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禿鷲の組合
#38 タリスマン (12)
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アリサは二輪車を止めてゴーグルを首まで引き下げた。白く濁った息を吐きだしながら道の先を眺める。そして眉をひそめた。唇を半ば開いて取引場所である監視塔を睨みつけていた。霧のように細かい雪が吹きつけていて視界は良好ではなかったがアリサの眼は監視塔に留まる禿鷲の姿を確かに捉えていた。
すでに昼前だった。邦境トンネルや山道を抜けるのに思ったよりも時間が掛かってしまった。約束の刻限はとうに過ぎている。
アリサはバイクから散弾槍を下ろした。トランプタワーに新たな一枚を積みあげるかのように慎重に。そして先台を引いてから深呼吸した。
どうした? 後ろからスヴェトナが声をかけてくる。早く行こう。雪がひどくなると進めなくなるぞ。
……手遅れかも。
何だと?
引き返すべきだ。それも今すぐ。
リシュカが割りこむ。どういうことですか?
禿鷲がいる。あそこ。
え?
監視塔の上。
ああ。――でもそれが何だと……。
こんなとこに野生の禿鷲はいない。あれはくず鉄拾いの飼い鳥だ。
スヴェトナが肩をすくめる。通りがかりかもしれないだろう。
いや違う。確証はないけど違う。
そんな曖昧な理由でモーレイ様の信用に泥を塗りつける訳にはいきません。
護衛を任された私が云うんだ。“これはヤバい”って。“あんたを守り切れる自信がない”ってね。だからその判断を尊重してくれないか。あれは――。
現場を確認いたしましょう。リシュカがきっぱりと遮る。その再生機はお飾りではないでしょう? せめて何があったのか映像を記録しておかなければ。
アリサはリシュカと監視塔とを交互に見た。それから散弾槍を担ぎ直して頷いた。
三人の死骸があった。それはあるいは四人だったのかもしれない。ひょっとしたら五人の可能性だってある。ひと目見ただけでは判別がつかなかった。襲撃者は禿鷲に昼食を与えるため実に手際よく解体を行ったらしかった。細雪でもかき消されることなく漂ってくる血の臭いにアリサ以外の二人が噎せた。アリサは遺骸の皮や腱がへばり付いた大腿骨をつま先で小突いた。そして首を振った。
流れ出た血は雪を溶かす程度には温かみを保っておりその色はあくまで濃い紅だ。散弾槍から排莢されたらしき金属製のシェルが血の海に浸かっていた。シェルを拾い上げながらアリサは唇を嚙んだ。
アリサは周辺を一通り見て回ってから現場に戻ってきた。スヴェトナは口元に手を当てながら貧血を起こしたかのように目を瞬かせていた。リシュカは白い歯を狼のようにむき出しにして死体の服の切れ端をつかんでいた。眉間の皺は極北のクレバスのように深い谷を成していた。彼女のそうした表情はアリサが初めて見る類いのものだった。
再生機の映像を見せると二人の口からアアという声が漏れた。悲鳴とも驚愕ともつかない音だ。スヴェトナがリシュカのコートの端をつかんで後ずさりする。胸に手を当てて肩を小刻みに震わせる。まるで持病の発作を起こしたかのようだった。
それはちょうど襲撃者らしき男が鼻唄を歌いながら死体を多種多様なナイフで解体しているところだった。冗談みたいに幅広の帽子を被り腰までの長さしかない外套を羽織って上半身のシルエットを隠していた。およそ北国には似つかわしくない恰好だ。かつては鮮血のように紅かったであろうその外套は今や酸化した血のように黒く汚れている。
アリサは訊ねた。……こいつのこと知ってるの、スヴェトナ?
あ、ああ――。スヴェトナが顔をうつむける。――忘れるものか。
リシュカも?
少女の紅梅色の髪が揺れた。意識を喪いかけてふらついたかのように見えたが実際は微かに頷いただけだった。
リシュカは云う。……まだ私達がドリステンにいたころです。こいつが、――こいつ等がやってきたのは。
その時は一人じゃなかった?
何十人もいました。ちょうど北の連中との争いに解決の糸口が見え始めたところです。休戦協定が結ばれて束の間の平和が戻ってくるとみんなが安堵した矢先でした。
それでどうなった?
虐殺だ。これと同じだよ。散らかされた肉塊を指さしながらスヴェトナが云う。――疲弊しきって油断していたところを奴らは襲ってきた。何人殺されたのか分からない。どの死体もご覧の有様だったからな。……奴らが去ったあとにはバスタブ数十杯分の血と憎悪しか残らなかった。だからドリステンの人間なら誰もが挨拶代わりにこう囁き合うんだ。“今日は好い天気だ。空に禿鷲がいない”って。私の両親もリシュカの家族もそいつらに殺された。それで私達は孤児になった。
アリサは二人の少女の顔を黙って見ていた。こちらを見つめ返す二人の瞳はちょうど疑り深い野良猫のように細められていた。リシュカの眉間には先ほどの激情の跡が刻まれている。洪水が去ったあとの瓦礫の山のように。アリサがひと言でも余計なことを口走ったらその猫は容赦なく引っ掻いてくるかもしれなかった。
アリサは手袋をはめた手で豊かな金髪をくしゃくしゃにした。
…………あんた達二人が、最初のうち私につっけんどんな態度を取ってきた理由がようやく分かったよ。
二人は動かなかった。
アリサは続けて云う。……云い訳するつもりも弁解するつもりもない。でも一つだけ言葉にさせてほしい。そいつらは、――そして今の映像に出てきた地獄の料理番みたいな男はスカベンジャーであってスカベンジャーじゃない。組合を抜けた無法者だ。公益のためじゃなくて自分のためだけに拾い物をしてる人殺しども。私達の間じゃ“同胞喰らい”って呼んでる。
“一緒にしないでほしい”ってことですか?
リシュカの言葉にアリサは激しく首を振った。金髪が雪の結晶を空しく弾く。
――そんな都合の好い話はない。それは私も分かってる。ああいう連中をのさばらせてしまったのは私達くず鉄拾い全員の責任だ。本当なら真っ先に対処しなければならない問題のはずなんだ。
アリサの視線は話を続けるうちにどんどん下がっていった。声量も小さくなった。うつむいたアリサの視界に無言のままに訴えかけてくるのは死体から飛び出した目玉だった。何歩か後ずさりしてアリサは再び首を振った。今度は弱々しく。
スヴェトナが見るに見かねて声を上げた。
――それでリシュカ。これからどうする。待ち人はこの通りだ。金はない。それどころかブツを受け取る指さえ一本たりともない。全部いまいましい禿鷲の胃袋の中だ。アリサの云うとおり引き返すべきなんじゃないか?
リシュカは黙って命の残骸を見つめていた。
スヴェトナが続けて云う。――だいたいそのダッフルバッグの中身はなんだ? こんな北国まで運ばせるんだからどうせロクなもんじゃないだろ。銃かそれとも弾薬か。あるいは未使用の避妊具でも詰まってるのか?
うつむいていたアリサが呟いた。
――麻薬だよ。スヴェトナ。
藤色の髪の少女は振り向いた。目が見開かれていた。続いてこぶしがぎゅっと握られた。骨張った手だ。それまでの労苦を偲ばせる乾いた手だった。
……麻薬?
私とあんたが初めて会ったモーテルを覚えてる?
ああ。
あんたがツェベック老のご遺体を運んでるあいだに何人か来客があった。その中に私の同業もいた。そいつは通気ダクトの奥に隠してあったそれとまったく同じダッフルバッグを引っ張り出して中身を確認してた。私の位置からも中が見えてたんだ。そいつは街に戻ったらさっそくそのバッグを闇に流したんだと思う。正規のルートじゃ取り扱ってもらえない品だからね。
スヴェトナがリシュカに視線を戻した。
……それでお前のご主人様は引き受けたのか。人の命をゴミ箱に投げ捨てられた雑巾みたいにぼろぼろにするヤクなんかを私達の故郷に? ――よりによってお前にそれを運ばせたのか、リシュカ?
リシュカは間を空けてから頷いた。眉間の皺が消え失せて無気力な笑みに入れ替わっていた。何を考えているのか分からないのっぺりとした笑みだった。パンケーキを顔面に投げつけても微動だにせずそのまま笑っていそうだった。
スヴェトナはさらに問い詰めた。
――その中身、まさかテッセラ?
ええ。
リシュカが呟くように答える。
スヴェトナは口を半開きにしてから歯を食いしばった。それから大きく息を吸いこんで声を一段高くした。
……私がそいつから抜け出すのにどれだけ苦労したかお前は知ってるはずだ。
そうね。
奴らはきっとそいつを子供に吸わせて地雷原に突撃させるぞ。今もあんな下らない戦いをしているならの話だが。それで吹き飛んだ子供達の手足を眺めながら満足げに頷くんだ。これで“障害は排除された”ってな。
かもしれない。
お前……!
リシュカは不意に笑みを消した。旧友を睨み返した。梅色の瞳の奥で凶暴な光がぱっと火花を散らした。再び狼のように歯をむき出しにして彼女は転がっていた死体の頭部を思いきり蹴り飛ばした。まだ頭蓋骨の中にかろうじて残っていた脳漿が辺りに飛び散りスヴェトナの靴に降りかかった。
リシュカは叫んだ。
――モーレイ様のご命令は絶対だっ。
リシュカはスヴェトナに近寄って両肩にこぶしを打ちつけた。
スヴェトナ……、――あんたをあの地獄から抜け出させてやってからあたしがどれだけ辛い想いをして生きてきたか。たった一度でも考えたことがあったか? あんたがあの大富豪の下でよろしくやってる間もあたしはずっとあそこにいた。たった独りで泥と血にまみれながら暮らしてたんだ。そんな私をモーレイ様は拾ってくださった……。
彼女の目の端で何かが光り頬をすっと伝い落ちた。声の勢いが衰えた。
……そして今あんたが帰ってきてくれた。途方に暮れた顔をして。今にも死にそうなほど暗い顔をして。昔のことは水に流す。だからあたしを許してほしい。もう一度あたしの傍に戻ってきてほしい。――それだけだよ。そのためならあたし何だってやる。
リシュカはコートの袖で顔を拭った。涙の跡が痛々しく残された。スヴェトナは下唇を嚙んでいた。それからアリサの方に振り向いて訊ねた。
……アリサ。お前は最初からそのバッグの中身を知ってたんだよな。
ああ。アリサは認めた。――知ってたよ。
じゃあなんでこんな依頼を引き受けたんだ?
リシュカと同じだよ。あの人の依頼なら断れない。世話になったからね。
それこそさっきの話と同じだ。仕方ない。仕方ない。それで連中みたいな人喰らいを見過ごす。運んでるブツの行く末だって気にも留めないふりをする……。
私だって現状を変えたいとは思ってるよ。アリサは足を踏み替えて云った。連中みたいな大義を喪った薄汚い連中は反吐が出るし金の亡者と化した今の組合だって大嫌いだ。――でもそれが仕事なんだ。きれい事ばかりじゃない。どうしようもないことだって世の中にはある。大人達はいつも云ってる。戦前の時代は二度と戻ってこない。どれだけ涙を流して懐かしんでも、あの最良の日々はもう二度と……。私達はそんな世界に生きてるんだ。――あんたの方がよっぽどその事実を身に沁みて知ってるかもしれないけどさ。
スヴェトナは言葉を返さなかった。握っていた拳が解かれた。
ああ。彼女は云った。知ってるよ。痛いほど分かってる。
アリサは頷いた。それからリシュカに向き直った。
――この有様じゃどちらにしろ取引どころじゃないだろ。奴は容赦しない。そして私達が敵う相手じゃない。雪で遅れなかったら最悪鉢合わせしてたかもしれないんだ。命があるだけでも感謝しないと。
リシュカは無言だった。
引き上げよう。取引は失敗だ。モーレイにそう伝えるしかない。
しばらくしてから少女は頷いた。アリサも頷いた。リシュカの肩をそっと叩いた。そして監視塔の基礎から降りようと腰を落としたところで凍りついたように静止した。
ソンブレロの帽子を被った男がいた。アリサの二輪車にもたれかかるような恰好で寛ぎながらこちらを見上げていた。
すでに昼前だった。邦境トンネルや山道を抜けるのに思ったよりも時間が掛かってしまった。約束の刻限はとうに過ぎている。
アリサはバイクから散弾槍を下ろした。トランプタワーに新たな一枚を積みあげるかのように慎重に。そして先台を引いてから深呼吸した。
どうした? 後ろからスヴェトナが声をかけてくる。早く行こう。雪がひどくなると進めなくなるぞ。
……手遅れかも。
何だと?
引き返すべきだ。それも今すぐ。
リシュカが割りこむ。どういうことですか?
禿鷲がいる。あそこ。
え?
監視塔の上。
ああ。――でもそれが何だと……。
こんなとこに野生の禿鷲はいない。あれはくず鉄拾いの飼い鳥だ。
スヴェトナが肩をすくめる。通りがかりかもしれないだろう。
いや違う。確証はないけど違う。
そんな曖昧な理由でモーレイ様の信用に泥を塗りつける訳にはいきません。
護衛を任された私が云うんだ。“これはヤバい”って。“あんたを守り切れる自信がない”ってね。だからその判断を尊重してくれないか。あれは――。
現場を確認いたしましょう。リシュカがきっぱりと遮る。その再生機はお飾りではないでしょう? せめて何があったのか映像を記録しておかなければ。
アリサはリシュカと監視塔とを交互に見た。それから散弾槍を担ぎ直して頷いた。
三人の死骸があった。それはあるいは四人だったのかもしれない。ひょっとしたら五人の可能性だってある。ひと目見ただけでは判別がつかなかった。襲撃者は禿鷲に昼食を与えるため実に手際よく解体を行ったらしかった。細雪でもかき消されることなく漂ってくる血の臭いにアリサ以外の二人が噎せた。アリサは遺骸の皮や腱がへばり付いた大腿骨をつま先で小突いた。そして首を振った。
流れ出た血は雪を溶かす程度には温かみを保っておりその色はあくまで濃い紅だ。散弾槍から排莢されたらしき金属製のシェルが血の海に浸かっていた。シェルを拾い上げながらアリサは唇を嚙んだ。
アリサは周辺を一通り見て回ってから現場に戻ってきた。スヴェトナは口元に手を当てながら貧血を起こしたかのように目を瞬かせていた。リシュカは白い歯を狼のようにむき出しにして死体の服の切れ端をつかんでいた。眉間の皺は極北のクレバスのように深い谷を成していた。彼女のそうした表情はアリサが初めて見る類いのものだった。
再生機の映像を見せると二人の口からアアという声が漏れた。悲鳴とも驚愕ともつかない音だ。スヴェトナがリシュカのコートの端をつかんで後ずさりする。胸に手を当てて肩を小刻みに震わせる。まるで持病の発作を起こしたかのようだった。
それはちょうど襲撃者らしき男が鼻唄を歌いながら死体を多種多様なナイフで解体しているところだった。冗談みたいに幅広の帽子を被り腰までの長さしかない外套を羽織って上半身のシルエットを隠していた。およそ北国には似つかわしくない恰好だ。かつては鮮血のように紅かったであろうその外套は今や酸化した血のように黒く汚れている。
アリサは訊ねた。……こいつのこと知ってるの、スヴェトナ?
あ、ああ――。スヴェトナが顔をうつむける。――忘れるものか。
リシュカも?
少女の紅梅色の髪が揺れた。意識を喪いかけてふらついたかのように見えたが実際は微かに頷いただけだった。
リシュカは云う。……まだ私達がドリステンにいたころです。こいつが、――こいつ等がやってきたのは。
その時は一人じゃなかった?
何十人もいました。ちょうど北の連中との争いに解決の糸口が見え始めたところです。休戦協定が結ばれて束の間の平和が戻ってくるとみんなが安堵した矢先でした。
それでどうなった?
虐殺だ。これと同じだよ。散らかされた肉塊を指さしながらスヴェトナが云う。――疲弊しきって油断していたところを奴らは襲ってきた。何人殺されたのか分からない。どの死体もご覧の有様だったからな。……奴らが去ったあとにはバスタブ数十杯分の血と憎悪しか残らなかった。だからドリステンの人間なら誰もが挨拶代わりにこう囁き合うんだ。“今日は好い天気だ。空に禿鷲がいない”って。私の両親もリシュカの家族もそいつらに殺された。それで私達は孤児になった。
アリサは二人の少女の顔を黙って見ていた。こちらを見つめ返す二人の瞳はちょうど疑り深い野良猫のように細められていた。リシュカの眉間には先ほどの激情の跡が刻まれている。洪水が去ったあとの瓦礫の山のように。アリサがひと言でも余計なことを口走ったらその猫は容赦なく引っ掻いてくるかもしれなかった。
アリサは手袋をはめた手で豊かな金髪をくしゃくしゃにした。
…………あんた達二人が、最初のうち私につっけんどんな態度を取ってきた理由がようやく分かったよ。
二人は動かなかった。
アリサは続けて云う。……云い訳するつもりも弁解するつもりもない。でも一つだけ言葉にさせてほしい。そいつらは、――そして今の映像に出てきた地獄の料理番みたいな男はスカベンジャーであってスカベンジャーじゃない。組合を抜けた無法者だ。公益のためじゃなくて自分のためだけに拾い物をしてる人殺しども。私達の間じゃ“同胞喰らい”って呼んでる。
“一緒にしないでほしい”ってことですか?
リシュカの言葉にアリサは激しく首を振った。金髪が雪の結晶を空しく弾く。
――そんな都合の好い話はない。それは私も分かってる。ああいう連中をのさばらせてしまったのは私達くず鉄拾い全員の責任だ。本当なら真っ先に対処しなければならない問題のはずなんだ。
アリサの視線は話を続けるうちにどんどん下がっていった。声量も小さくなった。うつむいたアリサの視界に無言のままに訴えかけてくるのは死体から飛び出した目玉だった。何歩か後ずさりしてアリサは再び首を振った。今度は弱々しく。
スヴェトナが見るに見かねて声を上げた。
――それでリシュカ。これからどうする。待ち人はこの通りだ。金はない。それどころかブツを受け取る指さえ一本たりともない。全部いまいましい禿鷲の胃袋の中だ。アリサの云うとおり引き返すべきなんじゃないか?
リシュカは黙って命の残骸を見つめていた。
スヴェトナが続けて云う。――だいたいそのダッフルバッグの中身はなんだ? こんな北国まで運ばせるんだからどうせロクなもんじゃないだろ。銃かそれとも弾薬か。あるいは未使用の避妊具でも詰まってるのか?
うつむいていたアリサが呟いた。
――麻薬だよ。スヴェトナ。
藤色の髪の少女は振り向いた。目が見開かれていた。続いてこぶしがぎゅっと握られた。骨張った手だ。それまでの労苦を偲ばせる乾いた手だった。
……麻薬?
私とあんたが初めて会ったモーテルを覚えてる?
ああ。
あんたがツェベック老のご遺体を運んでるあいだに何人か来客があった。その中に私の同業もいた。そいつは通気ダクトの奥に隠してあったそれとまったく同じダッフルバッグを引っ張り出して中身を確認してた。私の位置からも中が見えてたんだ。そいつは街に戻ったらさっそくそのバッグを闇に流したんだと思う。正規のルートじゃ取り扱ってもらえない品だからね。
スヴェトナがリシュカに視線を戻した。
……それでお前のご主人様は引き受けたのか。人の命をゴミ箱に投げ捨てられた雑巾みたいにぼろぼろにするヤクなんかを私達の故郷に? ――よりによってお前にそれを運ばせたのか、リシュカ?
リシュカは間を空けてから頷いた。眉間の皺が消え失せて無気力な笑みに入れ替わっていた。何を考えているのか分からないのっぺりとした笑みだった。パンケーキを顔面に投げつけても微動だにせずそのまま笑っていそうだった。
スヴェトナはさらに問い詰めた。
――その中身、まさかテッセラ?
ええ。
リシュカが呟くように答える。
スヴェトナは口を半開きにしてから歯を食いしばった。それから大きく息を吸いこんで声を一段高くした。
……私がそいつから抜け出すのにどれだけ苦労したかお前は知ってるはずだ。
そうね。
奴らはきっとそいつを子供に吸わせて地雷原に突撃させるぞ。今もあんな下らない戦いをしているならの話だが。それで吹き飛んだ子供達の手足を眺めながら満足げに頷くんだ。これで“障害は排除された”ってな。
かもしれない。
お前……!
リシュカは不意に笑みを消した。旧友を睨み返した。梅色の瞳の奥で凶暴な光がぱっと火花を散らした。再び狼のように歯をむき出しにして彼女は転がっていた死体の頭部を思いきり蹴り飛ばした。まだ頭蓋骨の中にかろうじて残っていた脳漿が辺りに飛び散りスヴェトナの靴に降りかかった。
リシュカは叫んだ。
――モーレイ様のご命令は絶対だっ。
リシュカはスヴェトナに近寄って両肩にこぶしを打ちつけた。
スヴェトナ……、――あんたをあの地獄から抜け出させてやってからあたしがどれだけ辛い想いをして生きてきたか。たった一度でも考えたことがあったか? あんたがあの大富豪の下でよろしくやってる間もあたしはずっとあそこにいた。たった独りで泥と血にまみれながら暮らしてたんだ。そんな私をモーレイ様は拾ってくださった……。
彼女の目の端で何かが光り頬をすっと伝い落ちた。声の勢いが衰えた。
……そして今あんたが帰ってきてくれた。途方に暮れた顔をして。今にも死にそうなほど暗い顔をして。昔のことは水に流す。だからあたしを許してほしい。もう一度あたしの傍に戻ってきてほしい。――それだけだよ。そのためならあたし何だってやる。
リシュカはコートの袖で顔を拭った。涙の跡が痛々しく残された。スヴェトナは下唇を嚙んでいた。それからアリサの方に振り向いて訊ねた。
……アリサ。お前は最初からそのバッグの中身を知ってたんだよな。
ああ。アリサは認めた。――知ってたよ。
じゃあなんでこんな依頼を引き受けたんだ?
リシュカと同じだよ。あの人の依頼なら断れない。世話になったからね。
それこそさっきの話と同じだ。仕方ない。仕方ない。それで連中みたいな人喰らいを見過ごす。運んでるブツの行く末だって気にも留めないふりをする……。
私だって現状を変えたいとは思ってるよ。アリサは足を踏み替えて云った。連中みたいな大義を喪った薄汚い連中は反吐が出るし金の亡者と化した今の組合だって大嫌いだ。――でもそれが仕事なんだ。きれい事ばかりじゃない。どうしようもないことだって世の中にはある。大人達はいつも云ってる。戦前の時代は二度と戻ってこない。どれだけ涙を流して懐かしんでも、あの最良の日々はもう二度と……。私達はそんな世界に生きてるんだ。――あんたの方がよっぽどその事実を身に沁みて知ってるかもしれないけどさ。
スヴェトナは言葉を返さなかった。握っていた拳が解かれた。
ああ。彼女は云った。知ってるよ。痛いほど分かってる。
アリサは頷いた。それからリシュカに向き直った。
――この有様じゃどちらにしろ取引どころじゃないだろ。奴は容赦しない。そして私達が敵う相手じゃない。雪で遅れなかったら最悪鉢合わせしてたかもしれないんだ。命があるだけでも感謝しないと。
リシュカは無言だった。
引き上げよう。取引は失敗だ。モーレイにそう伝えるしかない。
しばらくしてから少女は頷いた。アリサも頷いた。リシュカの肩をそっと叩いた。そして監視塔の基礎から降りようと腰を落としたところで凍りついたように静止した。
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