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第1部

34.太陽と月(2)

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――あれから一週間が過ぎた。

 陽は「死にたい」と泣いた夜からわたしを抱いていない。ただ必ず夕暮れには部屋を訪れ、ベッドの真ん中に腰をかけ、横たわるわたしの頭を撫でていく。六日目の昼間には睡眠薬が切れて目を覚ますと、枕元に荘田の家に残してきたあるものが置かれていた。去年の誕生日、陽がプレゼントにくれたテディベアだ。

「……っ」

 わたしは思わずそのぬいぐるみを抱き締める。懐かしいあの家の匂いがした。頬から熱い涙が零れ思い出が次々と蘇る。

「お父さん、お母さん……」

 半年ぶりにあの凄惨な死に様ではなく、家族三人で暮らしていた頃の笑顔を思い出した。最後の家族での旅行は長野に行った。そこでお土産に買ったポプリの香も染み込んでいる。暗闇に閉ざされていた心にかすかに、でも確かに一筋の光が差し込んだ。

 そうだ、わたしにはまだ思い出が残されている。わたしはまだこれだけで生きていける。

 同時にはっとある事実に目を見開く。陽にはこんな温かい記憶がないのだ。この洋館で他でもないパパに心を壊される暴力を受け続けて、ママも誰も助けてはくれなくて――そして、わたしが胸に抱く思い出は、本当なら陽のものになるはずだった。

 わたしなら耐えられたのだろうか? 陽のようにわたしのために、陽を守るために生贄になれただろうか?

「わ、わたし……」

 わたしはテディベアをぎゅっと抱き締めた。

「わたしは……」

 わたしは、どうしたらいいのだろう?

 わたしはこの時まだ気が付いてはいなかった。木蓮の間の扉からチェーンも鍵も取り払われていたことに――。



*



 その日わたしはテディベアを抱き締めながら、窓から洋館前の坂道を見下ろしていた。今日はきっと土曜日なのだろう。午後五時にさしかかっても、人の行き来がいつもよりも多い。

 逃げ出したいと思っていたわけではない。かつてそこをスキップで上った自分を、懐かしいものとして思い出していたのだ。思えばこの時のわたしはもう、一年前のわたしとは違う、別のわたしになっていたのだろう。だから次に坂道の向こうから姿を現した人物が、過去のわたしに深く関わる人物であることに驚いたのだ。

「い、つきくん……?」

 見間違えるはずもない。薄茶の髪に薄茶の瞳――コンタクトレンズに変えたのか、いつもかけていた眼鏡はなかった。相変わらずジーンズにTシャツの素っ気ない服装をしている。それでもスタイルがよくかっこいいのも相変わらずだった。

「ど……して?」

 一樹君は坂道を上り切り洋館の前で立ち止まる。その眼差しが窓のひとつひとつを順に追って行った。最後に木蓮の間から顔を覗かせるわたしを捉える。

『瑠、奈』

 目が大きく、大きく見開かれ、唇が確かにわたしの名前を紡いだ。一樹君は転がり込むように門に駆け寄り、インターフォンを何度も押しているようだった。それからしばらくして高野さんが対応したのだろうか。電話越しに押し問答をしている。一樹君は必死の形相をしていた。

 やがて電気仕掛けの鉄の門が軋みながらも自動的に開き、一樹君は覚悟を決めたと言った顔で洋館に入る。わたしはその様子を呆然と見送り、続いてはっと我に返った。腕の中からテディベアが落ちる。

 なぜ一樹君は洋館に来たのだろう? 何の話をしに来たのだろう?
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