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君は誰よりも美しい(10)
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その夜の薫は行為ができないのにもかかわらず、いつになく嬉しそうにベッドに横になった。
「真琴が甘えてくれたの、初めてだ」
「そう?」
「甘えさせてはくれたけど……」
薫が二十歳になるまでは親代わりだったのだから当然だ。
「もっと甘えてほしい。他に何かないか?」
「うーん……。特にない。家事もやってもらったし、ご飯も食べさせてもらったし、十分甘えたって」
「……そういうことじゃない」
薫は真琴の答えに満足できなかったのか、背と肩に手を回してそっと胸に抱き寄せた。真琴も得体の知れない恐怖を誤魔化そうと、抵抗せず、薫に身を任せて瞼を閉じる。
(薫のにおいがする……)
シャンプーの香料のハーブや、修習先のオフィスの乾燥した空気、入浴後の汗の入り交じる男性的なにおいだ。
今日ばかりはこのにおいにほっとした。
薫の確かな心臓の鼓動と壁掛け時計の秒針が時を刻む音、こうして抱かれていなければわからない、互いの呼吸だけが聞こえる。
不思議と昨日ほど薄闇を恐ろしいとは感じなかった。だが、眠りの波は一向に訪れてくれない。
それは薫も同じだったようで、鳶色の髪を何度も撫でながら、聞こえるか聞こえないかの声で感慨深そうにこう呟いた。
「……真琴、小さくなったな」
さすがに苦笑するしかなかった。
「薫が大きくなったんでしょう?」
それにしても今更だが、小学、中学時代には小柄で少女のようだった義弟が、立派になったものだと思う。
もうこの広い胸にすっぽり収まってしまうし、頭でも力でも敵わず白旗を掲げるしかない。
「薫、いつも一杯食べるもんね。中学生の頃は今より量多くなかった? ロールキャベツ一人で五個とか。私、薫専用にレシピの二倍サイズにしてたんだよ。お米もストックは欠かせなくて……」
『お代わり!』と元気に茶碗を差し出され、白米を大盛りによそったあの日の記憶が脳裏に蘇る。
「……早く大人になりたかったから」
黒い瞳がここではない遠いどこかに向けられた。
「子どもじゃ何もできなかった」
だが、すぐに真琴を映して笑みを浮かべる。
「今じゃ真琴が子どもみたいだ。暗いところが怖いとか」
年上に何を言っているのかとムッとした。
「大人にもそういう日はあるの」
「俺はないけど」
「……」
可愛くないとますます口をへの字にしつつ、そう言えば薫は幼い頃から闇をその濃さを問わず、まったく怖がらなかったと思い出した。
子どもが好みそうなホラーやオカルトにも興味がなかった。代わって科学や歴史などのこの世の理を解く、あるいは流れを追う学問を好んだ。法律の道に進んだのもそうした傾向からだと思われる。
つまり、現実にしか関心を持たないのだ。以前両親をもう死んでいて、何もできないと言ったのも本心なのだろう。
冷たいのではなく、冷静で合理的なだけだ。ただし、義姉への異常な執着以外はだが――
「お化けとか怖くなかったの?」と尋ねると、「そんなものがいるはずがない」と、やはり可愛くない答えが帰ってきた。
「薫に怖いものはないの」
「……もちろんある」
株価の下落や法律の改正あたりの、リアリストな答えが返ってくるかと思いきや、薫は真琴を抱く腕に力を込めた。
「真琴を失くすことが一番怖い。……怖くなった」
壊したいとまで思っていたはずなのにと、また声と黒い瞳に不安が宿る。
「昨日、一瞬心臓が止まったかと思った。真琴が死んだように見えて……」
「そんなに簡単に死んだりしないよ」
「……人の命が呆気ないってことは、真琴もよく知っているだろう」
反論ができずに黙り込むしかなかった。真之と月子だけではなく、毎日多くの人間が事件で、事故で理不尽な死を迎えている。明日も生きているという保証は実は誰もしてくれない。
「頼むから、俺の前から消えないでくれ」
掠れた声がかすかに震えて揺れている。嘘ではなくそれを恐れているのだと知り驚いた。
真琴は思わず「大丈夫だから」と声を掛け、薫の頬を両手で包み込んだ。子どもをあやすように大丈夫を繰り返す。
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。ね? 大丈夫だから」
(……薫はどうしてこんなに不安なんだろう? どうして私を閉じ込めて、コントロールしたがるんだろう?)
また、なぜ高柳家から連絡があったことや、祖父の春継の遺産を相続したことを黙っていたのかと再び首を傾げる。
(確か薫のお祖父さんが亡くなったのは一昨年の十一月……)
まだ薫が大学に在学中だった頃のことだ。同年の九月には司法試験に合格している。
真琴はそこである奇妙な一致に気付いた。
(そう、その頃から検察官になるってはっきり言うようになったんだ)
司法試験に合格前には弁護士も考慮していたはずなのだが――
偶然なのかどうかはまだ判断できなかった。
(……やっぱりもう一度高柳先生に話を聞いてみなくちゃ)
馬鹿正直に打ち明けてくれるとも思えないが、とにかく接触を取らなければなんの情報も得られない。
(明日電話してみよう。出てくれないかもしれないけど……)
ところが、翌日真琴が連絡を取るまでもなく、冬馬からLINEにメッセージが入った。
「真琴が甘えてくれたの、初めてだ」
「そう?」
「甘えさせてはくれたけど……」
薫が二十歳になるまでは親代わりだったのだから当然だ。
「もっと甘えてほしい。他に何かないか?」
「うーん……。特にない。家事もやってもらったし、ご飯も食べさせてもらったし、十分甘えたって」
「……そういうことじゃない」
薫は真琴の答えに満足できなかったのか、背と肩に手を回してそっと胸に抱き寄せた。真琴も得体の知れない恐怖を誤魔化そうと、抵抗せず、薫に身を任せて瞼を閉じる。
(薫のにおいがする……)
シャンプーの香料のハーブや、修習先のオフィスの乾燥した空気、入浴後の汗の入り交じる男性的なにおいだ。
今日ばかりはこのにおいにほっとした。
薫の確かな心臓の鼓動と壁掛け時計の秒針が時を刻む音、こうして抱かれていなければわからない、互いの呼吸だけが聞こえる。
不思議と昨日ほど薄闇を恐ろしいとは感じなかった。だが、眠りの波は一向に訪れてくれない。
それは薫も同じだったようで、鳶色の髪を何度も撫でながら、聞こえるか聞こえないかの声で感慨深そうにこう呟いた。
「……真琴、小さくなったな」
さすがに苦笑するしかなかった。
「薫が大きくなったんでしょう?」
それにしても今更だが、小学、中学時代には小柄で少女のようだった義弟が、立派になったものだと思う。
もうこの広い胸にすっぽり収まってしまうし、頭でも力でも敵わず白旗を掲げるしかない。
「薫、いつも一杯食べるもんね。中学生の頃は今より量多くなかった? ロールキャベツ一人で五個とか。私、薫専用にレシピの二倍サイズにしてたんだよ。お米もストックは欠かせなくて……」
『お代わり!』と元気に茶碗を差し出され、白米を大盛りによそったあの日の記憶が脳裏に蘇る。
「……早く大人になりたかったから」
黒い瞳がここではない遠いどこかに向けられた。
「子どもじゃ何もできなかった」
だが、すぐに真琴を映して笑みを浮かべる。
「今じゃ真琴が子どもみたいだ。暗いところが怖いとか」
年上に何を言っているのかとムッとした。
「大人にもそういう日はあるの」
「俺はないけど」
「……」
可愛くないとますます口をへの字にしつつ、そう言えば薫は幼い頃から闇をその濃さを問わず、まったく怖がらなかったと思い出した。
子どもが好みそうなホラーやオカルトにも興味がなかった。代わって科学や歴史などのこの世の理を解く、あるいは流れを追う学問を好んだ。法律の道に進んだのもそうした傾向からだと思われる。
つまり、現実にしか関心を持たないのだ。以前両親をもう死んでいて、何もできないと言ったのも本心なのだろう。
冷たいのではなく、冷静で合理的なだけだ。ただし、義姉への異常な執着以外はだが――
「お化けとか怖くなかったの?」と尋ねると、「そんなものがいるはずがない」と、やはり可愛くない答えが帰ってきた。
「薫に怖いものはないの」
「……もちろんある」
株価の下落や法律の改正あたりの、リアリストな答えが返ってくるかと思いきや、薫は真琴を抱く腕に力を込めた。
「真琴を失くすことが一番怖い。……怖くなった」
壊したいとまで思っていたはずなのにと、また声と黒い瞳に不安が宿る。
「昨日、一瞬心臓が止まったかと思った。真琴が死んだように見えて……」
「そんなに簡単に死んだりしないよ」
「……人の命が呆気ないってことは、真琴もよく知っているだろう」
反論ができずに黙り込むしかなかった。真之と月子だけではなく、毎日多くの人間が事件で、事故で理不尽な死を迎えている。明日も生きているという保証は実は誰もしてくれない。
「頼むから、俺の前から消えないでくれ」
掠れた声がかすかに震えて揺れている。嘘ではなくそれを恐れているのだと知り驚いた。
真琴は思わず「大丈夫だから」と声を掛け、薫の頬を両手で包み込んだ。子どもをあやすように大丈夫を繰り返す。
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。ね? 大丈夫だから」
(……薫はどうしてこんなに不安なんだろう? どうして私を閉じ込めて、コントロールしたがるんだろう?)
また、なぜ高柳家から連絡があったことや、祖父の春継の遺産を相続したことを黙っていたのかと再び首を傾げる。
(確か薫のお祖父さんが亡くなったのは一昨年の十一月……)
まだ薫が大学に在学中だった頃のことだ。同年の九月には司法試験に合格している。
真琴はそこである奇妙な一致に気付いた。
(そう、その頃から検察官になるってはっきり言うようになったんだ)
司法試験に合格前には弁護士も考慮していたはずなのだが――
偶然なのかどうかはまだ判断できなかった。
(……やっぱりもう一度高柳先生に話を聞いてみなくちゃ)
馬鹿正直に打ち明けてくれるとも思えないが、とにかく接触を取らなければなんの情報も得られない。
(明日電話してみよう。出てくれないかもしれないけど……)
ところが、翌日真琴が連絡を取るまでもなく、冬馬からLINEにメッセージが入った。
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