5 / 15
5・スイートオレンジの空
しおりを挟む
「あの」
目の前の河村が振り返らずに言う。
「危ないんで、もう少しつかまってもらっていいですか?」
河村が腰のあたりをポンポンとたたいて示した。
…これは…大丈夫なんだろうか。
おずおずと、河村の薄い腰に手を回す。
「そしたらコンビニまで先生乗せて行ってあげなよ。」
マスターが、明るく言った。
河村が得意の鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして振り向く。
「俺が?」
「香子ちゃん歩いてきたんだろ?コンビニまでまあまあ遠いよ。くるちゃんはベビーカーで寝ちゃったし、少し預かるからさ。」
「あ、それは大丈夫です!あの、タクシー呼びます!」
だって先生あからさまに困ってる。
カバンをさぐると、携帯がない。
車に忘れたのだ。
「ここいらは都会とは違うからタクシー呼んでもすぐはこないよ。今は1分1秒が大事な時!」
と言うと、マスターは河村に微笑みかけた。
「メットは俺の貸してあげる。あとさ、先生ツケたまってるよね?」
…という経緯があり、香子は今河村のバイクの後ろに乗っている。
学生時代も特に遊んでいなかったせいなのかはわからないが、
バイクの二人乗りなんかしたことがない。
ジェットコースターの100倍怖かった。
乗る前にヘルメットを手にしたまま少し戸惑っていると、河村は小型のスプレーをシュッと自分に吹きかけた。
制汗剤かな?と思って聞くと、アロマオイルのスプレーらしい。
「スイートオレンジ。安心する作用があって。」
なるほど、いつも何か香っていると思ったら、アロマテラピー男子だったのか。
スイートオレンジの香る、河村の背中。
ぶかぶかのシャツ越しにはとてもわからなかったが、案外骨太で、薄く筋肉が付いているのがわかる。
カブがスピードを上げる。
ガクンと頭が河村の背中に押し当てられた。
…これは…いいのだろうか…。
そのまま目を閉じてみる。
いい匂い。そして、あったかい。
わたし、あったかい男の人に触れるのいつぶりだろう。
信号で止まる。
コンビニまであとちょっと。
「…DVDが。」
ふいに、口からこぼれた。
「止まってたんです。一時停止されてて。だから、観たいDVDが終わったから探しに出たわけじゃなくて、気付いたんだなって。わたしがいないことに、急に気付いて、急に怖くなったんだなって思ったんです。その時の緋色の恐怖をね。気持ちを考えたらわたし本当になんてことをしてしまったんだろうって。まだ不安な気持ちが人一倍強い子なのに、何で一人になんてしたんだろうって…。」
日曜夕方。
街へ帰る観光客で車通りが平素より多く、
香子の声はたちまちかき消される。
それでいい。その方がむしろ。
河村は振り向かない。
信号が青に変わる。
「それだけ」
「え?」
「それだけ、お母さんのことが好きだってことだと思います。えーっと…名前忘れちゃったけど、お子さん」
…もう忘れたのかよ。
バイクが勢いよく発進する。
河村につかまる、手に力がこもる。
目的のコンビニが、すぐ目の前に迫ってきた。
はたしてコンビニのレジカウンターのすみっこで足をぶらぶらさせて座っている緋色を見つけた瞬間、香子は腰から下の力がガクンと抜けてしまったようだった。
「ママ!」
泣くでもなく、その辺でたまたま会ったくらいの「当たり前」さで、緋色は駆け寄ってきた。
「ひいくん…」
瞳がじわじわしてきて、ポロポロと涙が頬を滑り落ちる。
さっきからフワフワと浮遊して、現実的じゃなかった心が、頭の一部が痺れたような感覚が、ゆっくりほどけていくのを感じた。
「もう、なんでおかあさんはコンビニにいなかったんだよう。」
ごめんね、ごめんね。謝りながら涙が止まらない。
不安にさせてごめん、危険な目に合わせてごめん、強がらせてごめん。
すると、河村が、緋色を抱きしめている香子の隣に、同じように膝をついて、
「君さ」
と普段のか細い声よりはややが気を強めて言った。
「お母さんが心配するようなことはしちゃいけんよ。君のお母さんは、君がとても大切なんだから。」
と真っ直ぐに緋色を見て言う。
普段誰かと目が合うことはそうない緋色だったが、この時ばかりはコクンと小さくうなづいていた。
店員さんが言うには、20分ほど前に、緋色は訪ねてきたらしい。
「ぼくのおかあさんはいますか?」
自分の名前は言えたけど、母の名前は言えなくて、苗字も難しくて、客足が落ち着いたら警察に電話しようと思っていたところで、香子たちが到着したとのことだった。
緋色がパニックにもならず、動かず、お利口にカウンターで座っていられたことは不幸中の幸いであった。
暑気がひけた、夕方のこの町は、木々の間からオレンジの光が漏れ出て余計に明るく感じる。
薄橙に包まれたカブの座面に緋色を座らせて、河村が押して歩くのを、ベビーカーで早足で追いかける。
河村は全くスピードを緩めない。
「…ごめんなさい。先生にまで、ご迷惑を…。」
「いえいえ。お気になさらず」
…わからない。口調からも、表情からも。
読み取れない。本当はどう思っているのか。
裏で悪く思われるのが、香子にとって1番の恐怖だ。
心臓が早打ちする。
「わたし、ほんとにポンコツで…。いつも間違えるんです。」
河村が、歩みを止めた。
「昔、アメリカ横断ウルトラクイズってあったでしょ。一番最初がまるばつクイズなの。二択の。それ、わたし絶対間違うんです。違う方を選んじゃうの。じゃない方芸人なの。」
あ、止まらない。その人がどう思ってるかわかるまで、不安で喋り続けてしまうのだ。
この悪い癖のせいで今まで散々嫌な思いしてきたのに。
「今までもたくさん間違えてきた。し、今日も間違えました。緋色を一人にするんじゃなかった。歩きじゃなくて、自転車にすればよかった。そしたら先生に迷惑かけることはなかった。最初から警察呼べば良かった。携帯忘れるんじゃなかった。ほんと、全部間違ってる。バカみたい。」
いつの間にか河村はこちらをふり向いていた。
でも止まらない。目尻にじわじわと涙が溜まるのがわかる。
泣いちゃダメだ。これは「間違い」だ。
「夫にはよく叱られました。わたしが悪いんですけど、わたし間違うのやめられなくて。頑張ってるけど、治らなくて。」
だめだ、大人の女が、人の母親が、まだ日の高い往来で、よく知らない男の人の前で自分の都合で泣くなんて間違ってもあってはならないことなのに…。
「でも息子さんは元気に生きてる。」
「……」
涙を袖口で拭く。これも間違いだな。
「それでいいじゃないですか。あなたは今誰かに責められてるんですか?誰があなたを責めているんですか?」
河村がクシャクシャのハンカチを差し出す。
「あ、ハンカチクシャクシャだし。出すのも遅れましたね。遅かった。…これって間違いですか?」
返事の代わりに香子は大きく息を吐いて、涙を拭いた。ハンカチからも、アロマの匂い。
「…さっき、ありがとうございました。スイートオレンジのスプレー。自分にかけたら、自動的に私が嗅ぐから…ていう…気遣い、ですよね。」
「いやいや。自分が安心したかっただけです。」
こう見えて、かなりビビリなんで。
と少し胸を張って言う河村に、ちょっと笑ってしまう。
スイートオレンジを溶かしたような、夕暮れの空。
目の前の河村が振り返らずに言う。
「危ないんで、もう少しつかまってもらっていいですか?」
河村が腰のあたりをポンポンとたたいて示した。
…これは…大丈夫なんだろうか。
おずおずと、河村の薄い腰に手を回す。
「そしたらコンビニまで先生乗せて行ってあげなよ。」
マスターが、明るく言った。
河村が得意の鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして振り向く。
「俺が?」
「香子ちゃん歩いてきたんだろ?コンビニまでまあまあ遠いよ。くるちゃんはベビーカーで寝ちゃったし、少し預かるからさ。」
「あ、それは大丈夫です!あの、タクシー呼びます!」
だって先生あからさまに困ってる。
カバンをさぐると、携帯がない。
車に忘れたのだ。
「ここいらは都会とは違うからタクシー呼んでもすぐはこないよ。今は1分1秒が大事な時!」
と言うと、マスターは河村に微笑みかけた。
「メットは俺の貸してあげる。あとさ、先生ツケたまってるよね?」
…という経緯があり、香子は今河村のバイクの後ろに乗っている。
学生時代も特に遊んでいなかったせいなのかはわからないが、
バイクの二人乗りなんかしたことがない。
ジェットコースターの100倍怖かった。
乗る前にヘルメットを手にしたまま少し戸惑っていると、河村は小型のスプレーをシュッと自分に吹きかけた。
制汗剤かな?と思って聞くと、アロマオイルのスプレーらしい。
「スイートオレンジ。安心する作用があって。」
なるほど、いつも何か香っていると思ったら、アロマテラピー男子だったのか。
スイートオレンジの香る、河村の背中。
ぶかぶかのシャツ越しにはとてもわからなかったが、案外骨太で、薄く筋肉が付いているのがわかる。
カブがスピードを上げる。
ガクンと頭が河村の背中に押し当てられた。
…これは…いいのだろうか…。
そのまま目を閉じてみる。
いい匂い。そして、あったかい。
わたし、あったかい男の人に触れるのいつぶりだろう。
信号で止まる。
コンビニまであとちょっと。
「…DVDが。」
ふいに、口からこぼれた。
「止まってたんです。一時停止されてて。だから、観たいDVDが終わったから探しに出たわけじゃなくて、気付いたんだなって。わたしがいないことに、急に気付いて、急に怖くなったんだなって思ったんです。その時の緋色の恐怖をね。気持ちを考えたらわたし本当になんてことをしてしまったんだろうって。まだ不安な気持ちが人一倍強い子なのに、何で一人になんてしたんだろうって…。」
日曜夕方。
街へ帰る観光客で車通りが平素より多く、
香子の声はたちまちかき消される。
それでいい。その方がむしろ。
河村は振り向かない。
信号が青に変わる。
「それだけ」
「え?」
「それだけ、お母さんのことが好きだってことだと思います。えーっと…名前忘れちゃったけど、お子さん」
…もう忘れたのかよ。
バイクが勢いよく発進する。
河村につかまる、手に力がこもる。
目的のコンビニが、すぐ目の前に迫ってきた。
はたしてコンビニのレジカウンターのすみっこで足をぶらぶらさせて座っている緋色を見つけた瞬間、香子は腰から下の力がガクンと抜けてしまったようだった。
「ママ!」
泣くでもなく、その辺でたまたま会ったくらいの「当たり前」さで、緋色は駆け寄ってきた。
「ひいくん…」
瞳がじわじわしてきて、ポロポロと涙が頬を滑り落ちる。
さっきからフワフワと浮遊して、現実的じゃなかった心が、頭の一部が痺れたような感覚が、ゆっくりほどけていくのを感じた。
「もう、なんでおかあさんはコンビニにいなかったんだよう。」
ごめんね、ごめんね。謝りながら涙が止まらない。
不安にさせてごめん、危険な目に合わせてごめん、強がらせてごめん。
すると、河村が、緋色を抱きしめている香子の隣に、同じように膝をついて、
「君さ」
と普段のか細い声よりはややが気を強めて言った。
「お母さんが心配するようなことはしちゃいけんよ。君のお母さんは、君がとても大切なんだから。」
と真っ直ぐに緋色を見て言う。
普段誰かと目が合うことはそうない緋色だったが、この時ばかりはコクンと小さくうなづいていた。
店員さんが言うには、20分ほど前に、緋色は訪ねてきたらしい。
「ぼくのおかあさんはいますか?」
自分の名前は言えたけど、母の名前は言えなくて、苗字も難しくて、客足が落ち着いたら警察に電話しようと思っていたところで、香子たちが到着したとのことだった。
緋色がパニックにもならず、動かず、お利口にカウンターで座っていられたことは不幸中の幸いであった。
暑気がひけた、夕方のこの町は、木々の間からオレンジの光が漏れ出て余計に明るく感じる。
薄橙に包まれたカブの座面に緋色を座らせて、河村が押して歩くのを、ベビーカーで早足で追いかける。
河村は全くスピードを緩めない。
「…ごめんなさい。先生にまで、ご迷惑を…。」
「いえいえ。お気になさらず」
…わからない。口調からも、表情からも。
読み取れない。本当はどう思っているのか。
裏で悪く思われるのが、香子にとって1番の恐怖だ。
心臓が早打ちする。
「わたし、ほんとにポンコツで…。いつも間違えるんです。」
河村が、歩みを止めた。
「昔、アメリカ横断ウルトラクイズってあったでしょ。一番最初がまるばつクイズなの。二択の。それ、わたし絶対間違うんです。違う方を選んじゃうの。じゃない方芸人なの。」
あ、止まらない。その人がどう思ってるかわかるまで、不安で喋り続けてしまうのだ。
この悪い癖のせいで今まで散々嫌な思いしてきたのに。
「今までもたくさん間違えてきた。し、今日も間違えました。緋色を一人にするんじゃなかった。歩きじゃなくて、自転車にすればよかった。そしたら先生に迷惑かけることはなかった。最初から警察呼べば良かった。携帯忘れるんじゃなかった。ほんと、全部間違ってる。バカみたい。」
いつの間にか河村はこちらをふり向いていた。
でも止まらない。目尻にじわじわと涙が溜まるのがわかる。
泣いちゃダメだ。これは「間違い」だ。
「夫にはよく叱られました。わたしが悪いんですけど、わたし間違うのやめられなくて。頑張ってるけど、治らなくて。」
だめだ、大人の女が、人の母親が、まだ日の高い往来で、よく知らない男の人の前で自分の都合で泣くなんて間違ってもあってはならないことなのに…。
「でも息子さんは元気に生きてる。」
「……」
涙を袖口で拭く。これも間違いだな。
「それでいいじゃないですか。あなたは今誰かに責められてるんですか?誰があなたを責めているんですか?」
河村がクシャクシャのハンカチを差し出す。
「あ、ハンカチクシャクシャだし。出すのも遅れましたね。遅かった。…これって間違いですか?」
返事の代わりに香子は大きく息を吐いて、涙を拭いた。ハンカチからも、アロマの匂い。
「…さっき、ありがとうございました。スイートオレンジのスプレー。自分にかけたら、自動的に私が嗅ぐから…ていう…気遣い、ですよね。」
「いやいや。自分が安心したかっただけです。」
こう見えて、かなりビビリなんで。
と少し胸を張って言う河村に、ちょっと笑ってしまう。
スイートオレンジを溶かしたような、夕暮れの空。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
騎士団寮のシングルマザー
古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。
突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。
しかし、目を覚ますとそこは森の中。
異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる!
……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!?
※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。
※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本
しましまのしっぽ
恋愛
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本です。
関西弁彼女の台本を標準語に変えたものもあります。ご了承ください
ご自由にお使いください。
イラストはノーコピーライトガールさんからお借りしました
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる