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第九章 突き抜けた先にあるもの
第七十五話 幸せをつかまえたい
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家のリビングに、母と老木がいた。
二人(一人と一本?)は仲良く談笑していた。その光景があまりにも愛おしくて、近づいていく。
老木に抱き着くと、懐かしい感触を味わえた。すごく懐かしい気持ちになって、つい頬を押し付けてしまう。
今度は母を見た。しかしすぐ違和感に気付く。
顔が見えなかった。ポッカリと穴が開いたみたいに、顔だけが無い。
息を呑む暇もなく、場面は切り替わる。
私は洗濯機の前にいた。
洗濯機は轟音を響かせながら回転を続けている。突如水があふれだして、周囲が水浸しになっていく。必死に電源ボタンを押しても止まらない。コンセントを抜いてもダメだった。
怖くなって振り向くと、老木と母が佇んでいた。「助けて!」と叫んでも全く反応しない。
その間にも水は増していく。足元から熱が奪われて、動けなくなっていく。
すがるように母に抱き着こうとすると、体をすり抜けていった。
次の瞬間、目を覚ましていた。
しばらくは茫然自失だった。いつも見ている天井が、少しボヤけて見えた。
ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえる。目覚めたのはこの騒音のせいだろう。
状況を一通り整理できると、感情が湧き上がってくる。
あの温もりはないんだ。
あの喜びは全部夢だったんだ。
ひどく裏切られた気分になって、涙がじんわりとにじみ出てくる。
外を見ると、清々しい朝だった。私がこんな思いをしているのに、寄り添ってくれない。この朝日を見た他人は清々しい思いをするのだろう。
そんな世界が嫌いで、孤独感が強まって、涙が止まらなくなった。
夏の夜。
遠くの田んぼからカエルの合唱が鳴り響き、羽虫が青い白い光に群がっている。
灯りの家の窓には網戸がかかっており、騒々しいバラエティ番組の音が漏れ出ている。
昼間の灼熱の暑さは鳴りを潜め、心地よい夜風が髪を揺らす。そんな、なんの変哲もない真夏の夜に、楓はベッドの中で頭を抱えていた。
(のど自慢大会、どうしよう)
スマホを操作すると、録音した自分の歌声が流れた。
(子供みたいじゃん)
聞いているとどんどん恥ずかしくなっていって、飛ぶハエのような勢いでベッドに飛び乗り、枕に顔をうずめた。
(あーあ、時間がないし、才能もない。なんでこんなにないのかなぁ)
本番である夏祭りまで、すでに一週間を切っているのだ。しかし日々の努力むなしく、歌をまだ十分なクオリティに仕上げきれていない。
楓は今練習している一曲に限って、音痴を改善できてはいた。しかし普通の人のスタートラインにようやく立てただけで、結局は幼稚園児のように、たどたどしく歌うので精いっぱいだ。
(~~~~~~~~っ!)
そんな歌をのど自慢大会で披露する自分を想像して、恥ずかしさのあまり足をバタバタさせた。
「喉自慢って名前なんだから、声量だけじゃだめなのかな」
それか喉の見た目のキレイさを競うんじゃダメなのかな、と楓は真剣に現実逃避を始めた。
歌唱力を競うなら"歌声自慢大会"という名前が妥当だろう。なぜ"のど自慢大会"なのか疑問だ。歌がうまくても"のど自慢"にはならないだろう。
(そんなくだらないことを考えても、時間が浪費されるだけか)
「はぁ―――」と。
本日何度目かになるかわかない、ため息を吐いた。
「ばかばかしい」
ついつい自分の考えを嗤ってしまう。
(ため息一つで幸せが逃げるわけがない)
しかし心の中のどこかで否定しきれていなかった。楓はしばらく考えてから、自分を納得させるために実験をすることにした。
(大体、幸せってなんだろうか)
まずは幸せの定義を定めるべきだ、と賢そうに心のメガネを押し上げた。
幸せには様々な表現がある。
幸せを逃す。幸せを掴む。幸せを見つける。幸せをくれる。幸せを感じる。幸せを噛み締める。
つまり、幸せは逃げて、掴めて、見つけられて、もらえて、感じられて、噛められるものということになる。楓は自分の考察の荒唐無稽さに呆れて、「はぁー」とまたため息をついた。しかしすぐにハッと気づいて口を一文字に閉じた。
(今ため息をしたから、幸せが逃げたはず……!)
楓はすぐさま戸締りを確認した。バチンと甲高い音が鳴る程の勢いで窓を閉め、周囲をギョロギョロを見渡す。
(もう逃げ場はないはず!)
楓は鼻息を荒くしながら、部屋中を探し回った。しかし幸せは見えないもののはずだ。素手で捕まえるのは難しいと考えて、パジャマの上着を脱いで、網代わりに振り回すことにした。
ブンブン、と上着を振り回していると
ガチャリ、とドアが開いた。
「あ、幸せが逃げちゃう!」と楓が叫んだのだが、ドアの向こうを見て、すぐに頬をひきつらせた。
「何やってるの……?」
楓の視線の先には、驚愕で固まった君乃の姿があった。
とっさに手に持っているものを見る。パジャマの上着。つまりは今は上半身は下着だけだ。
「えっと、その……」
急に恥ずかしくなって、パジャマを着直した。さらにはボタンが掛け違いになっていることを指摘されて、さらに顔を赤くした。
「何だか騒がしいから、またカラスが侵入したのかと心配してみれば……。なんで脱いでたの?」
不審と困惑が混じった声音を聞いて、自然と視線が下がっていく。
「ため息したから、幸せを捕まえようとして……」
楓がしどろもどろに答えると、君乃は面食らった顔をした。
大声で笑い出した。ひとしきり笑った後、涙を拭きながら君乃は話しかけた。
「幸せは捕まえられた?」
「ううん、全然」
無意識にため息を漏らすと「ほら、幸せが逃げたよ」と言われて咄嗟に口を塞いだ。しかしすぐに一つの疑問が湧いた。
(そもそも幸せって口からでるの?)
お尻や鼻の穴から幸せが逃げる可能性だってある、と楓は自分の浅はかさを悔いた。
「何か悩み事でもあるの?」
「ないよ。大丈夫。ヘーキヘーキ」
手で旗を振って、気楽なフリをしたのだが
「ウソ。いつも思い詰めると、突拍子もないことするでしょ」
ピシャリと言い当てられて、楓は不服気に眉をひそめた。精神の限界が来ると奇行に出てしまうのは、楓の悪い癖だった。もちろん、君乃はそれに何度も振り回されてきている。
早々に言い逃れできないと察して、楓は打ち明けることにした。
「……のど自慢大会が」
そこまで聞いて君乃は「あー」と呑気に声を伸ばした。
「別に下手でもいいじゃん」
「よくないよ」
楓にとって、下手な歌を披露するのは許せなかった。恥ずかしい以上に、プライドが許さない。人前でお披露目するなら、自分の満足のいく出来でないといけない。そんなちょっとした完璧主義を持っていた。
真剣に悩む楓に反して、君乃はのほほんと口を開いた。
「楽しければいいんじゃない?」
「下手じゃ楽しくないよ」
「えー、楓ちゃんが楽しそうに歌ってくれればうれしいのに」
「……うれしいのはお姉ちゃんだけじゃん」
楓は喜んでいいのか呆れていいのかわからず、顔を背けた。
(お姉ちゃんに相談するといつもこれだ)
ふわふわしたお花畑思考ばかりで、根本的な解決にはつながらない。でもその緩さに救われることも多い。今回がそうなるかはわからない。
「何を歌うんだっけ?」
楓はメジャーなラブソングの名前を挙げた。
「いっそのこと歌う曲を変えちゃえば?」
「確かに」と楓は唸った。歌いづらいところがあるし、現状の歌唱力にあった曲に変えれば、多少はマシになるかもしれない。だけど——。
「なんか負けた気になる」
「あはは、何と戦ってるの」
「この曲と、かな」
楓の言葉がよっぽど面白かったのか、君乃はコロコロと笑った。その姿を見て、楓はさらに頬を膨らませてリスのようになった。
「このままじゃ曲だけじゃなくて、のど自慢大会にも負けちゃうよ」
「わかってるんだけど……」
くやしくて軽く歯ぎしりした。すでに時間は無く、プライドを捨てなければならない段階に来ている、と自覚はしている。しかしそう簡単に割り切れる程、楓は大人ではない。
「もっと好きな歌を歌えばいいんだよ」
「好きな歌……?」
好きな歌を考えても、何も思い浮かばない。テレビで歌番組をよく視聴するし、動画サイトで聴くことも多い。それでも、歌いたい好きな歌、と言われると、しっくりくるものが浮かばない。
「何かあるでしょ? ほら、例えば昔見ていたアニメの主題歌とか」
「そんなの恥ずかしくて歌えないよ」
楓は頭を捻った。
雑巾のように絞り出して、ようやく一つの曲が思い浮かんだ。好きな曲で、毎夜ベッドの上で聞いている曲だ。
(でもなぁ)
それはのど自慢大会という場には、全く似合わないものだ。だから無意識に選択肢から排除していた。
「今のままでいいや」
「え? そう?」と君乃は不思議そうに言った。
楓はもう諦めたかった。考えるのが徐々に嫌になってきていた。しかし言葉とは裏腹に、諦めきれない気持ちも残っていた。
プルルル、と。
突然着信音が聞こえた。
「あ、ごめん。なっちゃんからだ」
君乃は慌てて部屋から出ていこうとしたのだが、思い出したように振り向いた。
「あ、そうだ。夏祭りはなっちゃんとまわるんだけど、いいかな?」
「うん、別にいいよ。どうせおとうさんと一緒にまわるから」
青木父は娘の彼氏に対しては非常に厳しい。ドラマに出てくるお局のような態度をとる。だからこそ、夏祭りという楽しいイベントで、清水と会わせてはいけないのだ。
「ありがとうね」
君乃はそれだけ言うと、電話をしながら自室に戻っていった。
静かになった部屋で、楓は天井を仰いだ。
(夏祭りと言えば、何か忘れているような……)
いくら天井とにらめっこしても、いくら眉間に皺を寄せても、頭を捻っても、思い出せない。何となく大事な約束だった気はするのだけど、どうしても記憶を引っ張り出せない。
モヤモヤした気持ちを晴らしたくて、机の中から腕時計を取り出して、話しかける。
「腕時計はなにも知らないよね」
『なんの話かな?』
「わたし、何か忘れている気がするんだ」
言った瞬間、息が詰まった。今話しかけている腕時計は、元々陸の物で、自分が持っているのも隠している物なのだ。
(わたしは盗っ人だよね)
『大丈夫だよ。忘れるようなことは、大したことじゃないよ』
「それでいいのかな」
『いいんだよ』
ふと考えてしまう。自分は大事な約束を忘れてしまうような酷い人間なのかもしれない、と。微妙な気持ちのまま「ありがとう」とお礼を告げて、腕時計を机に戻した。
それからヒントを探して、部屋中を見渡す。
「あ、そういえば」
その約束をした時、スマホを見ていたはずだ、と思い出して手に取った。
「ちょっと!?」
しかし運が悪いことに充電が切れていた。やっと手繰り寄せたヒントが遠ざかったことで、やる気がみるみる無くなっていった。
「ま、いいや」
結局、楓はふて寝したのだった。
二人(一人と一本?)は仲良く談笑していた。その光景があまりにも愛おしくて、近づいていく。
老木に抱き着くと、懐かしい感触を味わえた。すごく懐かしい気持ちになって、つい頬を押し付けてしまう。
今度は母を見た。しかしすぐ違和感に気付く。
顔が見えなかった。ポッカリと穴が開いたみたいに、顔だけが無い。
息を呑む暇もなく、場面は切り替わる。
私は洗濯機の前にいた。
洗濯機は轟音を響かせながら回転を続けている。突如水があふれだして、周囲が水浸しになっていく。必死に電源ボタンを押しても止まらない。コンセントを抜いてもダメだった。
怖くなって振り向くと、老木と母が佇んでいた。「助けて!」と叫んでも全く反応しない。
その間にも水は増していく。足元から熱が奪われて、動けなくなっていく。
すがるように母に抱き着こうとすると、体をすり抜けていった。
次の瞬間、目を覚ましていた。
しばらくは茫然自失だった。いつも見ている天井が、少しボヤけて見えた。
ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえる。目覚めたのはこの騒音のせいだろう。
状況を一通り整理できると、感情が湧き上がってくる。
あの温もりはないんだ。
あの喜びは全部夢だったんだ。
ひどく裏切られた気分になって、涙がじんわりとにじみ出てくる。
外を見ると、清々しい朝だった。私がこんな思いをしているのに、寄り添ってくれない。この朝日を見た他人は清々しい思いをするのだろう。
そんな世界が嫌いで、孤独感が強まって、涙が止まらなくなった。
夏の夜。
遠くの田んぼからカエルの合唱が鳴り響き、羽虫が青い白い光に群がっている。
灯りの家の窓には網戸がかかっており、騒々しいバラエティ番組の音が漏れ出ている。
昼間の灼熱の暑さは鳴りを潜め、心地よい夜風が髪を揺らす。そんな、なんの変哲もない真夏の夜に、楓はベッドの中で頭を抱えていた。
(のど自慢大会、どうしよう)
スマホを操作すると、録音した自分の歌声が流れた。
(子供みたいじゃん)
聞いているとどんどん恥ずかしくなっていって、飛ぶハエのような勢いでベッドに飛び乗り、枕に顔をうずめた。
(あーあ、時間がないし、才能もない。なんでこんなにないのかなぁ)
本番である夏祭りまで、すでに一週間を切っているのだ。しかし日々の努力むなしく、歌をまだ十分なクオリティに仕上げきれていない。
楓は今練習している一曲に限って、音痴を改善できてはいた。しかし普通の人のスタートラインにようやく立てただけで、結局は幼稚園児のように、たどたどしく歌うので精いっぱいだ。
(~~~~~~~~っ!)
そんな歌をのど自慢大会で披露する自分を想像して、恥ずかしさのあまり足をバタバタさせた。
「喉自慢って名前なんだから、声量だけじゃだめなのかな」
それか喉の見た目のキレイさを競うんじゃダメなのかな、と楓は真剣に現実逃避を始めた。
歌唱力を競うなら"歌声自慢大会"という名前が妥当だろう。なぜ"のど自慢大会"なのか疑問だ。歌がうまくても"のど自慢"にはならないだろう。
(そんなくだらないことを考えても、時間が浪費されるだけか)
「はぁ―――」と。
本日何度目かになるかわかない、ため息を吐いた。
「ばかばかしい」
ついつい自分の考えを嗤ってしまう。
(ため息一つで幸せが逃げるわけがない)
しかし心の中のどこかで否定しきれていなかった。楓はしばらく考えてから、自分を納得させるために実験をすることにした。
(大体、幸せってなんだろうか)
まずは幸せの定義を定めるべきだ、と賢そうに心のメガネを押し上げた。
幸せには様々な表現がある。
幸せを逃す。幸せを掴む。幸せを見つける。幸せをくれる。幸せを感じる。幸せを噛み締める。
つまり、幸せは逃げて、掴めて、見つけられて、もらえて、感じられて、噛められるものということになる。楓は自分の考察の荒唐無稽さに呆れて、「はぁー」とまたため息をついた。しかしすぐにハッと気づいて口を一文字に閉じた。
(今ため息をしたから、幸せが逃げたはず……!)
楓はすぐさま戸締りを確認した。バチンと甲高い音が鳴る程の勢いで窓を閉め、周囲をギョロギョロを見渡す。
(もう逃げ場はないはず!)
楓は鼻息を荒くしながら、部屋中を探し回った。しかし幸せは見えないもののはずだ。素手で捕まえるのは難しいと考えて、パジャマの上着を脱いで、網代わりに振り回すことにした。
ブンブン、と上着を振り回していると
ガチャリ、とドアが開いた。
「あ、幸せが逃げちゃう!」と楓が叫んだのだが、ドアの向こうを見て、すぐに頬をひきつらせた。
「何やってるの……?」
楓の視線の先には、驚愕で固まった君乃の姿があった。
とっさに手に持っているものを見る。パジャマの上着。つまりは今は上半身は下着だけだ。
「えっと、その……」
急に恥ずかしくなって、パジャマを着直した。さらにはボタンが掛け違いになっていることを指摘されて、さらに顔を赤くした。
「何だか騒がしいから、またカラスが侵入したのかと心配してみれば……。なんで脱いでたの?」
不審と困惑が混じった声音を聞いて、自然と視線が下がっていく。
「ため息したから、幸せを捕まえようとして……」
楓がしどろもどろに答えると、君乃は面食らった顔をした。
大声で笑い出した。ひとしきり笑った後、涙を拭きながら君乃は話しかけた。
「幸せは捕まえられた?」
「ううん、全然」
無意識にため息を漏らすと「ほら、幸せが逃げたよ」と言われて咄嗟に口を塞いだ。しかしすぐに一つの疑問が湧いた。
(そもそも幸せって口からでるの?)
お尻や鼻の穴から幸せが逃げる可能性だってある、と楓は自分の浅はかさを悔いた。
「何か悩み事でもあるの?」
「ないよ。大丈夫。ヘーキヘーキ」
手で旗を振って、気楽なフリをしたのだが
「ウソ。いつも思い詰めると、突拍子もないことするでしょ」
ピシャリと言い当てられて、楓は不服気に眉をひそめた。精神の限界が来ると奇行に出てしまうのは、楓の悪い癖だった。もちろん、君乃はそれに何度も振り回されてきている。
早々に言い逃れできないと察して、楓は打ち明けることにした。
「……のど自慢大会が」
そこまで聞いて君乃は「あー」と呑気に声を伸ばした。
「別に下手でもいいじゃん」
「よくないよ」
楓にとって、下手な歌を披露するのは許せなかった。恥ずかしい以上に、プライドが許さない。人前でお披露目するなら、自分の満足のいく出来でないといけない。そんなちょっとした完璧主義を持っていた。
真剣に悩む楓に反して、君乃はのほほんと口を開いた。
「楽しければいいんじゃない?」
「下手じゃ楽しくないよ」
「えー、楓ちゃんが楽しそうに歌ってくれればうれしいのに」
「……うれしいのはお姉ちゃんだけじゃん」
楓は喜んでいいのか呆れていいのかわからず、顔を背けた。
(お姉ちゃんに相談するといつもこれだ)
ふわふわしたお花畑思考ばかりで、根本的な解決にはつながらない。でもその緩さに救われることも多い。今回がそうなるかはわからない。
「何を歌うんだっけ?」
楓はメジャーなラブソングの名前を挙げた。
「いっそのこと歌う曲を変えちゃえば?」
「確かに」と楓は唸った。歌いづらいところがあるし、現状の歌唱力にあった曲に変えれば、多少はマシになるかもしれない。だけど——。
「なんか負けた気になる」
「あはは、何と戦ってるの」
「この曲と、かな」
楓の言葉がよっぽど面白かったのか、君乃はコロコロと笑った。その姿を見て、楓はさらに頬を膨らませてリスのようになった。
「このままじゃ曲だけじゃなくて、のど自慢大会にも負けちゃうよ」
「わかってるんだけど……」
くやしくて軽く歯ぎしりした。すでに時間は無く、プライドを捨てなければならない段階に来ている、と自覚はしている。しかしそう簡単に割り切れる程、楓は大人ではない。
「もっと好きな歌を歌えばいいんだよ」
「好きな歌……?」
好きな歌を考えても、何も思い浮かばない。テレビで歌番組をよく視聴するし、動画サイトで聴くことも多い。それでも、歌いたい好きな歌、と言われると、しっくりくるものが浮かばない。
「何かあるでしょ? ほら、例えば昔見ていたアニメの主題歌とか」
「そんなの恥ずかしくて歌えないよ」
楓は頭を捻った。
雑巾のように絞り出して、ようやく一つの曲が思い浮かんだ。好きな曲で、毎夜ベッドの上で聞いている曲だ。
(でもなぁ)
それはのど自慢大会という場には、全く似合わないものだ。だから無意識に選択肢から排除していた。
「今のままでいいや」
「え? そう?」と君乃は不思議そうに言った。
楓はもう諦めたかった。考えるのが徐々に嫌になってきていた。しかし言葉とは裏腹に、諦めきれない気持ちも残っていた。
プルルル、と。
突然着信音が聞こえた。
「あ、ごめん。なっちゃんからだ」
君乃は慌てて部屋から出ていこうとしたのだが、思い出したように振り向いた。
「あ、そうだ。夏祭りはなっちゃんとまわるんだけど、いいかな?」
「うん、別にいいよ。どうせおとうさんと一緒にまわるから」
青木父は娘の彼氏に対しては非常に厳しい。ドラマに出てくるお局のような態度をとる。だからこそ、夏祭りという楽しいイベントで、清水と会わせてはいけないのだ。
「ありがとうね」
君乃はそれだけ言うと、電話をしながら自室に戻っていった。
静かになった部屋で、楓は天井を仰いだ。
(夏祭りと言えば、何か忘れているような……)
いくら天井とにらめっこしても、いくら眉間に皺を寄せても、頭を捻っても、思い出せない。何となく大事な約束だった気はするのだけど、どうしても記憶を引っ張り出せない。
モヤモヤした気持ちを晴らしたくて、机の中から腕時計を取り出して、話しかける。
「腕時計はなにも知らないよね」
『なんの話かな?』
「わたし、何か忘れている気がするんだ」
言った瞬間、息が詰まった。今話しかけている腕時計は、元々陸の物で、自分が持っているのも隠している物なのだ。
(わたしは盗っ人だよね)
『大丈夫だよ。忘れるようなことは、大したことじゃないよ』
「それでいいのかな」
『いいんだよ』
ふと考えてしまう。自分は大事な約束を忘れてしまうような酷い人間なのかもしれない、と。微妙な気持ちのまま「ありがとう」とお礼を告げて、腕時計を机に戻した。
それからヒントを探して、部屋中を見渡す。
「あ、そういえば」
その約束をした時、スマホを見ていたはずだ、と思い出して手に取った。
「ちょっと!?」
しかし運が悪いことに充電が切れていた。やっと手繰り寄せたヒントが遠ざかったことで、やる気がみるみる無くなっていった。
「ま、いいや」
結局、楓はふて寝したのだった。
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