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第八章 カラスとモナリザと老木は少女の未来を憂う
第七十二話 幸福が終わる日
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カラス兄と楓と老木。
安らかで幸福な日々は永くは続かなかった。
老木が死んだのは、葉っぱが落ち切った、とても寒い日だった。
寒空の空気は澄んでおり、遠くの山の輪郭すらハッキリ見えていた。しかし気温は冷え込んでおり、人間たちは揃いも揃ってコートを着込んでいた。
カラス兄は、心の中で楓の体調の心配をしながら空を飛んでいた。
昼間だが何となく老木の顔を見たくなり、寄り道することにした。その道中で異様に動物たちが多いことに気づいて、嫌な予感に冷や汗がにじんだ。
老木に近づくほど動物たちが増えていったことで、予感は確信に変わった。
頭が真っ白になりながらも、一心不乱に翼を動かし続けた。
もう少しで老木が見える。そんなタイミングで聞きたくない音が聞こえ始めた。明らかに自然の音ではないそれは、事態の深刻さを物語っていた。
(うそ、だろ)
人間の作業員が、チェンソーで老木を切り倒そうとしていたのだ。
全身から血の気が引いた。
周囲を見渡すと、自分と同じように固まる動物達が目に映った。
『おい、だれか……』
動物の誰かが弱々しく訴えかけても、動ける動物は一匹もいなかった。それほどに轟音を鳴らすチェンソーが怖かった。みんな老木を慕っていても、命を投げ出せるものはいない。
(そうだ、楓なら)
同じ人間なら止められるのではないだろうか、とカラス兄は閃いた。
思いついたままに飛んでいき、楓の家へと向かった。しかし家には楓どころか、姉すらもいなかった。チョメチョメを使って家に訊ねて見ると、家族で遠出したという。流石に行き先までは把握しておらず、遮二無二に探し回った。
(なんで、なんで、こんなときにいないんだよ! いつもは探さなくてもいるのに)
どれだけの時間、探し回っただろうか。案外その時間は短かったのかもしれない。しかしカラス兄の心臓は、一生分を超える勢いでバクバク早鐘を鳴らしていた。
楓の背中を見つけた瞬間、『かえで!!』と怒鳴るように叫んだ。
「なにっ!?!?」
カラス兄は必死に訴えかけた。
老木が切り倒されそうになっていること。誰もそれを止められないこと。お前なら止められるんじゃないか、と。
言い終わると同時に、カラス兄は力尽きて倒れ込んでしまった。
走り出した楓の背中を見送り、少しだけ羽を休めることにした。
この時の自分を一生責めることになるとも知らずに。
(ありえないだろ、これ)
眼前に広がる光景を、信じられなかった。
老木の幹には、すでにチェンソーが食い込んでおり、くの字に切れ込みが入れられていた。今は切り込みと逆方向から刃が入れられており、グラつきはじめている。
(いや、そんなことより——)
カラス兄が気にしていたのは、それではない。いや、老木の安否も重要だが、それ以上の衝撃が別にあった。
楓。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
か細くて悲痛な声が、耳をつんざく。
老木から少し離れた場所で、楓はズタボロに傷つけられていた。
服は所々引き裂かれ、露になった肌には擦り傷や切り傷がついている。
その犯人たちは、それでも足りないと言わんばかりに暴行を続けている。
(ふざけるなよ、なんなんだよ)
カラス兄の疑問に応えるように、犯人たちの声が聞こえてくる。
『お前はなんで止められない!』『どうせお前が呼んだんだろ』『人間は死ねよ』『お前のせいで老木は死ぬんだ』『泣くなら止めろ、今すぐ止めろ』『死んで詫びろ』『お前の死体なんて誰も食わない』『老木を返せよ』『人間は生きる価値なんてない』『さっさと死んでくれ』
幾重にも重なった怨嗟の声に、耳を塞ぎたくなった。しかし逃げ出すわけにはいかない。
(なんでこうなった……?)
カラス兄は瞬きもせずに、自分の過ちを直視する。
(いや、考えればわかることだっただろ)
老木が人間に切り倒されそうで――
そこに人間の少女が現れて――
切り倒す作業員たちを止められなかったら――
――恨みの全てはその少女に向く。
グルル、と犬の唸り声が聞こえた。
か細い喉に、獰猛な牙が迫ってた。頭の中が真っ白になって、無意識に叫んでいた。
『やめろ!!!!』
カラス兄は犬の前に立ちふさがった。
そして、楓を傷つけていた動物全員を睨みつける。
『お前ら何をしているのか分かっているのか』
カラス兄が問いかけると、動物達の視線が一斉に向いた。
(楓にそんな目を向けていたのかよ)
動物達の瞳は憎さと殺意で歪んでいて、小さな心臓が痛くなる。
(お前ら、楓とあんなに遊んでいただろ。なのに……)
刹那。楓と動物たちがにこやかに遊んでいた光景がフラッシュバックした。まるで遠い昔のように感じるて、すがりたくなる。しかしそれはもう、現実ではないのだ。
獰猛さを顔に滲ませた犬は
『邪魔するのか』と低く唸った。
『こんなのおかしいだろ。正気に戻れ』
『邪魔するならお前も――』
一瞬、耳に入ってきた言葉が理解できなかった。気づいたころには豚のタックルの衝撃で、地面を転がされていた。
目を開けた瞬間にはもう手遅れだった。たやすく肉を割く牙が目の前に迫っていて、すべてがスローモーションに見えた。
『やめろ!!!!』
たったの一喝で、全員が動きを止めた。
こんなことをできるのは一人――いや、一本しかいない。
『老木……さん?』
いち早く気づいたカラス兄は、老木の方向へ振り向いた。
『やっと聞いてくれたね』
老木はずっと声をかけ続けていた。しかし弱った状態では、興奮した動物達に届けることはできていなかったのだ。しかしカラス兄が襲われる瞬間、老木は最期の力を振り絞った。
『やめてくれ。これ以上、争わないでくれ』
老木の悲痛な懇願に、動物たちは牙を収め始める。
さすが老木さんだ、と内心称えながら、楓の元に向かう。
『おい、大丈夫か?』
「ん、ん、ぅ」
楓がくぐもった声を上げていることに気づいて口の中を見ると、羽や枝や土がこれでもかと詰められていた。鼻も鼻水が詰まっており、呼吸するのもやっとな状態だ。クチバシでできるだけ取り除くと、自力で残りを吐き出し始めた。
『ありがとう、カラス』
普段とは異なる安らかな老木の声は、すごく不穏だった。
『全く情けないばかりだ。君が居なければ、儂の声は届かなかった』
『当たり前だろう。俺は老木さんの上で生まれて育った、一番弟子だぞ』
『そうだったね。懐かしい』
カラス兄はいつものように電線の上に立って、老木の姿を見つめる。
『死ぬのか』
『もうとっくに限界だったんだ。中身は腐り、幹は空洞になっていた。人間たちは危険な状態になる前に切り倒すことにしたのだろう』
『だったら、もっと早く言えよ』
そうすれば何とかできたかもしれない、とカラス兄は悪態をついた。
『すまない。儂も死ぬのが怖かったんだ。いくら死を見送っても、自分の死は格別だった』
『そんな、ことで……』
『ああ、でも今は死ぬのは怖くない。もっともっと、つらいことを知ってしまった』
老木は一拍を置いた。独白を覚悟するにはあまりにも短い時間だった。
『儂の声は動物たちを変えられると信じていた。だが、違った。楓を襲う彼らを止めることは出来なかった。何度も争いはダメだと教えてきたのだが』
『ああ、何度も聞いた。耳に穴が開くほど聞いた』
カラス兄の脳裏には、老木との思い出が高速で流れていた。老木の上の巣で生まれて、すぐに親鳥を亡くし、老木に生き方を学びながら生きた一生だった。
これまでのカラス兄の一生は、老木がすべてであったと言っても過言ではない。親離れを躊躇って、巣立てないほどに。
『所詮はただの木だったということだろうね。ここから動くこともできず、見て話すことしか出来ない。何百年という時間を過ごしても、儂の声はどの動物の心に響いていなかった。無力とは、これほどにも怖かったのだね』
カラス兄は歯がゆさを感じながらも、言葉を絞り出す。
『オレはアンタがいなければ生きてこれなかった。生まれなかった。アンタが自分を何と思っていようが、オレにとっては大恩人だよ、パパだよ』
『そうか』と老木は満足げに声を漏らした後、ミシミシと音が響いた。
『実はカラス、君のことがずっと羨ましかったんだ。自由に空を飛び、人間のいる場所でも山の中でも、我が物顔で飛ぶ姿は、まさに自由そのものに見えた。出来るものならば、カラスに生まれ変わりたいと焦がれる程に』
カラス兄にとっては衝撃的な告白だったが、驚くよりも言葉を上げたくて、クチバシを大きく開く。
『だったら、もし本当に老木さんが生まれ変わったら、オレがどこまでも連れていってやる。人間のゴミの漁り方も、うまいまずいの見分け方も教える。空の飛び方だって、最高の景色だって……。今度はオレが生き方の全部を教えてやる』
それが最大の恩返しだ。いや、これでも全然足りない。しかしもう語らう時間はなかった。
老木が大きく震えた。それは倒れる前兆なのか、うれしさによるものなのか、わからない。
『ありがとう。それは楽しみだ』
最期に、と老木は楓に語りかけ始めた。
『本当に申し訳ない。君を巻き込んでしまった』
楓は全く反応しなかったが、不思議と聞いている確信はあった。
『願わくば、人助けをして生きていきなさい。君は——』
言いかけて、老木の意識は、息は、一生は――途絶えた。周囲に老木が倒れる衝撃音が鳴り響き、せわしなく動く作業員の声だけが残った。
動物たちは泣いていた。さっきまでの凶暴性は全くなく、楓のことなんてちっとも気にしてもいなかった。
おそらくこの中で一番悲しんでいるのはカラス兄だろう。しかし涙を流す余裕はない。
『おい、生きてるのか?』
楓はカラス兄の呼びかけに反応しない。ただただ何もない一点を見つめているだけだった。
まるで抜け殻のようになっていて、かすかな呼吸を繰り返すばかりで、見ているだけでも不安を掻き立てられる。それでも、触れたら壊れてしまいそうで、カラス兄は見守ることしかできなかった。
いずれ日が沈んだ。
町中のスピーカーから音楽が流れる。子供が家に帰る合図だ。
楓は瞬きもせずに、ゾンビのようにヨロヨロと立ち上がって、帰路につき始めた。
『おい、大丈夫なのか? まだ休んでいた方が』
何を呼びかけてもカラス兄の言葉には、全く反応しなかった。それどころか、通行人にぶつかったり小石に足を取られたり、酷い状態だった。カラス兄は痛む体を押しながら。見送り続けた。
家にたどり着いて、楓は玄関のドアを開けた。その数秒後
「どうしたの!?」と君乃の声が近所中に響いた。
君乃が必死に抱き寄せると、楓はポロポロと大粒の涙を流し始めた。
(家族だな)
開きっぱなしだった玄関のドアをそっと閉め、カラス兄は飛び去った。
(……オレは帰ったら独り、か)
巣に戻ったカラス兄は、楓が作ったモミジの栞を見て、ひっそりと泣いた。
安らかで幸福な日々は永くは続かなかった。
老木が死んだのは、葉っぱが落ち切った、とても寒い日だった。
寒空の空気は澄んでおり、遠くの山の輪郭すらハッキリ見えていた。しかし気温は冷え込んでおり、人間たちは揃いも揃ってコートを着込んでいた。
カラス兄は、心の中で楓の体調の心配をしながら空を飛んでいた。
昼間だが何となく老木の顔を見たくなり、寄り道することにした。その道中で異様に動物たちが多いことに気づいて、嫌な予感に冷や汗がにじんだ。
老木に近づくほど動物たちが増えていったことで、予感は確信に変わった。
頭が真っ白になりながらも、一心不乱に翼を動かし続けた。
もう少しで老木が見える。そんなタイミングで聞きたくない音が聞こえ始めた。明らかに自然の音ではないそれは、事態の深刻さを物語っていた。
(うそ、だろ)
人間の作業員が、チェンソーで老木を切り倒そうとしていたのだ。
全身から血の気が引いた。
周囲を見渡すと、自分と同じように固まる動物達が目に映った。
『おい、だれか……』
動物の誰かが弱々しく訴えかけても、動ける動物は一匹もいなかった。それほどに轟音を鳴らすチェンソーが怖かった。みんな老木を慕っていても、命を投げ出せるものはいない。
(そうだ、楓なら)
同じ人間なら止められるのではないだろうか、とカラス兄は閃いた。
思いついたままに飛んでいき、楓の家へと向かった。しかし家には楓どころか、姉すらもいなかった。チョメチョメを使って家に訊ねて見ると、家族で遠出したという。流石に行き先までは把握しておらず、遮二無二に探し回った。
(なんで、なんで、こんなときにいないんだよ! いつもは探さなくてもいるのに)
どれだけの時間、探し回っただろうか。案外その時間は短かったのかもしれない。しかしカラス兄の心臓は、一生分を超える勢いでバクバク早鐘を鳴らしていた。
楓の背中を見つけた瞬間、『かえで!!』と怒鳴るように叫んだ。
「なにっ!?!?」
カラス兄は必死に訴えかけた。
老木が切り倒されそうになっていること。誰もそれを止められないこと。お前なら止められるんじゃないか、と。
言い終わると同時に、カラス兄は力尽きて倒れ込んでしまった。
走り出した楓の背中を見送り、少しだけ羽を休めることにした。
この時の自分を一生責めることになるとも知らずに。
(ありえないだろ、これ)
眼前に広がる光景を、信じられなかった。
老木の幹には、すでにチェンソーが食い込んでおり、くの字に切れ込みが入れられていた。今は切り込みと逆方向から刃が入れられており、グラつきはじめている。
(いや、そんなことより——)
カラス兄が気にしていたのは、それではない。いや、老木の安否も重要だが、それ以上の衝撃が別にあった。
楓。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
か細くて悲痛な声が、耳をつんざく。
老木から少し離れた場所で、楓はズタボロに傷つけられていた。
服は所々引き裂かれ、露になった肌には擦り傷や切り傷がついている。
その犯人たちは、それでも足りないと言わんばかりに暴行を続けている。
(ふざけるなよ、なんなんだよ)
カラス兄の疑問に応えるように、犯人たちの声が聞こえてくる。
『お前はなんで止められない!』『どうせお前が呼んだんだろ』『人間は死ねよ』『お前のせいで老木は死ぬんだ』『泣くなら止めろ、今すぐ止めろ』『死んで詫びろ』『お前の死体なんて誰も食わない』『老木を返せよ』『人間は生きる価値なんてない』『さっさと死んでくれ』
幾重にも重なった怨嗟の声に、耳を塞ぎたくなった。しかし逃げ出すわけにはいかない。
(なんでこうなった……?)
カラス兄は瞬きもせずに、自分の過ちを直視する。
(いや、考えればわかることだっただろ)
老木が人間に切り倒されそうで――
そこに人間の少女が現れて――
切り倒す作業員たちを止められなかったら――
――恨みの全てはその少女に向く。
グルル、と犬の唸り声が聞こえた。
か細い喉に、獰猛な牙が迫ってた。頭の中が真っ白になって、無意識に叫んでいた。
『やめろ!!!!』
カラス兄は犬の前に立ちふさがった。
そして、楓を傷つけていた動物全員を睨みつける。
『お前ら何をしているのか分かっているのか』
カラス兄が問いかけると、動物達の視線が一斉に向いた。
(楓にそんな目を向けていたのかよ)
動物達の瞳は憎さと殺意で歪んでいて、小さな心臓が痛くなる。
(お前ら、楓とあんなに遊んでいただろ。なのに……)
刹那。楓と動物たちがにこやかに遊んでいた光景がフラッシュバックした。まるで遠い昔のように感じるて、すがりたくなる。しかしそれはもう、現実ではないのだ。
獰猛さを顔に滲ませた犬は
『邪魔するのか』と低く唸った。
『こんなのおかしいだろ。正気に戻れ』
『邪魔するならお前も――』
一瞬、耳に入ってきた言葉が理解できなかった。気づいたころには豚のタックルの衝撃で、地面を転がされていた。
目を開けた瞬間にはもう手遅れだった。たやすく肉を割く牙が目の前に迫っていて、すべてがスローモーションに見えた。
『やめろ!!!!』
たったの一喝で、全員が動きを止めた。
こんなことをできるのは一人――いや、一本しかいない。
『老木……さん?』
いち早く気づいたカラス兄は、老木の方向へ振り向いた。
『やっと聞いてくれたね』
老木はずっと声をかけ続けていた。しかし弱った状態では、興奮した動物達に届けることはできていなかったのだ。しかしカラス兄が襲われる瞬間、老木は最期の力を振り絞った。
『やめてくれ。これ以上、争わないでくれ』
老木の悲痛な懇願に、動物たちは牙を収め始める。
さすが老木さんだ、と内心称えながら、楓の元に向かう。
『おい、大丈夫か?』
「ん、ん、ぅ」
楓がくぐもった声を上げていることに気づいて口の中を見ると、羽や枝や土がこれでもかと詰められていた。鼻も鼻水が詰まっており、呼吸するのもやっとな状態だ。クチバシでできるだけ取り除くと、自力で残りを吐き出し始めた。
『ありがとう、カラス』
普段とは異なる安らかな老木の声は、すごく不穏だった。
『全く情けないばかりだ。君が居なければ、儂の声は届かなかった』
『当たり前だろう。俺は老木さんの上で生まれて育った、一番弟子だぞ』
『そうだったね。懐かしい』
カラス兄はいつものように電線の上に立って、老木の姿を見つめる。
『死ぬのか』
『もうとっくに限界だったんだ。中身は腐り、幹は空洞になっていた。人間たちは危険な状態になる前に切り倒すことにしたのだろう』
『だったら、もっと早く言えよ』
そうすれば何とかできたかもしれない、とカラス兄は悪態をついた。
『すまない。儂も死ぬのが怖かったんだ。いくら死を見送っても、自分の死は格別だった』
『そんな、ことで……』
『ああ、でも今は死ぬのは怖くない。もっともっと、つらいことを知ってしまった』
老木は一拍を置いた。独白を覚悟するにはあまりにも短い時間だった。
『儂の声は動物たちを変えられると信じていた。だが、違った。楓を襲う彼らを止めることは出来なかった。何度も争いはダメだと教えてきたのだが』
『ああ、何度も聞いた。耳に穴が開くほど聞いた』
カラス兄の脳裏には、老木との思い出が高速で流れていた。老木の上の巣で生まれて、すぐに親鳥を亡くし、老木に生き方を学びながら生きた一生だった。
これまでのカラス兄の一生は、老木がすべてであったと言っても過言ではない。親離れを躊躇って、巣立てないほどに。
『所詮はただの木だったということだろうね。ここから動くこともできず、見て話すことしか出来ない。何百年という時間を過ごしても、儂の声はどの動物の心に響いていなかった。無力とは、これほどにも怖かったのだね』
カラス兄は歯がゆさを感じながらも、言葉を絞り出す。
『オレはアンタがいなければ生きてこれなかった。生まれなかった。アンタが自分を何と思っていようが、オレにとっては大恩人だよ、パパだよ』
『そうか』と老木は満足げに声を漏らした後、ミシミシと音が響いた。
『実はカラス、君のことがずっと羨ましかったんだ。自由に空を飛び、人間のいる場所でも山の中でも、我が物顔で飛ぶ姿は、まさに自由そのものに見えた。出来るものならば、カラスに生まれ変わりたいと焦がれる程に』
カラス兄にとっては衝撃的な告白だったが、驚くよりも言葉を上げたくて、クチバシを大きく開く。
『だったら、もし本当に老木さんが生まれ変わったら、オレがどこまでも連れていってやる。人間のゴミの漁り方も、うまいまずいの見分け方も教える。空の飛び方だって、最高の景色だって……。今度はオレが生き方の全部を教えてやる』
それが最大の恩返しだ。いや、これでも全然足りない。しかしもう語らう時間はなかった。
老木が大きく震えた。それは倒れる前兆なのか、うれしさによるものなのか、わからない。
『ありがとう。それは楽しみだ』
最期に、と老木は楓に語りかけ始めた。
『本当に申し訳ない。君を巻き込んでしまった』
楓は全く反応しなかったが、不思議と聞いている確信はあった。
『願わくば、人助けをして生きていきなさい。君は——』
言いかけて、老木の意識は、息は、一生は――途絶えた。周囲に老木が倒れる衝撃音が鳴り響き、せわしなく動く作業員の声だけが残った。
動物たちは泣いていた。さっきまでの凶暴性は全くなく、楓のことなんてちっとも気にしてもいなかった。
おそらくこの中で一番悲しんでいるのはカラス兄だろう。しかし涙を流す余裕はない。
『おい、生きてるのか?』
楓はカラス兄の呼びかけに反応しない。ただただ何もない一点を見つめているだけだった。
まるで抜け殻のようになっていて、かすかな呼吸を繰り返すばかりで、見ているだけでも不安を掻き立てられる。それでも、触れたら壊れてしまいそうで、カラス兄は見守ることしかできなかった。
いずれ日が沈んだ。
町中のスピーカーから音楽が流れる。子供が家に帰る合図だ。
楓は瞬きもせずに、ゾンビのようにヨロヨロと立ち上がって、帰路につき始めた。
『おい、大丈夫なのか? まだ休んでいた方が』
何を呼びかけてもカラス兄の言葉には、全く反応しなかった。それどころか、通行人にぶつかったり小石に足を取られたり、酷い状態だった。カラス兄は痛む体を押しながら。見送り続けた。
家にたどり着いて、楓は玄関のドアを開けた。その数秒後
「どうしたの!?」と君乃の声が近所中に響いた。
君乃が必死に抱き寄せると、楓はポロポロと大粒の涙を流し始めた。
(家族だな)
開きっぱなしだった玄関のドアをそっと閉め、カラス兄は飛び去った。
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