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2巻

2-2

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 グリフィンに似た貴婦人であれば、アナスタシアはさぞかし妖艶な美女だったのだろう。どの角度からも完璧な造形だったに違いないと、セラフィナはうっとりと脳内で妄想した。
 ハワード邸にアナスタシアの肖像画がないのが残念だ。
 アナスタシアは自分の姿を描かれるのを嫌ったそうで、肖像画は一枚も残っていない。
 また気候が身体に合わなかったらしく、アルビオンでは病気がちだった。そのため社交の場にめったに出ず、本邸に引きこもっていたという。

「どんな方だったんですか?」

 そう聞くと、セラフィナの髪をもてあそんでいたグリフィンは、なつかしいとも悲しいともつかぬ目になる。そんな彼を見るのは初めてで、セラフィナは息を呑んだ。

「――哀れな人だった」

 涼やかなそよ風が悪戯いたずらに宙を駆け抜け、セラフィナの髪と足元のかれしばを揺らす。
 いつになく哀しげなグリフィンの眼差まなざしに、セラフィナはそれ以上なにも尋ねられなくなった。そして、自分はグリフィンについて知らないことが多いのだと思い知る。
 しかし、自分にそれを知る資格があるのかどうか、セラフィナにはまだ判断ができなかった。


 ――日々は容赦なく数週間を駆け抜けていった。
 セラフィナは相変わらず多忙な日々を送っている。
 ハワード家の奥方として、彼女がやるべき仕事は多い。
 主なものは社交とそれに関わる雑事で、付き合いのある貴族の接待、晩餐会ばんさんかいや舞踏会の予定の組み立てに招待客の選別。逆にグリフィンと夫妻で招待される際には、土産みやげを用意するのもセラフィナの役割だ。
 長い歴史のあるハワード家は、係累も、親交のある貴族も多い。彼らをさばくのは、使用人の手を借りても、ちょっとした体力と相当な努力、いささかの機転が必要だ。なぜなら、厄介な人物が少なくないからである。
 その日、グリフィンは領地の視察に出向いており、帰りは夕方の予定だった。セラフィナは自室にこもり、一ヶ月後の晩餐会ばんさんかいのための招待状をつづっている。そこに、メイドが慌てた様子でセラフィナを呼び、扉を叩いたのだ。

「奥様、奥様、いらっしゃいますか」

 メイドの声はただならぬほど強張っている。セラフィナはすぐさま羽ペンを置いた。

「どうしましたか?」
「そ、それが……」

 ハワード家の面倒な親族の一つであり、伯爵の爵位を持つフォード家の当主が、グリフィンの留守を狙って押しかけてきたのだと、メイドが説明する。
 セラフィナはフォードの名に眉をひそめた。
 彼は、おそらく事業への出資を頼みにきたのだろう。フォード家は土地を担保にあらゆる事業に手を出し、そのほとんどを失敗している。以前、見せてもらった名簿に、そうあった。
 通常であれば訪問の申し込みを受けつけない相手であるので、こうした事態が起こるはずはない。
 ところがフォード本人もグリフィンにうとまれているのを自覚しているらしく、事情を知らない知人に訪問を依頼させ、その代理として無理やりやってきたそうだ。
 あの手この手とは、よく言ったものである。

「執事様が旦那様はご不在であり、奥様も多忙だとお伝えしたのですが、返事をもらえるまでは帰らないとおっしゃって、応接間に居座ったままなのです。力ずくで帰すわけにもいかず、どうすればいいのか……」

 困り顔のメイドに大丈夫だと伝え、セラフィナは背筋を伸ばして立ち上がった。

「今から参ります」

 メイドとともに二階の応接間へ急ぐ。扉の前にはふたりの従僕じゅうぼくたたずんでいた。

「あっ、奥様。ただ今、中で執事様が――」

 セラフィナたちの足音に気づき従僕じゅうぼくらが振り返った瞬間、室内から扉を震わす怒鳴り声が響き渡った。

「爵位もない使用人のくせに、俺に指図をするんじゃない!」

 貴族らしからぬ剣幕である。

「ブラッドフォード公の奥方を出せ。お前たちなどに用はない!」

 爵位あらずんば人にあらずといったその言葉に、セラフィナは呆れた。気合を入れるために大きく息を吸い込んで、扉をわずかに開く。
 すると隙間から、ふたたびフォードの怒声が聞こえてきた。セラフィナは従僕じゅうぼくふたりに素早く目配せをする。

「いざというときのために、この場に待機しているようお願いします」

 彼らは表情を引きめると、揃って胸に手を当てて頷いた。

「かしこまりました」 

 応接間には、口角泡を飛ばすフォードと、その彼をなだめようとする執事がいる。

「まだ奥方はこないのか!」
「ですから本日はどうぞお引き取りを――」

 そんな言い合いが、セラフィナの登場でぴたりと止まる。
 フォードは途端におとなしくなり、「これはこれは」と薄い笑みを浮かべた。

「初めてお目にかかります。ジョージ・フォードと申します。本日は知人の代理として参りました。お若く美しい奥様ですね」

 セラフィナは丁寧に挨拶あいさつを返しながら、彼の見下しつつもおもねるような眼差まなざしに不快感を覚えた。

「どうぞこちらにおかけください」
「奥様……!!」
「あなたは外で待っていて」

 執事がセラフィナを止めようとしたが、すぐにぐっと押し黙って渋々引き下がる。
 フォードとふたりきりとなった部屋で、セラフィナはテーブルを挟んで彼と向かい合う位置に腰掛けた。
 フォードはほくそ笑んでいる。もう交渉がまとまった気分でいるのだろう。女、子どもが相手であればどうとでもなると考えているのだ。

「さすがは奥方様。話がおわかりになる」

 彼はいそいそとテーブルの上に書類と冊子を並べる。セラフィナはその十枚ほどの紙の束を手に取った。それは彼の事業計画書だ。
 セラフィナはざっと計画書に目を通す。
 内容は、最近徐々にアルビオンに増えてきた、外国人富裕層向けの保養地建設計画だ。
 経費などの数字について完全には理解できないものの地名には見覚えがあり、セラフィナは興味を引かれた。

「ここは……」

 彼女の様子に構わず、フォードは耳障みみざわりのよいうたい文句を並べ立てていく。

「――まあ、そうしたわけで、そちらの湖水地方一帯は大陸の貴族の旅先として人気なんですよ。間違いなく人が入るでしょう。近年の外国人は、別荘を保有するよりも宿泊施設に滞在することを好む者が多いのです。ブラッドフォード公の出資とあれば信用もあり――」
「フォード様、いくつかお尋ねしてもよろしいですか」

 セラフィナは計画書から顔を上げ、真っ直ぐにフォードを見つめた。彼は真正面から自分を捕らえるセレストブルーの瞳に数秒呑まれる。
 だが、すぐにふたたび笑みを浮かべた。

「え、ええ。なんなりとどうぞ」

 セラフィナは書類をテーブルに置き、その二枚目の中央を指差した。

「これは素人しろうとの考えになりますが、あのあたりは自然が魅力なのではないでしょうか。この国固有の花や木々の群生は、アルビオン人の私から見ても素晴らしいものがありました。それらをすべて刈り取り切り倒して施設を建設しては、呼び物がなくなってしまうのでは?」

 するとフォードはぐっと言葉に詰まった。が、すぐに慌てた様子で口を開く。

「み、湖こそがあの一帯の魅力ですよ。舟遊びも釣りもできますし――」
「美しい湖というだけなら海外にも多くあります。海外の方々はアルビオンらしい景観をお求めのはずです。北国からいらっしゃる方は花の美しさを、南国からいらっしゃる方は木々にあわゆきの積もるさまを。これではどなたも対象になっていないのではないでしょうか?」

 年若い娘に反論されるとは予想外だったのだろう。フォードは目を大きく見開いている。
 セラフィナはさらに九枚目の書類を彼に見せ、「それに、人件費が不足しています」と警告した。

「あのあたり一帯に生息するハーブの繁殖力がかなり強いことをご存知ですか? 草を取り除くのにも人手がいります。年間を通してのことですから、夏にだけというわけにはいきませんし、人数もひとり、ふたりでは間に合いません。近ごろは労働者の賃金が上昇していますから、その上昇分も含めなければならないでしょう」

 穴だらけの計画に指摘を入れると、フォードは説得力に欠ける言い訳を重ねた。

「そちらはあとから調整すればいい話で……」

 その態度から事業への情熱は感じられない。やはり援助金だけが目当てなのだ。

「フォード様はここへ足を運ばれたことがありますか? 資料だけではわからないことが、多くあります」
「それはもちろん――」
「私は新婚旅行で夫と参りましたが、今になっても忘れられないほど、湖の周囲にある森林に感動しました。それすら語れないというのは、おかしな話です」

 フォードは今度こそ言葉を失くした。
 返す説得材料がないのか、フォードは口を開いたままセラフィナを凝視している。

「私でさえ納得させられないのなら、夫も同じ意見となるものと思います」

 セラフィナはにっこりと微笑ほほえみを浮かべ立ち上がった。呆然とこちらを見上げるフォードに、扉を指し示す。

「どうぞ。門までお見送りいたします」

 彼女は、フォードが本邸を出るまで監視するつもりだった。
 彼は口が悪いうえに粗暴な男性で、奥方が苦労していると聞いている。出資を断られた腹いせとして、帰り際に使用人たちへ暴力を振るわれてはたまらない。さすがのフォードもセラフィナの目の前で使用人を殴る度胸はないはずだ。
 彼はおのれの不利をさとったのか、ちっと忌々いまいましげに舌打ちをすると、書類をかき集め不機嫌に立ち上がった。時を同じくして音もなく扉が開き、従僕じゅうぼくと執事が彼を廊下へ連れ出す。
 フォードは前方をセラフィナに、両脇をふたりの従僕じゅうぼくに、後方を執事に付き添われ、囚人のごとく歩いていった。
 けれど馬車に乗り込み際、見上げるセラフィナに捨て台詞ぜりふを吐く。

「一年以上経っても子をはらまず、犯罪者に誘拐されて醜聞しゅうぶんを立てた女が、ずいぶん偉そうなことだ。お綺麗によそおっているが、腹の中はどれだけ汚れているのやら」

 その悪態に従僕じゅうぼくらの顔色がさっと変わった。しかし、とうのセラフィナは微笑ほほえみを浮かべたまま、見送りの言葉を述べる。

「もう二度とお会いする機会がないのが残念ですが、フォード様の幸運と成功をお祈りしています」
「……っ」

 フォードは返す言葉もなく、馬車の扉を閉めた。
 彼を乗せた馬車が道の向こうに遠ざかるのを確かめ、執事と従僕じゅうぼくが肩の力を抜く。そして遠慮がちにセラフィナに声をかけた。彼女が振り返ると、従僕じゅうぼくのひとりが顔を真っ赤にしながら力説する。

「あのような噂、裁判さえ終われば世間はすぐに忘れます!」

 もうひとりもつのった。

「まだお若いのですから、お子様はいずれ授かります!」
「こら、お前たち、なにを言っている。立場をわきまえないか」

 執事が部下を厳しく叱りつけ、ふたりを先に邸宅へ返す。そして、「最近の若い者は」と溜め息をきながら、セラフィナに向き直ると、「差し出がましいですが」と断りつつ、彼女の目を見つめた。

「奥様、先ほどのふたりの言葉ですが、私も皆もそう思っております。旦那様も同じ考えでしょう」
「……」
「奥様以外にハワード家の奥方はいないと、この年寄りは考えております。今後も旦那様とご一緒に、このブラッドフォードを盛り立てていただければ、ありがたく存じます」

 なぐさめと励ましが、耳にも胸にも痛みを与える。この人たちをだましているのだと、セラフィナは今さらながらに思い知った。

「……ありがとう。力を尽くします」

 やっとの思いでそれだけを答え、セラフィナは自室へ向かった。


 部屋に戻ったセラフィナは、ベッドに身を投げると枕に顔を突っ伏した。
 やはりあの事件に巻き込まれたせいで、悪い噂が広まっているのだと思い、唇を噛みめる。
 ハワード家の今後への影響を考え、王家が情報の流出を抑えているそうだが、人の口に戸は立てられないものだ。自分だけならばなにを言われても構わないが、ハワード家やグリフィン、彼の親族にも醜聞しゅうぶんが降りかかっていると思うと、いてもたってもいられない気持ちになった。
 知らず、涙が込み上げてくる。
 あの事件は、皆をだまし、神をあざむき、偽りの結婚などをした罰だ。
 ならば、罰は自分だけに下してほしいと痛切に思う。
 疲れが溜まっていたのだろうか。声もなく泣き続ける間に、セラフィナは軽い眠りに落ちていた。
 ――それからどれだけの時が過ぎたのだろう。

「……フィナ」

 どこからか低くつやのある声が聞こえた。続いて、ひたいを優しくでられた気がする。

「う……ん」


「セラフィナ?」
「……っ!!」

 セラフィナはバネのように飛び起きた。見ると、グリフィンが苦笑しながらベッドの端に腰掛けている。彼女は乱れた髪を慌てて整え、思わずベッドの上に正座をした。

「グ、グリフィン様!? お、お帰りだったんですか? も、申し訳ございません。私、眠ってしまって……」
「ああ、いいんだ。疲れていたんだろう? そろそろ夕食だから、起こさなければと思ったのさ」
「本当に申し訳ありません……」

 セラフィナは恥ずかしさのあまり顔を伏せた。よりによってグリフィンが帰宅する時間に居眠りをしてしまうなど、なにをやっているのかと、自己嫌悪にさいなまれる。
 残り少ない期間とはいえ、こんな自分が契約を続けるべきなのかどうか、次第に疑問に思えてきた。
 フォードの捨て台詞ぜりふは、現在の自分に対する世間の評価だ。グリフィンによい影響を与えるとは思えない。ならば、自分はグリフィンとブラッドフォードから離れ、離婚する日まで別居すべきではないのだろうか。
 それが現在の状況では最善に思える。

「あの……グリフィン様」

 セラフィナはグリフィンにおそるおそる目を向ける。いつものように真っ直ぐには顔を見られない。

「契約が終わるまで、私、ブラッドフォードから離れようと思うんです。どこか、別荘の一つを貸していただけないでしょうか」

 すると、漆黒しっこく双眸そうぼうが驚きに見開かれた。

「なぜだ?」

 間髪かんはつれずに問い返され、セラフィナは目をまたたかせた。グリフィンがなおも畳みかけてくる。

「君はここにいるのが嫌なのか?」
「いいえ。違います。そうではないんです」

 セラフィナは首を振って否定した。ブラッドフォードが嫌なはずがない。むしろ、セラフィナはこの地を愛しつつある。
 気候は温暖で、執事も従僕じゅうぼくも親切で気がよく、皆セラフィナを助けてくれる。なによりこの地にはグリフィンがいるのだ――だが、自分は二年間の偽りの奥方にすぎない。その奥方が彼に迷惑をかけてしまっては本末転倒だろう。

「……私がこのままここにいると、ご迷惑をおかけしてしまいます。グリフィン様も、社交界で、あの事件についての私の陰口を聞いたことはございませんか」

 心当たりがあったのか、グリフィンが口をつぐんだ。セラフィナは気まずさを隠すために、理由を無理やり挙げつらねていく。

「それに、近ごろだいぶ忙しくなりました。少し休みたいとも思うのです。……残りの契約の期間は、もうそれほどありません。今のうちに私がいない状態に慣れたほうが、執事や従僕じゅうぼく、メイドの皆様にとってもいいのではないかと……」

 セラフィナはそこまで口にしたところで、これは言い訳ではないかと自身に問いかけた。
 ――愛していると打ち明けたい。いいや、いけない。
 そう揺れ動く心を抱えたまま、グリフィンのそばにいるのが辛いから、逃げ出そうとしているのではないか、と。
 情けなさのあまり、ひざの上のこぶしをかたく握りめた。自分はこれほど弱い、身勝手な人間だったのかと自己嫌悪にさいなまれる。だからと言って一度言った言葉は取り消せない。
 グリフィンはセラフィナの意見を黙って聞いていたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「そうだな。確かに、君を働かせすぎている。……では、別荘を用意しておこう。だが、私は来週から一週間アレマニアにいかなければならない。それ以降でも構わないだろうか?」

 アレマニア行きの件については、だいぶ前から話を聞いていた。セラフィナはその提案に一も二もなく頷く。

「もちろんです。お留守の間は精一杯お勤めさせていただきますので……」
「なら、決まりだな」

 腰を上げたグリフィンが、セラフィナに手を差し伸べた。

「あ、あの?」
「とりあえず、詳細な打ち合わせはあとにして夕食にいかないか」

 そのためにエスコートしにきたのだとグリフィンが告げた。

「食事の前にする話ではないだろう?」
「は、はい……」

 セラフィナは遠慮がちにグリフィンの手を取る。そして、ふたりはいつものように夕食をともにしたのだった。


   ◇◆◇◆◇


 グリフィンはその夜眠れずに、書斎の窓辺に立ち、ひとり葉巻をくゆらせていた。
 セラフィナがきて以来っていたのだが、契約の終わりが近づくにつれて、またときおり吸うようになっている。宙に揺らめき、溶け込んでいく煙を見つめながら、今ごろ眠りについているだろうセラフィナを思う。
 社交界にはびこる例の事件についての噂など、正直どうでもいいと考えていた。噂というものは、次の話題が出てくればあっという間に忘れ去られる。
 だが、彼女が疲れているというのは確かにあるだろう。セラフィナは奥方として優秀で、自分がいないときは、皆が頼っている。
 ただ、頼られるということは、慕われているということでもあった。セラフィナはブラッドフォードの皆に、確実に奥方として認識されているのだ。
 そして、自分も彼女を手放しがたくなっている。
 契約の終了までもう半年もないと実感したとき、少しでもそばにいたいと願っていた。
 だから、彼女がここから離れたいと申し出たとき、ついなぜだとただしてしまったのだ。

「……っ」

 グリフィンは、先ほどセラフィナが眠っているときに触れた、亜麻色あまいろの髪の柔らかさとひたいの温かさを思い出した。
 今日彼が領地の視察から戻ると、珍しくセラフィナが出迎えなかった。彼女は体調が悪いのかと執事に尋ねると、執事はフォードとの一件を説明し、きっと疲れているのだろうと溜め息をいた。そして、できれば夕食まではそっとしてやってほしいと言う。
 グリフィンは彼女の機転に感心するのと同時に、どうしてもその姿を見たくなった。しばらくセラフィナの寝顔を見ていない。彼は音を立てないように彼女の寝室を訪ねた。
 セラフィナは普段着のままベッドで眠りについていた。その寝顔は天使のように無垢むくで無防備だ。
 グリフィンはそっとベッドに腰掛け、手を伸ばしてそのひたいに触れた。ともに夜を過ごして以来だ。彼女に触れると押し倒したくなるので、極力、夜は触れないようにしてきたのだ。
 あの夜については今でも後悔している。子どもができてもおかしくなかった。情熱に任せて女性を抱くなど初めての失態だ。
 同時に、これが恋や愛という感情なのだろうと感じる。
 母が関わったとある事件のせいで、恋愛だけはしないように気をつけてきたグリフィンではあるが、理性ではどうにもならないものがあると思い知った。
 なめらかな頬に手を伸ばし桜色の唇まで指先で辿たどって、シーツに零れ落ちた髪をすくう。
 これからどうすべきかと、おのれに問いかけた。
 グリフィンの中には二つの相反する思いがある。このまま彼女と一生を過ごしたいという感情と、契約を守って解放しなければという理性だ。
 セラフィナは実家と不仲で、いずれは貴族の身分を捨て、町で出会った食堂の女将おかみと暮らしたいと言っていた。今もその思いは変わっていないだろう。彼女の希望を叶えてやらなくてはならない。
 だが、こうも思ってしまうのだ。
 セラフィナは簡単に男に身を任せる女性ではない。単なる勢いというだけではなく、彼女も自分に心があるからこそ、ああして抱かれたのではないか、と――
 ならば、正直に自分の愛を打ち明け、本物の求婚がしたかった。そのうえで断られるなら仕方がない。だが、今のままの自分には、求婚する資格すらないのだ。
 回想を終えたグリフィンはまぶたを開け、机の上に置いた灰皿に葉巻を押しつけた。
 ふたたび窓に視線を向けると、母によく似た顔がガラス戸に映る。しばらくその顔を見つめていたが、やがてある決意を固めて彼は身をひるがえしたのだった。



   第二章 アーレンベルク家


 それから四日後――冬が深まるころ。グリフィンは外交の一環で、大陸の同盟国・アレマニアへ出発した。期間は約一週間の予定である。
 グリフィンは宮廷で外務大臣の片腕として活躍しているうえ、アレマニアは母・アナスタシアの出身地であることもありアレマニア語も堪能たんのうだ。そのため彼が選ばれたのだ。
 二国が同盟の条件を見直すに当たって、グリフィンは大臣の補佐をすることになっている。今回はジョーンズも従者として連れていくことにした。
 アレマニアもアルビオンと同じく、初冬から寒さが厳しい国だ。ブラッドフォードを発つその日の朝、グリフィンは黒い外套がいとうと帽子を身にまとった。
 衣服と生来の漆黒しっこく美貌びぼうを引き立てている。あわゆきの雪景色を背景に立つと、いっそうそれが映えて見えた。
 やはりこの方には黒が似合うと思いつつ、セラフィナは玄関でグリフィンにハンカチを手渡した。

「どうぞいってらっしゃいませ」

 ハンカチの片隅には、グリフィンのイニシャルと黄色のクロッカスを刺繍ししゅうしてある。
 これはアルビオンの古くからの習慣だ。旅立つ夫や恋人に、女性がハンカチを渡す。その片隅に「あなたを信じる」という花言葉を持つ、クロッカスを刺繍ししゅうするのが一般的だ。こうして女性は伴侶はんりょの無事を祈るのである。
 セラフィナは打ち明けられない言葉の代わりに、一針一針に思いを込めたつもりだった。
 グリフィンが「ありがとう」とハンカチを受け取り、セラフィナの二つの瞳を見下ろす。

「セラフィナ」

 低くつやのある声で名を呼ぶ。何事かと目をまたたかせるセラフィナの手を取り、彼は強い力で握りめた。

「グリフィン様……?」
「アレマニアから帰ったら、君に話したいことがある」
「話したいこと?」

 いったいなんなのかまったく思い浮かばず、セラフィナは首をかしげた。グリフィンが小さく頷き、続ける。

「私の帰りを待っていてくれるか?」

 雪が音もなく降り続ける中で、セラフィナは戸惑いながらもこう答えたのだ。

「かしこまりました。グリフィン様」


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