くず鉄拾いのアリサ

Cabernet

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カテドラル

#58 お暇

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 モーレイ氏は打ち出し細工の銀製の煙草ケースを右手でいじりながらリシュカ・ロイツェヴァの首元の辺りを見ていた。目は合わせなかった。セントラーダの郊外。リド・ヴァレーの邸宅。書斎を静謐せいひつが包んでいた。それは太古の森が湛えている類いの威厳ある濃密な沈黙だった。リシュカは時おり顔を伏せたりあるいは漆黒の給仕服のスカーフを手で弄ったりしていた。
 やがてモーレイ氏は口を開いた。いつになく落ち着かない調子だな。
 いえ、――はい。申し訳ございません。
 リシュカは背筋を伸ばして答えた。
 呼びつけた理由は分かるな。
 はい。
 葉巻に火を点けてくれなどという野暮用ではない。
 はい。
 なら云ってみなさい。どうして私は貴重な時間を割いてまでお前を?
 はい。あ、いえ。その……。

 リシュカはふらついたように脚を踏みかえて深くお辞儀した。そして口を開きかけたがその前に矢のように言葉が飛んできた。
 それだよ。それだ。いったいどうしたんだ。ここ数週間、――いやもうひと月か。さすがに目に余るな。何のために給金を払ってやっていると思ってるんだ。泥の底からすくい上げてやった理由を何だと心得ている?
 申し訳ございません。
 謝罪はいい。目の下の隈。ふらつき。数々のミス。どうやら休息が必要なようだな。
 そんなことは。決して。
 今はセラウィもいる。多少の支障はあるが日々の雑務をこなすには問題ないだろう。

 リシュカは一歩前に踏み出した。主人が手で制してきた。
 これは許可ではなく命令だ。しばらく私にその顔を見せるな。今日中に荷物をまとめて出て行くんだ。詳細はセラウィに伝えてある。お前が必要になったら使いを送るから街からは出ないように。
 …………。
 いいな。
 ……はい。
 リシュカは一礼したあと回れ右してふらついた足取りで部屋を出た。ドアを閉める際に視線をやるとモーレイ氏は顔をわずかに持ち上げてこちらを見ていた。彼から目を合わせてきたのは久しぶりのことだった。リシュカはほんの一瞬、動きを止めた。だがすぐに目を伏せてドアを閉めた。

   □

 使用人部屋に戻ったリシュカはベッドに腰かけた。真っ白なシーツの生地にそっと指を這わせた。それから長い時間をかけて天井に向けて息を吐き出した。窓を見た。雨は上がっていた。だが曇天は続いていた。再び立ち上がって荷物をまとめ始めた。衣類や読書中の本、洗面用具、給金、その他必要なものをスーツケースに詰めていった。
 最後に手に取ったのは写真立てだった。そこには友人と昔撮った思い出が収まっていた。写真撮影が再び特定の専門技能を有する人びとだけが扱える領域となり現像には二人分の持ち金を出し合う必要があった。お前が持っていてくれ、と友人は別れ際にそう云っていた。私をいつでも思い出せるように。

 リシュカは写真立てから想い出の一枚を抜き取るとそれを両手の指に挟んで真っ二つに引き裂こうとした。指先が小刻みに震えていた。気づけば息を止めていた。ひくっという引きつりを起こしたような声が喉の奥から絞り出た。それから写真を元に戻し手近にあったゴミ箱を思いきり蹴っ飛ばした。ゴミ箱は部屋の反対側の壁にぶつかりぐしゃぐしゃに丸められた紙屑が辺りに飛び散った。皺と折り目だらけの紙には細かい字がびっしりと並んでいた。

 ゴミ箱の抹殺を終えたリシュカは続いて右の拳を部屋の壁に力いっぱい打ちつけた。銃声のように鋭い音が轟いた。あわてて手を引っ込めた。打ちつけた手を見下ろした。あざになることだろう。ひとつ毒づくとソファーのクッションに隠してあったブランカ酒の角瓶を取り出し蓋を開ける。そして水で割ることもグラスに注ぐことさえせずそのまま口をつけて飲んだ。

   □

 ノックの音が転がった。返事する前にリシュカと同じ漆黒の給仕服を身にまとった少女が足音もなく入ってきた。
 うるさいぞ、リシュー。少女は開口一番そう云った。そろそろ午睡のお時間だ。そんなことも忘れたか。
 ……ごめんなさい。
 少女は灰色の髪をかき上げて部屋の惨状を見渡し溜め息をひとつこぼした。
 しかもまた酒を飲んでるのか。重症だな。その顔もどうした。美人が台無しだぞ。
 大きなお世話。

 セラウィはテーブルに逆さに伏せてある戦前の雑誌を手に取った。表紙には当時人気だったイラストレーターの遺作が時間の重みに抗い色薄れながらもこちらに笑いかけていた。カラーシャツを着こなして珈琲カップと新聞を手に白い歯を覗かせているビジネスマン。リシュカが読んでいた頁はセレブのゴシップを取り上げた記事だった。羽根の生えた野ウサギのように軽やかな筆致。
 羨ましい時代だよな。灰色の髪の少女は雑誌の背に指をなぞらせながら云った。階層も価値観もちがう、別の世界で生きてる赤の他人にここまで関心を持てるなんて。
 そうね。
 仮にこの時代に生まれていたら記事で取り上げられてる有名人はお前になっていただろうね。

 リシュカは紅梅色の髪を人差し指に巻きつけながら横目で同僚の顔を見た。相手はバツが悪そうに目をそらした。頬が微かに赤らんでいた。リシュカは床に転がるゴミ箱に視線を戻して呟いた。
 珍しいね。それで励ましてるつもり?
 大切な親友が別の女に寝取られたんだろ? なら下手な冗談は口にできないよ。
 ぶっ飛ばすよあんた。

 セラウィは両手を広げて降参のポーズをとった。それでもリシュカが睨みつけていると肩をすくめてみせる。
 悪かったよ。軽率だった。
 で、他には何か?
 モーレイ様の機嫌が治るまで羽を休める宛てはあるのか? 何なら私から口添えしてやっても――。
 やめて。余計なことしないで。
 そうやって自棄ヤケを起こした奴から死んでくんだ。
 ここに来る前はあたし路上で生活してたんだよ。
 昔は昔。今は今。ただでさえ屍肉喰らいの連中が揉めてて最近は特に物騒なんだぜ?
 云い方。
 なに。
 屍肉喰らい。その呼び方は好くない。
 少し前までお前が振りかざしてた言葉じゃないか。
 …………。
 
 セラウィがベッドの隣に腰かけてきた。人一人分の間隔を空けて。リシュカは立ち上がろうとしたが黙って小さく首を振った。鼻から長く息を吸い口から細く吐き出した。そして机の上に置いてある写真立てに視線を移した。

 リシュカはぽつりと呟いた。
 …………あたし、何が足りなかったんだろ。
 灰色髪の少女もリシュカに合わせて声量を落とす。
 私はその屍肉喰らい、――いやスカベンジャーの女の子のことはよく知らないから何とも云えないが。でも奇妙な話だよ。衣食住なにもかもが揃った生活を送れるチャンスを捨ててまでその子に付いていくなんて。塵と埃、それに返り血まみれ。いつ撃たれるか。病気になるか。あるいは餓死するかも分からんのに。
 そうだね。でもそういう話じゃないってのはあたしにも何となく分かるよ。
 金とか安全の問題じゃないんだな。
 たぶん。
 とにかくあまり思い詰めるなよ。
 ええ。
 ちょっとした休暇くらいに考えればいい。
 ええそうね。

   □

 街に出る。戦中戦後の破壊と混沌で月面のようになったセントラーダにはそれでも人びとが暮らしを立てていた。今でも地面を掘り返せば砲弾の破片や空薬莢、そして人骨が山のように見つかる。地下鉄があった空間は崩落し寸断され半ば放棄されている。生き埋めになったまま悠久の時を孤独に過ごすことになったしかばねも無数にあるだろう。地下の空間にひっそりと横たえられた老人のステッキ。身の回りのものを詰め込んだスーツケース。そして空っぽのベビーカー。
 市内には他にも何百という古い防空壕があった。市を覆い尽くした火焔によってそれらはそのまま墓場となった。何百何千もの遺骸が熱で溶解して混ざり合い煮こみ過ぎたスープ鍋のようになった集団墓地。それらの上の地面を歩きながらリシュカは手の甲をもう一方の手でさすっていた。
 今になってズキズキと訴え始めていた。
 痛みはいつも後から遅れてやってくる。

   □

 旅行用の手提げバッグを片手に廃墟の街をさまよい歩きながらリシュカはぼうっと空を見上げていた。途中で何度も人とぶつかりそうになった。相手は文句を云おうと口を開きかけたがリシュカの顔を見たとたんに固まった。すれ違うほとんどの人が振り返って見つめてくるのが背中のむずむずした感触で分かった。バッグを握る手に力がこもった。溜め息をついてリシュカは戦前のパブを再利用した大衆食堂に入った。

 店にはすでに何組かの人びとが食事をしていた。トレンチャーの代わりとして岩のように固い黒パンがテーブルに直に置かれておりその上にふかした芋や乾し肉が乗っていた。各々が持参したナイフでパン皿を切り分けシチューに浸してふやかしてから食べていた。
 中に一人、そんな食事方法に苦戦している少女がいた。
 戦前に使われていた聖衣を身にまとい高価そうなロザリオを不用心に首からさげていた。ナイフを乳幼児のように握りこむようにして手にし今にもパンの代わりに自分の指を切断してしまいそうになっていた。少女の向かいに座った初老の男は何も云わなかったし手助けもしなかった。むしろ面白げに口元を歪め相方がナイフを滑らせる瞬間を心待ちにしているように見えた。

 リシュカは無視して荷物を置いて席に座った。すぐにああもうっと口にして立ち上がり少女に歩み寄った。
 見てらんない。ちょっと貸しなさい。
 シスターが慌てて振り向いた。二又に分けて背中におろした豊かな金髪が猫の尻尾のように宙を舞う。リシュカの矢車草のブルーの瞳が少女の海色の瞳と見つめ合う。金髪の少女はたちまち顔を赤くした。いきなり何ですか、ともごもご口にする。
 あんたが指を切り落としそうで冷や冷やするって云ってんの。

 少女の右手に自らの手を重ねてナイフの使い方を教えてやった。文字通り手取り足取りだった。店中の注目が集まった。シスターは顔を真っ赤にして肩を震わせていた。向かいの老人は相変わらずニヤニヤしながらその光景を見ていた。

 ひと通り教え終わると少女は頬から湯気を噴きそうになりながら呟いた。
 ……ありがとう、こざいます。初対面なのにわざわざ。
 放っておけないのよ。あんたみたいなのを見てると。
 あのっ、――その手はどうされたのですか?
 これ?
 リシュカは右手を持ち上げた。手の甲から指の第二関節までが赤く腫れていた。
 ちょっと、壁にぶつけただけ。
 少しですが塗り薬があります。それに包帯も――。
 いいって。これくらい。
 何かお礼がしたいんです。

 少女が服の袖を握りしめてきた。リシュカは半歩後ずさった。彼女の海色の瞳と金髪は嫌でも思い出させるものがあった。格好はまるで違う。所作も違う。出自だって異なるだろう。それでも似ていた。
 ……じゃあ、お願いするわ。
 リシュカは目つきを和らげるよう努めながら黙って従った。少女は薬を塗って包帯を巻き始めた。軟膏の成分である貴重なハーブの香りが包帯ごしにじんわりと伝わってきた。疼痛とうつうが薬効によって少しずつ散らされていくのが分かった。ナイフの扱いは絶望的に下手なのに包帯を巻くのは達者だった。

   □

 処置を終えると少女は患部を優しく撫でさすった。リシュカは背筋が伸びてしまうのを奥歯を噛んで我慢した。
 ありがとう。
 こちらこそ。どういたしまして。
 セントラーダは初めて?
 はい。元々はオーデルに住んでいました。
 そう。そっちに比べれば治安はマシだけど。でも気をつけてね。
 大丈夫です。優秀な護衛をつけています。
 二人は老スカベンジャーを見た。彼は居眠りしているふりをした。シスターが苦笑いしリシュカは肩をすくめた。それから再び礼を述べて自分の席に戻ろうとした。
 そこで気づいた。
 バッグがない。湯気を立てるシチューとパン皿だけが残されている。

 半分開いた口から言葉にならない声がまろび出た。
 え。あ。なんで。ちょっと待ってよ。
 店先に飛び出し通りの左右を見渡した。手遅れだった。後ろから顔なじみの店主が息を切らせながらリシュカの肩をつかんだ。
 ちょいとちょいと。いくらリド・ヴァレーの小金持ち様でも食い逃げは看過できねぇぞ。
 …………ツケ払いもダメ?
 そんな顔したって駄目なもんは駄目だ。――本当に大丈夫か。真っ青だぞ。
 ちがうんだよ。お金は持ってたんだ。本当に。誰も見てなかったの?

 最後の問いかけは店にいた他の客に向けられたものだった。リシュカが視線を移していくとほとんどの者は肩をすくめたり首を振ったりした。三人連れの男客がいてその内の一人があんたの顔にみんな見惚れてたんだよと冷やかしてきた。
 シスターの少女はようやく事態を呑み込めたのかリシュカよりも顔を青くしていた。そして老スカベンジャーの口髭の奥に浮かべているのは遠慮のかけらもない笑み。

 老人に目を留めてリシュカは声を低めて云った。…………あんたは? ちょうど角度的に見える位置だけど。
 ああ。見たよ。猫もびっくりの気配を消した動作だった。あまりに見事だったんで教える暇もなかったよ。
 ふざけてんの?
 味方する義理はないし盗みを止める理由もない。それだけのことさね。

 後ろ髪が逆立ったような感覚を覚えた。今すぐ得物の特大バールを引っ掴み老人の口に押しこんで梃子てこの原理であごを外してやりたい衝動に駆られた。だが先に口を開いたのは席を立ったシスター少女の方だった。
 知ってて悪事を見逃すなんて! あなたって人はつくづく――。
 私はお前さんの傭兵マーセナリーにはなったかもしれんが英雄ヒーローになれとは云われとらん。
 でも!
 好い教訓になったじゃないか。要らぬおせっかいを焼いてるとこんな風に足をすくわれる。このお嬢さんが身をもって証明してくれた。感謝しておいた方がいい。

 シスターは再び顔を真っ赤にした。白い聖衣との対比が目に鮮やかだった。彼女が相方にあれこれと喚いているあいだリシュカはぺたんと席に腰を落ち着けて湯気の立たなくなったシチュー皿を見つめていた。それから肘をテーブルに突いた。ひたいを手のひらで覆い深い溜め息をついた。それに気づいた聖衣の少女が鐘を乱打するかのような騒がしい早口で云った。
 ほんとうに本当にほんとうにごめんなさい。私などのために大事なお荷物が。
 別にあんたに怒ってるわけじゃない。
 え?
 ダメだな。あア、もう全然ダメだよ……。

 リシュカはうな垂れた。バッグには金銭はもちろん着替えや生活用品、旧友と一緒に撮った唯一の写真、そして何よりブランカ酒の最後の一瓶が入っている。

   □

 様子を見守っていた男の三人連れが立ち上がり俺達が代金を立て替えてやるよと提案してきた。店主は彼らとリシュカとを交互に見比べてからうなずいた。
 リシュカは男の一人に腕をつかまれて強引に立ち上がらされた。おいおい飯くらい最後まで食わせてやってからでも遅くないだろと他の男が云う。

 リシュカは力なく腕を振り払う仕草をした。そして云った。……あんたらの慰み者になるくらいならここで働いて稼いだほうが何倍もマシ。
 男達が顔を見合わせた。そして目つきを鋭くして睨んできた。リシュカがテーブルの下に置いたバールをつかもうとしたときシスター少女が双方の間に割って入り両腕を広げて叫んだ。
 いいえっ、ここは私が立て替えます。元はと云えば私が悪いんです。払わせてください!

 視界の隅で老スカベンジャーが首を振って笑みを深めるのが見えた。男達が反駁はんばくするとシスターも負けじと切り返す。店主が誰でもいいから払ってくれよと怒鳴る。他の客が静かに食わせてくれと喚く。

 決着をつけたのは聖衣をまとった少女の次のひと声だった。
 私がこの方を誠意をもって庇護します。――神様の御名みなにかけて!
 そしてリシュカの背中に腕を回した。もう片方の手でロザリオをぎゅっと握りしめてみせた。

 三人の男も店主も他の客も道端で馬糞を踏んづけたような顔になった。老スカベンジャーがたまらず笑い声を上げて乾杯とグラスを掲げた。
 一同の顔を順番に見回してから首をひねり何か変なこと云いましたかと訊ねるシスター少女。その横でリシュカは呟いた。
 ……この街で、――この瓦礫の山で神様なんて単語を口にするもんじゃないよ。よそ者さん。
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