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6・隣家の焚き火
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「先生、どうしたんですかね?」
ここ2日ほど、河村が喫茶店を訪ねてこない。
来たところで一言も発さずにひたすらパソコンに向かっているだけなのだが、いつもいる人がいないのはなんとなく気にかかる。
「ああ、先生は月末になると一週間位は来なくなるのよ。」
マスターの奥さんがコーヒー豆を挽きながら答える。
「お仕事が忙しくなるんでしょうか?」
なんだかよくわからないけど、締め切りとか?
奥さんが曖昧に微笑むと、鈴の音とともに重いドアが開いた。
「こんにちわー!」
珈琲の卸の会社の坂本だった。
フォギーナイトの担当営業で、よくコーヒー豆をこっそり分けてくれる。
年のころは自分と似たような感じか、少し上なのか。
河村ほどではないが、長身で引き締まった体つきに浅黒い肌。一般的な「好感度」を体現したような男だ。
「安藤さん、この間本社に出張した時行ったよー。安藤さんが住んでたあたり。」
ワイシャツの袖をまくり、豆の袋を置きながら軽やかに話す。
「あ!本当ですか?笹塚…」
「そうその近くー。オペラシティがさ、本社だから」
東京。
実家とは折り合いがあまり良くなくて、18の春、逃げるように上京した。
何を残すでもなく短大を出て、就職活動には冗談じゃなく100社落ち、派遣で滑り込んだ会社で出会った男性に言われるままに結婚。
結婚生活もうまく行っていたとはいいがたく、独り立ちできるように資格の勉強を始めたところで夫の事故死。
また逃げるように東京を出て、この山間の町にたどり着いたわたし。
いい思い出なんかないんだよな。
喫茶店の高い天井を見上げる。
ゆっくり回転するシーリングファン。
なのにわたしは、いかにも東京知ってますって顔で、東京出身の人と東京の話してる。
東京自体がアイデンティティになってる。
ダサい…。
上を見上げたついでに首をぐるりと回して、肩の凝りをほぐした。
保育園と療育施設を回って二人を回収して帰宅してくると、18時を回ってしまう。
その頃には河村の日課である焚き火は残骸だけがバンガローの庭とも言えない敷地内のスペースに残り、だから様子がわからなかった。
車から胡桃を下ろして、ふと河村の家を見る。
我が家より、さらに小ぶりなバンガローの窓の奥に、小さな灯り。
古ぼけた、木製のドアの前に立つ。微かに鼻をくすぐる木の匂い。
なんか、このドア、というかバンガロー全体が河村に似てる。
ノックしようと上げかけた…手を下ろした。
やめとこう。
そんな、知り合って間もない他人が、急に訪ねてきたら驚くだろうし、いい顔も思いもしないだろう。
怖がられるかもしれない。あるいは悪い噂を立てられるかもしれない。
あそこの奥さん、図々しいんですよ。
…得意の黒い妄想と推測で頭が割れそうになる。
「緋色、胡桃、おうち入ろう…。」
振り返って言ったと同時に緋色が河村宅のドアをこぶしで叩き始めた。
「せんせー!せんせー!いまなにしてるのー?」
緋色のよく響くカン高い声がしんとした初秋の森を突き抜ける。
うわ!
「ひいくん、やめよう!帰ろう!」
「やだ!ひいくん先生知ってるもん!見たことあるもん!」
そうだね、そうだね、見たことあるね。
同じ文言を意味なく繰り返すのも緋色の特徴だ。
そしてパニックになっている。河村に出てきて欲しいのだ。会いたいとか、遊んで欲しいとか、そういう意味はない。「先生が出てくること」自体に執着してしまうのだ。どうしても。
それこそ体調が芳しくなかったり、仕事が立て込んでいるのだとしたら申し訳ないにも程がある。
どんなに緋色が混乱してても、ひとまず引き剥がさねばなるまい。
意を決して緋色の肩を強く掴んだその時、
ギイ…と鈍い音を立てて、扉が開いた。
「お金がないんですよ。」
河村は臆するでもなく、淡々と言った。
白いぶかぶかのシャツ。
寝癖。
部屋からほのかに香る、これはラベンダーの香りだろうか。
「…コーヒーを飲むお金がですか?」
「そうです。月末になるとね。」
マスターにつけてもらったりもしてるけど、
と河村は小さく付け加えた。
フォギーナイトのモンブランを差し出すと、河村は首を横に振って、
「僕はケーキは食べません。」
と言う。
「先日のお礼してなかったので、お待ちしたんですけど。」
というと、また首を横に振る。
「僕はケーキは食べません。」
「…食べるものには困ってないんですか?」
「お米と水があれば生きていけます。」
となんでもないことのように言う。
「そしたらこれは?」
コーヒーの粉を通勤用の生成りの手提げから取り出して、河村の鼻先に押しつけた。
今日、坂本からわけてもらったものだ。
家にはコーヒーミルがないので、店で挽いてきた。
「コーヒーなら飲めますよね?」
「…これは…」
緋色は河村宅の庭で走り回っている。舗装していない剥き出しの大地に、時々足を引っ掛けて転んでいるが、めげない。
胡桃は香子の膝に絡みついている。
「…これは…嬉しいです」
香子はそのとき、河村の口元が緩んだのを初めて見たと言うことに気づいた。
それからは、河村の焚き火の時間に間に合うように帰宅し、混ぜてもらう日々が続いた。
療育施設から帰宅するのにも一苦労の緋色が、焚き火となると一目散に準備して車に乗り込むのだから驚く。
大急ぎで隣家の庭に走る緋色を追いかけていくと、家主が焚き火の準備をしている。
河村もどうやら焚き火開始の時間をわざわざ遅らせてくれているようだ。
最近は火起こしから緋色に手伝わせてくれる。
手先が不器用でおぼつかない緋色を、
危なっかしくて香子は見ていられないのだが、河村は全く動じることなく、淡々と何度も繰り返し指導してくれる。
胡桃は火が怖いと香子から離れない。
まだ河村にも慣れていないのだ。
炎のゆらめきに見入られるのか、いつもあんなに動き回る緋色が、ぴくりともしなくなる。
もっとよく見ようと近づきすぎるので制すると、香子が河村に制されるのだ。
「大丈夫。普通、これより前には行きません。」
「…あの子は普通じゃないから…。」
「大丈夫。」
河村は短く、しかし重い声で言うのだ。
「緋色くんは、行きません。」
やっと名前覚えてくれたのか。
火に照らされる、河村の肉の少ない薄い頬を見ながら、ぼんやりと思う。
「…いつも騒がしくて…申し訳ないです」
「俺は何とも。それによかったですね。ここら辺は隣家は遠いし、そもそも平日はあまり人もいない。」
あなた、ここへ引っ越してきて正解ですよ。
河村がこともなげに発した言葉が、すうっと胸に落ちて、溶けて広がる。
ここへきて正解だった。
焚き火が目に染みる。
そんな現象あるんだっけ?
両手で顔を覆う。
炎で手の甲が、熱い。
ここ2日ほど、河村が喫茶店を訪ねてこない。
来たところで一言も発さずにひたすらパソコンに向かっているだけなのだが、いつもいる人がいないのはなんとなく気にかかる。
「ああ、先生は月末になると一週間位は来なくなるのよ。」
マスターの奥さんがコーヒー豆を挽きながら答える。
「お仕事が忙しくなるんでしょうか?」
なんだかよくわからないけど、締め切りとか?
奥さんが曖昧に微笑むと、鈴の音とともに重いドアが開いた。
「こんにちわー!」
珈琲の卸の会社の坂本だった。
フォギーナイトの担当営業で、よくコーヒー豆をこっそり分けてくれる。
年のころは自分と似たような感じか、少し上なのか。
河村ほどではないが、長身で引き締まった体つきに浅黒い肌。一般的な「好感度」を体現したような男だ。
「安藤さん、この間本社に出張した時行ったよー。安藤さんが住んでたあたり。」
ワイシャツの袖をまくり、豆の袋を置きながら軽やかに話す。
「あ!本当ですか?笹塚…」
「そうその近くー。オペラシティがさ、本社だから」
東京。
実家とは折り合いがあまり良くなくて、18の春、逃げるように上京した。
何を残すでもなく短大を出て、就職活動には冗談じゃなく100社落ち、派遣で滑り込んだ会社で出会った男性に言われるままに結婚。
結婚生活もうまく行っていたとはいいがたく、独り立ちできるように資格の勉強を始めたところで夫の事故死。
また逃げるように東京を出て、この山間の町にたどり着いたわたし。
いい思い出なんかないんだよな。
喫茶店の高い天井を見上げる。
ゆっくり回転するシーリングファン。
なのにわたしは、いかにも東京知ってますって顔で、東京出身の人と東京の話してる。
東京自体がアイデンティティになってる。
ダサい…。
上を見上げたついでに首をぐるりと回して、肩の凝りをほぐした。
保育園と療育施設を回って二人を回収して帰宅してくると、18時を回ってしまう。
その頃には河村の日課である焚き火は残骸だけがバンガローの庭とも言えない敷地内のスペースに残り、だから様子がわからなかった。
車から胡桃を下ろして、ふと河村の家を見る。
我が家より、さらに小ぶりなバンガローの窓の奥に、小さな灯り。
古ぼけた、木製のドアの前に立つ。微かに鼻をくすぐる木の匂い。
なんか、このドア、というかバンガロー全体が河村に似てる。
ノックしようと上げかけた…手を下ろした。
やめとこう。
そんな、知り合って間もない他人が、急に訪ねてきたら驚くだろうし、いい顔も思いもしないだろう。
怖がられるかもしれない。あるいは悪い噂を立てられるかもしれない。
あそこの奥さん、図々しいんですよ。
…得意の黒い妄想と推測で頭が割れそうになる。
「緋色、胡桃、おうち入ろう…。」
振り返って言ったと同時に緋色が河村宅のドアをこぶしで叩き始めた。
「せんせー!せんせー!いまなにしてるのー?」
緋色のよく響くカン高い声がしんとした初秋の森を突き抜ける。
うわ!
「ひいくん、やめよう!帰ろう!」
「やだ!ひいくん先生知ってるもん!見たことあるもん!」
そうだね、そうだね、見たことあるね。
同じ文言を意味なく繰り返すのも緋色の特徴だ。
そしてパニックになっている。河村に出てきて欲しいのだ。会いたいとか、遊んで欲しいとか、そういう意味はない。「先生が出てくること」自体に執着してしまうのだ。どうしても。
それこそ体調が芳しくなかったり、仕事が立て込んでいるのだとしたら申し訳ないにも程がある。
どんなに緋色が混乱してても、ひとまず引き剥がさねばなるまい。
意を決して緋色の肩を強く掴んだその時、
ギイ…と鈍い音を立てて、扉が開いた。
「お金がないんですよ。」
河村は臆するでもなく、淡々と言った。
白いぶかぶかのシャツ。
寝癖。
部屋からほのかに香る、これはラベンダーの香りだろうか。
「…コーヒーを飲むお金がですか?」
「そうです。月末になるとね。」
マスターにつけてもらったりもしてるけど、
と河村は小さく付け加えた。
フォギーナイトのモンブランを差し出すと、河村は首を横に振って、
「僕はケーキは食べません。」
と言う。
「先日のお礼してなかったので、お待ちしたんですけど。」
というと、また首を横に振る。
「僕はケーキは食べません。」
「…食べるものには困ってないんですか?」
「お米と水があれば生きていけます。」
となんでもないことのように言う。
「そしたらこれは?」
コーヒーの粉を通勤用の生成りの手提げから取り出して、河村の鼻先に押しつけた。
今日、坂本からわけてもらったものだ。
家にはコーヒーミルがないので、店で挽いてきた。
「コーヒーなら飲めますよね?」
「…これは…」
緋色は河村宅の庭で走り回っている。舗装していない剥き出しの大地に、時々足を引っ掛けて転んでいるが、めげない。
胡桃は香子の膝に絡みついている。
「…これは…嬉しいです」
香子はそのとき、河村の口元が緩んだのを初めて見たと言うことに気づいた。
それからは、河村の焚き火の時間に間に合うように帰宅し、混ぜてもらう日々が続いた。
療育施設から帰宅するのにも一苦労の緋色が、焚き火となると一目散に準備して車に乗り込むのだから驚く。
大急ぎで隣家の庭に走る緋色を追いかけていくと、家主が焚き火の準備をしている。
河村もどうやら焚き火開始の時間をわざわざ遅らせてくれているようだ。
最近は火起こしから緋色に手伝わせてくれる。
手先が不器用でおぼつかない緋色を、
危なっかしくて香子は見ていられないのだが、河村は全く動じることなく、淡々と何度も繰り返し指導してくれる。
胡桃は火が怖いと香子から離れない。
まだ河村にも慣れていないのだ。
炎のゆらめきに見入られるのか、いつもあんなに動き回る緋色が、ぴくりともしなくなる。
もっとよく見ようと近づきすぎるので制すると、香子が河村に制されるのだ。
「大丈夫。普通、これより前には行きません。」
「…あの子は普通じゃないから…。」
「大丈夫。」
河村は短く、しかし重い声で言うのだ。
「緋色くんは、行きません。」
やっと名前覚えてくれたのか。
火に照らされる、河村の肉の少ない薄い頬を見ながら、ぼんやりと思う。
「…いつも騒がしくて…申し訳ないです」
「俺は何とも。それによかったですね。ここら辺は隣家は遠いし、そもそも平日はあまり人もいない。」
あなた、ここへ引っ越してきて正解ですよ。
河村がこともなげに発した言葉が、すうっと胸に落ちて、溶けて広がる。
ここへきて正解だった。
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