叩き付けて、唇を噛み締める。
《力》が無い事に歯痒さと絶望を感じ、悔しくて涙が滲んでくる。
本人はそう思っているのだが、それでも翔隆は見違える程、成長していた。
剣技においても、体術においても彼はたかが一月余りで睦月にも劣らぬ程に強くなっていたのだ。
ただ、本人に自覚が無いだけで………。
〈じっとなどしていられない…! ただ指を咥えて待っているだけなんて俺には出来ない! 何もしないで待っているなんて嫌だっ!!〉
そう思うと、翔隆は小屋に戻っていった。
小屋に入ると、すぐ様床板を外す。
中には万一に備えての武器や粉薬が入っている。
翔隆は意を決して小刀を背にし、懐剣を腰に差して立ち上がった。
〈………。皆に…どう思われようとも、俺は…助けに行く!!〉
キッと、壁を見つめると一つの紐を手にする。
この布は義成が片時も離さず、額に着けていた物だ。
…何でも〝母親の形見〟なのだそうなのだが……。
翔隆はそれを、腰に巻いた。
〈義成……必ず、正気にさせてやる……!!〉
自分のやる事が〝正しい〟と信じて…翔隆はじめじめとした雨の降る中、走り出した。
〝生死〟よりも〝意地〟を
〝善悪〟よりも〝義〟を。
何より、信じる者の為に
不快な天候だ…。
紫陽花が、雨を喜ぶ様に咲き誇っている。
ここは駿河・今川治部大輔義元が居城、今川館。
睦月の〝ここ〟での役目は、〝見張り〟である。
だが、そんな気分にはとてもなれない。
独り残してきた〝愛弟子〟の翔隆の事が気掛かりで憂鬱になってくる。
一番の頼みの綱であった義成は〝嫡男〟の上総介氏真(十四歳)、東海一の軍師と名高い太原雪斎(四十七歳)そして義羽陽亮と名乗る陽炎と〔狭霧一族〕の長…京羅(四十歳)とその腹心、霧風と共に花見をしながらの茶会…。
睦月は再び溜め息を吐いて、座り込んだ。
〈何をしているのだ? わたしは…? こんな所で…さぞ、淋しい思いをしているだろうに…翔隆…――――!!〉
固く目を閉じて遠い、尾張に思いを馳せる。
翔隆と初めて会ったのは、自分が京羅の側近として働いていた十一歳の頃―――。
睦月は、当然のように幼い頃から厳しい訓練に耐え、技を磨きのし上がっていった。
誰を殺そうが、仲間の子供が死のうが何とも思わずに、ただただ京羅の為だけに戦って敵の頭領の首も取っていた。
首を捧げて、褒められるその時が唯一の幸せの瞬間。
唯一無二の、誇らしい最高の主君…―――絶対的な存在の為だけに、生きていた。
しかし、翔隆に出会って接する内に、その世界が覆された…。
一五四一年の春の半ば辺りだった。
京羅が不知火の嫡子を気に掛けて居たので、暗殺を買って出た。
そして怪我を装い拓須と共に潜入した……。
だが、殺せなかった。
修行を付けてやる内に翔隆は睦月達の小屋に入り浸り、共に寝るようになった。
初めは疎ましかったのだが、その安心しきった寝顔を見る内に、何故か心が安らぐような不思議な感覚に囚われた。
その感情が何なのかは分からないまま、睦月は厳しく、そして丁寧に忍術を教えていく。
なのに、いつも翔隆に振り回されている自分がいた。
よく小川で魚を追い掛けて溺れたり、ちょっとした岩場で落ちそうになったり…。
その度に助けてくたくたになったが、なんだか楽しかった。
翔隆は睦月にべったりとくっつくようになり、とても懐いていた。
「睦月大好きー!」
そう笑って言いながら抱き付いてくる翔隆を抱き締め返す内に、自分の心に変化が生じているのに気付いた。
そして、木登りが苦手な翔隆を木に登らせている内に、気付いた心。
翔隆を失いたくない。
何を犠牲にしても、守りたいという強い意思―――。
それなのに今、敵となってしまっているとは…!
〈……済まない…こんな時に、側に居てやれないなんてっ! 拓須に真相を聞いて、絶望しているのだろうに…! …義成は〝操られ〟…拓須は元から〝敵対〟して…〉
そう自責していると、ふいに拓須が側に来る。
「どうした?」
「! 何でも、ないよ……」
俯く睦月の頭を撫でて、拓須は苦笑して行ってしまう。
何故………〔狭霧〕に生まれてきたのだろうか。
何故――――――〔不知火の嫡子〕が、翔隆だったのだろう!
悔やんでも悔やみきれない。
今更……詮無き事なのか……?
睦月は己の運命を呪い、恨み、雨を受ける紫陽花を見つめた。
その隣りの座敷では、今川義元が絵師に自画像を描かせていた。
少し描いたのを見ては、
「そうではない! もそっと膨よかに!」
と言い元の位置に戻って床几に座る。
義元自身は普通の体型なのだが、どうしても〝太っていて髭の生えた姿〟がいいらしく、先程からずっと同じ事を繰り返している。
「だから! もっとふっくらと!」
それを聞いていた太原雪斎がくすりと笑った。
〝じい〟としては、そんな義元が可愛らしかったのだ。
「…膨よかだと、何かいいのか?」
ふと陽炎が尋ねると、義成は苦笑した。
「さあ……平安絵巻のような都人が良いのだろう」
「…変わっているな」
そう言い陽炎は首を傾げた。
その言葉に義成はただ微笑する。
一方。
今川館の近くの森に潜む、一人の少年がいた。
――――――翔隆である。
〈…どうやって忍び込むか……。助けるにしても誰から、どうやって助ければいい?〉
来たはいいが、何も考えずに飛び出して来てしまった。
まず、落ち着いて考えねばならない。
一体、誰を救うのか。
誰が敵なのか…。
拓須は…〝助け〟など、必要としないだろう。
救うとしたら、睦月と義成だ。
では…敵は?
まず、倒さなければならないのは……?
陽炎――――は、とても敵う相手ではない。
今の自分に倒せる相手…――――…新蓮!!
まずは一人ずつ、敵を倒していかねば他人を〝助ける〟事など出来ない。
翔隆は細心の注意を払って〝気〟を消しながら、じっと城の様子を窺った。
その時。
城壁沿いに、見回りをする人の姿が見えた。
遠くからでも〝それ〟が誰なのか、今の翔隆には一目で判った。
…新蓮…。倒すべき敵だ。
新蓮は、翔隆の目と鼻の先まで来た瞬間に、いきなり《雷撃》を放ってきた。
ザッ…
翔隆は地を蹴り宙に舞うと、新蓮の前に降り立つ。
「やはり貴様か、小僧!」
「今度こそ倒す!」
叫んで《剣の印》を結ぶと左手を天に翳した。
すると雨がその掌に集まり、一つの〝塊〟と化す。
「む……!」
新蓮が身構えるより早く、〝水の塊〟は滝の如く激突した。
「ぐお…!」
正面から喰らって倒れ込むと、
「まだだ!!」
翔隆は、両手の平から炎を作り出した。
〈馬鹿な…!?〉
たかが一月余りで、ここまで出来るなんて!
「炎よ! 〝矢〟となれ!」
叫ぶと炎は矢のように凄い勢いで、新蓮に向かっていった。
「………っ小癪なあぁっ!」
その力に腹を立て、新蓮はすぐ様《結界》を張って防ぐ。
…が、その内の一つが結界を破って衝突する。
「ぬうっ!!」
新蓮はかなりの打撃を喰らって、後退る。
〈このままでは殺られる!?〉
そう悟り逃げの態勢に入ると、翔隆が立ち塞がる。
「逃がさん!」
そう言い渾身の《力》を込めて〝気〟を天に向けた。
すると、雨が風を受けて石礫の如く降り注いできたのだ。
「ぐっっ!」
目漬しを食らい、新蓮は明らかな〝隙〟を見せた。
〈今だ!!〉
翔隆は瞬時に小刀と脇差を両手に構え、斬り掛かっていった。
「しまっ……っ!」
気付いた時には、刃はもう目前。
二人が〝死〟を確信したその刹那!
横からいきなり、翔隆に向けて《衝撃波》が発せられたのだ!!
「ぐあうっっ!!」
翔隆は悲鳴を上げて、木に激突した。
「く…うう………」
呻いて起き上がり、それを放った張本人を見て愕然と立ち尽くす。
――――塀の上に、《雷気》を帯びた拓須が立っているではないか!
「た…くす……!」
「小賢しい奴め…。やはり〝あの時〟殺すべきだったのだ!」
憎しみを込めた目を向けて、拓須は新蓮の側に降り立つ。
「〝導師〟様!!」
「大儀であったな。戻って良いぞ」
「はっ」
新蓮がそそくさと立ち去るのを見送って、拓須は冷たい…氷の如き眼差しを翔隆に向ける。
「拓須…」
「ふん、どうしたものか。まあ…とりあえず、京羅の下へ連れて行くとするか」
呟き、拓須は面倒臭そうに〝印〟を結ぶ。
そして容易く、幾つもの稲妻を翔隆に浴びせた。
「…拓…須……っ」
翔隆は成す術も無く、地に伏した。
…拓須の冷酷な笑み……。
翔隆は、そのまま気を失った。
――――…霧の中…――――
視界が開けると、果てしない金色の稲穂が風になびいて波打っている。
義成…?
幼い…八・九歳の自分が、いる。
必死に、稲穂を掻き分けながら義成の姿を探している。
〈義成っ! 義成?!〉
必死に、どこまでも走って行く。
どこまでも、どこまでも続く金色の波……掻き分けても、掻き分けても途絶えない。
〈よしなりっ! むつきぃー! たくすぅ―――――っっ!!〉
声が、木霊した。
ドンッと、人にぶつかる。
〈義成!!〉
翔隆は喜んで、子犬の様に飛び付いた。
「翔隆、済まぬ…」
義成は悲しげに告げると、霧の様に消えた。
急に、場面が変わった。
睦月と忍術の修行をしている時だ。
「遅いぞ翔隆!」
翔隆は必死に杉の頂上を目指して、枝から枝へ飛び移る。
そして辿り着いた頂上には、腕組みする拓須が居た。
〈…拓須〉
翔隆は十二歳…。
「クックックックックッ! …愚かな虫けらめ! 〝狭霧導師〟であるこの私が、直々に殺してくれよう!!」
〈拓須?!〉
《気の刃》が、降り注ぐ。
うわああああああああっっ!!
じっとりと、まとわりつく様な雨。
両手が……両足が………重い
体中が―――――――痛い…
「う……」
ぼんやりと目を開けた。
手足がギリギリと締め付けられる……雨が、雹の様に体に突き刺さる。
〈寒い…〉
体が凍て付く。
…目の前に見えるのは、どこかの縁側と座敷……?
翔隆は雨の滴を振り払い、目を凝らす。
縁側に……白茶の髪の者が四人―――――…その内の三人は知っている。
左から、拓須、睦月、霧風………。
座敷には新蓮と義成、陽炎も居た。
「――――…!」
ハッと我に返って、飛び出そうとする。
が、動かない!
ここに至って、翔隆はやっと己の置かれた状況を知った。
〈しまった…!〉
後悔、先に立たず。
翔隆は中庭の―――十字の丸太…〝磔〟に、掛けられていたのだ。
暴風雨の中、両手足をぎっちりと縛り付けられて…。
「クックックッ。お前が〝奴〟の子か」
見知らぬ狭霧の者が言う。
翔隆は、寒さと出血多量による目眩の中で、気丈に相手を見据えた。
「貴様ら……何の為に、こんな真似を…」
「……ふん」
男は鼻で笑って、顎をしゃくった。
すると拓須が頷いて、手を上げる。
《霊術》が来る―――!!
……と分かっていても、何も出来ない。
そのまま、《気の塊》の直撃を受けるしかなかった。
「……っ!!」
余りの激痛に、声も出ない。
それを見て、男はせせら笑った。
「何故、か……。訳を、教えてやろうか」
「止めて下さいっ!」
…突然、睦月が叫んだ。
「……何だ、睦月」
「ま……まだ、言わないで下さい…!」
その言葉に、翔隆がピクリと反応する。
「まだ……? そうやって、いつも隠すのだな、睦月っ!」
「…翔隆っ?!」
「〝敵〟からでもいいっ! 俺は、真実を知りたいのだ!」
「っ!」
睦月は、悲しげに目を潤ませた。
代わって、男が言う。
「それ程知りたいのならば教えてやる。…お前の父は〔不知火の長〕! 当の昔に〝追放〟された長! そして、お前は〔嫡男〕だ」
「――――…え……?」
呆然とすると、尚も男は続ける。
「その銀鼠色の髪、藍の目が不知火の〔嫡流〕たる証しだ。……知らなかったか…?」
え…?
翔隆は、目を見開いて愕然とした。
〈……俺が…嫡男………?!〉
不知火の〝長〟の子供…?
では……では、本当に志木は父ではないと?!
弥生は母ではないのか?!
楓は姉ではないというのかっ!?
そんな馬鹿な………!!
そんな筈……そんな筈はない――――!!
そう、叫びたかったのだが……男の言う〝言葉〟は嘘とも思えず、どれも当てはまり過ぎていて…―――!
…そうだ。
あの〝集落〟で、自分だけが銀鼠色の髪、藍の眼で…異形で……なのに、皆は可愛がってくれて…―――。
異形なのは、生まれ付いての物かと思っていた。
おかしいとは思っても、そこまで頭が回らなかったのだ――――!
「だ…だから、俺を殺すのか? もう〝長〟は殺したのか?!」
精一杯の言葉だったのに、哄笑された。
「何がっ、おかしいっ!」
「ハハハハハハハハ! 不知火に〔長〕などおらぬわ」
男が答えた。
「長が…いない…?!」
「〝奴〟はとうの昔に〝掟〟を破り、追放されておる」
追放!! 思わずギクリとした。
「この親にして、この子あり」
そう―――――言われた気がしたのだ。
〈そんな…っ。一族は、どうなるんだ……父も俺までも掟破りで…頼れる筈の〝長〟がそんなじゃ…っ!〉
翔隆は、悲しくなって空を見上げた。
それを見て、死を覚悟したと思った男が言う。
「ククククク。我が名は京羅。冥土の土産だ、覚えておくがいい」
もう、言葉も出なかった。
義成が刀を持って立ち上がり、雨の中に出て来た。
止留めは、義成…か?
「よし…なり…」
「私に討たれる事を、至上の幸せと思え」
無表情でそう告げると、義成は刀を抜き払い真上に翳す。
〈ああ…もう、どうにも出来ないな……ごめん、義成、睦月〉
ニ人を見て、翔隆は目を閉じた。
そして、刀が振り落とされた時―――――
ギャリイィィンン
という金属音が、目の前で響いた。
目を開けると、男の後ろ姿と刀を弾かれた義成の屈辱の表情…。
翔隆を庇う様に刀を構えて立つ男の髪は銀鼠色で、がっしりとした体型………老人?
それとも――――…
〈…ま…さか………〝父さん〟………?!〉
胸が、締め付けられる様にズキッと痛む。
その〝男〟を見て、嬉笑しながら立ち上がったのは陽炎。
陽炎は、異国の朱槍を手にして近付いて来た。
「ふ…ふふ…ハハハハハハハッ! やはり来たか、羽隆!!」
陽炎は大声で叫ぶ。
「………」
〝羽隆〟は何も答えない。
「〝元〟不知火の長………羽隆…」
羽隆は黙ったまま、ピクリとも動かない。
その内 義成が座敷に上がり、代わりに陽炎が近寄って来た。
「やはり、我が子が可愛いのか? 羽隆…分かるか? 今、私がどれ程、嬉しいか!! 貴様には分かるまい!? 生まれ出でてよりこの二十五年間、一度たりとも忘れた事など無い! ずっと…ずっと! 私は貴様を憎み、恨み続けてきたのだっ!!」
その、震える体と吊り上がった眉で…どれ程の怒りかが伝わってきた。
「貴様を―――――殺す為に!!」
そう叫び陽炎は渾身の力を込めて、斬り掛かってきた!
「……!」
殺られる!
そう直感した時には、辺りが真っ白になって翔隆達は消えていた……。
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