くず鉄拾いのアリサ

Cabernet

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コマーシャル・コンプレックス

#54 地平の向こう

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 乾季が終わり。雨季になり。そしてまた乾季になった。それが幾度か繰り返された。砲声は遠ざかったが平原地帯をかつて覆っていた豊かな緑や木々は還ってこなかった。かつての姿を偲ばせるものといえば地平の向こうまで伸びている穴だらけの邦間道路くらいなものだった。

 トフィーは寂れた商業施設の通路を歩いていた。日課の散歩だった。鼻唄こそなかったが足取りは軽やかだった。瓦礫をひょいと飛び越えると長い髪が猫の尻尾のように宙でくるりと輪をいた。光り輝く白銀の髪。宝石で飾られたビーズ・カーテンがこすれるような音を今にも立てそうだった。
 施設の各所を見回り洋服店のディスプレイに飾られている双子の少女におはようと声をかける。雨の降らない日は何冊かの本を抱えて屋上に向かい陽が落ちるまで寝転んで読書を続けた。本屋に収められていた物語はすべて味わってしまっておりもはや何周目の読み直しなのかも分からない。どの本も装丁はボロボロ。紙が黄ばんでいないものは一冊もない。

 合間の休憩時にはリクライニング・チェアーから起き上がりの屋上から平原地帯を一望した。オーデルの大平原では風の吹かない日はなかった。横たわる廃車。穿たれた砲弾孔。銃撃の跡を物語る廃墟。

 景色はいつも同じだった。
 同じであることが大切なのだ。

   □

 その日も屋上で読書に親しんでいたトフィーはふっと顔を上げた。珍しく空の晴れ渡るそよ風が気持ちいい昼下がりだった。開かれた本の頁を手で抑えたままもう片方の手で胸元のペンダントを握りしめた。

 紺碧の魔鉱石が熱を持っていた。

 地平の向こうから微かな物音が聞こえた。砂を踏みしめる靴の音。トフィーは本にしおりを挟んでゆっくりと立ち上がった。
 そして何度か唾を飲みこんで喉を潤してからペンダントに向かって呼びかけた。

 ……おとうさん?

 うわっ、という叫びとともに棚を床に横倒しにしたかのような音がした。
 誰だ、という声が続いた。
 ここよ。
 どこだ。――どこなんだ。

 警戒しているにもかかわらず男の声音はどこか人を落ち着かせる温かみがあった。多少しわがれてはいるが棘はない。丸くて柔らかい手触り。
 だがトフィーの父親の声ではなかった。

 トフィーは力が抜けたようにリクライニング・チェアーに座り直した。
 空を仰いで深呼吸した。
 吐いた息はそのまま溜め息となって尾を引いた。

 魔鉱石よ。多分あなたがいま持ってるそれ。そこから話してる。
 ……――えっ、そんな馬鹿な。
 同じものをわたしも持ってるの。
 あ、ああ、なるほど。双子石か。しかし実物を見たのは初めてだ。
 あなた、――術式を知ってるの?
 頭に浮かんだものを適当に試しただけなんだ。そうしたら熱を持ち始めた。
 危ないことをするのね。
 好奇心旺盛でね。
 軍人なの?
 いや違うが。どうしてだい?
 術式に詳しいのは魔鉱石を取り扱う専門家か軍人しかいないって聞いたから。
 軍隊は苦手でね。でも専門家だ。スカベンジャーをやっている。
 すかべんじゃー?
 君の暮らしてる地域じゃこの呼び名は珍しいのかな。くず鉄拾い。掃除屋。あるいは“死肉漁り”とか呼んでくる失礼千万な人達もいる。
 知らないわね。
 どこに住んでるんだい?
 オーデル、だったところ。
 ――じゃあ私が今いる場所と同じじゃないか。どうして知らないのだろう。町の子供だって一度くらいは耳にしたことがあるはずなのに。
 戦争が始まってからずっと廃墟にこもって生活していたから。事情に疎いのよ。
 ……戦争はとっくに終わっているよ。
 終わった?
 何年も前に。
 本当に?
 ああ。
 もうここだけじゃないのね。静かなのは。
 どうやら、――お嬢さんのお話はじっくり聞いておかなくちゃいけないみたいだ。

 トフィーは目が醒めたように首を振った。話を再開したときには早口になっていた。

 っ――ごめんなさい。戦争なんてどうでもいいの。戦後に何があったかなんて知ったことじゃない。それよりあなた、――いったいそれをいつどこで見つけたの?
 それ?
 その魔鉱石・・・・・よ。
 少し間が空いた。
 ――さっき拾ったばかりだよ。ここは戦時中の強制労働キャンプだ。このオーデルだけでも何十箇所と設けられていた。
 キャンプのどこにあったの。地面に落っこちてた?
 いや。遺体のひとつが持っていた。正確にはその下に埋められていたんだが。
 遺体?
 ああ。少しだけ覗かせて・・・・もらった。敵軍の接近でキャンプが解体されることになったらしい。それで足手まといになる囚人は処分されることになった。――彼は撃たれる直前、最期の力を振り絞ってこれを隠そうとしていたみたいだね。
 それお父さん。
 え?
 ――その人、わたしのお父さん。
 ……え、あ、――ああっ、――すまない。
 わたしのおとうさん。
 本当にすまない。
 いえ、いいの。――そっか。そうだ。
 察しがついても好かったはずなんだ。ああクソ……。

 地平の向こうにいるであろう男が自分を罵っているあいだトフィーは空を仰いでいた。空はあくまで晴れていた。世界が滅びてしまったとは思えないほどに爽やかな青空だった。
 戦前の理科の授業をぼんやりと思い出していた。空が青いのは海の色が反射しているのではなく光の散乱という現象によって起こるのだと。
 好かった、とトフィーは思った。たとえ海や大地がけがされた世界になってしまったとしても、――少なくとも父はこうして青空の下で眠ることができているのだと。

 平原の彼方の収容キャンプ跡で相手の男は呻きとも嘆きともつかない声を出していた。男が自分の頭にこぶしを当てて座り込んでいる様子が目に浮かぶようだった。やがて落ち着きを取り戻した彼は再び口を開いた。

 …………本当に、何と云ったらいいか。
 お父さんを見つけてくれてありがとう。
 こんなことを云っても何の足しにもならないが。映像の中の君のお父さんはとても善い人に見えた。あんな極限状況にもかかわらず仲間をずっと励ましていた。衰弱した身体に鞭打って。人一倍働いて……。そうそう出来ることじゃない。
 お父さんはきれいなまま往ったんだね。
 きれいな?
 ええ。
 ……そうだな。ああ、その通りだ。
 ――旅人さん。
 なんだい?
 まだ時間はあるかしら。
 問題ないよ。私に何かできることはあるかな。
 話を聞いていってもらえないかしら? 暇なのよ。ここにある本はぜんぶ読んじゃったから。
 もちろんさ。聞いているあいだ君のお父さんのためにお墓を立てるとしよう。
 ええ。お願い。

   □

 彼がシャベルで穴を掘っている音を聞きながらトフィーはこれまでのことを話した。旅人の男はあまり相槌を打たずトフィーが話すままに任せた。話は時として時系列に沿わず思いつくままに飛び回ることもあったが彼は横槍を入れなかった。やがて彼は作業の手を止めた。シャベルの音が聞こえなくなりオーデルを吹き渡る風の音だけが取り残された。

 ……旅人さん?
 ああ。すまない。少し休憩するよ。話も終わりに近いみたいだし。
 どこまで話したかしら。
 君のところにフレイド君がやってきて、その――。
 ええ。ごめんなさい。覚えてたわ。ただ先を話すのが少し怖いだけで。
 飛ばしてもいいよ。辛いなら。
 いえいいの。

 トフィーは深呼吸した。

 ……冷蔵庫はもう使えなかったし胃も弱ってた。だからぜんぶは食べることができなかったわ。味は覚えてない。鼻をつまんでた記憶はないんだけどほんとうに味も食感もなかったの。思い出したくないだけかもしれないけど。――とにかくわたしだけが生き残って連絡を待ち続けたの。本も読まなかった。できるだけ体力を温存しておかないといけないからペンダントを握りしめたままずっと横になってた。寝袋の中で赤ちゃんみたいに丸まってひたすら取り留めのないことを思い出してた……。

 男は呟いた。――寂しかったろうに。
 わからない。心細かったのかしら。ずっとぼんやりしていたわ。時間が奇妙に引き延ばされたり逆に縮んだり。授業で習ったアメーバみたいだった。自分がまだ生きてるんだって確かめるのは難しかったわ。あんなに静かだったのに心臓の音さえ聞こえなかった。耳の奥で息づく血潮も何も。……どれくらい時間が経ったか分からない。何日かしら。あるいは何か月。気づいたときにはペンダントが熱くなってた。お父さんからだってすぐに分かった。
 ああ……。
 わたしはペンダントを耳に当てた。遠くから微かな叫び声や銃声がしてた。その中に混じってお父さんがわたしを呼んでいる声がした。わたしの名前。大好きなお菓子の名前。耳元で囁かれているみたいに声や息吹を近くに感じた。たぶん地面に伏せて隠れながら話していたのよ。
 …………。
 お父さんは呼び続けてた。ぜんぶで十二回。名前を呼ぶたびに五秒か十秒くらい間隔を空けてた。耳に石を当ててわたしからのどんな小さな声でも聞き逃さないようにしたかったんだと思う。

 トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。
 トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。トフィー。

 ……………………。

 ……それで。
 それで?
 君はなんて返事をしたんだい?
 声が出なかったの。
 出なかった。
 ええ。
 どうして。
 喉が枯れていたんだと思う。身体がもうダメになっていて。どうしてもできなかったの。返事をしてあげたかったのに。フレイドがせっかく命を捨ててくれたのに。でもできなかった。お父さんが本当に死ぬんだって思うと怖くて声が出せなかったのかもしれない。覚えてないの。
 ああ、なんてことだ。
 最後の十二回目を呼んだとき草をかき分けるがさがさって音がした。荒っぽいブーツの音もした。お父さんが息をのむ音も。それからしばらく雑音が続いた。あなたの話でようやくわかった。お父さんが手で土を掘り返す音だったの。わたしが生きたまま埋葬される音。土を被せられた後に乾いたくぐもった音が短くあった。それで最後だった。もう何も聞こえなかった。あれが銃声だとしたらたぶんお父さんはそれで死んだんだと思う。
 …………。

 押し殺したむせぶような声がした。トフィーはペンダントを耳に当てた。旅人さんがすすり泣いている音だった。この人はわたしの代わりに涙を流してくれているんだ、とトフィーは思った。聞こえないふりをしてしばらく待っていた。鼻をすすってから男は云った。

 ……本当に、ほんとうに気の毒に。
 わたしを許してくれる?
 許す?
 ええ。
 何を許せば。
 お父さんに、返事ができなかったことを。
 ――ああ。もちろん。私などでよければ。
 優しい人なのね。
 弱いだけだよ。
 あなたの職業、――なんて云ったかしら。
 スカベンジャーだね。
 そうやって旅をして回って……。
 ああ。それで戦前の物資を拾い集めてる。少しでも多くの人の役に立てるように。
 素敵なお仕事ね。
 そう云ってくれたのはたぶん君が初めてだ。
 ご家族は?
 娘が一人いる。今は信頼できる人のところに預けているが。
 そばにいさせてあげて。
 でも危険だ。
 それならあなたが危険から身を守る術を教えてあげるべきよ。
 しかし本当に危険なんだ。いつ死ぬか分からない。
 それであなたがどこか遠いところで死んだらその子はどうなるの?
 …………。
 わたしは幸運だったの。フレイドや、それに他の多くの子ども達はお父さんやお母さんの死に目を見ることも最期の声を聴くことさえできなかった。もう死んでいるんだろう。諦めるしかないんだろう。それでも。もしかしたら。あるいは。――そんな風に一縷いちるの希望を抱えて生きるのって本当に辛いの。

 男がその場をゆっくりと歩き回る音がした。
 …………分かった。考えてみよう。これからのことを。
 ええ。ぜひそうして。

   □

 父の埋葬を終えて祈りを捧げてからスカベンジャーの男は思い出したように訊ねた。
 ――ところで、話が変わるんだが。
 なに?
 そのあと君はどうやって生き延びたんだ。まさか幽霊がこうして私と話をしているわけではないだろう。
 生きるつもりはなかったの。わたしは最後のチャンスを逃しちゃった。それはもう分かりきってた。
 じゃあ一体――。
 あのまま衰弱死を待つつもりはなかった。一思いにやってしまおうと思ったの。それで枕元に散りばめてた魔鉱石の欠片をかき集めて口の中に放り込んだの。一息に飲み下して。お父さんからむかし教わった術式を喉の奥で唱えた……。
 まさか――。

 トフィーは小さく笑った。
 ……地獄だったわ。控えめに云って。痛くて熱いだけでいつまで経っても死ぬことはできなかった。全身の穴という穴に焼けた火箸を突っ込まれているみたいだった。よく食肉加工場とかでお肉を吊るしておくための大きなフックがあるでしょう? あれを身体に突き立てられてぜんぶの内臓を引っ張り出される感じ。元の寝袋はもう使えなかった。口では云えない色んなもので汚れちゃったから。
 …………それで?
 それでも何も。次に正気を取り戻したときにはわたしは生まれ変わっていた。それだけよ。
 食事はどうしてるんだ。
 お腹が空かないの。ごくたまに魔鉱石をかじればそれで充分。

 男が言葉を探して手のひらを衣服にこすりつける音が伝わってきた。

 ……奇蹟だ。控えめに云って。
 呪いよ。どちらかと云えば。
 かもしれない。だがどうせなら前向きに捉えたほうがいい。
 世界が滅びたのに?
 少なくとも私達はこうして生きて話をしている。
 そうね。

 男は話題を替えた。
 ――君のいる商業施設はどこにあるんだ?
 なんでそんなこと訊くの?
 決まっているだろう。この素敵な石をお返しするためだよ。
 別にいらない。
 要らない?
 ええ。
 ……お父さんの形見じゃないか。
 形見ならもう私の首からさがってる。
 しかしこれは疑いようもなく貴重な品だぞ。手元に取っておくつもりがないなら売ればいい。君がこれから外の世界で生きていくのに先立つものは絶対必要だ。腹は減らずとも服がいるだろう。あと寝床や燃料も。
 別にいい。出ていくつもりはないから。――少なくとも今は。
 しかし――。

 トフィーは本を伏せて立ち上がった。それからリクライニング・チェアの脚をつま先で小突いた。
 いいから取っておいて。わたしはもういらないの。あなたと、――あなたの大事なお子さんのために使ってあげて。
 ……本当にいいのか。
 いいって云ってるでしょ!
 トフィーは荒々しく足音を立ててその場を歩き回った。呼吸が荒くなっていた。

 男は云った。……わかった。これは貰っておくよ。――でもどうしたんだ。急に怒り出して。
 知らないわよ! ――もういいでしょ? 話しすぎて疲れたの。これ以上あなたの声を聴いていたくないのよ。本当に勝手なことで申し訳ないけど今はもう独りになりたいの。
 地平の奥からひとしきり笑い声が波となって伝わってきた。トフィーは拳を振るった。
 なにがおかしいの!
 ……いや、まったく同じことを死んだ妻にも云われたなと思ってね。彼女に云わせれば私の声は優しすぎるんだそうだ。最初は癒されるんだがずっと会話していると逆に神経に障るんだと。

 トフィーは風に揺られる白銀の髪を手櫛で梳いた。
 へえ。そうなの。
 最近、娘が急に不機嫌になるのも同じなのかな。
 ……ねえ。もう、やめてよ。これ以上わたしに外のことを聞かせないで。静かに過ごしたいの。
 ああ。分かった。分かったよ。
 さよなら。
 君はそこにいるべきじゃない。決心がついたら外に出なさい。暗い想い出をいつまでも引きずっていては――。

 トフィーは術式を唱えて通信を切った。ペンダントを胸元にしまって椅子に再び寝転んだ。本に手を伸ばしかけたが続きを読む気力は湧いてこなかった。ただ青空を眺めていたかった。
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