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堕ちる者と堕ちない者と(3)

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ーー最後に風に吹かれ、光を目にしたのはいつだろう。

 薄闇に閉ざされたこの部屋では、時の流れを感じ取れない。どれだけ経ったのかもわからない。

 ただ体に快楽を刻み込まれる日常が続いていたが、その間に時折ふとわずかながらではあるが、真琴としての自我が復活し、こうして思いに耽ることがあった。

 得体の知れぬ薬で人形と化したはずなのに、抱かれて感じさせられて喘がされるたびに、確実に何かが磨り減っていくのを感じていた。

 その日真琴はベッドに一人横たわりながら、虚ろな目で天井の木目を見上げていた。

(帰りたい……)

 どこになのかはわからないが、とにかく帰りたかった。なのに、身も心も囚われて、どう帰ればいいのかがわからない。身じろぎをすると足枷に連なる鎖がじゃらりと鳴った。

(うちに帰って、ご飯を作って、お風呂を入れて、お帰りって言わなくちゃ……)

 ゆらゆらと揺れる記憶の向こうに、長身の人影が佇んでいる。けれども、その人は背を向けていて顔を見られない。それでも、よく見知った大切な誰かなのだとはわかった。

 ところが、寝室のドアが開かれる音を聞いたことで、その人影は呆気なく四散してしまった。唯一の記憶の手がかりを失ったことで、心が再び絶望のどん底に叩き落される。

「やあ、真琴、元気かい」

「……」

「昨日は一人にして悪かったね。寂しかっただろう?」

 大きな手が頬に添えられたかと思うと、喉元に熱い唇が押し当てられ、着物の合わせ目から見え隠れする胸を弄る。

「……あ」

 喉の奥から熱い息が漏れ出るのと同時に、男を受け入れるよう徐々に体が開いていく。絶望が快楽に置き換えられ、何も考えられなくなっていく。

「いい子だ。今日も一晩中愛し合おう」

「……」

 広い肩越しに再び天井の木目を見上げる。

(帰りたい……)

 ベッドが激しく軋む音を聞き、体の奥に男の熱を感じながらまた思う。そして、「ああ、そうだ」と心の中で呟いた。

 死んで魂だけになれば帰れるかもしれない。思い通りにならない肉体は今や重しでしかなくなっている。

 だから、真琴はその日から生きようとすることを止めたのだった。

 薄闇に閉じ込められた生活だが、おそらく日に二度は食事が運ばれ、誰かに食べさせられていた。また、どこかに車椅子で連れて行かれ、やはり介助されながら入浴もしている。

 だが、真琴は翌日から食事を一切拒否した。固形食はおろか、流動食も水すらも受け付けない。無理矢理食べさせられると、反射的に胃液ごと吐き出した。

 死を望む心が身を喰らっているのか、ほんの数日でみるみる痩せ細り、白い頬は薄紅色の血色を失って、死人さながらの青白さになった。

「なぜ食べない」

 体を力尽くで抱き起こされ、口移しで甘酸っぱい液体を与えられたが、やはり吐き出してしまい、着物の胸元を濡らしただけだった。むせて咳をするごとにまた命が抜け出ていく。

「私は君を殺したいわけではない。なぜ食べようとしないんだ」 

 苛立った声も快楽もこの世に留まる理由にはならなかった。

 生と死の間を自我がたゆたう間に時が過ぎ、そのうち見知らぬ誰かが寝室にやって来て、血管の浮いた手首を取るのを感じた。軽い痛みが走ったが、体の気怠さから、もう何もかもがどうでもよくなっていた。

 二人の男の会話も遠くにしか聞こえない。
 
「これは精神的なものでしょう。点滴だけでは限界があります。一度入院させることをお勧めしますよ。もちろん、秘密は厳守いたしますから」
 
「はっ……そんな馬鹿な。今更心も何もあったものか」

「高柳様、元医師の私が申し上げるのもなんですが、近頃心は脳だけに宿るものではないと感じております。人はもっと複雑な生き物です。まして女性となると……」

 二人はそれからしばらく話を続けていたが、やがてドアの閉まる音がして沈黙が寝室に落ちた。

 長い指が鳶色の髪を掬い取る。間近にある琥珀色を帯びた瞳が、弱り果てた女を映し出していた。

「……真琴。君はこんなところまで月子さんに似ているな。何があっても意志を手放さない。あの人も父に抗って命を絶とうとした」

 だが、できなかったと言葉が続けられる。

「なぜだかわかるかい? 兄と愛し合っていて、その助けを待っていたから? まさか。兄はそんな聖人君子のような男ではなかったさ」

 夏柊は月子と駆け落ちをしたが、それは月子を助けるためではなく、自分以外の男に抱かれるのが耐えられなかったからだと語られた。

「……月子さんが生きると決めた理由は、子ができたからだ。誰の子であっても、あの人は孕んだ以上、宿った命を殺せない人だった。例え脅されて関係を持たされた、この私の子であってもね」
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