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第1章 太陽の歩く世界
1 桜歌と太陽
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「警察署のものですが、ご主人いらっしゃいますか?」
全てのはじまりは父の持っている二台持ちしているケータイからだった。
石井太陽、中学生になりたての頃のことだった
ある日、父。親の響のケータイが一台増えた。黒いケータイだ。不思議に思ったのか、妹の桜歌が響に訪ねた。
「なんでケータイ買ったの?」
響は答える。
「こっちはプライベート用なんだよ」
「そうなんだ」
桜歌はよくわからなさそうな声で受け流した。
太陽もよく意味がわからなかったが、さして気にすることもなかった。母親の裕美も同じだ。
暫くたち、太陽はピアノの塾に通っていたが、中学生になった春にやめることになった。桜歌もまたピアノを習っていた。その時桜歌は四才で、八つ年が太陽と離れていた。桜歌は太陽が弾くピアノに感銘を受けたようでピアノを弾いてほしいとよくねだった。桜歌はピアノの才がなくてやめた。
太陽は習いに行かなくともピアノの本を買って独学で、家にあるアップライトピアノを弾くのが趣味だった。
時は流れ、太陽は高校生になった。
ちなみに部活は生物部に入った。
そして太陽はゲームが好きでウィザードィというテレビゲームにハマっていた。
そんな平凡で楽しい毎日のなかで起こったことだった。
その日、父親の響とリビングで二人きりにだった。
響がトイレに立った。机には残されたあの黒いケータイ。太陽は見たい欲求にかられ、ケータイを手に取った。待ち受け画面はとにかく若い女性と嬉しそうにしている響のプリクラ写真。それに衝撃を受けた太陽はケータイを元の位置に戻し、すぐにその場から離れた。
(どうしたらいい)
太陽は庭先でパニック状態だった。
(お父さんは高校の教師だから教え子とノリで撮っただけかもしれない)
太陽の父親である響は高校の教師だ。太陽はもう考えるのをやめた。それ以上自分の中にある父親のイメージを壊したくなかった。一時の感情が太陽を傷つけていく。
(お母さんに言うべきか? ただの浮気かもしれない)
太陽がそう考えているうちに二ヶ月が経過した。いつもの生活に慣れていた。
太陽は家庭が壊れるのが嫌だったが、ついにその事が思わぬ第三者からうちあけられるのだった。
その日、あまり鳴ることのないインターホンがなった。朝の七時半頃だ。
太陽はちょうど学校に出発するので、スニーカーを履いていた時だった。
「俺が出る」
ドアを開くと、警察の証である太陽のマークに青い服にベストを着ている中年くらいの男性が二人立っていた。
「お母さんかお父さんいるかな?」
そう言われ面食らっている太陽の後ろから、裕美が出てくる。
「警察署のものですが、ご主人いらっしゃいますか?」
警察官がそう問うと、裕美は「ちょっと待って下さい」と焦った様子で言い放つと、また家の中に入っていった。
今日は響は休日。間が悪いことに桜歌が庭先の見えるトイレの窓からこっちを見ている。
「桜歌、学校に行きなさい、集団通学でしょ!」
怒鳴る裕美の声に桜歌はびくっと震えると、すぐに窓を締めて、何かしきりに訴えている。
「なんでパパが連れてかれるの? 行かないで、行かないで」
少し経つと外に響と、その足にまとわりつく桜歌がでてきた。
「売春の容疑がかかっています、任意同行願えますか?」
「桜歌、すぐ戻るから学校へ行くんだぞ」
響は桜歌にそう告げると、わかりましたというように桜歌の手を振りほどき、パトカーに乗り込んだ。
「お兄ちゃん、なんでパパが」
「学校行くぞ、お父さんはすぐ戻ってくるよ」
太陽は玄関に置かれたスクールバッグを取りに戻る。
桜歌も真似るとこらえきれずに、落ちる涙を拭う。
裕美の鼻をすする声が聞こえる。
太陽は神妙な面持ちで走り、歩いて5分の学校の校門をくぐる。生きた心地がしなかった。
(売春、売春って……。あの娘まだ18歳過ぎてなかったんだ、先に言えば桜歌が場に居合わせることなく済んだかもしれないのに!)
「ああ、死にたい」涙が鼻に刺激を与える。こんなこと望んでないのに言葉に出てしまう。なんてことない口癖だ。
「おはよう、太陽」
声をかけたのは幼稚園の頃から幼馴染の風神美優だ。
「どうしたの?しみったれた顔して、暗いのはいつものことだけど、今日はとびきりだね」
美優にそう言われ、一瞬全て話してしまい、責任から開放されたい気持ちになった。しかし、この父親の不祥事を話したら、自分も犯罪者のように見られてしまうのではなかろうかという思いで振り切れなかった。
「なんでもねえよ、おはよう、美優」
「顔、死んでるけどほんとに大丈夫?」
「うるせえ、こういう顔なんだよ、元から!」
太陽は少し顔しかめた。少したってから、鏡を取り出して自分の顔を見た。
(自分の顔が醜いのは自分が一番良く知っている、だから死にたい、でも桜歌を一人にできないな)
一重の目、少しあるそばかす、八重歯のあるので歯並びも悪い、髪も伸び放題。
「何? おこなの?」
「怒ってねえぞ」
太陽は美優の顔を見やる。
いつものポニーテイル、毛先はワインレッドに染められていてサラサラの髪だ。顔も自信有り気なはっきりした目元に、少し高い鼻、薄い唇。太陽と同じくらいの身長だ。(一般人からして見たら十人中九人は確実に美しいと言うだろうな)
そうこうしているうちに教室の前まで来た。
「じゃあ、生物部でね、またね!」
美優は数少ない生物部の部員であり、吹奏楽部と兼部している。隣のクラスなので手を小さく降って別れた。
「おはよう、太陽」
教室に入り、自分の席に座ると、前の席の岸本翔斗が話しかけてきた。このクラスに居るときは、ほとんど彼と一緒にいる。
(地味な太陽のことを引き立て役としているのだろうか?)
太陽は今日も首をひねりながら挨拶を交わした。
「おはよう、翔斗」
「明日、吹部コンクールあるから公欠だぜ。……英語休めるぜ、やったね」
翔斗は吹奏楽部員である。
「お前、明日休みなんだ、英語、席順で当てられんのキツすぎんだよな、他の教科もノート写すよな、とっとくよ」
「サンキュー」
「お前って何吹いてるんだっけ?」太陽はコンクールがどのようなものか想像してみる。
「ボーンだよ」
「ボーン?」太陽は一瞬、骨だと想像した。
「トロンボーンのことだよ、あのさ、興味あるなら吹部に入らないか? 見学だけでもいいし」
「いいよ、俺、生物部とバイト掛け持ってるから、時間的に余裕ないから」
「いつの間にバイトし始めたんだよ」
翔斗は驚いたように目を向けた。
(あいかわらず鋭い目だ)
「つい最近だよ、お婆さんがお小遣いくれないから」
太陽は最近の一、二ヶ月前、家の近所の弁当屋でアルバイトをはじめていた。
高校生になる、少し前のことだが、同居していた、毎月お小遣いをくれる祖母が胃がんで入院してしまった。母方の祖父母は栃木県に住んでいて老老介護している時勢だ。
「今度友達といくから、どこでやってんだよ」
「どっともっとで働いてる、土日だけね」
「p市のか、ファストフードじゃないのか、ちぇ、長居できねえじゃねーか」
「いやまずは働いてるとこ見られたくないから来なくていいよ」
「いや行く、ライスだけ注文して長居してやる!」
「それは最低、出禁にされんぞ」
「まあ冗談は置いといて、今度吹部のみんなで土曜の練習の後、たむろするから」
「ちゃんと注文してテイクアウトしろよ!」
朝のショートホームルームを告げる鐘が鳴り響いた。
午後のショートホームルームが終わる頃、鐘が帰る時間を知らせた。
今日は部活動の日だ。
特別教室棟二階の生物室にたどり着いていた。鍵はすでに職員室から借りてきた。
「亀次郎元気だったか?」
バケツの中の緑亀に餌をやる。固形の猫のカリカリ餌のような小さめの餌だ。今は6月の半ばだけれど、亀は多少高温でも生きられる動物なのでクーラーをつける必要はない。
「今日はお父さんが不祥事起こして逮捕された日だよ、容疑者じゃない、あのふざけた笑いの写真……」
生物室に一番乗りできたため、話す相手が亀しかいなかったのもあって、あの暗黙のタブーを破ってしまった。
「来月、桜歌の誕生日なのに……」
太陽が言葉を発したその時だった、ドアが開かれた。
「ごめん、私、余計なこと聞いちゃったかな?」
女子の声が轟いた。後ろに気配がした、振り返ると美優が立っていた。
「もしよかったら桜歌ちゃんの誕生日、私の家で祝おうか?」
美優は続けてそういった。
太陽は今朝の桜歌の様子を思い出した。
(今一番そばにいてやれるのは俺じゃないか)
「お母さんに聞かないとわからない」と、太陽は言いつつ涙をこらえた。
(俺がもう少し真面目に父親に意見していたら)
「わかった、じゃあさ良い返事期待してるね」
「おう」
その時、太陽は原因はわからないが、頭がズキッと痛んだ。
「俺頭痛いから、もう今日は帰るって先生に言っておいてくれる? 亀次郎には餌やったけど、ニャロベエにはまだやってないからな」
ニャロベエとはハリネズミのことである。名前の由来は猫を飼いたかった卒業した先輩が猫アレルギーでそれに加えて生き物飼うの禁止令が出されて、家では飼えなかったから。
帰りは憂鬱だった。
太陽が外に出ると照らし合わせたかのようににわか雨が降り出した。なんとか家まで駆けていきそんなに濡れずにすんだ。
この日からなにか変わるかもしれないと思ったが、予想的中した。
家の車庫から声がした。
「太陽ちょうどよかった、運ぶの手伝って」
裕美がいきなり車から降りる。
トランクを開けるとダンボール箱が山のように現れた。
「なんだよ、これ」
パッケージが馴染みのあるカップラーメン、カップ焼きそばだった。それをキッチンまで運ぶ太陽。全部運び終えると裕美はため息をつく。
「これからはあたしの買ってきたラーメンたちを朝食と夕飯にしなさい、洗濯、ごみ捨てもよ」
「俺と桜歌が可愛そうだろ、ちゃんと自炊してくれ。仕事が忙しいのはわかるけど」
「あたしに歯向かうのならこの家から出てくのよ、それと太陽、あんたバイトするのよね? 最低でも二万五千円家に入れなさい、あ、あとあたしは普段、外食してくるから気にしなくていいし、桜歌の世話も頼んだわよ」
口早にそう言うとまた車に乗り込んでいった。
太陽が部屋に入ると、家の中は思った以上に荒らされていた。
(アップライトピアノがない)
家の中でお金になりそうなもの、海外で買った時計や着物、そしてピアノが無くなっていた。その他にも綿棒が散らかっていたり、タンスが開けっ放しで服も乱雑に積まれてたり、空き巣にでもあったような散らかり方をしていた。趣味のゲーム類もない。
「お兄ちゃん」
どこからか小さい声がした。
「助けて、お兄ちゃん」
一通り部屋を見ていくと、クローゼットの取っ手には穴が空いていてそこに紐が結ばれている。中からは出られないようにされていた。
閉じ込められた桜歌はこう喋った。
「ママがね、パパのこと、聞いてもいつ帰ってくるのかも言ってくれなくてね、桜歌のことうるさいって言ってね、閉じ込められたの」
「寂しい気持ちにしてごめん」
太陽は紐をハサミで切った。
桜歌はすぐにそのままトイレに向かった。
太陽はほっと胸を撫で下ろす。ふと、クローゼットの中を確認すると、アンコパンコマンの小さいピアノがあった。
(そういえば昔父親に買ってもらったらしいな)
「お兄ちゃん、パパは悪くないよね」戻ってくるなり桜歌は開口した。
「それは違うよ、お母さんがいるのに浮気しちゃったんだ」
太陽は言っていて虚しくなった。
「浮気?」
桜歌のぱっちりとしたきれいな瞳が瞬いた。桜歌は太陽のそれと違って薄い顔立ちをしていて、誰からも可愛がられるに違いない。眼の上の瞼にホクロがある。
「ここにあったピアノ、売られちゃったのか」
太陽は話を変えようと、ピアノの跡で、傷がついたフローリングを指さした。
「ママがね、お金がないからってね」
桜歌は泣き出しそうに顔を歪める。
「大丈夫、お兄ちゃんがいるんだから」
太陽はその事情を裕美が帰ってきたら、聞こうと考えた。
「お兄ちゃん、またピアノ弾いて?」
桜歌はアンコパンコマンピアノを差し出した。
「エリーゼのために、弾いて!」
太陽は桜歌の無茶振りに、無理に笑おうとして引きつった。
裕美が帰ってきたのは八時すぎだった。ご飯は食べてきたらしい。
「実は栃木のおじいさんが木の枝を切っているとき、脚立から転落して、コンクリートに頭打ちつけたのよ。あの辺田舎だし気づかれるのが遅くてねぇ、手術費用が足りなくてとにかく金目の物は全部売ったわ。手術は無事に成功したようだけど、寝たきりの状態で……。おばあさんも腰やってるから、施設に入れなくちゃならなくて、とにかく金が無いのよ」
「父親の貯金もないのかよ?」
「いい車乗って、パチンコ通って、浮気して、貯金なんて雀の涙程度よ。そうそう、来月の頭に帰ってくるわよ、執行猶予ついたから」
「なんにも思わないのか?」
「何が?」
「離婚しないのかって聞いてんだよ!」
「そんなことしたら近所の人に笑い者にされるわよ、学校でもなんにも言われないでしょ? ほんと下手くそよね、自分の登録しているケータイでそんな事するなんて」
「バレなきゃいいって言ってるようなもんじゃねえか」
「ただの浮気でしょ」
「未成年と浮気して、家族みんなが不幸になるんだぞ」
先程言った自分の言葉と同じことを聞くと太陽はいたたまれなくなった。
「離婚したら、桜歌から父親を取り上げるようなものよ! まだお金かかる年だし」
裕美はそれだけ言って自室に逃げるように入っていった。
太陽は心の置きどころがなかった。
(死にたい、死にたい。離婚しないのなんて結局世間体のためじゃねえか)
「お兄ちゃん」
二階にある子供部屋から桜歌が降りてきた。
「お腹すいたのか?」
太陽の問いにうなづく桜歌。
「カップ麺しかないけどいいか?」
「うん、ありがとう」
桜歌は満面の笑みをうかべた。電気ポットのお湯をカップラーメンに注ぐ。
「来月末の誕生日、美優んちでパーティーしないかだって」
「絶対行く!」
喜ぶ桜歌をよそにお金のことを考えているうちに、あっという間に三分経った。
「いただきます」
二人で声を合わせ、カップラーメンをすする。
太陽はラーメンの味がよく感じられなかった。
(バイトの給料が出るのは来月の初めだったな、桜歌に何買えば喜んでもらえるかな?)
「桜歌、あのさ、今欲しいものある?」
「うーん、ネックレスがほしい」
桜歌が予想以上に大人びていて太陽はびっくりした。
「お兄ちゃんとおそろいのネックレスがほしい」
「俺とおそろいの? 小学校には持ってちゃダメだぞ。髪留めがいいんじゃないか?」
「お兄ちゃん!」
「わかったよ、ネックレスな」
太陽は何気ない会話に元気をもらえた。
その後、裕美の部屋のドアをノックした。
「桜歌の誕生日なんだけど、美優の家で祝ってくれるって。いいよな?」
「好きにすれば? 家で何もする気はないから」
ピシャリと拒絶をうけた心持ちになった。
土曜日、アルバイト中に吹奏楽部の美優と翔斗、それから名前の知らない人が数人来ていたようだった。弁当を買って、公園で食べるらしいとパートのおばさんが、彼らが話ししていたのを聞いていた。太陽は中の仕事をしていて、直接は会えなかった。
全てのはじまりは父の持っている二台持ちしているケータイからだった。
石井太陽、中学生になりたての頃のことだった
ある日、父。親の響のケータイが一台増えた。黒いケータイだ。不思議に思ったのか、妹の桜歌が響に訪ねた。
「なんでケータイ買ったの?」
響は答える。
「こっちはプライベート用なんだよ」
「そうなんだ」
桜歌はよくわからなさそうな声で受け流した。
太陽もよく意味がわからなかったが、さして気にすることもなかった。母親の裕美も同じだ。
暫くたち、太陽はピアノの塾に通っていたが、中学生になった春にやめることになった。桜歌もまたピアノを習っていた。その時桜歌は四才で、八つ年が太陽と離れていた。桜歌は太陽が弾くピアノに感銘を受けたようでピアノを弾いてほしいとよくねだった。桜歌はピアノの才がなくてやめた。
太陽は習いに行かなくともピアノの本を買って独学で、家にあるアップライトピアノを弾くのが趣味だった。
時は流れ、太陽は高校生になった。
ちなみに部活は生物部に入った。
そして太陽はゲームが好きでウィザードィというテレビゲームにハマっていた。
そんな平凡で楽しい毎日のなかで起こったことだった。
その日、父親の響とリビングで二人きりにだった。
響がトイレに立った。机には残されたあの黒いケータイ。太陽は見たい欲求にかられ、ケータイを手に取った。待ち受け画面はとにかく若い女性と嬉しそうにしている響のプリクラ写真。それに衝撃を受けた太陽はケータイを元の位置に戻し、すぐにその場から離れた。
(どうしたらいい)
太陽は庭先でパニック状態だった。
(お父さんは高校の教師だから教え子とノリで撮っただけかもしれない)
太陽の父親である響は高校の教師だ。太陽はもう考えるのをやめた。それ以上自分の中にある父親のイメージを壊したくなかった。一時の感情が太陽を傷つけていく。
(お母さんに言うべきか? ただの浮気かもしれない)
太陽がそう考えているうちに二ヶ月が経過した。いつもの生活に慣れていた。
太陽は家庭が壊れるのが嫌だったが、ついにその事が思わぬ第三者からうちあけられるのだった。
その日、あまり鳴ることのないインターホンがなった。朝の七時半頃だ。
太陽はちょうど学校に出発するので、スニーカーを履いていた時だった。
「俺が出る」
ドアを開くと、警察の証である太陽のマークに青い服にベストを着ている中年くらいの男性が二人立っていた。
「お母さんかお父さんいるかな?」
そう言われ面食らっている太陽の後ろから、裕美が出てくる。
「警察署のものですが、ご主人いらっしゃいますか?」
警察官がそう問うと、裕美は「ちょっと待って下さい」と焦った様子で言い放つと、また家の中に入っていった。
今日は響は休日。間が悪いことに桜歌が庭先の見えるトイレの窓からこっちを見ている。
「桜歌、学校に行きなさい、集団通学でしょ!」
怒鳴る裕美の声に桜歌はびくっと震えると、すぐに窓を締めて、何かしきりに訴えている。
「なんでパパが連れてかれるの? 行かないで、行かないで」
少し経つと外に響と、その足にまとわりつく桜歌がでてきた。
「売春の容疑がかかっています、任意同行願えますか?」
「桜歌、すぐ戻るから学校へ行くんだぞ」
響は桜歌にそう告げると、わかりましたというように桜歌の手を振りほどき、パトカーに乗り込んだ。
「お兄ちゃん、なんでパパが」
「学校行くぞ、お父さんはすぐ戻ってくるよ」
太陽は玄関に置かれたスクールバッグを取りに戻る。
桜歌も真似るとこらえきれずに、落ちる涙を拭う。
裕美の鼻をすする声が聞こえる。
太陽は神妙な面持ちで走り、歩いて5分の学校の校門をくぐる。生きた心地がしなかった。
(売春、売春って……。あの娘まだ18歳過ぎてなかったんだ、先に言えば桜歌が場に居合わせることなく済んだかもしれないのに!)
「ああ、死にたい」涙が鼻に刺激を与える。こんなこと望んでないのに言葉に出てしまう。なんてことない口癖だ。
「おはよう、太陽」
声をかけたのは幼稚園の頃から幼馴染の風神美優だ。
「どうしたの?しみったれた顔して、暗いのはいつものことだけど、今日はとびきりだね」
美優にそう言われ、一瞬全て話してしまい、責任から開放されたい気持ちになった。しかし、この父親の不祥事を話したら、自分も犯罪者のように見られてしまうのではなかろうかという思いで振り切れなかった。
「なんでもねえよ、おはよう、美優」
「顔、死んでるけどほんとに大丈夫?」
「うるせえ、こういう顔なんだよ、元から!」
太陽は少し顔しかめた。少したってから、鏡を取り出して自分の顔を見た。
(自分の顔が醜いのは自分が一番良く知っている、だから死にたい、でも桜歌を一人にできないな)
一重の目、少しあるそばかす、八重歯のあるので歯並びも悪い、髪も伸び放題。
「何? おこなの?」
「怒ってねえぞ」
太陽は美優の顔を見やる。
いつものポニーテイル、毛先はワインレッドに染められていてサラサラの髪だ。顔も自信有り気なはっきりした目元に、少し高い鼻、薄い唇。太陽と同じくらいの身長だ。(一般人からして見たら十人中九人は確実に美しいと言うだろうな)
そうこうしているうちに教室の前まで来た。
「じゃあ、生物部でね、またね!」
美優は数少ない生物部の部員であり、吹奏楽部と兼部している。隣のクラスなので手を小さく降って別れた。
「おはよう、太陽」
教室に入り、自分の席に座ると、前の席の岸本翔斗が話しかけてきた。このクラスに居るときは、ほとんど彼と一緒にいる。
(地味な太陽のことを引き立て役としているのだろうか?)
太陽は今日も首をひねりながら挨拶を交わした。
「おはよう、翔斗」
「明日、吹部コンクールあるから公欠だぜ。……英語休めるぜ、やったね」
翔斗は吹奏楽部員である。
「お前、明日休みなんだ、英語、席順で当てられんのキツすぎんだよな、他の教科もノート写すよな、とっとくよ」
「サンキュー」
「お前って何吹いてるんだっけ?」太陽はコンクールがどのようなものか想像してみる。
「ボーンだよ」
「ボーン?」太陽は一瞬、骨だと想像した。
「トロンボーンのことだよ、あのさ、興味あるなら吹部に入らないか? 見学だけでもいいし」
「いいよ、俺、生物部とバイト掛け持ってるから、時間的に余裕ないから」
「いつの間にバイトし始めたんだよ」
翔斗は驚いたように目を向けた。
(あいかわらず鋭い目だ)
「つい最近だよ、お婆さんがお小遣いくれないから」
太陽は最近の一、二ヶ月前、家の近所の弁当屋でアルバイトをはじめていた。
高校生になる、少し前のことだが、同居していた、毎月お小遣いをくれる祖母が胃がんで入院してしまった。母方の祖父母は栃木県に住んでいて老老介護している時勢だ。
「今度友達といくから、どこでやってんだよ」
「どっともっとで働いてる、土日だけね」
「p市のか、ファストフードじゃないのか、ちぇ、長居できねえじゃねーか」
「いやまずは働いてるとこ見られたくないから来なくていいよ」
「いや行く、ライスだけ注文して長居してやる!」
「それは最低、出禁にされんぞ」
「まあ冗談は置いといて、今度吹部のみんなで土曜の練習の後、たむろするから」
「ちゃんと注文してテイクアウトしろよ!」
朝のショートホームルームを告げる鐘が鳴り響いた。
午後のショートホームルームが終わる頃、鐘が帰る時間を知らせた。
今日は部活動の日だ。
特別教室棟二階の生物室にたどり着いていた。鍵はすでに職員室から借りてきた。
「亀次郎元気だったか?」
バケツの中の緑亀に餌をやる。固形の猫のカリカリ餌のような小さめの餌だ。今は6月の半ばだけれど、亀は多少高温でも生きられる動物なのでクーラーをつける必要はない。
「今日はお父さんが不祥事起こして逮捕された日だよ、容疑者じゃない、あのふざけた笑いの写真……」
生物室に一番乗りできたため、話す相手が亀しかいなかったのもあって、あの暗黙のタブーを破ってしまった。
「来月、桜歌の誕生日なのに……」
太陽が言葉を発したその時だった、ドアが開かれた。
「ごめん、私、余計なこと聞いちゃったかな?」
女子の声が轟いた。後ろに気配がした、振り返ると美優が立っていた。
「もしよかったら桜歌ちゃんの誕生日、私の家で祝おうか?」
美優は続けてそういった。
太陽は今朝の桜歌の様子を思い出した。
(今一番そばにいてやれるのは俺じゃないか)
「お母さんに聞かないとわからない」と、太陽は言いつつ涙をこらえた。
(俺がもう少し真面目に父親に意見していたら)
「わかった、じゃあさ良い返事期待してるね」
「おう」
その時、太陽は原因はわからないが、頭がズキッと痛んだ。
「俺頭痛いから、もう今日は帰るって先生に言っておいてくれる? 亀次郎には餌やったけど、ニャロベエにはまだやってないからな」
ニャロベエとはハリネズミのことである。名前の由来は猫を飼いたかった卒業した先輩が猫アレルギーでそれに加えて生き物飼うの禁止令が出されて、家では飼えなかったから。
帰りは憂鬱だった。
太陽が外に出ると照らし合わせたかのようににわか雨が降り出した。なんとか家まで駆けていきそんなに濡れずにすんだ。
この日からなにか変わるかもしれないと思ったが、予想的中した。
家の車庫から声がした。
「太陽ちょうどよかった、運ぶの手伝って」
裕美がいきなり車から降りる。
トランクを開けるとダンボール箱が山のように現れた。
「なんだよ、これ」
パッケージが馴染みのあるカップラーメン、カップ焼きそばだった。それをキッチンまで運ぶ太陽。全部運び終えると裕美はため息をつく。
「これからはあたしの買ってきたラーメンたちを朝食と夕飯にしなさい、洗濯、ごみ捨てもよ」
「俺と桜歌が可愛そうだろ、ちゃんと自炊してくれ。仕事が忙しいのはわかるけど」
「あたしに歯向かうのならこの家から出てくのよ、それと太陽、あんたバイトするのよね? 最低でも二万五千円家に入れなさい、あ、あとあたしは普段、外食してくるから気にしなくていいし、桜歌の世話も頼んだわよ」
口早にそう言うとまた車に乗り込んでいった。
太陽が部屋に入ると、家の中は思った以上に荒らされていた。
(アップライトピアノがない)
家の中でお金になりそうなもの、海外で買った時計や着物、そしてピアノが無くなっていた。その他にも綿棒が散らかっていたり、タンスが開けっ放しで服も乱雑に積まれてたり、空き巣にでもあったような散らかり方をしていた。趣味のゲーム類もない。
「お兄ちゃん」
どこからか小さい声がした。
「助けて、お兄ちゃん」
一通り部屋を見ていくと、クローゼットの取っ手には穴が空いていてそこに紐が結ばれている。中からは出られないようにされていた。
閉じ込められた桜歌はこう喋った。
「ママがね、パパのこと、聞いてもいつ帰ってくるのかも言ってくれなくてね、桜歌のことうるさいって言ってね、閉じ込められたの」
「寂しい気持ちにしてごめん」
太陽は紐をハサミで切った。
桜歌はすぐにそのままトイレに向かった。
太陽はほっと胸を撫で下ろす。ふと、クローゼットの中を確認すると、アンコパンコマンの小さいピアノがあった。
(そういえば昔父親に買ってもらったらしいな)
「お兄ちゃん、パパは悪くないよね」戻ってくるなり桜歌は開口した。
「それは違うよ、お母さんがいるのに浮気しちゃったんだ」
太陽は言っていて虚しくなった。
「浮気?」
桜歌のぱっちりとしたきれいな瞳が瞬いた。桜歌は太陽のそれと違って薄い顔立ちをしていて、誰からも可愛がられるに違いない。眼の上の瞼にホクロがある。
「ここにあったピアノ、売られちゃったのか」
太陽は話を変えようと、ピアノの跡で、傷がついたフローリングを指さした。
「ママがね、お金がないからってね」
桜歌は泣き出しそうに顔を歪める。
「大丈夫、お兄ちゃんがいるんだから」
太陽はその事情を裕美が帰ってきたら、聞こうと考えた。
「お兄ちゃん、またピアノ弾いて?」
桜歌はアンコパンコマンピアノを差し出した。
「エリーゼのために、弾いて!」
太陽は桜歌の無茶振りに、無理に笑おうとして引きつった。
裕美が帰ってきたのは八時すぎだった。ご飯は食べてきたらしい。
「実は栃木のおじいさんが木の枝を切っているとき、脚立から転落して、コンクリートに頭打ちつけたのよ。あの辺田舎だし気づかれるのが遅くてねぇ、手術費用が足りなくてとにかく金目の物は全部売ったわ。手術は無事に成功したようだけど、寝たきりの状態で……。おばあさんも腰やってるから、施設に入れなくちゃならなくて、とにかく金が無いのよ」
「父親の貯金もないのかよ?」
「いい車乗って、パチンコ通って、浮気して、貯金なんて雀の涙程度よ。そうそう、来月の頭に帰ってくるわよ、執行猶予ついたから」
「なんにも思わないのか?」
「何が?」
「離婚しないのかって聞いてんだよ!」
「そんなことしたら近所の人に笑い者にされるわよ、学校でもなんにも言われないでしょ? ほんと下手くそよね、自分の登録しているケータイでそんな事するなんて」
「バレなきゃいいって言ってるようなもんじゃねえか」
「ただの浮気でしょ」
「未成年と浮気して、家族みんなが不幸になるんだぞ」
先程言った自分の言葉と同じことを聞くと太陽はいたたまれなくなった。
「離婚したら、桜歌から父親を取り上げるようなものよ! まだお金かかる年だし」
裕美はそれだけ言って自室に逃げるように入っていった。
太陽は心の置きどころがなかった。
(死にたい、死にたい。離婚しないのなんて結局世間体のためじゃねえか)
「お兄ちゃん」
二階にある子供部屋から桜歌が降りてきた。
「お腹すいたのか?」
太陽の問いにうなづく桜歌。
「カップ麺しかないけどいいか?」
「うん、ありがとう」
桜歌は満面の笑みをうかべた。電気ポットのお湯をカップラーメンに注ぐ。
「来月末の誕生日、美優んちでパーティーしないかだって」
「絶対行く!」
喜ぶ桜歌をよそにお金のことを考えているうちに、あっという間に三分経った。
「いただきます」
二人で声を合わせ、カップラーメンをすする。
太陽はラーメンの味がよく感じられなかった。
(バイトの給料が出るのは来月の初めだったな、桜歌に何買えば喜んでもらえるかな?)
「桜歌、あのさ、今欲しいものある?」
「うーん、ネックレスがほしい」
桜歌が予想以上に大人びていて太陽はびっくりした。
「お兄ちゃんとおそろいのネックレスがほしい」
「俺とおそろいの? 小学校には持ってちゃダメだぞ。髪留めがいいんじゃないか?」
「お兄ちゃん!」
「わかったよ、ネックレスな」
太陽は何気ない会話に元気をもらえた。
その後、裕美の部屋のドアをノックした。
「桜歌の誕生日なんだけど、美優の家で祝ってくれるって。いいよな?」
「好きにすれば? 家で何もする気はないから」
ピシャリと拒絶をうけた心持ちになった。
土曜日、アルバイト中に吹奏楽部の美優と翔斗、それから名前の知らない人が数人来ていたようだった。弁当を買って、公園で食べるらしいとパートのおばさんが、彼らが話ししていたのを聞いていた。太陽は中の仕事をしていて、直接は会えなかった。
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