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身も心も縛られて(4)
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真琴は思いがけない理由にぽかんとし、次いで軽く吹き出してしまった。怒りはすでに綺麗に吹き飛んでいた。
薫が顔を真っ赤にして突っかかってくる。
『なんで笑うんだよっ!』
『だ、だって……』
可愛くてと告げればますます拗ねそうだったので、『わかった、わかった』とどうにか笑いを堪えた。
要するに、焼き餅だったのかと納得する。
学校の友達にも弟がいる子が何人かいるが、皆小学校高学年にもなるとそれぞれ自分の世界ができ、男女の違いもあるのかなんとなく疎遠となり、家庭内でも必要以上に話さなくなると聞いていた。
なのに、薫とは血の繫がりがないにもかかわらず、いまだに随分仲がいいではないかと嬉しくなったのだ。
それでも、言うべきことは言わなければならない。真琴はあらためて姿勢を正すと、腰を屈めて薫の顔を覗き込んだ。この頃には真琴のほうがはるかに背が高かった。
『薫の気持ちはよくわかったよ。でもね、私からもらったんじゃなくても、お土産やプレゼントをあんなふうに壊しちゃ駄目。くれた人の気持ちを踏みにじるから。私、すごく悲しかったんだよ』
薫ははっと息を呑んで真琴を見上げた。ようやくしでかしたことを理解したのか、大きな黒い瞳が後悔と自己嫌悪に歪む。桜貝にも似た唇が血が滲むほど噛み締められた。
『……ごめんなさい』
『うん、わかったよ。ちゃんと謝れて偉い! お義姉ちゃんはもう許した!』
すっかり落ち込んだ薫の両肩に手を置き、「土曜日、一緒に本屋さん行こうか」と笑う。
『本屋?』
『薫だけなくなっちゃったでしょ。だから、新しいボールペン買わなくちゃ。ただし、千円以内だからね』
ようやく真琴が許してくれたのだと悟ったのだろう。人形のような顔がぱっと輝き、照れくさそうに「うん」と頷く。
『この際私とお揃いにする? あ、それじゃ薫が嫌かな?』
――翌々週、薫が塾で自宅にいない際、真琴はこの出来事を義母の月子に語った。
芳しい入れたての紅茶と、手作りケーキに舌鼓を打ちつつ、「ほんとに可愛かったんだから」とついニヤニヤとしてしまう。
『あんな顔でごめんなさいなんて言われたら、もうこっちは許すしかないよね。お義母さん、薫を叱るの大変だったでしょ?』
だが、月子は真琴の冗談に笑わなかった。それどころか、ティーカップを持つ手がかすかに震えている。
『お義母さん、どうかしたの?』
何かまずいことを言ってしまったのかと慌てていると、月子は「違うのよ。ごめんね」と青ざめながらも弱々しく微笑んだ。薫によく似た美しい目を澄んだ紅葉色の水面に落とす。
『あの子の言っていることが、夏柊さんとそっくりで……あの人もやっぱりグラスを壊して……』
夏柊とは壮絶な闘病のすえ、病死した月子の前夫であり、薫の実の父親である。会ったこともなかったが、珍しい名前なのでなんとなく覚えていた。
月子はすぐに気を取り直し、『嫌だ、私ったら』と紅茶を一口飲んだ。
『何を考えているのかしら。そんなことがあるはずが……。そうね、真琴ちゃんは頼り甲斐があるから、つい甘えちゃうんでしょうね。これからもあの子をよろしくね』
よろしくね……。
雨の音が聞こえる。
昨日までは雪が降っていたはずなのに、気温が深夜のうちに上がったのだろうか。
「ん……」
頭がかすかに痛んだので身じろぎをすると、毛布が落ちたのかぱさりとベッドの下で衣擦れの音がした。
だが、裸の肌に触れる空気は温かく不快感はない。
「薫……?」
意志の力で重い瞼を開けると、室内が目に入った瞬間に、見た夢をすべてを忘れてしまった。
とはいえ、よくあることだったので、少々引っ掛かりを覚えながらも、すぐに気を取り直すために首を軽く横に振った。
薫は姿はすでに隣にはなくもぬけの殻で、リビングダイニングにも気配がない。
枕元の置き時計を見ると、すでに午前十時である。今日は平日なのですでに出かけたのだろう。休日は一般の公務員と同じく、土日祝日だと聞いている。
酷使されて軋む体を叱咤して起き上がり、部屋に暖房がかかっているのに気付く。体を冷やさないようにしてくれたのだろう。
シャワーを浴びて今度こそ身を清め、ダイニングに行くと朝食も準備されていた。真琴の好物の焼き鮭がメインだった。
気遣いはありがたいのだが、昨日の今日で食欲などあるはずもなく、これは昼に回そうと溜め息を吐く。
これから始まる生活が憂鬱でならなかった。
食卓には手書きのメモも置かれており、室内のエアコンや家電の簡単な説明と、パソコンは自由に使ってもいい旨などが書かれている。
案の定、その後の一人きりの時間は退屈だった。1LDKの部屋では隅から隅まで掃除をしてもあっという間に終わり、スーパーに出かけて材料を買い込み夕飯の準備を済ませ、三日分の惣菜を料理して容器に詰めてもまだ明るい。
薫からは観光地は週末に案内するので、単身での外出は極力控えるようにと言われている。監視されているわけではないが、許可なく出かけるのは躊躇われた。
あとからバレて問い詰められたら、どう言い訳をすればいいのかわからない。その後与えられるであろう罰も恐ろしかった。
子どもでもいればまた別なのだろうが、薫とはまだ結婚はしていないし、第一こんな心境で妊娠などはできなかった。いつかのように恐慌状態となって、育児どころではないだろう。
だから、薫に抱かれるようになってからは、必ずピルを飲むようにしている。泣いて頼んでも決して避妊してくれないからだ。
だが、東京で出してもらったピルは、そろそろ切れる頃である。
こちらに来る前に地元の評判のいい病院は調べて見つけている。しかし、マンションからは少々遠く時間がかかる。
薫の機嫌を二度と損ねたくはないので、近隣に婦人科がないかを探そうとして、窓際のデスクに置かれたパソコンの電源を入れた。
デスクトップにはフォルダがいくつかあり、難解な法律の専門用語で名付けられている。
それらを無視してブラウザを立ち上げようとしたのだが、うっかり隣のフォルダに触れてクリックしてしまったらしい。すぐに閉じようとしたのだが、ずらりと並んだ大アイコンの画像に、目を奪われて手が止まる。
(……? これ、なんの写真?)
うち一枚には、若かりし頃の月子と思しき女性が写っていた。
薫が顔を真っ赤にして突っかかってくる。
『なんで笑うんだよっ!』
『だ、だって……』
可愛くてと告げればますます拗ねそうだったので、『わかった、わかった』とどうにか笑いを堪えた。
要するに、焼き餅だったのかと納得する。
学校の友達にも弟がいる子が何人かいるが、皆小学校高学年にもなるとそれぞれ自分の世界ができ、男女の違いもあるのかなんとなく疎遠となり、家庭内でも必要以上に話さなくなると聞いていた。
なのに、薫とは血の繫がりがないにもかかわらず、いまだに随分仲がいいではないかと嬉しくなったのだ。
それでも、言うべきことは言わなければならない。真琴はあらためて姿勢を正すと、腰を屈めて薫の顔を覗き込んだ。この頃には真琴のほうがはるかに背が高かった。
『薫の気持ちはよくわかったよ。でもね、私からもらったんじゃなくても、お土産やプレゼントをあんなふうに壊しちゃ駄目。くれた人の気持ちを踏みにじるから。私、すごく悲しかったんだよ』
薫ははっと息を呑んで真琴を見上げた。ようやくしでかしたことを理解したのか、大きな黒い瞳が後悔と自己嫌悪に歪む。桜貝にも似た唇が血が滲むほど噛み締められた。
『……ごめんなさい』
『うん、わかったよ。ちゃんと謝れて偉い! お義姉ちゃんはもう許した!』
すっかり落ち込んだ薫の両肩に手を置き、「土曜日、一緒に本屋さん行こうか」と笑う。
『本屋?』
『薫だけなくなっちゃったでしょ。だから、新しいボールペン買わなくちゃ。ただし、千円以内だからね』
ようやく真琴が許してくれたのだと悟ったのだろう。人形のような顔がぱっと輝き、照れくさそうに「うん」と頷く。
『この際私とお揃いにする? あ、それじゃ薫が嫌かな?』
――翌々週、薫が塾で自宅にいない際、真琴はこの出来事を義母の月子に語った。
芳しい入れたての紅茶と、手作りケーキに舌鼓を打ちつつ、「ほんとに可愛かったんだから」とついニヤニヤとしてしまう。
『あんな顔でごめんなさいなんて言われたら、もうこっちは許すしかないよね。お義母さん、薫を叱るの大変だったでしょ?』
だが、月子は真琴の冗談に笑わなかった。それどころか、ティーカップを持つ手がかすかに震えている。
『お義母さん、どうかしたの?』
何かまずいことを言ってしまったのかと慌てていると、月子は「違うのよ。ごめんね」と青ざめながらも弱々しく微笑んだ。薫によく似た美しい目を澄んだ紅葉色の水面に落とす。
『あの子の言っていることが、夏柊さんとそっくりで……あの人もやっぱりグラスを壊して……』
夏柊とは壮絶な闘病のすえ、病死した月子の前夫であり、薫の実の父親である。会ったこともなかったが、珍しい名前なのでなんとなく覚えていた。
月子はすぐに気を取り直し、『嫌だ、私ったら』と紅茶を一口飲んだ。
『何を考えているのかしら。そんなことがあるはずが……。そうね、真琴ちゃんは頼り甲斐があるから、つい甘えちゃうんでしょうね。これからもあの子をよろしくね』
よろしくね……。
雨の音が聞こえる。
昨日までは雪が降っていたはずなのに、気温が深夜のうちに上がったのだろうか。
「ん……」
頭がかすかに痛んだので身じろぎをすると、毛布が落ちたのかぱさりとベッドの下で衣擦れの音がした。
だが、裸の肌に触れる空気は温かく不快感はない。
「薫……?」
意志の力で重い瞼を開けると、室内が目に入った瞬間に、見た夢をすべてを忘れてしまった。
とはいえ、よくあることだったので、少々引っ掛かりを覚えながらも、すぐに気を取り直すために首を軽く横に振った。
薫は姿はすでに隣にはなくもぬけの殻で、リビングダイニングにも気配がない。
枕元の置き時計を見ると、すでに午前十時である。今日は平日なのですでに出かけたのだろう。休日は一般の公務員と同じく、土日祝日だと聞いている。
酷使されて軋む体を叱咤して起き上がり、部屋に暖房がかかっているのに気付く。体を冷やさないようにしてくれたのだろう。
シャワーを浴びて今度こそ身を清め、ダイニングに行くと朝食も準備されていた。真琴の好物の焼き鮭がメインだった。
気遣いはありがたいのだが、昨日の今日で食欲などあるはずもなく、これは昼に回そうと溜め息を吐く。
これから始まる生活が憂鬱でならなかった。
食卓には手書きのメモも置かれており、室内のエアコンや家電の簡単な説明と、パソコンは自由に使ってもいい旨などが書かれている。
案の定、その後の一人きりの時間は退屈だった。1LDKの部屋では隅から隅まで掃除をしてもあっという間に終わり、スーパーに出かけて材料を買い込み夕飯の準備を済ませ、三日分の惣菜を料理して容器に詰めてもまだ明るい。
薫からは観光地は週末に案内するので、単身での外出は極力控えるようにと言われている。監視されているわけではないが、許可なく出かけるのは躊躇われた。
あとからバレて問い詰められたら、どう言い訳をすればいいのかわからない。その後与えられるであろう罰も恐ろしかった。
子どもでもいればまた別なのだろうが、薫とはまだ結婚はしていないし、第一こんな心境で妊娠などはできなかった。いつかのように恐慌状態となって、育児どころではないだろう。
だから、薫に抱かれるようになってからは、必ずピルを飲むようにしている。泣いて頼んでも決して避妊してくれないからだ。
だが、東京で出してもらったピルは、そろそろ切れる頃である。
こちらに来る前に地元の評判のいい病院は調べて見つけている。しかし、マンションからは少々遠く時間がかかる。
薫の機嫌を二度と損ねたくはないので、近隣に婦人科がないかを探そうとして、窓際のデスクに置かれたパソコンの電源を入れた。
デスクトップにはフォルダがいくつかあり、難解な法律の専門用語で名付けられている。
それらを無視してブラウザを立ち上げようとしたのだが、うっかり隣のフォルダに触れてクリックしてしまったらしい。すぐに閉じようとしたのだが、ずらりと並んだ大アイコンの画像に、目を奪われて手が止まる。
(……? これ、なんの写真?)
うち一枚には、若かりし頃の月子と思しき女性が写っていた。
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