義弟の卒業~過保護な義姉さん押し倒される~

東 万里央(あずま まりお)

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君は誰よりも美しい(1)

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 行き付けのレディースクリニックの自動ドアを潜り抜け、マンションに戻るためのバス停へ向かう途中のことだった。その通りの並木は両側とも桜だった。

 どこからか爽やかな香りのする風が吹き、肩まで伸びた鳶色の髪をふわりと舞い上げる。風は髪だけではなく五分咲きの桜の花弁もさらい、淡紅色の一枚を真琴の手の甲に落とした。

 思わず頭上の色付く並木を仰ぎ見て、春を告げる花々の美しさに、つい見惚れてその場に立ち止まる。

(……綺麗。満開になるのはいつ頃だろう?)

 そこで声を掛けられなければ、いつまでも桜を眺め続けていただろう。

「ねえねえ、お姉さん! そう、桜の木の下の!」

 「お姉さん」を「お義姉さん」と聞き違え、長年義弟の薫にそう呼ばれていた習慣から振り返る。

 しかし、後ろにいたのは薫ではなく、同年代か少々年下と思しきジーンズの青年だった。

(誰? というか、呼ばれたのって私?)

 青年は愛想よく笑いながら真琴を見下ろし、「自分、綺麗やなあ!」と目を輝かせた。どうやら大阪出身なのか、それらしいノリと方言だった。

「今一人? お茶せえへん? なんだったら飯奢るし!」

「あー……」

 またナンパかと苦笑し、「ごめんなさい」と謝り指輪を見せる。

「もうすぐ結婚するので……」

 ダイヤモンドの眩い煌きを目にし、ひょろりとした肩ががっくりと落ちた。

「結婚するんじゃあかんよな。悪い、悪い」

「おーい、お前、何やってんだ」

 落ち込む青年の後頭部を新たにやって来た誰かが叩く。

「たった今振られたんや。この際お前が慰めて」

「おいおい、こんなとこに来てもナンパかよ」

「だって、むっちゃ好みやったんや……」

 新たな来訪者は真琴をちらりと見ると、
 
「美人ってのは大抵人妻か彼氏持ちだ。ちょいブスあたりを狙えよ」

などと、だいぶ失礼な発言をしていた。

 この気安さからして友人同士なのだろう。二人は仲良く連れ立って真琴の前から姿を消した。

 慰め合う青年たちの背を見送ったのち、あらためてバス停へと向かう。

 それにしても、病院近くでナンパされるとは思わなかったと溜め息を吐く。

 人並みに男性から声を掛けられては来たが、なぜか十代や二十代前半の頃の全合計より、この一年間の方がずっと多く口説かれている。

 一ヶ月ほど前、薫と街中で待ち合わせた際にも、こうしてナンパされたことがあった。しつこい男で何度断っても食い下がる。

 途中でやって来た薫が追い払ったのだが、帰宅後嫉妬からベッドに引きずり込まれ、体を激しく責められただけではなく、一ヶ月間外出を禁じられ、スーパーにすら行けなくなった。

 更にその後、駅で見知らぬサラリーマンに突然、「結婚前提のお付き合いを」と申し込まれ、ストーカーされた挙句に、薫がその男を物理的、及び法的に叩きのめしたこともあった。未来の検察官だけあり、その手腕は見事なものだった。

 こうも男性関連でトラブルがあると、さすがに真琴自身も我が身を振り返る。

 だが、目立った行動をしているわけでも、扇情的な服装をしているわけでもない。

 化粧はもともと薄く最低限で、ファッションにも金をかける方ではないので、女性としては地味なタイプだと自覚している。誘われても今回のように、初めからきっぱり断ってもいる。

 にもかかわらず絡まれるのだから、これ以上対策の取りようがなかった。

(薫にバレたらまた外出禁止になっちゃう。こんなこと絶対に内緒にしておかないと……)

 真琴が諦め、ついにその愛を受け入れて以来、薫が真琴に夜無理強いをすることは減った。

 しかし、異常な独占欲は相変わらずである。

 とにかく早く一緒になりたいと急かされるので、八月に一度揃って東京に帰る用事があるのだが、その際籍を入れることになっていた。

 すぐに子どもを作ろうとも約束させられている。真琴を繋ぎ止める何かがほしいのだろう。

(もう、逃げる気なんてないんだけど……)

 五分歩いて辿り着いたバス停には真琴以外誰もおらず、次のバスが来るまでまだ二十分以上もあった。錆びたベンチに腰掛けぼんやりしていたのだが、すぐに飽きて運動がてら次のバス停まで歩こうと思い付く。

 数ヶ月が経ってもいまだに慣れないのだが、こちらでは一切働くことを許されず、こうして病院に行くなどの最低限の用事以外は、薫の命令通りになるべく家の中にいて薫のためだけに生きている。

 だから、こうして病院を口実に散策できる機会は貴重だった。

 この界隈は寺町と呼ばれているらしく、その名の通りいくつもの寺院が軒を連ねている。観光客に人気の忍者寺こと妙立寺や、樹齢数百年の桜の大木のある松月寺などがあり、それら以外の寺院も封建時代からの歴史があるのだという。

 閑静な街並みの中を歩いていると、タイムスリップした気分になり、いつになく胸が踊るのを感じた。マップを手にした観光客もちらほらと見かける。

 ところが、ある寺の前にまで来たところで足が止まった。

(? ここって……)
 
 荘厳な門構えと磨り減った石碑――既視感に首を傾げる。

(でも、お父さんたちのお墓のある東京のお寺とは全然違うし、一体どこでーー)

 門前で数分間必死になって記憶を辿り、思い出した時にはあっと声を上げた。

(薫のパソコンにあった写真のお寺じゃない)

 玄関は開放されているのだが、果たして入っていいのかと迷っていると、気のよさそうな年配の女性が桶を手に出て来た。この寺の関係者だろうか。

 佇む真琴を目にして「あらあら」と微笑む。

「観光客の方?」

「はい、そんなもので……」

「今からお勤めがあるの。よければ聞いていかない? そのあとお茶とお菓子が出るから」



 お勤めとはつまりは読経を意味し、寺ならどこででも毎日欠かさず行っているものらしい。基本的には参加できるのは檀家だけなのだが、時にはこうして寺関係者の気まぐれで、観光客を受け入れることもあるのだとか。

 ここは禅宗の一派である曹洞宗の寺で、土日には坐禅の体験ができるのだそうだ。

「そっちは完全に観光客向けね。今日のお客様はあなた一人だけだけど、昨日なんて外国人の方がたくさんいらっしゃってね。特に西洋人は坐禅にロマンを感じるのかしらね」

 この女性は住職の妻で菊乃といい、今年七十歳になるのだそうだ。常にニコニコとして話好きで、座敷でムスッとして茶を飲んでいる、寡黙な僧侶の夫と対象的だった。

 真琴は菊乃に誘われ、お勤めに参加したのち、縁側で茶と菓子とおしゃべりを楽しんでいた。

「このお寺、綺麗ですね。縁側も気持ちがいいです」

 目の前の広々とした庭園は、鮮やかな緑の苔で覆われており、石灯籠も半分だけ同じ色になっている。何本も植えられた曲がりくねった松の木も風情があった。

「私、てっきりお寺の縁側からはお墓が見えるものだと……」

「墓地は反対側よ。江戸時代のお侍さんのお墓もあるのよ。この寺自体は鎌倉時代末期に創建されて、江戸時代に寺町に移ったの」

「えっ、すごいですね……」

 予想以上に由緒ある寺だった。

 真琴はできるだけさり気なく、例の写真について探ろうと試みた。

「このお寺で最近お葬式はなかったですか?」

「最近というか、よくあるわねえ。先月は五件かしら。冬にはよくお年寄りが亡くなるのよ」

「そ、そんなに……」

 いずれにせよ、誰の葬儀だったのかは個人情報に当たり、さすがの菊乃も部外者の真琴には教えてくれないだろう。

(やっぱりダメかあ。まあ、仕方ないよね)

 おのれの見通しの甘さにがっかりとしつつ、お茶を飲み干そうとしたその時だった。

「菊乃さん、いるかい? ベルを押しても誰も出ないから、こちらから来たけどよかったかい」

 低く艶のある声が菊乃を呼び、緑の苔を草履で踏み締めつつ、長身痩躯の和服姿の男性が現れた。

 勝色の着物に錆納戸の羽織を纏い、縞模様のある麦藁色の帯を締めている。左腕には血を思わせる色の、椿の花束を抱えていた。

 整えられた黒髪からは一筋、二筋落ちており、切れ長の目に影を落としている。面長で少々頬がくぼんでおり、日本的で整った顔立ちではあるのだが、どこか退廃的な雰囲気のする男性だった。年は四十ほどだろうか。

 菊乃が慌てて立ち上がる。

「あらまあ、冬馬とうまさん! ごめんなさいね! こちらのお嬢さんとのおしゃべりに夢中になっちゃって」

「お嬢さん……?」

「あ、いえ、お嬢さんって年じゃ……」

「二十代なら十分お嬢さんよ!」

 男性の目がゆっくりと真琴に向けられる。直後に限界まで見開かれ、薄い唇がかすかに動いた。

「月子さん……?」
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