上 下
42 / 47

堕ちる者と堕ちない者と(4)

しおりを挟む
 しかし、真琴は誰が誰の子だと打ち明けられたところで、記憶のすべてが濃い霧の向こうにありわからなかった。ただ早く肉体から開放されて、心の望むところに旅立ちたかった。

 ところが、心身を現世に繋ぎ止めようとするかのように、力強い手がか細い腕をシーツに押さえ付ける。

「真琴、君も優しい女だ。……情の深い女だ。きっとあの坊やを見捨てられず、関係を持つしかなかったのだろう? ずっと育ててきた子どもを男として意識するのは、君のような女には難しかったはずだ」

「……」

「なら、私との子も見捨てることはない」

 今後は孕むまでは薬も飲ませず正気に戻し、避妊もしないと艶のある低い声が耳元に囁いた。

「代わりに君と子どもにはこの家のすべてをやろう。ともに呪われた人生を歩もうじゃないか」

 衣擦れの音とともに薄闇で冷えた空気と、それとは対照的な熱い骨張った手が肌に触れる。

 ところが、着物を脱がされかけたところで、どこからか焦げ臭い匂いが鼻に届いた。

「なんだ、この匂いは」

 ふと体から男の重みが消えたかと思うと、直後に老いた女の狼狽した叫び声と、ドアが激しく叩かれる音が室内に響き渡る。

「旦那様……!」

 間もなく開け放たれたのと同時に、もうもうと薄灰色の煙も入り込んで来た。

「旦那様、大変です。煙があちこちに」

「火事か?」

「わかりません。警報機は鳴ったんですが、火元がわからなくて……」

「今確かめに行く」

 二人の慌ただしい足音が消えたあとは、あるかなきかのみずからの呼吸だけになり、命が消えかけていることを感じるからか、ただ音のない世界よりもずっと静かに思えた。
 
 真琴にとって死はもはや願いであり、喜びであり、希望ですらあった。
 
 だから、再びドアが今度は音もなく開けられ、長身の人影が声を潜めて現れた時には、またあの世へ行くのを邪魔されるのかと煩わしかったのだ。

 そう、聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶまではーー

「……真琴、真琴だな!?」

 低く掠れた声だった。

「こんなところに……」

 誰かが駆け寄り近くに跪く気配がする。脈拍と呼吸を確認され軽く頬を叩かれた。

「真琴、自分の名前が言えるか。俺が誰だかわかるか?」

(私の、名前……?)

 名前とはなんだろうと目を瞬かせる。

「……クソッ」

 人影は悔しそうに低く呻いたものの、すぐに気を取り直したらしく、すっかり痩せた右足首をそっと手に取り、足枷の鍵穴を確認しているようだった。

「単純な形式だからすぐに外れる。もう大丈夫だから安心しろ」

 鉄とまた別の硬いものが擦れ合う、カチャカチャとした音がしばらくしたかと思うと、不意に右足首から足枷の冷たさが取り払われた。

「さっき救急車と消防車を呼んだ。すぐに病院に連れて行くから落ち着いて……」

 広い胸に抱きかかえられ、目を覗き込まれて息を呑んだ。愛する者を失う恐れの宿る黒い瞳だった。 

 意識がたちまち色鮮やかさを取り戻す。

「か、おる……?」

 そうだ、なぜこの瞳を忘れてしまっていたのかと、震える手を伸ばして鋭い線を描いた頬に触れる。

(……薫だけは忘れちゃいけなかったのに)

「薫……薫なんだね?」

 薫は背に手を回して「ああ、そうだ」と溜め息を吐いた。続いて体が潰れてしまうかと思うほどかたく抱き締められる。

 だが、苦しいとはまったく感じなかった。縋り付いてただ嗚咽して涙を流す。

「こ、怖かった……。怖かったよお……。わ、私……」

「もう大丈夫だから」

「うちに帰りたい。もう、帰りたい……」

「ああ、わかった。一緒に返ろう」

 繰り返し優しく背を撫でられながら、赤ん坊のように泣きじゃっていたからだろうか。真琴は立ち込める煙の壁の向こうに、何者かが佇んでいるのに気付かなかった。

 気付いたのは地獄の底の魔物を思わせる、怨念に満ちた声が耳に届いたからだ。

「どこのどいつの仕業かと思っていたら、悪い虫が一匹入ってきたようだな」

 煙に覆われ曖昧だった人影が、一歩、また一歩とこちらに近付いて来るにつれ、徐々にはっきりと輪郭を取って行く。

 真琴はその姿に慄然とした。

「せ、先生……」

 唇の端に笑みを浮かべすらした男が、猟銃を手に薫を見つめている。琥珀色を帯びた瞳には憎悪ではなく、迷いのない殺意だけがあった。

 銃身は煙と薄闇に視界を閉ざされていてすら、氷輪にも似た研ぎ澄まされた光を放っている。命を一瞬で切り裂く非情な光だった。

 だが、薫に臆した様子はまったくない。真琴を守るかのように立ち塞がる。

「あなたは自分が何をしでかしているのか、理解されてそうした行動を取っているのですか?」

 低く艶のある声が優雅に応じた。

「ああ、もちろん。私はこの家の血を引いているからね。貴様が我が子だろうと真琴を奪う男は敵でしかない」

 カチリと引き金を低く音が背筋をぞっとさせる。

「薫、薫っ……!」

 次の瞬間、真琴はなんの迷いもなく薫の前に飛び出していた。薫は自分が守らなければならないのだと、それだけしか考えられなかった。

「真琴……!?」

 人一人を壊すにはあまりに乾いた、呆気なくも残酷な音だった。直後に腹部に受けた衝撃に、呼吸と言葉を失い、その場にくずおれる。激痛にもう体を起こすことすらできない。

「真琴ぉっ……!!」

 遠くでこの世で誰よりも大切な義弟の声が聞こえる。

(ああ、よかった……)

 薫が無事だったのだと安堵し、それだけで十分だと思えた。

 喉に鉄の味のする何かが詰まり声が出ない。
 
「真琴、真琴……!!」

 今はただ笑い合えたあの頃に、あの家に帰りたかった。

 どうにか目を開いて問い掛ける。

「……ねえ、薫、夜ご飯、何が、いい?」

(エビチリも唐揚げと同じくらい好きだったよね。今夜奮発してたくさん作っちゃうよ)

 その思いは言葉として紡がれる前に宙に消えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】帰れると聞いたのに……

ウミ
恋愛
 聖女の役割が終わり、いざ帰ろうとしていた主人公がまさかの聖獣にパクリと食べられて帰り損ねたお話し。 ※登場人物※ ・ゆかり:黒目黒髪の和風美人 ・ラグ:聖獣。ヒト化すると銀髪金眼の細マッチョ

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

転生先が羞恥心的な意味で地獄なんだけどっ!!

高福あさひ
恋愛
とある日、自分が乙女ゲームの世界に転生したことを知ってしまったユーフェミア。そこは前世でハマっていたとはいえ、実際に生きるのにはとんでもなく痛々しい設定がモリモリな世界で羞恥心的な意味で地獄だった!!そんな世界で羞恥心さえ我慢すればモブとして平穏無事に生活できると思っていたのだけれど…?※カクヨム様、ムーンライトノベルズ様でも公開しています。不定期更新です。タイトル回収はだいぶ後半になると思います。前半はただのシリアスです。

見知らぬ男に監禁されています

月鳴
恋愛
悪夢はある日突然訪れた。どこにでもいるような普通の女子大生だった私は、見知らぬ男に攫われ、その日から人生が一転する。 ――どうしてこんなことになったのだろう。その問いに答えるものは誰もいない。 メリバ風味のバッドエンドです。 2023.3.31 ifストーリー追加

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

【R18】スパダリ幼馴染みは溺愛ストーカー

湊未来
恋愛
大学生の安城美咲には忘れたい人がいる……… 年の離れた幼馴染みと三年ぶりに再会して回り出す恋心。 果たして美咲は過保護なスパダリ幼馴染みの魔の手から逃げる事が出来るのか? それとも囚われてしまうのか? 二人の切なくて甘いジレジレの恋…始まり始まり……… R18の話にはタグを付けます。 2020.7.9 話の内容から読者様の受け取り方によりハッピーエンドにならない可能性が出て参りましたのでタグを変更致します。

【R18完結】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

幼馴染の彼女と妹が寝取られて、死刑になる話

島風
ファンタジー
幼馴染が俺を裏切った。そして、妹も......固い絆で結ばれていた筈の俺はほんの僅かの間に邪魔な存在になったらしい。だから、奴隷として売られた。幸い、命があったが、彼女達と俺では身分が違うらしい。 俺は二人を忘れて生きる事にした。そして細々と新しい生活を始める。だが、二人を寝とった勇者エリアスと裏切り者の幼馴染と妹は俺の前に再び現れた。

処理中です...