くず鉄拾いのアリサ

Cabernet

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カテドラル

#62 炉の底

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 セントラーダを第二のオーデルにしてはならない。

 戦線が中央の領邦へと燃え広がったときあらゆる場所で耳にした文句がこれだった。オーデルはもうごめんだ。上官からもラジオからも新聞からもそのフレーズは繰り返された。いまだ戦線という言葉が存在し、――戦争が戦争らしい形態をとっていた時分に伝染した魔法の呪文。
 オーデルでは女子供の死体を何千と見届けた。まるで遊びに飽いて捨てられた人形のように道端に転がっていた。避難民とも話をした。乏しい糧食を分けてやると涙を流して喜んだ。夫や息子の仇をとってほしいと頼まれた。敵の兵士に下着まで盗られたと訴えてきた女性もいたね。いったい何に使うのかといえば防寒のためだという。たおした敵兵の胸元を開くと女性物の衣服がクッションのごとく詰め込まれていたこともあった。笑えるような話だが現実問題として重要だった。冬の夜風をしのぐものが何もないオーデルの平原で凍死せずに睡眠をとるためにはわら一本でもありがたかった。

   □

 街の郊外に住民は残っていなかった。大勢の避難民が押し寄せた結果セントラーダの人口は平時の二倍になっていた。何万、いや何十万人といたか分からない。あの戦争で生まれた無数の物語のうちでとりわけ驚異的なのはすべてが終わったあとでなお街には五百人の子供を含む六千人近くの住民が生き残っていたということだ。我々兵士には銃と弾薬があり最低限の糧食もあった。だが市民には何もなかった。人間の血肉が瓦礫と一緒に文字通りたがやされ尽くしたあの場所で数か月間も耐え抜いた彼らの偉業ともいうべき艱難かんなんっている者は今日ほとんどいない。

 我々の部隊はそうした何人かの住民と出逢うことになった。
 そしてそのほとんどが戦後もなおセントラーダに住み続けていた。

   □

 家々やアパート、工場の壁に空けられた無数の銃眼すべてから視線が弾丸のように飛んできて首筋をちりちりと焼いているように感じられた。我々が取り得る対策は唯ひとつで銃眼が設けられた遮蔽ごと散弾槍で吹き飛ばすことだった。掩蔽壕や待避壕、交通壕は街中の要所に掘られていたがまるで鼠の通り道であるかのように狭かった。人間二人がようやくすれ違うことができるかどうか。砲弾の破片を可能な限り避けるためなんだそうだがそうした塹壕を都度虱潰しに掃討して回るのは骨の折れる仕事だったね。

 街はすでに包囲され逃げられないと分かると敵は市内に残った住民を盾にし始めた。地上部は砲弾が飛んでくるから大抵は地下にこもって抵抗を続けていた。当然人質の女子供も一緒だ。そのとき我々はどう対処したか。これは以前に同業のスカベンジャーで命知らずのお嬢さんにも話したことがあったかな。入り口を塞いでから地下室の天井に穴を空けてガソリンを流し込んだ。それで火を点けたんだ。人質が役に立たないと分かると邪魔な市民はその場で射殺されるか身ぐるみを剝いで追い出されることになった。砲弾は腰を落ち着ける場所を選べない。身の守り方を知らない女子供や老人達はその日のうちに瓦礫の下が新しい住処すみかとなった。

   □

 ある日のっぽ・・・の戦友とともに私は酒場の跡地へと入った。近くで砲弾が落着して店の中はテーブルはもちろん皿の最後の一枚までが吹き飛ばされていた。カウンターの奥に置かれた椅子には男が一人座っていた。それが男だと判別できたのは体格からの判断で首から上は砲弾の破片で綺麗に吹き飛ばされていた。切断面は滑らかだった。まるでそれが人間のかくあるべき姿であるかのように平然と座り続けている。

 戦友と顔を見合わせてから再生機を起動した。地下室にシエスコ酒の存在が明らかになったが問題なのは女が一人隠れていて銃も持っているということだ。
 我々は地下室に通じる跳ね上げ扉を何度かリズミカルにノックした。それは領邦中でどこでも聴かされた愛国歌のリズムだった。声かけを続けるとようやく女は出てきた。銃を構えたまま。

 私と戦友は両手をだらしなく挙げて突っ立っていた。女も無言だった。首なし男も不動の沈黙を保って成り行きを見守っていた。戦友は彼をあごで示した。
 ……それ旦那さん?
 女はうなずいた。
 死んだのか。
 見れば分かるでしょ。ぶっ殺すわよ。
 失礼。あまりに何事もなかったかのように座っておられるものだから。
 …………。
 お悔やみを。
 あんた達の砲弾で死んだのよ。

 戦友は顔をしかめて私を見た。私はいつもの癖で肩をすくめそうになったが軍隊仕込みのはがねの精神で神妙な表情を堅守した。
 戦友は幾分か声を低くした。
 何と申し上げればいいか。
 いいわよ何も云わなくて。
 戦友は店を見渡した。
 ……そこの立派なピアノはまだ使えるのかな。
 ええ、――不思議よね。夫よりもずっと図体はでかいのに無傷なの。
 女は銃口を下げた。唇の端が歪んで形ばかりの笑みを作った。
 ……あの人ならそれでも喜んだのかしらね。自慢のピアノだけは残って。
 弾いても?
 どうぞ。お好きにして。
 ありがとう。

 短くない付き合いのはずだったが彼がピアノを弾けると知ったのはその時が初めてだった。

   □

 女が隠しておいた最後の一本であるシエスコをありがたく頂きながらのっぽの戦友が奏でるソナタを聴いた。私の出身階級のせいか知らんがそれほど好い曲だとは思えなかった。劇場に繰り出せる身分じゃなかったし数家族共同で使っていた国民ラジオからは勇ましい軍楽ばかり流れていた。教養というべきものを身につけて初めて分かる調べなのだろうか。例えば作曲者の人生について綴った六百ページからなる伝記を一戸建ての庭で紅茶を飲みながら読むとかだ。あるいは私がもっと歳をとれば分かるようになるのやもしれん。とにかくその場で気まずく酒を飲んでいたのは私一人で戦友はエビのごとく背筋を反らして情熱的にピアノを弾き女は手で口を覆って泣いていた。彼女の夫は完璧な沈黙を保って座しておりどこかにあるはずの耳を傾けていた。
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