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カテドラル
#63 捧げ物
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クロエは僧房で昼食の準備をしていた。捌いているのは今朝屠られたばかりの家畜。その過程で脂肪の一部を取り分けておき隅に設けられた小さな祭壇の上に安置した。祭壇の四隅の柱に金色の油をごく少量振りかけたあと善き本を開いて祈りの言葉を口ずさんだ。それから周りの薪に火を点けた。火は脂肪にうまく移ってくれた。燃え尽きる時まで脂肪は煙と香りを捧げられるがままとなる。
脂肪が焼失してしまう前にリシュカがふらついた足取りでやってきた。今にも階段から転げ落ちそうに見えたのでクロエは思わず駆け寄って肩を支えた。仕立てたばかりのシルクを思わせる紅梅色の髪も今は見ていられないほどぼさぼさで使い古した箒のようだった。吐きそうな顔色で目の下には黒い隈。
少女を椅子に座らせ水を入れたコップを手渡しながらクロエは声をかけた。リシュカさん、おはようございます。よく眠られたご様子で何よりです。
脂肪の焼ける香りに少女はウッと呻きを漏らして右手で口を覆った。
――な、何やってんの調理失敗?
いえ焼燔の捧げ物です。これを宥めの香りとして天にお伝えするのです。
伝えるって何を。
感謝。誓い。あるいは赦しを。
赦すって何の罪があるのよ。
世界を滅ぼしてしまった罪です。
あんた戦争があった時に生まれてないじゃない。関係ないでしょ。
仰りたいことは分かります。でもこれは私達全体が背負うべき罪の重石です。そこに垣根などない。少なくとも私はそう学びました。
ふーん……。
リシュカに顔をまじまじと見つめられて思わず目をそらしてしまった。彼女の眼にはアリサの透き通った空色の瞳とは別種の力がある。矢車草のブルー。それは見定めたものを深海に引きずりこむための色だった。
なんだか自信なさげだな。リシュカは容赦なく云った。昨日から思ってた。虚勢ばかり張って信心深さをアピールして。あんたも心の底では教えなんて信じてないんじゃないの。こんなのぜったい理不尽だって――。
そんなことはありません!
ほら怒った。図星でしょ。別に正式な神職じゃないんだから洗いざらいぶちまけちゃいなよ。
あ、あ、――あなたは不道徳ですっ!
激昂したクロエにリシュカは気圧されるどころか薄ら笑いを浮かべた。予感を覚えてクロエはいつでも首を守れるよう身構えた。
紅梅色の髪の少女は続ける。それにほら、脂肪の欠片くらいしか燃やしてないけどほんとにあんなので神様に祈りは届くわけ? ずいぶんリーズナブルで欲のない御方だな。
……戦前は、一頭丸ごと焼き尽くすのが決まりだったそうです。
ははーん。勿体ないから改められたわけだ。
それは違います。持ち分の財産に応じて捧げる犠牲は変わるのです。今は誰もが貧しいので捧げ物もささやかにならざるを得ないだけです。
それって何。司教とかの公式見解?
いえ――。私が善き本から導いた解釈です。
リシュカは何度かまばたきした。
あんたの独自解釈?
ええ。
ええ、じゃないよ。いいのそれって?
クロエはうつむいた。継ぎはぎだらけの聖衣を両手で軽く握りしめた。
――善き本には祭事と同等かそれ以上に尊い美徳は勤労と書かれています。しかし善き労働のためには日々の食事を疎かにすることはできませんので……。
体裁を整えた云い訳じゃないの。神を信じぬ少女はそう云って唐突に頬を緩めた。――でもさ、そういう柔軟さは嫌いじゃないな。
嫌い、じゃない?
意外と抜け目ないのねあんた。
…………。
そんな風に云われたのは初めてだった。クロエはリシュカから見えないようテーブルの下で拳を開いたり閉じたりした。唇の端がほころびそうになるのを歯を喰いしばって堪えた。ちょうどそのとき脂肪を燃やす焔は絶えた。クロエは話を切り上げて席を立ち食事を配膳した。脂の滴る肉を黒パンやポタージュとともにむしゃむしゃと頬張るシスター少女の姿をリシュカはげんなりとした目で見ていた。
よくもまあそんな脂ぎった肉を豪快に食べられるわね……。
リシュカさんもほら。ご遠慮なさらずに。
今は水以外は何もお腹に入れたくないんだよ。
じゃあ頂いてもよろしいですか?
…………どうぞ。
ありがとうございます!
リシュカは頬杖をついて苦笑いした。
独自解釈ってそれさ。あんたがたらふく食べるための云い訳に思えてきた。
□
くず鉄拾いの組合の酒場はその日も静かだった。客は大勢いた。誰もが口数少なくブランカ酒を飲み回し戦前の廃墟から失敬してきたカードをテーブルに並べてゲームに興じている。まるで同業者の死を弔っているかのような雰囲気だったがそれが平常運転だった。黒ずんだ紅い外套。ベルトから覗いた拳銃。おが屑の敷かれた狭い店内。散弾槍が持ち込み可となっていたら足の踏み場もなくなっていたことだろう。
リィラ、これ。
酒場のマスターは給仕係の少女にブランカ酒の瓶、それと山羊のミルクが入った鉄瓶を渡した。少女は片目を病んでおり眼帯をしていたがそこは慣れたもので客の間を蝶が舞うようにすり抜けていく。そして奥のテーブルに座っているご新規さんに無言で給仕した。
待ってました、ありがとうございます!
ついさっきあんな食べたくせに今度はコップ一杯のミルクって。節制の契りはどうした?
これが私なりの清貧の在り方なんです。
必要以上に飲み食いすることが?
恵みに感謝していただくことです!
…………どうぞご自由に。
マスターがカウンターに腰かけている老スカベンジャーにシエスコ酒を注いでやると彼はコップを掲げて感謝の意を示した。マスターは背を屈め声を低めて話しかけた。
今度はあなた、どういう風の吹き回し?
仕事を引き受けた。それだけさね。
だったらまず組合の依頼をこなしてちょうだい。上の階の連中が頭を抱えてたよ。近ごろは風の吹くままふらつくスカベンジャーが多すぎるって。
あんたらが悪どく仲介料をふんだくるのがいけないんじゃないのかい?
人聞き悪いね。酒も軽食も保険もタダじゃないんだ。
それを云われると返す言葉はないな。
とりつく島もない老スカベンジャーの態度にマスターは笑みを返した。
……変わらないのね、あなたは。
お前さんもな。
久しぶり。
ああ。
元気そうで何よりよ。
いやもう年だ。昔ほどは身体が云うことを聞かん。
私も似たようなものだね。
マスターは息を吸い込んで話題を変えた。それで、――あの子達は何。きゃーきゃー騒ぎすぎると周りの禿鷲どもに手ひどく突つかれるよ。
葬儀場みたいな辛気臭さを漂わせてるこの店も正直どうかと思うがね。酒場なのに。
話をはぐらかすんじゃないよ。部外者をあまり入れると私が困ったことになる。
すまんね。
給仕を終えたリィラが戻ってきて伝言を耳打ちしてきた。二人の少女から。そろそろいいでしょうか、というお伺い。金髪のほうが店に入るなり何も注文せずに用件を切り出そうとしてきたのでマスターが遮っていた。まずは何か飲んでから。それがマナーってもんだよお嬢ちゃん。
マスターは横目で腐れ縁のくず鉄拾いを睨んでから溜め息をついて二人の少女を手招きした。
□
ありさ、アリサ。――ああ、あの可愛らしい子ね。あんたと同じ金髪の。
か、可愛らしい?
クロエはミルクの入ったコップから顔を上げて身を乗り出した。横で話を聞いている給仕係の少女が口元に指を当てて声もなく笑った。
ああそうだよ。マスターはうなずく。あんな健気に仕事をこなしてくれるスカベンジャーは今どき珍しいからね。私もリィラもあの子のことは気に入ってる。だろう?
隻眼の少女は無言でうなずく。
クロエは自分のことのように胸を張る。――人気なんですね、アリサさん。
変わり者だよ。あの父親にしてあの子ありだ。
お父様はお亡くなりになったと聞いています。
そうさね。組合としては実に大きな喪失だった。他の連中がどう思ってるかは知らんが私はあの人には頭が上がらなかった。リィラもあの人にはよく懐いていた。
隣でリシュカが窮屈そうに身じろぎして鼻息を漏らすのが分かった。早く本題を切り出せというサインだったがクロエは無視した。身を乗り出し給仕台を乗り越えそうな姿勢になった。
――それで、あの方は今どこに?
知らないね。
どうしてですか!
私を保護者か何かだと思ってるのか?
だって依頼を請けて物を探すのでしょう? それなら行き先くらい――。
何もそれだけがスカベンジャーの仕事じゃないよ。行き先を言づけないこともしょっちゅうさ。遠くまで足を伸ばして価値のある物を拾ってくる。それをきっちり組合に届け出る。場合によっちゃ再生機も確認して盗品じゃないことを証明する。これだって立派な仕事だ。中には何も持って来ずにどこをほっつき歩いてるのか分からん連中だっているけどね。
離れた席で老スカベンジャーが咳払いした。クロエが振り向くと何人ものスカベンジャーが一斉に視線をそらすところだった。くっだらない、と鼻で笑ってブランカ酒をあおるリシュカ。隻眼のリィラは変わらず無言のまま微笑んでいる。
それでも心当たりは――、とクロエが質問を続けようとしたときピアノの音が割って入った。調律の行き届いた澄んだ音色だった。煙草の煙が充満する店内でその調べは水が波紋を広げるように余すところなく響き渡り視界がクリアに澄んだように思われた。
悪いけど話は終わり。マスターが両手を挙げる。演奏中はお静かに、だ。それがここのルール。
ピアノを弾いているのは初老の男だった。歳は老スカベンジャーと同程度。木製の義足が右の膝下から覗いていた。くず鉄拾いの紅い外套は羽織っていない。雨の休日の昼下がりを思わせるスローなテンポで調べは続く。店にいるスカベンジャー達は話を止めて演奏に聴き入った。グラスを置いて。煙草の火を消して。ある者は目を閉じて。
クロエもまた深呼吸して耳を傾けていると横からリシュカに肘でつつかれた。
あんた、ねぇ。
なんです。
ここに来た用事を忘れたの?
アリサさんのことでしたらもう――。
ばっきゃろ。司教の坊さんから頼まれただろ。
あっ、そっか。そうでした。
演奏が終わりまばらな拍手がおさまるとクロエは再びマスターに向き直った。そして元司教の言付けを伝えた。あのピアノ弾きをお借りしたい。祝祭日に大聖堂で弾いてもらうために。報酬は支払う。云々。
あそこにはもう弾き手がいるじゃないか。マスターは腕を組んで答える。エルマの婆さんが。
その方はすでに御手に委ねられたと聞きました。雨に降られて風邪をひいて。そのまま肺炎に……。
マスターは数秒ほど天井を見上げて目を閉じていた。腕組みをしたまま無表情に。二の腕に置かれた人差し指がトントンとリズムを刻んだ。ああそうか、逝ったのか、という呟きがひび割れた唇から漏れた。
やがてマスターは口を開いた。
紹介だけはしてやるよ。決めるのはあの人だ。
クロエが礼を述べて席を立とうとしたとき壮年のスカベンジャーがやってきてカウンターに身をもたせかけた。紅の外套がわずかに翻り血の付いたマチェットが顔を覗かせた。彼は声を低めてマスターに唸った。
……連れがやられた。
奴らかい?
ああ。命に別条はないが復帰は絶望的だ。
一応訊いとくけどあんた達からけしかけたんじゃないだろうね。
再生機にちゃんと収めてる。もう上には提出してきた。向こうはやる気だ。それだけ伝えときたくてな。
分かった。ご苦労だね。
くず鉄拾いは離れていった。クロエ達の視線を受け止めたマスターは無言で首を振る。何でもないこちらの問題だと云うように。
□
ひと通りの演奏を終えたピアノ弾きに事情を打ち明けた。彼は返事しなかった。義足の付け根を手でなでさすりがらクロエをじっと見返した。それからカウンター席に座した老スカベンジャーに視線を移した。老人が軽く手を挙げるとピアノ弾きは声を出さず唇だけを動かした。またお前かと云っているようにクロエには見えた。
それから彼はこちらに視線を戻した。瞳はどちらも白く濁っており火で焼かれて爛れたかのように見えた。そこで初めてクロエは彼が光を喪失していることに気づいた。
悪いがね。彼は云う。わたしはここより外では弾かん。
まるで口を開くたびに疼痛が走るとでもいうように彼は時間をかけて話した。
クロエは食い下がった。どうしても駄目でしょうか。
それがけじめだ。いや自分への約束だ。
皆さんの日々の安寧のためなんです。信仰の証明だとか奉仕の義務だとかそういうのはこの際いいんです。ただ、――あなたの周りの善良な人びとが変わらず祈りを捧げられるようにしたいだけなんです。
奇妙なことを云うお嬢ちゃんだな。好い意味で破天荒な尼さんだ。
私は心と生活を大事にしたいだけです。
ならいっそあんたが弾くといい。心得くらいはあるのだろう?
クロエはうつむいた。私はシスターじゃありません。志望しているだけで。教育も訓練も受けていません。
なんだそうかい。
老人はしばらく首を揺らして考えこんでいた。うなずきを何度か挟んだ。その間にリシュカがクロエの隣で盛大な欠伸をしたので足の甲をかかとで踏んづけてやった。
老人の提案はこうだった。
……それなら、わたしが弾き方を教えてやる。
ほ、本当ですか?
あまり日取りはないが物の役に立つくらいにはできるだろう。
でも自信がありません。私に弾けるでしょうか。あなたのようにきれいな。
弾けるさ。代わりと云ってはなんだが。
何でしょう。
わたしも祝祭日には久々に参列させてくれんか。お嬢さんの声を聴いていると不思議と善き本の世界に浸りたくなったよ。なぜかは分からんがね。
クロエは老人の手を取った。もちろんです、――喜んで!
リシュカが溜め息をつくのが分かったがクロエは無視した。鍵盤の上で自由自在に踊りまわる自分の指を想像した。空想の中のそれは綺麗な指だった。洗濯で冷たい水にさらされず。家畜の肉の捌き方も知らず。遺体の埋葬のためにシャベルを握ることもない。荒れた肌とは無縁の清らかな指だった。
脂肪が焼失してしまう前にリシュカがふらついた足取りでやってきた。今にも階段から転げ落ちそうに見えたのでクロエは思わず駆け寄って肩を支えた。仕立てたばかりのシルクを思わせる紅梅色の髪も今は見ていられないほどぼさぼさで使い古した箒のようだった。吐きそうな顔色で目の下には黒い隈。
少女を椅子に座らせ水を入れたコップを手渡しながらクロエは声をかけた。リシュカさん、おはようございます。よく眠られたご様子で何よりです。
脂肪の焼ける香りに少女はウッと呻きを漏らして右手で口を覆った。
――な、何やってんの調理失敗?
いえ焼燔の捧げ物です。これを宥めの香りとして天にお伝えするのです。
伝えるって何を。
感謝。誓い。あるいは赦しを。
赦すって何の罪があるのよ。
世界を滅ぼしてしまった罪です。
あんた戦争があった時に生まれてないじゃない。関係ないでしょ。
仰りたいことは分かります。でもこれは私達全体が背負うべき罪の重石です。そこに垣根などない。少なくとも私はそう学びました。
ふーん……。
リシュカに顔をまじまじと見つめられて思わず目をそらしてしまった。彼女の眼にはアリサの透き通った空色の瞳とは別種の力がある。矢車草のブルー。それは見定めたものを深海に引きずりこむための色だった。
なんだか自信なさげだな。リシュカは容赦なく云った。昨日から思ってた。虚勢ばかり張って信心深さをアピールして。あんたも心の底では教えなんて信じてないんじゃないの。こんなのぜったい理不尽だって――。
そんなことはありません!
ほら怒った。図星でしょ。別に正式な神職じゃないんだから洗いざらいぶちまけちゃいなよ。
あ、あ、――あなたは不道徳ですっ!
激昂したクロエにリシュカは気圧されるどころか薄ら笑いを浮かべた。予感を覚えてクロエはいつでも首を守れるよう身構えた。
紅梅色の髪の少女は続ける。それにほら、脂肪の欠片くらいしか燃やしてないけどほんとにあんなので神様に祈りは届くわけ? ずいぶんリーズナブルで欲のない御方だな。
……戦前は、一頭丸ごと焼き尽くすのが決まりだったそうです。
ははーん。勿体ないから改められたわけだ。
それは違います。持ち分の財産に応じて捧げる犠牲は変わるのです。今は誰もが貧しいので捧げ物もささやかにならざるを得ないだけです。
それって何。司教とかの公式見解?
いえ――。私が善き本から導いた解釈です。
リシュカは何度かまばたきした。
あんたの独自解釈?
ええ。
ええ、じゃないよ。いいのそれって?
クロエはうつむいた。継ぎはぎだらけの聖衣を両手で軽く握りしめた。
――善き本には祭事と同等かそれ以上に尊い美徳は勤労と書かれています。しかし善き労働のためには日々の食事を疎かにすることはできませんので……。
体裁を整えた云い訳じゃないの。神を信じぬ少女はそう云って唐突に頬を緩めた。――でもさ、そういう柔軟さは嫌いじゃないな。
嫌い、じゃない?
意外と抜け目ないのねあんた。
…………。
そんな風に云われたのは初めてだった。クロエはリシュカから見えないようテーブルの下で拳を開いたり閉じたりした。唇の端がほころびそうになるのを歯を喰いしばって堪えた。ちょうどそのとき脂肪を燃やす焔は絶えた。クロエは話を切り上げて席を立ち食事を配膳した。脂の滴る肉を黒パンやポタージュとともにむしゃむしゃと頬張るシスター少女の姿をリシュカはげんなりとした目で見ていた。
よくもまあそんな脂ぎった肉を豪快に食べられるわね……。
リシュカさんもほら。ご遠慮なさらずに。
今は水以外は何もお腹に入れたくないんだよ。
じゃあ頂いてもよろしいですか?
…………どうぞ。
ありがとうございます!
リシュカは頬杖をついて苦笑いした。
独自解釈ってそれさ。あんたがたらふく食べるための云い訳に思えてきた。
□
くず鉄拾いの組合の酒場はその日も静かだった。客は大勢いた。誰もが口数少なくブランカ酒を飲み回し戦前の廃墟から失敬してきたカードをテーブルに並べてゲームに興じている。まるで同業者の死を弔っているかのような雰囲気だったがそれが平常運転だった。黒ずんだ紅い外套。ベルトから覗いた拳銃。おが屑の敷かれた狭い店内。散弾槍が持ち込み可となっていたら足の踏み場もなくなっていたことだろう。
リィラ、これ。
酒場のマスターは給仕係の少女にブランカ酒の瓶、それと山羊のミルクが入った鉄瓶を渡した。少女は片目を病んでおり眼帯をしていたがそこは慣れたもので客の間を蝶が舞うようにすり抜けていく。そして奥のテーブルに座っているご新規さんに無言で給仕した。
待ってました、ありがとうございます!
ついさっきあんな食べたくせに今度はコップ一杯のミルクって。節制の契りはどうした?
これが私なりの清貧の在り方なんです。
必要以上に飲み食いすることが?
恵みに感謝していただくことです!
…………どうぞご自由に。
マスターがカウンターに腰かけている老スカベンジャーにシエスコ酒を注いでやると彼はコップを掲げて感謝の意を示した。マスターは背を屈め声を低めて話しかけた。
今度はあなた、どういう風の吹き回し?
仕事を引き受けた。それだけさね。
だったらまず組合の依頼をこなしてちょうだい。上の階の連中が頭を抱えてたよ。近ごろは風の吹くままふらつくスカベンジャーが多すぎるって。
あんたらが悪どく仲介料をふんだくるのがいけないんじゃないのかい?
人聞き悪いね。酒も軽食も保険もタダじゃないんだ。
それを云われると返す言葉はないな。
とりつく島もない老スカベンジャーの態度にマスターは笑みを返した。
……変わらないのね、あなたは。
お前さんもな。
久しぶり。
ああ。
元気そうで何よりよ。
いやもう年だ。昔ほどは身体が云うことを聞かん。
私も似たようなものだね。
マスターは息を吸い込んで話題を変えた。それで、――あの子達は何。きゃーきゃー騒ぎすぎると周りの禿鷲どもに手ひどく突つかれるよ。
葬儀場みたいな辛気臭さを漂わせてるこの店も正直どうかと思うがね。酒場なのに。
話をはぐらかすんじゃないよ。部外者をあまり入れると私が困ったことになる。
すまんね。
給仕を終えたリィラが戻ってきて伝言を耳打ちしてきた。二人の少女から。そろそろいいでしょうか、というお伺い。金髪のほうが店に入るなり何も注文せずに用件を切り出そうとしてきたのでマスターが遮っていた。まずは何か飲んでから。それがマナーってもんだよお嬢ちゃん。
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□
ありさ、アリサ。――ああ、あの可愛らしい子ね。あんたと同じ金髪の。
か、可愛らしい?
クロエはミルクの入ったコップから顔を上げて身を乗り出した。横で話を聞いている給仕係の少女が口元に指を当てて声もなく笑った。
ああそうだよ。マスターはうなずく。あんな健気に仕事をこなしてくれるスカベンジャーは今どき珍しいからね。私もリィラもあの子のことは気に入ってる。だろう?
隻眼の少女は無言でうなずく。
クロエは自分のことのように胸を張る。――人気なんですね、アリサさん。
変わり者だよ。あの父親にしてあの子ありだ。
お父様はお亡くなりになったと聞いています。
そうさね。組合としては実に大きな喪失だった。他の連中がどう思ってるかは知らんが私はあの人には頭が上がらなかった。リィラもあの人にはよく懐いていた。
隣でリシュカが窮屈そうに身じろぎして鼻息を漏らすのが分かった。早く本題を切り出せというサインだったがクロエは無視した。身を乗り出し給仕台を乗り越えそうな姿勢になった。
――それで、あの方は今どこに?
知らないね。
どうしてですか!
私を保護者か何かだと思ってるのか?
だって依頼を請けて物を探すのでしょう? それなら行き先くらい――。
何もそれだけがスカベンジャーの仕事じゃないよ。行き先を言づけないこともしょっちゅうさ。遠くまで足を伸ばして価値のある物を拾ってくる。それをきっちり組合に届け出る。場合によっちゃ再生機も確認して盗品じゃないことを証明する。これだって立派な仕事だ。中には何も持って来ずにどこをほっつき歩いてるのか分からん連中だっているけどね。
離れた席で老スカベンジャーが咳払いした。クロエが振り向くと何人ものスカベンジャーが一斉に視線をそらすところだった。くっだらない、と鼻で笑ってブランカ酒をあおるリシュカ。隻眼のリィラは変わらず無言のまま微笑んでいる。
それでも心当たりは――、とクロエが質問を続けようとしたときピアノの音が割って入った。調律の行き届いた澄んだ音色だった。煙草の煙が充満する店内でその調べは水が波紋を広げるように余すところなく響き渡り視界がクリアに澄んだように思われた。
悪いけど話は終わり。マスターが両手を挙げる。演奏中はお静かに、だ。それがここのルール。
ピアノを弾いているのは初老の男だった。歳は老スカベンジャーと同程度。木製の義足が右の膝下から覗いていた。くず鉄拾いの紅い外套は羽織っていない。雨の休日の昼下がりを思わせるスローなテンポで調べは続く。店にいるスカベンジャー達は話を止めて演奏に聴き入った。グラスを置いて。煙草の火を消して。ある者は目を閉じて。
クロエもまた深呼吸して耳を傾けていると横からリシュカに肘でつつかれた。
あんた、ねぇ。
なんです。
ここに来た用事を忘れたの?
アリサさんのことでしたらもう――。
ばっきゃろ。司教の坊さんから頼まれただろ。
あっ、そっか。そうでした。
演奏が終わりまばらな拍手がおさまるとクロエは再びマスターに向き直った。そして元司教の言付けを伝えた。あのピアノ弾きをお借りしたい。祝祭日に大聖堂で弾いてもらうために。報酬は支払う。云々。
あそこにはもう弾き手がいるじゃないか。マスターは腕を組んで答える。エルマの婆さんが。
その方はすでに御手に委ねられたと聞きました。雨に降られて風邪をひいて。そのまま肺炎に……。
マスターは数秒ほど天井を見上げて目を閉じていた。腕組みをしたまま無表情に。二の腕に置かれた人差し指がトントンとリズムを刻んだ。ああそうか、逝ったのか、という呟きがひび割れた唇から漏れた。
やがてマスターは口を開いた。
紹介だけはしてやるよ。決めるのはあの人だ。
クロエが礼を述べて席を立とうとしたとき壮年のスカベンジャーがやってきてカウンターに身をもたせかけた。紅の外套がわずかに翻り血の付いたマチェットが顔を覗かせた。彼は声を低めてマスターに唸った。
……連れがやられた。
奴らかい?
ああ。命に別条はないが復帰は絶望的だ。
一応訊いとくけどあんた達からけしかけたんじゃないだろうね。
再生機にちゃんと収めてる。もう上には提出してきた。向こうはやる気だ。それだけ伝えときたくてな。
分かった。ご苦労だね。
くず鉄拾いは離れていった。クロエ達の視線を受け止めたマスターは無言で首を振る。何でもないこちらの問題だと云うように。
□
ひと通りの演奏を終えたピアノ弾きに事情を打ち明けた。彼は返事しなかった。義足の付け根を手でなでさすりがらクロエをじっと見返した。それからカウンター席に座した老スカベンジャーに視線を移した。老人が軽く手を挙げるとピアノ弾きは声を出さず唇だけを動かした。またお前かと云っているようにクロエには見えた。
それから彼はこちらに視線を戻した。瞳はどちらも白く濁っており火で焼かれて爛れたかのように見えた。そこで初めてクロエは彼が光を喪失していることに気づいた。
悪いがね。彼は云う。わたしはここより外では弾かん。
まるで口を開くたびに疼痛が走るとでもいうように彼は時間をかけて話した。
クロエは食い下がった。どうしても駄目でしょうか。
それがけじめだ。いや自分への約束だ。
皆さんの日々の安寧のためなんです。信仰の証明だとか奉仕の義務だとかそういうのはこの際いいんです。ただ、――あなたの周りの善良な人びとが変わらず祈りを捧げられるようにしたいだけなんです。
奇妙なことを云うお嬢ちゃんだな。好い意味で破天荒な尼さんだ。
私は心と生活を大事にしたいだけです。
ならいっそあんたが弾くといい。心得くらいはあるのだろう?
クロエはうつむいた。私はシスターじゃありません。志望しているだけで。教育も訓練も受けていません。
なんだそうかい。
老人はしばらく首を揺らして考えこんでいた。うなずきを何度か挟んだ。その間にリシュカがクロエの隣で盛大な欠伸をしたので足の甲をかかとで踏んづけてやった。
老人の提案はこうだった。
……それなら、わたしが弾き方を教えてやる。
ほ、本当ですか?
あまり日取りはないが物の役に立つくらいにはできるだろう。
でも自信がありません。私に弾けるでしょうか。あなたのようにきれいな。
弾けるさ。代わりと云ってはなんだが。
何でしょう。
わたしも祝祭日には久々に参列させてくれんか。お嬢さんの声を聴いていると不思議と善き本の世界に浸りたくなったよ。なぜかは分からんがね。
クロエは老人の手を取った。もちろんです、――喜んで!
リシュカが溜め息をつくのが分かったがクロエは無視した。鍵盤の上で自由自在に踊りまわる自分の指を想像した。空想の中のそれは綺麗な指だった。洗濯で冷たい水にさらされず。家畜の肉の捌き方も知らず。遺体の埋葬のためにシャベルを握ることもない。荒れた肌とは無縁の清らかな指だった。
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※小説家になろう、カクヨムと同時に投稿しています。
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