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第六章 チョメチョメを持つ不思議ちゃんの日常
第五十六話 わたしはわたしが一番嫌い
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ピコン、と軽快な通知音が鳴り、スマホを手に取る。
『付き合ってくれませんか?』
楓はベッドに寝転びながら、怪訝な顔を浮かべて、スマホの画面を凝視した。
(あまり知らないクラスメイトから、なんの脈絡もなく告白された……?)
何が起きたのか客観的に説明できても、すぐに受け止めきれなかった。面と向かって告白されることはあっても、SNS経由でされることは初めてで、嬉しさよりも困惑が先立ってしまう。
(見なかったことにする? 失礼だし)
しかし結局は考え直して
『なんで?』とだけメッセージを送った。
なんで自分に告白してきたか、理由を純粋に知りたかったのだ。
『好きだからです』
返答は簡潔で直球だった。しかし楓の顔は赤くなるどころか、どんどん冷めていった。
(だったら面と向かって言えよ)
チグハグな印象で、"好き"という言葉が薄っぺらく思えた。
いくら画面に表示された文字とにらめっこしても、それ以上の情報は読み取れない。
楓がどう返信しようか決めあぐねていると、待ちきれなくなったのか、再度メッセージが送られてきた。
『好きです』
楓はその4文字をまじまじと見つめた。
逡巡しながらも指を動かして、探りのメッセージを打ち始める。
『夏祭りを一緒に行けばいいの?』
そろそろ夏祭りの季節だ。一緒に回る異性が欲しいから口説き文句を並べているのかと推察した。
『別に、そうではなく。好きだから付き合ってほしいです』
楓はさらに首を捻った。自分が何を求められているのか、読み取ることができなかった。しばらく悩んだ末
『ごめん、よくわからない』と返した。
『そうですか。すぐに返事をもらえなくてもいいです。待ってます』
楓は画面を見たまま、眉間にしわを寄せた。
(いや、待たせるのはよくない気がする。というか、さっさと決めたい)
自分の部屋を見渡し始める。
視線を右往左往させていると、あるものに目が留まる。姉からもらったタイガーアイのネックレスと、ブルームーンストーンのブレスレットだ。
(タイガーアイは金運だよね)
パワーストーンの効能を思い出しながら、立ち上がる。
(ブルームーンストーンは恋愛だったかな)
ブレスレットを手にとって、チョメチョメを使って語り掛ける。
「恋愛ってなに?」
『せいしょくこういでしょ』
生殖行為。
ブレスレットから聞こえる声は中年女性のようだった。おそらくは20年近く大事にされているものだ、と楓は推測した。
(なんでお姉ちゃんがそんな古いのを持ってるのかな?)
後で訊こうと考えてながら、ブレスレットに意識を向けなおす。
「恋愛ってしないといけないの?」
『はつじょうきになればするようになるよ』
「人間は常に発情期なんだけど」
強いて言うなら冬が発情期になるだろうか。寒い時期は恋愛感情が高まり、恋愛小説や映画がよく売れるらしい。
『こうびしてからかんがえろよ』とブレスレットは不機嫌に言い放った。
(恋愛運のパワーストーンの癖に、身も蓋もないなぁ)
交尾。人間的に言えばセックスだ。ふと自分の体をじっと見つめる。特徴があるわけではなく、女性らしさはあまり感じられない。スレンダーと言えば聞こえはいいが、楓自身はあまり好いてはいない。おもむろに胸を揉みしだき、苦笑いを浮かべた。
(なんか考えられないなぁ)
自分の体を誰かに触られることに抵抗があるわけではない。しかしそれで幸せを感じる自分が想像できなかった。
(ゴツゴツした木を抱いた方がうれしいかも)
そんな奇天烈な結論に至って、
ふとスマホの画面を見ると『そうですか。すぐに返事をもらえなくてもいいです。待ってます』というメッセージが目に入って、嫌気がさした。
(あーもー、面倒くさい。どうにでもなれ)
荒っぽい操作でメッセージを打ち終わった楓は、勢いよく送信ボタンを押した。
『いいよ。付き合うよ』
どうにでもなれ、と投げやりになりながらベッドの上にダイブした。
その後、しばらく何の反応もなかった。十数分後になってようやく送られてきた。
『よろしくお願いします』
シンプルな文章だった。当たり障りが無さ過ぎて、特徴がない。
(ふーん)
鼻を鳴らしながら、握っていたブルームーンストーンのブレスレットを放り投げた。
(明日の朝、まずは顔を確認しないと)
交際相手の顔を覚えていないというのはあまりよくないだろう、という良識から生まれた考えだった。
「あれ……?」
胸の中で違和感がつっかえた。
——こんなの交際と言えないでしょ。
どこかから声が聞こえた。自分の声のはずなのに、自分の意志ではない。
——本当は断りたかったのに。
子供みたいに拗ねた声だった。
——大体、告白からなってないよね。
聞いているだけで暴れたくなるような、神経を逆撫でにする声だった。
——さっさと別れるようにしちゃおう。
ああそうか。これはわたしの本心だ。いつも押し込めているはずなのに、今日に限って表に出てきた。
——あーあ、なんでわたしにはいい人がいないのかな。
本心は嫌いだ。
——なんでわたしばっかり
本心を聞くたびに、今の自分が可哀そうに見えてくる。
「黙ってよ!」
楓は机の引き出しを引っ張り出し、木製のネックレスを握りしめた。
『どうしたの?』
「そうじゃないッッッ!!!」
ネックレスから若くて甲高い声が聞こえて、強い拒否感を示した。
感情を抑えられず、木製のネックレスをベッドにたたきつけた。
すがるような気持ちでカバンを開けて、あるものを取り出す。
『おや、どうしたのかな』
落ち着いた声が聞こえた。
「声を聞きたくなっただけ」
楓は腕時計を抱きしめた。陸の祖父の形見の腕時計だ。
(老木の声に似てる)
優しくて渋い声音で語り掛けられるだけで、心が安らいでいく。
楓と陸が出会う前日、腕時計を拾っていたのだ。当初、陸の部屋にいる間に返すつもりだった。しかし陸の母親とのやり取りを見て、返すのが嫌になってしまったのだ。
『あの子は元気かねぇ』
腕時計はたまに呟く。そのたびに胃がキリリと痛み出す。
(鈴木陸はこの腕時計を大切にしていた)
毎日磨き上げる程だ。そのためか腕時計は鈴木陸を本当の孫のように慕っている。
楓の中にどす黒い感情が渦巻いた。
なんで彼ばかりが、わたしの欲しいものを持っているのだろうか。
欠けていない家族を持っていて——
モノの声が聞こえなくて——
腕時計に愛されていて——
最高の恋人を持っていて——
好きなことを好きだと叫べて——
——そんな彼が大嫌いだ。
楓は自分の唇が乾いているのに気づいた。割れて血がにじんでいる。
(ジュースが飲みたい。100パーセント果汁のオレンジジュースがいい)
二階にある自分の部屋から出て、キッチンに向かう。狭くて急な階段を下りて、暗い廊下を突っ切った。
冷蔵庫から取り出したパックの中には、コップの半分程度の量しか残っていなかった。
(お姉ちゃんの仕業だ)
異様にムシャクシャした楓は、パックをグシャリと握りつぶしてシンクの中にたたきつけた。
中途半端な量のジュースを捨てて、温い水道水をなみなみと注ぐ。
それからはひたすら飲み続ける。息継ぎする合間もないほど、とてもない勢いだった。
お腹が苦しくなって、ようやくコップを置いた。肩を上下させて息を整えているうちに、頭がスーッと冷えていく。
口の中は水道水のカルキ臭さでいっぱいになっていた。楓はふと、カルキは水道水の中にいる微生物を殺すために使用されていることを思い出した。
(だったら、わたしの悪い部分をすべて殺してくれないかな)
お腹が嫌な音を立てた。とっさに口を押えて、トイレに駆け込む。
せり上がってくるものが我慢できずに、口から吐しゃ物を吐き出した。
吐しゃ物はかなり水っぽく、自分の中身の薄さを表しているように思えた。
「あはは、ちょっとスッキリしたかも」
舌の根と喉にまとわりつく酸味が心地よく感じた。すっぱさという点ではオレンジジュースと変わらない。
換気扇を回して、トイレを流して、洗剤をたっぷりつけたブラシで掃除した。
洗剤の爽やかな匂いが、現実を覆い隠していく。
念入りに臭いを確認してから、トイレのドアを閉めた。
「どうしたの?」
突然声を掛けられて楓は飛び上がった。君乃が階段から下りてきていた。
「ちょっと喉乾いちゃって」と楓は笑みを取り繕った。
「ごめん、オレンジジュース残り少ないから他の飲んでね」
今更言っても遅いよ、と楓は心の中でボヤいた。君乃は楓の前に立って、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん。もう我慢できないから」
そう言って君乃は楓を押しのけるようにして、トイレに入ってしまった。
「ぁ……」
楓は心配気な顔でトイレのドアを見つめた。
(気づかれるかな)
いくら匂いを消したと言っても君乃なら気づく。楓はそう確信した。
(お姉ちゃんはそういう人だ)
いつもは鈍い癖に、家族のこととなると勘が鋭くなる。しかし直接言及することはないだろう。そういうところが卑怯なのだ。
(あーもー、気が重い。片づけてさっさと寝よう)
シンクの中でつぶれていたパックを持ち上げると
『ひどいよ』とパックからの抗議の声をあげた。
「ジュースが入ってなかったのが悪い」
中を水でゆすいで、ハサミで切り開いて、パックの束に重ねようとしたのだが、自分が失敗を犯したことに気付く。
(やらかした)
パックの切り方を間違えたのだ。底の部分がついている場所が違う。一番上のパックだけが明らかに浮いていた。イラつきのあまり、間違って切ったパックをゴミ箱に叩きつけた。
気を取り直して、まだすっぱさの残る口の中をゆすいで、音を立てないように吐き出す。
照り返るまで磨いたシンクに映った自分の顔を見て、楓は顔を歪ませた。
(似てきている)
耳の中にこびりついた声がリピートされる。
『あなたが死ねばよかったのに』
血がつながっているだけの嫌いな相手を思い出して、呼吸が苦しくなる。
ドクドクと脈打つ心臓を抑えながら、ゆっくりと口を動かすと、本音が漏れ出る。
「わたしは、わたしが一番嫌いだ」
その言葉は、誰でもない自分に向けたものだった。
「最近、同志が頭を撫でてくれてくれません」
その日は珍しく、音流が一人で来店していた。基本的にカップルで来店するため、不思議に思い、楓から声をかけたのだ。その結果、のろけ話なのか愚痴に見せかけたノロケ話を聞かされている。
楓は「はぁ」と気のない返事をするしかなかった。呆れを通り越して義務感で相槌をうっている。
「下の名前で呼んでくれません」
結局まだ呼び方を直せていないのか意気地なしめが、と楓は心の中で悪態をついた。
「一回呼んだんだから、ずっとそのままでいいじゃないですか」
(すぐは無理だろうなぁ)
優柔不断な陸の顔を思い出し、苦笑いした。
「それとも、冷静になったら嫌いになっちゃったのかな……」
不安そうに言う音流を見て、楓はいてもたってもいられなくなった。
「そんなことない。だって、昨日アイツから相談されたんだよ。下の名前で呼ぶのが恥ずかしいって」
「え? そうなんですか……?」
音流に上目遣いで見られた楓は、一瞬顔を赤らめて唇を舐めた。
「うん、だから、待ってあげればいいんじゃないかな」
「うーん、そうですかね」
音流は少し悩んでから、突然立ち上がり
「少し腹が立ってきました」低い声でと呟いた。
「な、なんで……?」
「彼女を差し置いて他の女に相談しているのは、何か違くないですか!?」
「そうかな……?」
(彼女だから相談できないこともあるだろうに)
どう伝えるべきか思案している間に、音流は握りこぶしを天井に突きだして叫び始めた。
「こうなったら徹底的なアプローチです。せめてなんぼの恋愛です」
音流は嫉妬に狂っているというよりは、生き生きしているように見えた。
(アイツにとっては、これぐらいがちょうど良いのかも)
楓は独りで納得して上機嫌にカップを傾けた。
カランコロンとベルが鳴り、楓は条件反射に立ち上がり店員モードに切り替えた。
ドアを通り抜けてくる人物を見て、楓の顔から色が消えた。
「あら、いいお店ね」
そう白々しく呟いたのは、初老の女性だった。
「誰なんですか?」
楓の異変に気付いて、音流が訊ねた。
「祖母」
楓は無意識に口にしていた。認めたくない事実を。
「久しぶりね。孫ちゃん」
祖母は人懐っこい笑顔を浮かべた。
ゾワッと鳥肌が立った。まるで、邪悪な化け物を見たかのような反応だ。
(どの口で『久しぶり』なんて言えるんだ)
その女性とは一度しか出会ったことがない。しかしその顔を忘れるわけがなかった
楓は自分の心臓を抑えつけた。祖母の顔と、シンクに映った自分の顔が重なった。
(ああ、いやだ)
否応なく思い出してしまう。
小さいころにさらされた女性の狂気を。
『付き合ってくれませんか?』
楓はベッドに寝転びながら、怪訝な顔を浮かべて、スマホの画面を凝視した。
(あまり知らないクラスメイトから、なんの脈絡もなく告白された……?)
何が起きたのか客観的に説明できても、すぐに受け止めきれなかった。面と向かって告白されることはあっても、SNS経由でされることは初めてで、嬉しさよりも困惑が先立ってしまう。
(見なかったことにする? 失礼だし)
しかし結局は考え直して
『なんで?』とだけメッセージを送った。
なんで自分に告白してきたか、理由を純粋に知りたかったのだ。
『好きだからです』
返答は簡潔で直球だった。しかし楓の顔は赤くなるどころか、どんどん冷めていった。
(だったら面と向かって言えよ)
チグハグな印象で、"好き"という言葉が薄っぺらく思えた。
いくら画面に表示された文字とにらめっこしても、それ以上の情報は読み取れない。
楓がどう返信しようか決めあぐねていると、待ちきれなくなったのか、再度メッセージが送られてきた。
『好きです』
楓はその4文字をまじまじと見つめた。
逡巡しながらも指を動かして、探りのメッセージを打ち始める。
『夏祭りを一緒に行けばいいの?』
そろそろ夏祭りの季節だ。一緒に回る異性が欲しいから口説き文句を並べているのかと推察した。
『別に、そうではなく。好きだから付き合ってほしいです』
楓はさらに首を捻った。自分が何を求められているのか、読み取ることができなかった。しばらく悩んだ末
『ごめん、よくわからない』と返した。
『そうですか。すぐに返事をもらえなくてもいいです。待ってます』
楓は画面を見たまま、眉間にしわを寄せた。
(いや、待たせるのはよくない気がする。というか、さっさと決めたい)
自分の部屋を見渡し始める。
視線を右往左往させていると、あるものに目が留まる。姉からもらったタイガーアイのネックレスと、ブルームーンストーンのブレスレットだ。
(タイガーアイは金運だよね)
パワーストーンの効能を思い出しながら、立ち上がる。
(ブルームーンストーンは恋愛だったかな)
ブレスレットを手にとって、チョメチョメを使って語り掛ける。
「恋愛ってなに?」
『せいしょくこういでしょ』
生殖行為。
ブレスレットから聞こえる声は中年女性のようだった。おそらくは20年近く大事にされているものだ、と楓は推測した。
(なんでお姉ちゃんがそんな古いのを持ってるのかな?)
後で訊こうと考えてながら、ブレスレットに意識を向けなおす。
「恋愛ってしないといけないの?」
『はつじょうきになればするようになるよ』
「人間は常に発情期なんだけど」
強いて言うなら冬が発情期になるだろうか。寒い時期は恋愛感情が高まり、恋愛小説や映画がよく売れるらしい。
『こうびしてからかんがえろよ』とブレスレットは不機嫌に言い放った。
(恋愛運のパワーストーンの癖に、身も蓋もないなぁ)
交尾。人間的に言えばセックスだ。ふと自分の体をじっと見つめる。特徴があるわけではなく、女性らしさはあまり感じられない。スレンダーと言えば聞こえはいいが、楓自身はあまり好いてはいない。おもむろに胸を揉みしだき、苦笑いを浮かべた。
(なんか考えられないなぁ)
自分の体を誰かに触られることに抵抗があるわけではない。しかしそれで幸せを感じる自分が想像できなかった。
(ゴツゴツした木を抱いた方がうれしいかも)
そんな奇天烈な結論に至って、
ふとスマホの画面を見ると『そうですか。すぐに返事をもらえなくてもいいです。待ってます』というメッセージが目に入って、嫌気がさした。
(あーもー、面倒くさい。どうにでもなれ)
荒っぽい操作でメッセージを打ち終わった楓は、勢いよく送信ボタンを押した。
『いいよ。付き合うよ』
どうにでもなれ、と投げやりになりながらベッドの上にダイブした。
その後、しばらく何の反応もなかった。十数分後になってようやく送られてきた。
『よろしくお願いします』
シンプルな文章だった。当たり障りが無さ過ぎて、特徴がない。
(ふーん)
鼻を鳴らしながら、握っていたブルームーンストーンのブレスレットを放り投げた。
(明日の朝、まずは顔を確認しないと)
交際相手の顔を覚えていないというのはあまりよくないだろう、という良識から生まれた考えだった。
「あれ……?」
胸の中で違和感がつっかえた。
——こんなの交際と言えないでしょ。
どこかから声が聞こえた。自分の声のはずなのに、自分の意志ではない。
——本当は断りたかったのに。
子供みたいに拗ねた声だった。
——大体、告白からなってないよね。
聞いているだけで暴れたくなるような、神経を逆撫でにする声だった。
——さっさと別れるようにしちゃおう。
ああそうか。これはわたしの本心だ。いつも押し込めているはずなのに、今日に限って表に出てきた。
——あーあ、なんでわたしにはいい人がいないのかな。
本心は嫌いだ。
——なんでわたしばっかり
本心を聞くたびに、今の自分が可哀そうに見えてくる。
「黙ってよ!」
楓は机の引き出しを引っ張り出し、木製のネックレスを握りしめた。
『どうしたの?』
「そうじゃないッッッ!!!」
ネックレスから若くて甲高い声が聞こえて、強い拒否感を示した。
感情を抑えられず、木製のネックレスをベッドにたたきつけた。
すがるような気持ちでカバンを開けて、あるものを取り出す。
『おや、どうしたのかな』
落ち着いた声が聞こえた。
「声を聞きたくなっただけ」
楓は腕時計を抱きしめた。陸の祖父の形見の腕時計だ。
(老木の声に似てる)
優しくて渋い声音で語り掛けられるだけで、心が安らいでいく。
楓と陸が出会う前日、腕時計を拾っていたのだ。当初、陸の部屋にいる間に返すつもりだった。しかし陸の母親とのやり取りを見て、返すのが嫌になってしまったのだ。
『あの子は元気かねぇ』
腕時計はたまに呟く。そのたびに胃がキリリと痛み出す。
(鈴木陸はこの腕時計を大切にしていた)
毎日磨き上げる程だ。そのためか腕時計は鈴木陸を本当の孫のように慕っている。
楓の中にどす黒い感情が渦巻いた。
なんで彼ばかりが、わたしの欲しいものを持っているのだろうか。
欠けていない家族を持っていて——
モノの声が聞こえなくて——
腕時計に愛されていて——
最高の恋人を持っていて——
好きなことを好きだと叫べて——
——そんな彼が大嫌いだ。
楓は自分の唇が乾いているのに気づいた。割れて血がにじんでいる。
(ジュースが飲みたい。100パーセント果汁のオレンジジュースがいい)
二階にある自分の部屋から出て、キッチンに向かう。狭くて急な階段を下りて、暗い廊下を突っ切った。
冷蔵庫から取り出したパックの中には、コップの半分程度の量しか残っていなかった。
(お姉ちゃんの仕業だ)
異様にムシャクシャした楓は、パックをグシャリと握りつぶしてシンクの中にたたきつけた。
中途半端な量のジュースを捨てて、温い水道水をなみなみと注ぐ。
それからはひたすら飲み続ける。息継ぎする合間もないほど、とてもない勢いだった。
お腹が苦しくなって、ようやくコップを置いた。肩を上下させて息を整えているうちに、頭がスーッと冷えていく。
口の中は水道水のカルキ臭さでいっぱいになっていた。楓はふと、カルキは水道水の中にいる微生物を殺すために使用されていることを思い出した。
(だったら、わたしの悪い部分をすべて殺してくれないかな)
お腹が嫌な音を立てた。とっさに口を押えて、トイレに駆け込む。
せり上がってくるものが我慢できずに、口から吐しゃ物を吐き出した。
吐しゃ物はかなり水っぽく、自分の中身の薄さを表しているように思えた。
「あはは、ちょっとスッキリしたかも」
舌の根と喉にまとわりつく酸味が心地よく感じた。すっぱさという点ではオレンジジュースと変わらない。
換気扇を回して、トイレを流して、洗剤をたっぷりつけたブラシで掃除した。
洗剤の爽やかな匂いが、現実を覆い隠していく。
念入りに臭いを確認してから、トイレのドアを閉めた。
「どうしたの?」
突然声を掛けられて楓は飛び上がった。君乃が階段から下りてきていた。
「ちょっと喉乾いちゃって」と楓は笑みを取り繕った。
「ごめん、オレンジジュース残り少ないから他の飲んでね」
今更言っても遅いよ、と楓は心の中でボヤいた。君乃は楓の前に立って、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん。もう我慢できないから」
そう言って君乃は楓を押しのけるようにして、トイレに入ってしまった。
「ぁ……」
楓は心配気な顔でトイレのドアを見つめた。
(気づかれるかな)
いくら匂いを消したと言っても君乃なら気づく。楓はそう確信した。
(お姉ちゃんはそういう人だ)
いつもは鈍い癖に、家族のこととなると勘が鋭くなる。しかし直接言及することはないだろう。そういうところが卑怯なのだ。
(あーもー、気が重い。片づけてさっさと寝よう)
シンクの中でつぶれていたパックを持ち上げると
『ひどいよ』とパックからの抗議の声をあげた。
「ジュースが入ってなかったのが悪い」
中を水でゆすいで、ハサミで切り開いて、パックの束に重ねようとしたのだが、自分が失敗を犯したことに気付く。
(やらかした)
パックの切り方を間違えたのだ。底の部分がついている場所が違う。一番上のパックだけが明らかに浮いていた。イラつきのあまり、間違って切ったパックをゴミ箱に叩きつけた。
気を取り直して、まだすっぱさの残る口の中をゆすいで、音を立てないように吐き出す。
照り返るまで磨いたシンクに映った自分の顔を見て、楓は顔を歪ませた。
(似てきている)
耳の中にこびりついた声がリピートされる。
『あなたが死ねばよかったのに』
血がつながっているだけの嫌いな相手を思い出して、呼吸が苦しくなる。
ドクドクと脈打つ心臓を抑えながら、ゆっくりと口を動かすと、本音が漏れ出る。
「わたしは、わたしが一番嫌いだ」
その言葉は、誰でもない自分に向けたものだった。
「最近、同志が頭を撫でてくれてくれません」
その日は珍しく、音流が一人で来店していた。基本的にカップルで来店するため、不思議に思い、楓から声をかけたのだ。その結果、のろけ話なのか愚痴に見せかけたノロケ話を聞かされている。
楓は「はぁ」と気のない返事をするしかなかった。呆れを通り越して義務感で相槌をうっている。
「下の名前で呼んでくれません」
結局まだ呼び方を直せていないのか意気地なしめが、と楓は心の中で悪態をついた。
「一回呼んだんだから、ずっとそのままでいいじゃないですか」
(すぐは無理だろうなぁ)
優柔不断な陸の顔を思い出し、苦笑いした。
「それとも、冷静になったら嫌いになっちゃったのかな……」
不安そうに言う音流を見て、楓はいてもたってもいられなくなった。
「そんなことない。だって、昨日アイツから相談されたんだよ。下の名前で呼ぶのが恥ずかしいって」
「え? そうなんですか……?」
音流に上目遣いで見られた楓は、一瞬顔を赤らめて唇を舐めた。
「うん、だから、待ってあげればいいんじゃないかな」
「うーん、そうですかね」
音流は少し悩んでから、突然立ち上がり
「少し腹が立ってきました」低い声でと呟いた。
「な、なんで……?」
「彼女を差し置いて他の女に相談しているのは、何か違くないですか!?」
「そうかな……?」
(彼女だから相談できないこともあるだろうに)
どう伝えるべきか思案している間に、音流は握りこぶしを天井に突きだして叫び始めた。
「こうなったら徹底的なアプローチです。せめてなんぼの恋愛です」
音流は嫉妬に狂っているというよりは、生き生きしているように見えた。
(アイツにとっては、これぐらいがちょうど良いのかも)
楓は独りで納得して上機嫌にカップを傾けた。
カランコロンとベルが鳴り、楓は条件反射に立ち上がり店員モードに切り替えた。
ドアを通り抜けてくる人物を見て、楓の顔から色が消えた。
「あら、いいお店ね」
そう白々しく呟いたのは、初老の女性だった。
「誰なんですか?」
楓の異変に気付いて、音流が訊ねた。
「祖母」
楓は無意識に口にしていた。認めたくない事実を。
「久しぶりね。孫ちゃん」
祖母は人懐っこい笑顔を浮かべた。
ゾワッと鳥肌が立った。まるで、邪悪な化け物を見たかのような反応だ。
(どの口で『久しぶり』なんて言えるんだ)
その女性とは一度しか出会ったことがない。しかしその顔を忘れるわけがなかった
楓は自分の心臓を抑えつけた。祖母の顔と、シンクに映った自分の顔が重なった。
(ああ、いやだ)
否応なく思い出してしまう。
小さいころにさらされた女性の狂気を。
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