92 / 93
蛇足話
千里の先に咲き誇る④
しおりを挟む
千里は風化した妻の温もりを思い出して、身を震わせた。
表情はいつの間にか、穏やかな父親の顔ではなく、愛しい人を守る男の顔になっていた。
「僕は理咲の夫としてあなたと話しに来ました」
「あなたを理咲の夫だなんて認めてない!」
あまりにも予想通りの反応で、千里は嗤いたくなった
「それよりも、あの子いいじゃない。楓ちゃん。ちょっと貸してよ。いくらいる?」
まるで買い物をするような軽々しい口調なのに、内容は残酷だった。あまりもの不快感に、千里の顔が自然と歪む。
「子供はペットじゃないんですよ。おもちゃじゃないんですよ」
「私が娘を産まなければ、あの子たちは生まれなかったのよ。これぐらいの権利はあるはずよ」
「それなら、僕がいなくても娘たちは生まれなかったでしょう」
千里は感情を出来るだけ押し殺して、淡々とした口調で言い返した。対照的に君依は
「腹を痛めたこともない男が知った口を言うんじゃない!」と感情的に怒鳴りつけるばかりだ。
どれだけ威嚇されても、千里は一歩も退かなかった。
千里は理解していた。この女性とは会話をできないことを。きっと生半可な言葉では何の意味のないことを。
「理咲は、あなたに良い感情を抱いていませんでした。死ぬ寸前も、全くあなたの名前は出てきませんでした」
「そう。それが何なの。嫌われてもいいじゃない! あの子が生きててくれれば!」
「親のことが、たった一人の親のことを嫌いになる苦しみが、あなたにはわかるんですか!?」
脳裏に浮かんだのは、最愛の女性の笑顔。そして寂しげに諦めた顔だった。
そのどちらも、思い出すだけで胸が締め付けられる。
「それに、理咲はもう死んだんですよ……」
「死んだ……」
突然、君依の動きがピタリと止まった。
「死んだ……? 死んだ、死んだのに、私はなんで……?」
明らかに異常だった。周囲を見渡して、手足が小刻みに震えている。見えない何かにおびえているように見える。
(まさか、実感がないのか……?)
理咲が死んだ時、千里はずっとそばにいて、見届けていた。病院ではずっと寄り添っていたし、葬式の喪主だってこなしていた。
それに対して、君依はずっと理咲に会っていなかったのだ。葬式や法事にも出ていない。普段顔を合わせない人が死んでも、実感は湧きにくいだろう。
だからこそ、まだ理咲の死を受け止められていないのだ。赤ちゃんが中学生になる程の時間が過ぎても。
千里と君依。二人の差は、たったそれだけのことだったのかもしれない。
(それなら、伝えないといけない)
深呼吸をしてから、穏やかに言葉を紡いでいく。
「理咲が最期に言い残した言葉は三つあります。一つ目は妻としての、僕への感謝。二つ目は母親としての、子供たちを心配する言葉。
三つ目は、娘としての、産みの親に対する言葉でした」
虚空を見つめていた君依の瞳がゆっくりと動き、千里の口の中を覗き込む。
「『産んでくれたことは感謝してる。でも、あの人よりも先に天国に逝けることに、ちょっとだけホッとしてる』」
聞いた瞬間、君依の顔がグニャリと歪んだ。ムンクの叫びのようで、ひどく醜い。
「あの子は、本当に……?」
千里が静かに頷くと、君依は目を見開いたまま、首をゆっくりと回した。
何もない場所を見ながら、歪に口角を上げて
「なんだ、いるじゃない」と震えた声で呟いた。
その姿はあまりにも不気味だった。
「何を言ってるんですか……?」
「理咲よ。ほら、そこにいるじゃない」
「理咲は死んだんですよ」
千里の言葉を――現実を、君依は強く拒絶する。
「嘘よ! だって、あそこにいるでしょう!?」
君依が指さした先には、誰もいない。ただ、虫が群がる街灯だけが佇んでいる。
「ほら、あそこにも、あっちにだって、こんなにいっぱいいるじゃない! 私の理咲っ!」
あちこちをデタラメに指さしては、理咲の名前を叫び続けている。もちろん、どこにも理咲の姿はない。きっと君依の瞳には本当に映っているのだろう。
(もう話はできないだろうな)
もう君依の心は壊れている。どんな言葉を投げかけても無駄だろう。それでも、言わないといけないことがあった。
君依の目線の先に立った後、屈んで視線を合わせて、虚ろな瞳をみつめた。
そして、淡々とした口調で告げる。
「あなたには、理咲に出会わせてもらえて感謝しています。
ですけど、もう僕たち家族に関わらないでください。娘たちの前に現れないでください。声を掛けないでください。
もう僕の家族をメチャクチャにしないでください」
「そんなこと、言わないでよ。人でなし!」
君依の悲鳴に対して、千里はまくし立てる。
「人でなしで結構です。僕は人である前に、楓と君乃の父親です。娘たちを守れるんだったら、鬼にだって悪魔にだってなります。
それが親ってものでしょう」
千里の言葉を受けて、君依の瞳が激しく揺らいだ。自分の顔をペタペタと触り、手の平をぼんやりと見つめた。その手のひらには、剥がれた化粧がべったりと付いていた。
「そう、あなたもなのね……」
君依は力なく呟いた後、抜け殻のような瞳を千里に向けた。
「ねえ、最後に聞かせて」
まるで遺言をささやくような、穏やかな声色だった。
千里は儚い老婆を直視することが出来ず、月を見上げて、息を吐いた。
君依はじっと暗い地面を見つめながら、口を開く。
「あの子、よい子だったでしょう。最高の、かわいらしい女の子だったでしょう?」
君依の問いかけに、千里は迷いも澱みもなく答える。
「僕にとっては、最高の女性でした。彼女以外のことが考えられなくなる程、この上なく素晴らしくて、力強く輝いた女性でした」
愛に満ちた顔から、幸福にあふれた声が響いた。
その言葉を聞いた瞬間、君依の目端から、ツー、と水滴が零れていく。
「お願い。どっか行って」
とても弱々しい声だった。もう普段の過激な姿はどこにもない。
「あなたには、あなただけには、見られたくないの。だから、お願いします。お願いします」
「……そうですか」
青木父は踵を返して、一歩一歩進み出す。
ふと、背中越しにしわがれた声が聞こえる。
「あのとき……あのこ……りんご……ち……だから守ら……ない…とって……」
それは、たった一人しか覚えていない思い出だった。理咲すらも忘れていた、些細で純粋な優しさだ。
ドン、ドン、ドン、と。君依は地面を叩き続けた。まるで地底にいる何かを叩き起こすように、何度も、何度も……。
音だけで、かなりの力で叩いていることがわかる。握りこぶしは血が滲んでいるかもしれない。
「…………」
千里は振り向かなかった。
声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けるのだった。
表情はいつの間にか、穏やかな父親の顔ではなく、愛しい人を守る男の顔になっていた。
「僕は理咲の夫としてあなたと話しに来ました」
「あなたを理咲の夫だなんて認めてない!」
あまりにも予想通りの反応で、千里は嗤いたくなった
「それよりも、あの子いいじゃない。楓ちゃん。ちょっと貸してよ。いくらいる?」
まるで買い物をするような軽々しい口調なのに、内容は残酷だった。あまりもの不快感に、千里の顔が自然と歪む。
「子供はペットじゃないんですよ。おもちゃじゃないんですよ」
「私が娘を産まなければ、あの子たちは生まれなかったのよ。これぐらいの権利はあるはずよ」
「それなら、僕がいなくても娘たちは生まれなかったでしょう」
千里は感情を出来るだけ押し殺して、淡々とした口調で言い返した。対照的に君依は
「腹を痛めたこともない男が知った口を言うんじゃない!」と感情的に怒鳴りつけるばかりだ。
どれだけ威嚇されても、千里は一歩も退かなかった。
千里は理解していた。この女性とは会話をできないことを。きっと生半可な言葉では何の意味のないことを。
「理咲は、あなたに良い感情を抱いていませんでした。死ぬ寸前も、全くあなたの名前は出てきませんでした」
「そう。それが何なの。嫌われてもいいじゃない! あの子が生きててくれれば!」
「親のことが、たった一人の親のことを嫌いになる苦しみが、あなたにはわかるんですか!?」
脳裏に浮かんだのは、最愛の女性の笑顔。そして寂しげに諦めた顔だった。
そのどちらも、思い出すだけで胸が締め付けられる。
「それに、理咲はもう死んだんですよ……」
「死んだ……」
突然、君依の動きがピタリと止まった。
「死んだ……? 死んだ、死んだのに、私はなんで……?」
明らかに異常だった。周囲を見渡して、手足が小刻みに震えている。見えない何かにおびえているように見える。
(まさか、実感がないのか……?)
理咲が死んだ時、千里はずっとそばにいて、見届けていた。病院ではずっと寄り添っていたし、葬式の喪主だってこなしていた。
それに対して、君依はずっと理咲に会っていなかったのだ。葬式や法事にも出ていない。普段顔を合わせない人が死んでも、実感は湧きにくいだろう。
だからこそ、まだ理咲の死を受け止められていないのだ。赤ちゃんが中学生になる程の時間が過ぎても。
千里と君依。二人の差は、たったそれだけのことだったのかもしれない。
(それなら、伝えないといけない)
深呼吸をしてから、穏やかに言葉を紡いでいく。
「理咲が最期に言い残した言葉は三つあります。一つ目は妻としての、僕への感謝。二つ目は母親としての、子供たちを心配する言葉。
三つ目は、娘としての、産みの親に対する言葉でした」
虚空を見つめていた君依の瞳がゆっくりと動き、千里の口の中を覗き込む。
「『産んでくれたことは感謝してる。でも、あの人よりも先に天国に逝けることに、ちょっとだけホッとしてる』」
聞いた瞬間、君依の顔がグニャリと歪んだ。ムンクの叫びのようで、ひどく醜い。
「あの子は、本当に……?」
千里が静かに頷くと、君依は目を見開いたまま、首をゆっくりと回した。
何もない場所を見ながら、歪に口角を上げて
「なんだ、いるじゃない」と震えた声で呟いた。
その姿はあまりにも不気味だった。
「何を言ってるんですか……?」
「理咲よ。ほら、そこにいるじゃない」
「理咲は死んだんですよ」
千里の言葉を――現実を、君依は強く拒絶する。
「嘘よ! だって、あそこにいるでしょう!?」
君依が指さした先には、誰もいない。ただ、虫が群がる街灯だけが佇んでいる。
「ほら、あそこにも、あっちにだって、こんなにいっぱいいるじゃない! 私の理咲っ!」
あちこちをデタラメに指さしては、理咲の名前を叫び続けている。もちろん、どこにも理咲の姿はない。きっと君依の瞳には本当に映っているのだろう。
(もう話はできないだろうな)
もう君依の心は壊れている。どんな言葉を投げかけても無駄だろう。それでも、言わないといけないことがあった。
君依の目線の先に立った後、屈んで視線を合わせて、虚ろな瞳をみつめた。
そして、淡々とした口調で告げる。
「あなたには、理咲に出会わせてもらえて感謝しています。
ですけど、もう僕たち家族に関わらないでください。娘たちの前に現れないでください。声を掛けないでください。
もう僕の家族をメチャクチャにしないでください」
「そんなこと、言わないでよ。人でなし!」
君依の悲鳴に対して、千里はまくし立てる。
「人でなしで結構です。僕は人である前に、楓と君乃の父親です。娘たちを守れるんだったら、鬼にだって悪魔にだってなります。
それが親ってものでしょう」
千里の言葉を受けて、君依の瞳が激しく揺らいだ。自分の顔をペタペタと触り、手の平をぼんやりと見つめた。その手のひらには、剥がれた化粧がべったりと付いていた。
「そう、あなたもなのね……」
君依は力なく呟いた後、抜け殻のような瞳を千里に向けた。
「ねえ、最後に聞かせて」
まるで遺言をささやくような、穏やかな声色だった。
千里は儚い老婆を直視することが出来ず、月を見上げて、息を吐いた。
君依はじっと暗い地面を見つめながら、口を開く。
「あの子、よい子だったでしょう。最高の、かわいらしい女の子だったでしょう?」
君依の問いかけに、千里は迷いも澱みもなく答える。
「僕にとっては、最高の女性でした。彼女以外のことが考えられなくなる程、この上なく素晴らしくて、力強く輝いた女性でした」
愛に満ちた顔から、幸福にあふれた声が響いた。
その言葉を聞いた瞬間、君依の目端から、ツー、と水滴が零れていく。
「お願い。どっか行って」
とても弱々しい声だった。もう普段の過激な姿はどこにもない。
「あなたには、あなただけには、見られたくないの。だから、お願いします。お願いします」
「……そうですか」
青木父は踵を返して、一歩一歩進み出す。
ふと、背中越しにしわがれた声が聞こえる。
「あのとき……あのこ……りんご……ち……だから守ら……ない…とって……」
それは、たった一人しか覚えていない思い出だった。理咲すらも忘れていた、些細で純粋な優しさだ。
ドン、ドン、ドン、と。君依は地面を叩き続けた。まるで地底にいる何かを叩き起こすように、何度も、何度も……。
音だけで、かなりの力で叩いていることがわかる。握りこぶしは血が滲んでいるかもしれない。
「…………」
千里は振り向かなかった。
声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けるのだった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

隣の優等生は、デブ活に命を捧げたいっ
椎名 富比路
青春
女子高生の尾村いすゞは、実家が大衆食堂をやっている。
クラスの隣の席の優等生細江《ほそえ》 桃亜《ももあ》が、「デブ活がしたい」と言ってきた。
桃亜は学生の身でありながら、アプリ制作会社で就職前提のバイトをしている。
だが、連日の学業と激務によって、常に腹を減らしていた。
料理の腕を磨くため、いすゞは桃亜に協力をする。
やくびょう神とおせっかい天使
倉希あさし
青春
一希児雄(はじめきじお)名義で執筆。疫病神と呼ばれた少女・神崎りこは、誰も不幸に見舞われないよう独り寂しく過ごしていた。ある日、同じクラスの少女・明星アイリがりこに話しかけてきた。アイリに不幸が訪れないよう避け続けるりこだったが…。
無敵のイエスマン
春海
青春
主人公の赤崎智也は、イエスマンを貫いて人間関係を完璧に築き上げ、他生徒の誰からも敵視されることなく高校生活を送っていた。敵がいない、敵無し、つまり無敵のイエスマンだ。赤崎は小学生の頃に、いじめられていた初恋の女の子をかばったことで、代わりに自分がいじめられ、二度とあんな目に遭いたくないと思い、無敵のイエスマンという人格を作り上げた。しかし、赤崎は自分がかばった女の子と再会し、彼女は赤崎の人格を変えようとする。そして、赤崎と彼女の勝負が始まる。赤崎が無敵のイエスマンを続けられるか、彼女が無敵のイエスマンである赤崎を変えられるか。これは、無敵のイエスマンの悲哀と恋と救いの物語。


隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
青天のヘキレキ
ましら佳
青春
⌘ 青天のヘキレキ
高校の保健養護教諭である金沢環《かなざわたまき》。
上司にも同僚にも生徒からも精神的にどつき回される生活。
思わぬ事故に巻き込まれ、修学旅行の引率先の沼に落ちて神将・毘沙門天の手違いで、問題児である生徒と入れ替わってしまう。
可愛い女子とイケメン男子ではなく、オバちゃんと問題児の中身の取り違えで、ギャップの大きい生活に戸惑い、落としどころを探って行く。
お互いの抱えている問題に、否応なく向き合って行くが・・・・。
出会いは化学変化。
いわゆる“入れ替わり”系のお話を一度書いてみたくて考えたものです。
お楽しみいただけますように。
他コンテンツにも掲載中です。
燦歌を乗せて
河島アドミ
青春
「燦歌彩月第六作――」その先の言葉は夜に消える。
久慈家の名家である天才画家・久慈色助は大学にも通わず怠惰な毎日をダラダラと過ごす。ある日、久慈家を勘当されホームレス生活がスタートすると、心を奪われる被写体・田中ゆかりに出会う。
第六作を描く。そう心に誓った色助は、己の未熟とホームレス生活を満喫しながら作品へ向き合っていく。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる