くず鉄拾いのアリサ

Cabernet

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カテドラル

#73 カタコンベ

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 傘を右手に。再生機を左手に。リシュカが聖堂の門を抜けて足を踏み出した時には空は真っ赤に染まっていた。熟れた果実のような優しい夕焼け空ではない。腐敗した血肉のような赤黒い天穹が頭上を覆っていた。リシュカは一瞬、立ち止まった。すぐに首を振って傘を差すと早足で歩き出した。鮮血の色を湛えた雨がここぞとばかりに降りしきる。傘に穴を穿とうとするかのように雨足が勢いを増す。何度経験しても慣れない天候だった。これが年中続いたのなら自殺者が多数出たのも無理はない。

   □

 クロエがあの場を飛び出してからリシュカが最初に取った行動は老スカベンジャーに殴りかかることだった。拳は手のひらで受け止められた。老人は表情一つ変えなかった。口元に浮かんだ薄笑いもそのままだ。
 無言で睨み上げていると観念したように老人は両手を挙げる。
 ――いやはや申し訳ない。ちょっとしたお説教のつもりだったんだ。あのお嬢さんは危なっかしいから大人しくしてもらいたかったんだよ。死んじまったらせっかくここまで同行してやった労苦がパアだ。
 ふざけんなクソじじい。
 見た目ほどは年をとっとらんぞ。
 どうでもいいよ。リシュカは畳みかけた。あんたのことは一度だって信用しなかったけどここまで陰湿な薄情者とは思わなかった。思えばあたしがバッグを奪われたあの時から知っとくべきだったんだ。――あんたは他人の不幸をサロッサ産の蜂蜜でも舐めてるみたいに喜んでる。
 別に喜んでるわけじゃない。老人は淡々と答えた。私らの性分なんだ。人が傷ついたり絶望しているのを見ると同情よりも先に笑いが込み上げてくるんだ。どうしようもない。何がどうなってこんな喜劇役者みたいな感情が湧き起こるのか自分でも分からん。――特にお前さんは起伏が激しいから見ていて笑いを堪えるのが必死だったよ。

 リシュカは頭の芯からマグマがほとばしったかのように顔が熱くなるのを感じた。首をぶんぶんと左右に振った。それから老スカベンジャーの懐にさっと手を伸ばして再生機を奪い取った。
 おい何をする。
 決まってるでしょ。クロエを追いかける。使い方を教えて。もうあんたの好きにはさせない。
 構わんがいま外に出るのは危険だぞ。雨も降り出したし肌を焼かれる。
 知ってるよそんなこと。だから追いかけるんじゃない!
 なんて強情なお嬢さんだ。

 クロエの足取りを辿れるよう再生機のダイヤルを調整するとリシュカは聖堂の入り口に向かって突進した。だが開いた門の隙間から別の少女が姿を現す。屋敷で共に働いていたセラウィだった。差していた傘を慎重に折り畳んで苦笑いを浮かべる。
 やれやれ。ひどい天気だ。――ああリシュー。ちょうど好かった。元気してたか?
 とびっきりの上機嫌だよ! リシュカは地団駄を踏みながら答える。来てくれたのは嬉しいけど後にしてくれない?
 セラウィが目をぱちくりさせる。よりによって今から出るつもりなのか。私の云えた義理じゃないが。
 緊急事態なの。その傘貸して!
 それはいいが、――いや好くないぞ。お前が以前までどれだけ身だしなみや肌のケアに努めていたか忘れたわけじゃない。下手すれば死人が出るんだぞ。
 リシュカは鼻緒に親指の先を当てながらうつむいた。
 大事なことなんだよ。
 私の忠告よりもか。
 ……うん。
 お前は人の気遣いを無視してばかりだな。
 …………ごめん。

 セラウィは灰色の髪をかき上げるいつもの仕草をして笑った。別にいい。今に始まったことじゃない。そう付け足した。――それより聞いてくれ。モーレイ様から伝言だ。一刻も早くお前に伝えたくてな。明日から屋敷に帰ってこいだとさ。荷物も取り返したことだし頭も冷やせたろうから。
 思ってたよりも早くて好かったな、と述べながらセラウィは肩を叩いてきた。リシュカは動かなかった。友人の言葉の食感を確かめるかのように口中で舌を動かした。帰ってきた味覚は無であった。何度かまばたきを挟んでからリシュカはつぶやいた。

 ――そうなんだ……。
 セラウィが眉間に皺を寄せる。
 どうした。もっと喜んでくれないとこんなクソったれな雨のなか遥々やってきた甲斐がないじゃないか。
 …………。
 お前……。

 リシュカが黙っているとセラウィはもう片方の手も肩に乗せてきた。二人は真正面から向き合った。セラウィの灰色の瞳の奥で何かが火花のように飛び散った。肩に置いた手に力を込めて少女は云った。
 おい冗談だろリシュー。ここの生活が気に入ったのか。あの子に影響されて聖職者にでもなるつもりか?
 そんなんじゃない。それは違う。
 じゃあ何だ。
 分からないよ。分からないから探しに行かなきゃ駄目なんだよ。
 私はもっと分からんぞ。ほんの数週間前までお前は全く逆のことで悩んでた。安全で快適な生活を棄ててまで外の世界に飛び出す意味が分からないって。――それが今はどうした。世界をけがした雨の降るなか自ら聖域から踏み出そうとしてる。誰にも強制されずに。命令もなくだ。それで私はまた置いてけぼりか?

 セラウィの言葉は紡がれるにつれてほつれ・・・が目立ちやがては取り留めがなくなった。垂れ下がったひと筋の繊維のように声は細くなっていった。最後の部分は囁くような声音だった。リシュカは友人の手をそっとつかんで下ろした。無言で首を振った。友人は溜め息をつく。目を閉じる。そして苦笑いを浮かべる。
 …………勝手にしろ、とお前に云うのはこれで何度目になるんだろうな。
 セラウィ……。
 いいよリシュー。怒ってるわけじゃない。
 灰色髪の少女はリシュカの手に傘の柄を握らせた。
 ――気をつけて行けよ。

   □

 再生機に映し出されたクロエの影は聖堂から離れて数分経ったところでつまづいて転んだ。紅い雨に打たれた石畳に手を突いてしまい聖衣が臓物のような色に濡れそぼる。立ち上がろうとした彼女は激しく咳き込んだ。胃液を再び吐き戻すのが見えた。雨は魔鉱石の臭気を内に閉じこめており辺りには血にも似た錆びの臭いが漂っている。リシュカもハンカチで口と鼻を覆っていた。長居できる状況ではない。頭の中で悪態をつく。映像を早送りする方法も教わっておくべきだった。

 クロエの影はふらつきながらも立ち上がった。そして辺りを見回した。唇が震えており胸のところで手を重ねていた。やみくもに走ったせいで道に迷ってしまったらしかった。未だ片づけられていない瓦礫の散乱するセントラーダの路地はまるで迷路のようになっていた。シスター少女は車のヘッドライトに照らされた子猫のように我武者羅に避難する場所を探していた。その様子を追体験しながらリシュカは爪で髪の毛を掻きむしった。石ころ程度なら噛み砕けそうなほど歯ぎしりしたい想いに苦しみながら。
 ――このバカ。そっちじゃない。そっちはグラウンド・ゼロの方角だから避難場所なんてない。どの建物もドミノみたいに薙ぎ倒されてる。ああもう。以前あんなに説明してやったのに。なんで引き返さない。見えてないのか。パニックでも起こしてるのか。あんたはいつも危なっかしくて見てられない……。
 魔の雨に打たれるクロエは足がふらついていた。それでもどうにか避難場所・・・・を見つけた。瓦礫に半ば埋もれかけていた地下への入り口。身体を押しこんで入ろうとしていたが勢いがつきすぎて足を踏み外してしまい階段を転がり落ちてしまった。リシュカは眉間に皺を寄せて嘆息すると再生機の電源を落とした。

   □

 ……――やっと見つけた。
 声をかけたが返事はなかった。うずくまったままだった。膝の間に頭を埋めて何事かをぶつぶつと呟いていた。おいっ、と再度声をかけて肩に手を触れると絶叫とも云うべき悲鳴を上げて線路へと転落してしまった。そこはかつて地下鉄のホームの役目を果たしていた場所だった。
 何やってんのよ……。
 お、驚かさないでください。
 ランタンの灯りに照らされてクロエは眩しげに目を細めた。魔鉱嵐の雨に打たれた肌は凍瘡のように紅く爛れている。リシュカは一瞬だけ言葉を失ったが首を振って顔に笑みを貼りつけた。
 怪我はない、クロエ?
 ええ。っ――リシュカさん、その手は。

 へ、という声が漏れた。リシュカは自分の手の甲を見下ろした。先ほどまで再生機をかざしていた方の手だった。クロエと同じように赤い斑点模様が浮かんでいた。自覚したのを合図に患部は炎症を起こしたかのように痛み始めた。傘を差してはいたが何事も限界はある。
 クロエの顔が見る見る間に青ざめた。
 ……ごめんなさい。本当にごめんなさいっ。私なんかを探しに来たせいで。
 いい。気にしてない。リシュカは首を振る。何か月か経てば目立たない程度には薄れるはず。多分。
 でも、――私のせいでリシュカさんの綺麗な手が。
 あたしの手なんてどうでもいい――っ。
 リシュカは力を込めて再度首を振った。ランタンに照らされた紅梅色の髪が振り乱されるさまは風に煽られて踊り狂うほのおのようだった。
 ――あたしよりも、……クロエの身体の方がずっと大事。
 それに、とリシュカは付け加える。汚れちゃったならあんたと同じ。これでお揃いになるじゃない。

 リシュカはクロエの手を取った。肌あれやかさつき・・・・の目立つ労苦の滲んだ手。その上に自らの手を重ねた。ホームの上に引っ張り上げてやるとその勢いのままクロエは両手を背中に回して抱きついてきた。体重を支えきれずにリシュカは仰向けに倒れた。埃と黴の臭いに混じってシスター少女の髪の香りが鼻をくすぐった。二人の周囲には戦前に避難した人びとのむくろが何体も転がっていた。老若男女の遺体。あるいはひっそりと横たえられた老人のステッキ。もしくは身の回りのものを詰め込んだスーツケース。それから空っぽのベビーカー。胸に顔を埋めて嗚咽を漏らすクロエの背中をさすってやりながらリシュカは戦前の人びとの声なき声を聴いていた。

   □

 二人はホームに備え付けの椅子に座って雨上がりを待つことにした。灯りはランタンが一つだけ。全身を魔の雨に打たれたクロエが苦痛に顔を歪めていたのでスキットルに入れたブランカ酒を少量飲ませた。それから濡れた聖衣を脱がせることにした。ほろ酔いになった彼女はされるがままだった。タオルで身体を拭いてやったあとリシュカの上着を羽織らせる。外に比べて地下鉄はあまりに肌寒く二人は肩を寄せ合って座った。辺りに散らばった遺体は空っぽの眼窩を通して二人の様子を見守っている。

 リシュカは言葉を探して指の先をこすり合わせた。クロエの視線を頬に感じた。再び今度は彼女の方から手を重ねてきた。陽だまりのように温かい手だった。それでようやくリシュカはかけるべき言葉を掘り当てることができた。
 ――あの性根の腐った爺さんが見せてきた映像だけど。
 …………はい。
 クロエも感づいたと思うけど。あいつ意図的に場面を飛ばして都合のいい部分だけあたし達に見せたんだ。
 それは、――はい。分かります。
 なんでそんなことしたのか。決まってる。理由は――。
 その方が面白いことになりそうだから、でしょう?
 クロエが言葉を挟み込んだ。幾分か鋭さの増した声だった。
 リシュカはうなずく。あたしもアリサのことは以前から知ってる。会話だって何度も交わした。あいつが単なる保身のためにあんたの父親を、――父親を、……さ、殺害できるような人間じゃないってことくらい分かる。そんな器用な奴じゃない。だいたい直接手を下した場面だって映ってない。何か事情があったんだ。それを承知であのジジイは――。
 好いんです、リシュカさん。
 いいって何がっ。
 リシュカはクロエの横顔を見つめた。彼女は重ねた手に力を込めてきた。胸元に提げたロザリオをもう片方の手で握っていた。奥歯で唇の端を噛んでいるのが分かった。海色の瞳が光っていた。先程とは別種の涙だった。

 わたし、わたし、――本当は気づいていました。クロエはたどたどしく言葉を綴った。父の遺骨を受け取った時からずっと心残りだったんです。町に帰ってきたアリサさんが哀しげで。とても落ち込んでいらっしゃるご様子でした。自分のことを人殺しの強盗だと自嘲されて、――今にも泣きだしそうでした。きっと私に云えない何かがあったんだって。
 …………。
 私はあの方に云ったんです。神様があなたをお赦しにならなくても私があなたを赦しますって。――でも怖かったんです。真相を知るのが恐ろしくて……。あの方に懺悔を促すことまではできませんでした。ただ黙って抱きしめただけで、――それでお終いにしてしまったんです。もっときちんとお話しすべきだったのに。

 クロエはぽろぽろと涙をこぼしながらロザリオを握っていた。リシュカは返事ができずに黙っていた。シスターが口をつけたスキットルから自らもブランカ酒を舐めた。甘くて苦い複雑な味だった。
 …………分かったよ。
 え?
 クロエが、――あんたが遥々オーデルから出てきた本当の理由がやっと分かった。
 …………。
 あたしと一緒だ。いつ死ぬともしれない大切な人にもう一度会いたい。どうしても伝えたいことがある。どうしても訊いておきたいことがある。謝りたいことも沢山ある。手渡したい気持ちも山ほどある。
 リシュカはひと呼吸置いて傷だらけのスキットルを見つめた。……組合酒場のマスターも話してたよ。あの人も伴侶とちゃんとしたお別れができなかった。一発の砲弾が店の前に落っこちて。それで何もかも終わったって……。
 リシュカは地下鉄のホームに横たわる人びとに視線を移す。
 この人達も、――きっとそうだったんだろうね。

 長い沈黙のあとでクロエはそっと答えた。ではリシュカさん。
 なに。
 今、――あなたが私に伝えたいことはありませんか?
 大体はもう云ったよ。あたし達は似た者同士なんだって。最初の頃あんたに苛ついてたのはあたしと真逆の性格だからなんだって思ってた。でも違った。今なら分かる。あたし達は別々の方角から同じ場所を目指してただけなんだ。
 リシュカさん……。

 酔いが回ってきたようだった。禁酒生活が功を奏して少しの量でも気持ち好く酔えるようになっていた。これ以上飲んでしまわないうちにあんたが預かっといて、とスキットルをクロエに渡すとシスターは蓋を開けて残りを飲みほしてしまった。リシュカが唖然としているとクロエは上気した顔で微笑んだ。
 お気になさらず。これは命の水です。度が過ぎなければ神様も赦してくださいます。
 それもあんたの独自解釈?
 ええ――。クロエは笑みを深めた。あなたのせいでずる賢くなっちゃいました。

 頭の奥で青い火花が散るのが分かった。リシュカは背もたれから身体を離した。手を伸ばし薬指でクロエの火照った頬の輪郭をなぞってみせた。その指に手を添えた少女が困惑したようにこちらを見た。海色の瞳がランタンの光を優しく映していた。そこにも確かにはあった。それからリシュカは指をクロエの豊かな金髪に潜り込ませて顔を引き寄せた。息を呑む音が唇ごしに振動となって伝わってきた。続いてか細い吐息も。しばらくしてクロエの肩から力が抜けた。背中に腕が回された。二人は自転も公転もしない連星のように静止していた。朽ちたかばねの眠る地下墓地で。

 唇を離して小さく咳払いしてからクロエは呟いた。
 …………あなたは、やっぱり不道徳です。
 あんたこそ。
 リシュカはそう云って笑った。

   □

 ねえクロエ。
 なんです?
 この街を出て。無事にアリサを見つけられたとして。――それからどうするの。まさかあの子の旅というか稼業に付いていくわけにもいかないでしょ?
 ええ。足手まといになります。アリサさんも望まないことでしょう。
 じゃあ――。
 私もその後のことは考えていませんでした。でも一つ、目標ならあります。
 なに。
 もっと知りたい。もっとたくさんの経験がしたいです。
 経験。
 ええ。――リシュカさんも前に仰いましたが私は世間知らずです。口先だけで人びとを信仰に導くことはできない。この街に来てから嫌というほど思い知らされました。
 見上げた向上心ね。
 もう一つあります。
 ん?
 各地で眠っていらっしゃる可哀想な人達をきちんと弔って差し上げたいです。お墓を建てて。祈りを捧げて。
 世界中、――いやセントラーダとその周辺だけで何千何万の人が野晒しで死んでるのか分かって云ってんの。
 一生かけて追い続けられる目標って素敵だと思いませんか。
 ……まァ退屈だけはしないだろうけど。
 リシュカさんはどうされるのです?
 え?
 このままお屋敷に戻られて今まで通りに暮らすのですか?
 …………まだ分からない。あたしはあんたほど思いきりのいい人間じゃない。
 はい。
 自分を変えたいって気持ちはあるよ。でもいろいろ頑張ったけど結果は出てない。何もないところから清い水がこんこんと湧きたつような。そんな神様の奇蹟は現実には起こらない。
 それは違うと思いますよ。
 え?
 奇蹟はいつも人の心の中で起こります。その人が求めるなら神様はどんな時でも恵みをもたらしてくださいます。
 ……心の中でって、――それもあんたの独自解釈でしょ。善き本の福音どおり本当に奇蹟は起きたんだって信じてる人が怒るわよ。
 異端ですよね。
 少しは悪びれなさいよ。
 えへへ。
 ……ねえシスター。
 何でしょう。
 あたしにも奇蹟は起こるのかな。
 無論です。私が保証いたします。
 自信たっぷりに云うね。
 簡単な話です。他ならないリシュカさんが私に起こしてくださったのですから。
 え、いつ。
 これまでも。そして先ほども。
 さっきって……。
 初めてだったんですよ?
 あ、あれはその場の勢いというか――。
 ――もうしてくれないのですか?
 …………。
 …………。
 ……じゃあ、お手入れ。
 え?
 爪の手入れをまたしてくれたら考えてもいい。
 ええ。――喜んで。
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