美しく香る森

yoiko

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9・秋、自分で決めるということ

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「あー、なんか言ってたね。格安でバンガロー貸してくれてるおばあちゃんが施設に入るかなんかで、売却するって話が出てるって…」

マスターの奥さんがテーブルを拭きながら、意外と決まるの早かったわね、と呟いた。

「…奥さんはこういうの…」

慣れてるんですか?と聞こうとして、やめた。

先生は馴染みの客だし、もっとショックを受けたりするのかなと思っていたけど…。

観光地で商売してたらそんなもんなのかな。




河村の行き先はまだ決まっていないらしい。

「まあどうにかなります。」 

やっぱりこともなげに、本人は言うのだ。

パソコンがあればどこにいてもできる仕事だし、軽バンもあるし、しばらくは車上生活かな。

信じられない…と言う顔をしていると、河村は眉一つ動かさずに飄々と言う。

案外どうにかなるもんです。  



「寂しくなるね。」

グラスを磨きながら、マスターが言う。

そうですねえ。と窓の向こうの色づき始めた葉っぱを眺める。

たちまち、薄い霧がたちこめて、
景色は薄ぼんやりとしか見えなくなってしまった。
 


その日、療育施設に緋色を迎えに行って意外な話を聞いた。

「緋色くん、今日トランポリンやりたかったんですけど、お友達がやりたいって言ったら泣いてしまって。しばらく涙が出ていたんです。」

意思決定が苦手、らしい。

意外だった。
いつもやりたいことをして、ワガママ放題だとばかり思っていた。

少なくとも香子の前では。

「例えばトランポリンをしたくて、空いていれば一人で飛べるから問題ないけど、誰か来た時にゆずる・ゆずらない・ゆずるとしたら順番を待つ・もしくはやらない…などの選択ができないんです。だから泣いてしまう。」

意思決定というのは、問題解決につながる大事な能力なので、きちんと育てていきたいですね。

という先生の言葉を車で反芻する。

言われてみれば確かに…。
この間、タブレットを取られた時も、
単なるワガママだと思ってついイライラしてしまったけど。

こうして緋色の行動を分解して紐解いてくことで、視界が拓けることが多くあるということを、この町に来て気づいた。

東京にいた頃の療育が悪かった、とかそういうことではないのだが、

緋色の年齢が達したということと、
胡桃と離れる時間ができて緋色のことを考えられる余裕ができたこと、
何より人の目を以前ほど気にしなくていいことが大きい。
 


「ひいくん、今日トランポリン跳べなかったの悔しかったの?」

後部座席の緋色に軽く問いかけてみる。

緋色は答えない。ぼーっと外を眺めている。

まあ今は答えたくないか。

話題を変えよう。

「ひいくん、先生お引っ越ししちゃうんだって。寂しいね。」

緋色はやっぱり答えない。ぼんやりと外の景色を見ている。



森、教会、カフェ。

立ち込める霧とぽつぽつ降り出した雨のせいで、この街自慢の美しい夕方の景色が今日はよく見えない。

「ねえ、ひいくん先生が…」

もう一度言いかけてやめる。

あんなに、あんなに河村に懐いてるくせに。

香子はなんだか無性に苛々して、ハンドルを指で弾いた。
  



胡桃をピックアップして帰宅する頃になると雨は本降りになり、日課の焚き火は当然中止となった。

もちろん、河村は出てこない。

カーテンを細く開けて、隣家を確認する。

灯りが漏れている。

「くるちゃん、先生もうすぐお引っ越しするんだって」

クレヨンでお絵描きしていた胡桃が振り向いていう。

「え?おしっこし?」

「あのお家から出て行くんだって。車に住むんだって。」

「えー!たのしそー!くるちゃんもくるまにすみたい!」

そっちかい。

香子は大きく息をついて、カーテンを閉めた。



翌日。
河村はフォギーナイトに来なかった。

「引越しの準備で忙しいんですかね?それとも節約してるのかな。」

香子が呟くと、珈琲業者の坂本が、ふっと笑う。

「なんですか?坂本さん」

いやだって、

と坂本は口元を押さえながら言う。

「安藤さんだけですもん。河村さんのことずっと言ってるの。」

え?

え、そうなの?

マスターは?奥さんは?

あ、そういえばそんなずっと言ってないか。

でもわたしだってそんなにずっと言ってないよ?

緋色の療育ことだって考えてたし。

「でもほんと、河村さんて不思議な人ですよね。今まで何してた人なんだろう。ずっと小説家なんですか?」

坂本が誰ともなしに聞くと、マスターも、はて…と首を傾げる。

「あんまりお客さんのプライベートは聞かないけど、まあ確かに先生は語らないねえ。」

「でも根っこのお育ちはよさそうな感じ、するわよね。なんかこう、所作がお上品じゃない?」

と奥さんが口を挟む。

奥さんは先生のプライベートを持ち前の天然を発揮して根掘り葉掘り聞いて、相手にされなかったのだろう。
それでも気にしないのが奥さんだ。
わたしなら…追求すぐやめちゃうな。
奥さんが羨ましい。

「あー、なんかわかりますね。そんであんな感じの人って意外とモテますよね。」

坂本が相槌を打つ。

「やだ坂本くん!モテるのは坂本くんでしょ?ねえ香子ちゃん!坂本くんカッコいいもんね!」

「はあ…あ、はい!」

奥さんに合わせて元気よく返事をしたらなんだか素っ頓狂になってしまった。

坂本はまたひと笑いして帰って行った。  



「坂本くんカッコよくない?先生ほどじゃないけど、背も高いし。紳士的で優しいしさあ。」

「よくわかんないんですよ、わたし。そういうの…」  

「え??」

奥さんとマスターが顔を見合わせる。
やっぱりおかしいか。小さく咳払いをして、香子は続けた。

「かっこいいとか、ときめく、とか、好き、とか、究極キャラクターものも可愛いとか思えなくて、ここまで生きてきました」

「えー!」

ミーハーな奥さんが声を上げて、口を手で押さえた。    

そう、ときめかないわたしはいつも自分を偽ってきた。

キャラクターものも、みんなが買ってるから買ってたし、芸能人を好きになったこともない。ただの一度もないのだ。

「じゃあ男の人と付き合うのは…」

「言われたら、です。」

そして特段優れた容姿な訳じゃないから、今までの交際人数は前の夫と、あと1人くらい。

「じゃ、香子ちゃんの人生は始まったばっかりだ。」

マスターがコーヒー豆を挽きながら静かに言った。

店内を低く流れる四重奏。

「始まる…?」

「流されてばっかりで、意思がなかった香子ちゃんが、自分の力でこの街に来た。」

人生を選びとる時が来たんだよ。

マスターの言葉が、浮かんでは消え、また浮かぶ。

人生を、選びとる。
意思決定能力、と言った療育の先生の声が蘇る。

「好きねえ、そのセリフ。」

奥さんがふふふ、と少女のように笑う。

「ここに来たばっかりの時の先生にも言ってたわ。」

子持ちシングルのわたしがどうやって?

「案外、どうにでもなります。」

こんな時に河村の声が頭に響く。
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