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君だけしかいらない(1)
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――真琴が姿を消して二日が経った。
先日、帰宅して「ただいま」と声を掛けたのに返事がなく、部屋の明かりは消されたままで暗く、真琴の体温がどこにも感じられずに目を瞬せた。
いつもなら作り立ての味噌汁の香りとともに、「お帰り。すぐにご飯がいい?」と迎えに出てくれるのに。
LINEのメッセージも「夕飯生姜焼きでもいい?」が最後で、以降はどれだけ待っても返信はなく、電話を掛けてもまったく出ない。
がらんとした部屋に生まれて初めて恐怖を覚えた。
その日薫は休日を利用し、真琴の知人友人に片端から電話を掛け、真琴がそちらに行っていないか、来たらすぐに連絡をくれと頭を下げた。もちろん、真琴の元恋人である直樹にもだ。
直樹はツーコール目で電話を取り、薫なのだと知るなり、「なんでお前が俺に電話!?」と仰天していた。真琴が二日前から帰宅していない事情を説明すると、「そりゃあいつらしくないな」と唸り、「了解。そうなったらすぐに連絡するから」と力強く約束してくれた。
「でもな、真琴が俺のところに来るとは思えないんだよ。前も婚約者に悪いからって連絡取り合うのも断られたし、俺もこれ以上未練がましい真似はなあってなって……って、ちょっと待て。なんで真琴がそっちにいるわけ? と言うか、お前について行ったってどういうこと?」
真琴の婚約者は自分だと打ち明けると、直樹はしばし絶句し、
「え、え、え、お茶の間にそんなことに!? 嘘だろおおおぉぉぉ!?」
、と騒ぎ出したので話を打ち切り、連絡の念押しをして電話を切った。
ダイニングのテーブル席に腰掛け、手を組んで深く重い溜め息を吐く。
自由など欠片も与えるべきではなかったと、後悔が津波となって押し寄せて来た。閉じ込めておけばこのようなことにはならなかったのだ。
だが、卒業式のあの夜以来、真琴が次第に真琴らしくなくなり、影すら薄くなってきたので、危機感を覚えて最大限の譲歩をしたのである。
とはいえ、真琴が家出をしたとは思えなかった。やっと、ようやくすべてを受け入れてくれたばかりなのだ。一度選んだ道から逃げる人ではないと、長年に渡る付き合いからよくわかっていた。
つまり、出先でなんらかの事故に遭ったか、事件に巻き込まれたものと考えられる。真琴ほどの美しい女なら有り得る話だった。
今頃どのような目に遭っているのかと想像するだけで、胸を掻きむしり世界を破壊したくなる衝動に駆られる。
(……冷静になれ)
眼鏡を掛け直しておのれに言い聞かせる。
落ち着かなければ何もできない。あらゆる可能性を考え、あらゆる手段を取らなければならなかった。
真琴のスマートフォンにはGPSを仕込んでいたのだが、電源が切れたのか切ったのか、結局現在の居場所はわからなかった。もともと真琴はガジェットに疎く、スマートフォンすらあまり使わないので、大して期待してはいなかったのだが――
警察にも相談したものの、失踪二日目では説得力がなかったのか、「もう少し待ってみてはいかがですか」と宥められた。大方恋人同士の痴話喧嘩の果てに、女が出て行ったと捉えられていたのだろう。
埒が明かないので司法修習生だと名乗り、更に親しい検察官の名前を出して、ようやく行方不明者届を受け付けさせた。だが、あの様子では一般家出人と見なされ、ろくな捜索はされないだろうと推察できる。
何か手がかりはないかと家探しをしたが、真琴の持ち物は大して高くも多くもない服と化粧品、十冊程度の読み込まれた文庫本だけだった。女性が好みそうなアクセサリーやブランド品は一つもない。薬指の婚約指輪のみなのだろう。
そうだ。真琴はこういう人だったと、薫は唇を血が滲むほど噛み締めた。
昔から何も欲しがろうとはしない。すべてを真っ先に義弟の自分に与えてしまい、それが私の幸せなのだというように柔かく笑う。
だから、真琴自身も当然自分のものだと思っていたのかもしれなかった。
なのに、「彼氏ができた」と照れ臭そうに聞かされた時の、衝撃と焦燥、燃え上がるような怒りを、今でもよく覚えている。
あれは五年前のことだった。
夕飯の途中で話があるのと切り出されたのだ。初めて目にする幸福そうな微笑みを前にすると、「そうか。よかったな」としか言えなかった。
なんでも友人の代理で参加した合コンで出会ったのだという。そのところやけに機嫌がよかったのは、恋人ができたからだったのだ。
「あ~、やっぱり紅鮭って美味しい。奮発してよかった~。薫、ご飯お代わりいる?」
「……まだいいよ」
「そう? 欲しくなったら言ってね」
真琴は好物の鮭のムニエルに舌鼓を打ちながら、無邪気で残酷な質問を投げ掛けて来た。
「薫は好きな子はいないの? 彼女ができたら家に連れて来てよね。私、楽しみにしているんだから。思う存分青春しなくちゃ」
「……恋愛ははまだいい。やることがたくさんあるから」
「学生のうちに相手を見付けておかないと、社会人になったら難しくなるって聞いたよ? 私はたまたまいい人がいたけど……。将来結婚したいんだったら今のうちに動かないと。可愛い子はすぐに売れちゃうよ」
結婚と耳にしてまた衝撃を受ける。真琴の年齢であればその男と結婚となっても不思議ではない。激情と化した嫉妬心で体が焼け焦げてしまいそうだった。
自分は家族だとしか認識されていないのだとは、もうとっくに嫌というほどよく理解していた。そうでもなければ若い男と一つ屋根の下で暮らせるはずがない。
どれだけ女に言い寄られようと、真琴が手に入らないのなら意味はない。なのに、皮肉なことに真琴の心だけは得られない。
その時、おのれの中に昏く燃える炎を感じながら決意した。
――なら、心などはいらない。愛し合えなくてもいい。追い詰めて、自分を選ぶ以外の道を閉ざしてしまえ。
先日、帰宅して「ただいま」と声を掛けたのに返事がなく、部屋の明かりは消されたままで暗く、真琴の体温がどこにも感じられずに目を瞬せた。
いつもなら作り立ての味噌汁の香りとともに、「お帰り。すぐにご飯がいい?」と迎えに出てくれるのに。
LINEのメッセージも「夕飯生姜焼きでもいい?」が最後で、以降はどれだけ待っても返信はなく、電話を掛けてもまったく出ない。
がらんとした部屋に生まれて初めて恐怖を覚えた。
その日薫は休日を利用し、真琴の知人友人に片端から電話を掛け、真琴がそちらに行っていないか、来たらすぐに連絡をくれと頭を下げた。もちろん、真琴の元恋人である直樹にもだ。
直樹はツーコール目で電話を取り、薫なのだと知るなり、「なんでお前が俺に電話!?」と仰天していた。真琴が二日前から帰宅していない事情を説明すると、「そりゃあいつらしくないな」と唸り、「了解。そうなったらすぐに連絡するから」と力強く約束してくれた。
「でもな、真琴が俺のところに来るとは思えないんだよ。前も婚約者に悪いからって連絡取り合うのも断られたし、俺もこれ以上未練がましい真似はなあってなって……って、ちょっと待て。なんで真琴がそっちにいるわけ? と言うか、お前について行ったってどういうこと?」
真琴の婚約者は自分だと打ち明けると、直樹はしばし絶句し、
「え、え、え、お茶の間にそんなことに!? 嘘だろおおおぉぉぉ!?」
、と騒ぎ出したので話を打ち切り、連絡の念押しをして電話を切った。
ダイニングのテーブル席に腰掛け、手を組んで深く重い溜め息を吐く。
自由など欠片も与えるべきではなかったと、後悔が津波となって押し寄せて来た。閉じ込めておけばこのようなことにはならなかったのだ。
だが、卒業式のあの夜以来、真琴が次第に真琴らしくなくなり、影すら薄くなってきたので、危機感を覚えて最大限の譲歩をしたのである。
とはいえ、真琴が家出をしたとは思えなかった。やっと、ようやくすべてを受け入れてくれたばかりなのだ。一度選んだ道から逃げる人ではないと、長年に渡る付き合いからよくわかっていた。
つまり、出先でなんらかの事故に遭ったか、事件に巻き込まれたものと考えられる。真琴ほどの美しい女なら有り得る話だった。
今頃どのような目に遭っているのかと想像するだけで、胸を掻きむしり世界を破壊したくなる衝動に駆られる。
(……冷静になれ)
眼鏡を掛け直しておのれに言い聞かせる。
落ち着かなければ何もできない。あらゆる可能性を考え、あらゆる手段を取らなければならなかった。
真琴のスマートフォンにはGPSを仕込んでいたのだが、電源が切れたのか切ったのか、結局現在の居場所はわからなかった。もともと真琴はガジェットに疎く、スマートフォンすらあまり使わないので、大して期待してはいなかったのだが――
警察にも相談したものの、失踪二日目では説得力がなかったのか、「もう少し待ってみてはいかがですか」と宥められた。大方恋人同士の痴話喧嘩の果てに、女が出て行ったと捉えられていたのだろう。
埒が明かないので司法修習生だと名乗り、更に親しい検察官の名前を出して、ようやく行方不明者届を受け付けさせた。だが、あの様子では一般家出人と見なされ、ろくな捜索はされないだろうと推察できる。
何か手がかりはないかと家探しをしたが、真琴の持ち物は大して高くも多くもない服と化粧品、十冊程度の読み込まれた文庫本だけだった。女性が好みそうなアクセサリーやブランド品は一つもない。薬指の婚約指輪のみなのだろう。
そうだ。真琴はこういう人だったと、薫は唇を血が滲むほど噛み締めた。
昔から何も欲しがろうとはしない。すべてを真っ先に義弟の自分に与えてしまい、それが私の幸せなのだというように柔かく笑う。
だから、真琴自身も当然自分のものだと思っていたのかもしれなかった。
なのに、「彼氏ができた」と照れ臭そうに聞かされた時の、衝撃と焦燥、燃え上がるような怒りを、今でもよく覚えている。
あれは五年前のことだった。
夕飯の途中で話があるのと切り出されたのだ。初めて目にする幸福そうな微笑みを前にすると、「そうか。よかったな」としか言えなかった。
なんでも友人の代理で参加した合コンで出会ったのだという。そのところやけに機嫌がよかったのは、恋人ができたからだったのだ。
「あ~、やっぱり紅鮭って美味しい。奮発してよかった~。薫、ご飯お代わりいる?」
「……まだいいよ」
「そう? 欲しくなったら言ってね」
真琴は好物の鮭のムニエルに舌鼓を打ちながら、無邪気で残酷な質問を投げ掛けて来た。
「薫は好きな子はいないの? 彼女ができたら家に連れて来てよね。私、楽しみにしているんだから。思う存分青春しなくちゃ」
「……恋愛ははまだいい。やることがたくさんあるから」
「学生のうちに相手を見付けておかないと、社会人になったら難しくなるって聞いたよ? 私はたまたまいい人がいたけど……。将来結婚したいんだったら今のうちに動かないと。可愛い子はすぐに売れちゃうよ」
結婚と耳にしてまた衝撃を受ける。真琴の年齢であればその男と結婚となっても不思議ではない。激情と化した嫉妬心で体が焼け焦げてしまいそうだった。
自分は家族だとしか認識されていないのだとは、もうとっくに嫌というほどよく理解していた。そうでもなければ若い男と一つ屋根の下で暮らせるはずがない。
どれだけ女に言い寄られようと、真琴が手に入らないのなら意味はない。なのに、皮肉なことに真琴の心だけは得られない。
その時、おのれの中に昏く燃える炎を感じながら決意した。
――なら、心などはいらない。愛し合えなくてもいい。追い詰めて、自分を選ぶ以外の道を閉ざしてしまえ。
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