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第五章 日向ぼっこ好きは台風の目の夢を見る
第四十九話 偉大な一歩
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お祖父ちゃん。
【好きなことをして、幸せに生きなさい】
好きなことって厳しいよ。
幸せって難しいよ。
だって、明日まで好きでいられるか分からない。
一歩進んだら、生きていないかもしれない。
どんなに今が幸せでも、数秒後には不幸になるかもしれない。
ずっとそのままでいるって、めちゃくちゃ難しい。常に全力で踏ん張っていないと振り落とされてしまう。
でも、ちょっとわかってきた気がするんだ。
お祖父ちゃんのこと。
何が伝えたかったのか。
僕はどうやって向き合えばいいのか。
あともう少しだ。
ドクンドクンと心臓が脈打つ中、陸は息をひそめた。
河川敷で寝ている少女の姿から目を離せなくなっていた。
本当はなんで畑じゃなく河川敷にいるんだ、詐欺じゃないか、と文句を垂れるつもりだった。しかしその姿を見た瞬間に、そんな些細な不満は吹き飛んでしまった。
台風の目で寝ていた時と、全く同じ場所で寝ていた。ビニールシートを敷いているのだが、人一人分の不自然なスペースが空いており、その横には服が畳まれている。音流が持ち帰ってしまった陸の服だ。
音流の服装はいつもよりオシャレをしていて、淡い藍色のワンピースにデニムのジャケットを着ていた。
音流の枕元に立ったのだが、声を掛けるのが怖くて口を開けなかった。
首にはチョーカーが着けられていおり、自然と視線が吸い込まれる。
そんな矢先だった。
「同志。おはようございます」
うだつが上がらなそうな声で、音流が先んじて挨拶をした。
「オハヨウゴザイマス」
陸は機械のような固い返事をした。
「えっと、隣いいかな?」
音流は答えない。否定も肯定もしない。ただそこには一人分のスペースが空いており、陸の服も置いてある。それだけの条件が整っていても、陸はへっぴり腰だ。おそるおそるそこに寝そべる。音流の眉がピクリと反応したが、何も言わない。
陸は目を閉じて、万感の思いを込めて、口を開く。
「……ごめん」
まるで無くなりかけのスプレーのようなかすれた声だった。陸の限界だ。
「いいですよ。怒ってません。ウチから頼んだことでしたし」
対照的に、音流の声音は穏やかだった。
「我がままかもしれないけど、怒ってないなんて言わないで……」
首を絞めた感触を思い出して、汚れをぬぐうようにして手の平をズボンで擦った。
音流はゆっくりと瞼を開いて、隣にいる陸を見た。その瞳には情けない顔が映っている。
「……死ぬかと思いました」
音流の悲痛な吐露に、陸は「ごめん」と再び謝った。
「苦しくて、悲しくて、悔しくて。自分の体が底なし沼になって、大きくて暗い海底に落ちていくかと思いました」
音流はチョーカーを着けた首をそっと撫でた。治りかけの傷に触れるかのように、優しい手つきだった。
「三日間、忘れようとしてはフラッシュバックして、をずっと繰り返していました」
陸は自分の三日間を思い返した。不安に駆られながらも二の足を踏んでいただけの、情けない日々でしかなかった。
「一日目は泣いてばかりでした。ベッドの上で布団にくるまって、ご飯も食べずに涙を流していました。ティッシュ一箱使い切ったらちょっとスッキリしました」
そのティッシュ箱は記念に取ってあります、と音流は補足した。陸は一体なんの記念なのか、と困惑した。
「二日目は出かけて、チョーカーとか服をいっぱい買ってきました。お年玉が余っていたので、全部使い切りました。今まで着たことのないような大人っぽい服に袖を通して、鏡の前で一人ファッションショーをしてました。あと、お気に入りの服をかなり捨てました。小さくなっても無理やり着てたやつとか、キャラクターものとか」
音流はビニールシートに描かれたキャラクターを撫でた。デフォルメされた猫のキャラクターで、子供っぽい無邪気な笑顔をしている。
「三日目はお墓参りに行ってきました。じいじのお墓です。線香を持って行ったんですけど、ライターを忘れちゃったので、形だけになりましたけど。
その時気づいたのですけど、ウチ、じいじの好きな花が分からなかったんですよ。本人に聞いたら多分、野菜の花を挙げそうですけど。一度も訊いたことがなかったな……と。
とりあえず無難に仏花を買いました。ばあばから昔教えてもらったキャベツの漬物も供えて、話しをしてきました」
「……そっか」
陸は吐息のように漏らした。
「同志の好きな花はなんですか?」
「んー、考えたこと無いな」と言いながら音流の横顔を見て「強いて言うならヒマワリかな」と答えた。
すると突然、音流が大声で笑いだした。
「なんなの一体」
「だって、ヒマワリをお墓に供えるのはおかしいじゃないですか」
「ああ、そういうつもりだったんだ」と納得してから「だったらカスミソウかな。小学生の頃色染めるのにはまったことがあって」
「同志らしい理由ですね。ウチはキンセンカがいいです。見ていると少し前向きな気分になれるんですよ。覚えておいてくださいね」
「あ、うん」
「覚えておいてくださいね」
なぜ二度言われたのかわからず、陸は戸惑いながら「わかったよ」と気の抜けた声で言った。
「覚えておいてくださいね」
三度目。鈍感な陸もさすがに不審に思い、言葉の裏を解読し始める。
音流から『お墓参りしたが、じいじの好きな花が分からなかった』という話を聞かされ、その後好きな花を教え合った。その意味は――。
(ん、あれ? 遠回しなプロポーズされてる?)
とっさに音流の顔を覗き込む。満面の笑みからは「喜び」以外は何も読み取れない。かといっても、直接真意を訊ねる勇気はなかった。
「今日はこの後、美容室に行こうかと思います。バッサリと髪を切ってもらいます」
音流は二本指をつかって、ハサミで髪を切るジェスチャーをとった。晴れやかと寂しさがないまぜになった、乙女のような表情で。
それに対して、陸は純朴な顔をして
「ぜっっったい、今の方がかわいいよ」と叫んだ。
音流は驚愕して、陸の顔を覗き込んだ。陸はいきなり恥ずかしくなり、逃げるように顔背けた。
「どうしたんですか? 頭でも打ちました?」
心配されたのが恥ずかしくも悔しくて、さらに追撃する。
「チョーカーも似合ってる」
たおやかな首に食い込んだチョーカー。デザインはシンプルながら品のある大人っぽさがある。
「ありがとうございます。結構値が張ったので嬉しいです」
「値段の問題?」
「少し損をした気分でしたけど、同志に褒められただけで元が取れました。サイコーです」
僕の言葉にそんな価値はないでしょ、と軽口を叩こうとしたのだが、真っ赤な音流の顔を見て口を閉ざした。
「同志にはとても感謝しています。ウチの感謝の気持ちの全ては同志のためにあるんじゃないかって思える程に」
「……大袈裟だよ」
むずがゆく感じて、自然と足の指に力が入る。
「大袈裟じゃないですよ。真心からの本心です」
「そんなの受け取れない。僕は……首を絞めたんだから」
陸はまだ手に残っている首を絞めた感触を押し殺すように、右の拳を握りしめた。
「最初に言いましたけど、ウチからお願いしたことです。たしかに苦しくて怖かったです。ですけど――」
音流はゆっくりと息を吐いた。血色のいい唇が震えているのを、陸は見逃さなかった。
陸は目を閉じて、耳を澄ませた。それに合わせるように音流も瞼を閉じた。
「でも、じいじに会えたんです」
音流は頬を緩ませて、愛おし気に言葉を紡いでいく。
「うん」と陸は邪魔にならないように静かに相槌を打つ。
「何も言わなかったですし、何もしてくれませんでした。まるで仏像みたいにそこにいるだけでした。でも、じいじはいつでもどこでも駆けつけてくれるんだ、って思いました」
「うん」
陸は自分のお祖父ちゃんの顔を思い浮かべていた。そしてその遺言も。【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】
「ウチ、謝ったんです。ごめんなさい。じいじの最期が幸せだったのか分からない。どれだけ考えても、答えは出なかった、って。そうしたら、じいじは穏やかな笑顔で帰っていきました。ずっとずっと遠くに」
ゆっくりと目を開けた。音流が目線を上げるのにつられて、陸も空を見上げる。二人の視界には清々しい蒼しか映っていない。その先には天国があるのかもしれない。
「ウチ、考えたんです。なんであんな笑顔だったんだろうって。最初は見当もつきませんでした。でも、徐々に分かってきたんです。別に今際の想いなんて、今知る必要はないんじゃないかって」
音流の言葉を受けて、視界が明るくなった気がした。
「だって、そうじゃないですか。じいじの一生の想いは巨石のように大きくて重くて、そのまま持って進んだらつぶれてしまいます。だったら、砕いて運べばいいんです」
陸は自分の中にあった重みがスーッと引いていくのを感じた。
「じいじの想いを少しずつ削って持って行けばいいんだ、って気づきました。なくなったら振り返って戻って削って、戻って削って、戻って削って、そうやって何回にも分けて持ち運んでいけばいいんです。そうすればじいじのことを何度でも思い出せますし、全然重くならない」
それは単純なようで、陸が全く考えもしなかった答えだった。
「死ぬその時まで、ずっと一緒に生きていけばいいんです」
目から鱗だった。いや――。
「なんで、泣いてるんですか?」
瞳から、涙があふれていた。
音流の独白に、陸は勝手に救われていた。
「そうだよね。ずっと、一緒にいれば、いいんだよね」
死んだから、心まで別れる必要なんてない。忘れる道理はない。
永遠の別れは辛くて悲しい。でも、死人を偲ぶことは苦しいとは限らない。心の中で一緒にいるのだから、嬉しいことなのだと、気づいた。
(お祖父ちゃんの遺言が聞こえるのは呪いなんかじゃない。寄り添いなんだ)
【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】
好きなものは無常で――
幸せな時間は有限で――
どちらも簡単に壊れてしまう。
だから幸せを全力で噛み締めよう。お腹いっぱいになるまで。
幸せじゃない時は幸せの貯金を崩せばいい。
好きなものにはがむしゃらになろう。足腰が立たなり、指がボロボロになり、感情が焼き切れるまで。
もし嫌いになっても好きでいてよかった、と言える日がきっとくる。
音流は陸に向き直った。
「一つお願いがあります。いえ、あえて罰と言いましょうか」
陸は晴れやかな顔で待ち構えた。いまならどんなお願いも聞ける気がしていた。
「腕枕してください」
「それだけ?」と陸は拍子抜けして、思わず口走ってしまった。
「もちろん、ウチが満足するまで、です。腕がしびれても、トイレに行きたくなっても我慢してください」
「それはつらそうだ」
音流が頭を上げて、陸はその下に左腕を差し込む。
息を吐いた音流は、左手で陸の小指を握りしめた。
「その恰好、辛くない?」
音流は指を握るために、肩と密着するまで、腕を曲げていた。
「ちょっとこのままでいたいです」
「……ん」
しばらく、二人は穏やかな時間を過ごした。
いつの間にか寝て、ほぼ同じ時間に目が覚めた。
夕日が落ち始めた頃、音流はまどろんだ声で陸に問いかける。
「同志。明日も一緒に日向ぼっこしてくれますか?」
「明日は雨だよ」
「じゃあ、明後日でも。来週でも。来月でも。日向ぼっこしてくれますか? 腕を貸してくれますか?」
陸は何も言わなかった。しかし心臓はバクバクと高鳴っており、陸の感情をこの上なく表している。その音は腕を通して、音流の敏感な耳に届いていた。
音流は口を一文字に結び、腕枕の上で頭をグリグリと動かした。腕がしびれていた陸は悲鳴を上げながら飛び上がった。
笑っている音流に「何するの!?」と陸が抗議すると、音流は陸の腕を引っ張って立たせる。
立ち上がり、向き合い、瞳を射抜き合う。
「同志。これからもよろしくお願いします」
晴れ晴れとした笑顔で、言い放った。
「うん。これからも――」と言いかけたところで陸は頭を振った。
そして、口の端をありったけの想いで釣り上げる。
「これまでよりも、ずっとずっと、よろしくお願いします」
音流はスーパーボールのように弾んだ声で
「はい!」と返した。
この日、僕たちは前に進めた気がする。
グダグダ悩んだ末の偉大な一歩だ。
「あと、重大な報告があります」
音流は重大さをまるで感じさせない軽々しい口調で宣言した。
「なになに?」
陸は軽々しく催促した。
「モノの声が聞こえるようになったみたいです」
開いた口が塞がらなかった。
ついでみたいに言わないでほしい、と陸は項垂れたのだった。
【好きなことをして、幸せに生きなさい】
好きなことって厳しいよ。
幸せって難しいよ。
だって、明日まで好きでいられるか分からない。
一歩進んだら、生きていないかもしれない。
どんなに今が幸せでも、数秒後には不幸になるかもしれない。
ずっとそのままでいるって、めちゃくちゃ難しい。常に全力で踏ん張っていないと振り落とされてしまう。
でも、ちょっとわかってきた気がするんだ。
お祖父ちゃんのこと。
何が伝えたかったのか。
僕はどうやって向き合えばいいのか。
あともう少しだ。
ドクンドクンと心臓が脈打つ中、陸は息をひそめた。
河川敷で寝ている少女の姿から目を離せなくなっていた。
本当はなんで畑じゃなく河川敷にいるんだ、詐欺じゃないか、と文句を垂れるつもりだった。しかしその姿を見た瞬間に、そんな些細な不満は吹き飛んでしまった。
台風の目で寝ていた時と、全く同じ場所で寝ていた。ビニールシートを敷いているのだが、人一人分の不自然なスペースが空いており、その横には服が畳まれている。音流が持ち帰ってしまった陸の服だ。
音流の服装はいつもよりオシャレをしていて、淡い藍色のワンピースにデニムのジャケットを着ていた。
音流の枕元に立ったのだが、声を掛けるのが怖くて口を開けなかった。
首にはチョーカーが着けられていおり、自然と視線が吸い込まれる。
そんな矢先だった。
「同志。おはようございます」
うだつが上がらなそうな声で、音流が先んじて挨拶をした。
「オハヨウゴザイマス」
陸は機械のような固い返事をした。
「えっと、隣いいかな?」
音流は答えない。否定も肯定もしない。ただそこには一人分のスペースが空いており、陸の服も置いてある。それだけの条件が整っていても、陸はへっぴり腰だ。おそるおそるそこに寝そべる。音流の眉がピクリと反応したが、何も言わない。
陸は目を閉じて、万感の思いを込めて、口を開く。
「……ごめん」
まるで無くなりかけのスプレーのようなかすれた声だった。陸の限界だ。
「いいですよ。怒ってません。ウチから頼んだことでしたし」
対照的に、音流の声音は穏やかだった。
「我がままかもしれないけど、怒ってないなんて言わないで……」
首を絞めた感触を思い出して、汚れをぬぐうようにして手の平をズボンで擦った。
音流はゆっくりと瞼を開いて、隣にいる陸を見た。その瞳には情けない顔が映っている。
「……死ぬかと思いました」
音流の悲痛な吐露に、陸は「ごめん」と再び謝った。
「苦しくて、悲しくて、悔しくて。自分の体が底なし沼になって、大きくて暗い海底に落ちていくかと思いました」
音流はチョーカーを着けた首をそっと撫でた。治りかけの傷に触れるかのように、優しい手つきだった。
「三日間、忘れようとしてはフラッシュバックして、をずっと繰り返していました」
陸は自分の三日間を思い返した。不安に駆られながらも二の足を踏んでいただけの、情けない日々でしかなかった。
「一日目は泣いてばかりでした。ベッドの上で布団にくるまって、ご飯も食べずに涙を流していました。ティッシュ一箱使い切ったらちょっとスッキリしました」
そのティッシュ箱は記念に取ってあります、と音流は補足した。陸は一体なんの記念なのか、と困惑した。
「二日目は出かけて、チョーカーとか服をいっぱい買ってきました。お年玉が余っていたので、全部使い切りました。今まで着たことのないような大人っぽい服に袖を通して、鏡の前で一人ファッションショーをしてました。あと、お気に入りの服をかなり捨てました。小さくなっても無理やり着てたやつとか、キャラクターものとか」
音流はビニールシートに描かれたキャラクターを撫でた。デフォルメされた猫のキャラクターで、子供っぽい無邪気な笑顔をしている。
「三日目はお墓参りに行ってきました。じいじのお墓です。線香を持って行ったんですけど、ライターを忘れちゃったので、形だけになりましたけど。
その時気づいたのですけど、ウチ、じいじの好きな花が分からなかったんですよ。本人に聞いたら多分、野菜の花を挙げそうですけど。一度も訊いたことがなかったな……と。
とりあえず無難に仏花を買いました。ばあばから昔教えてもらったキャベツの漬物も供えて、話しをしてきました」
「……そっか」
陸は吐息のように漏らした。
「同志の好きな花はなんですか?」
「んー、考えたこと無いな」と言いながら音流の横顔を見て「強いて言うならヒマワリかな」と答えた。
すると突然、音流が大声で笑いだした。
「なんなの一体」
「だって、ヒマワリをお墓に供えるのはおかしいじゃないですか」
「ああ、そういうつもりだったんだ」と納得してから「だったらカスミソウかな。小学生の頃色染めるのにはまったことがあって」
「同志らしい理由ですね。ウチはキンセンカがいいです。見ていると少し前向きな気分になれるんですよ。覚えておいてくださいね」
「あ、うん」
「覚えておいてくださいね」
なぜ二度言われたのかわからず、陸は戸惑いながら「わかったよ」と気の抜けた声で言った。
「覚えておいてくださいね」
三度目。鈍感な陸もさすがに不審に思い、言葉の裏を解読し始める。
音流から『お墓参りしたが、じいじの好きな花が分からなかった』という話を聞かされ、その後好きな花を教え合った。その意味は――。
(ん、あれ? 遠回しなプロポーズされてる?)
とっさに音流の顔を覗き込む。満面の笑みからは「喜び」以外は何も読み取れない。かといっても、直接真意を訊ねる勇気はなかった。
「今日はこの後、美容室に行こうかと思います。バッサリと髪を切ってもらいます」
音流は二本指をつかって、ハサミで髪を切るジェスチャーをとった。晴れやかと寂しさがないまぜになった、乙女のような表情で。
それに対して、陸は純朴な顔をして
「ぜっっったい、今の方がかわいいよ」と叫んだ。
音流は驚愕して、陸の顔を覗き込んだ。陸はいきなり恥ずかしくなり、逃げるように顔背けた。
「どうしたんですか? 頭でも打ちました?」
心配されたのが恥ずかしくも悔しくて、さらに追撃する。
「チョーカーも似合ってる」
たおやかな首に食い込んだチョーカー。デザインはシンプルながら品のある大人っぽさがある。
「ありがとうございます。結構値が張ったので嬉しいです」
「値段の問題?」
「少し損をした気分でしたけど、同志に褒められただけで元が取れました。サイコーです」
僕の言葉にそんな価値はないでしょ、と軽口を叩こうとしたのだが、真っ赤な音流の顔を見て口を閉ざした。
「同志にはとても感謝しています。ウチの感謝の気持ちの全ては同志のためにあるんじゃないかって思える程に」
「……大袈裟だよ」
むずがゆく感じて、自然と足の指に力が入る。
「大袈裟じゃないですよ。真心からの本心です」
「そんなの受け取れない。僕は……首を絞めたんだから」
陸はまだ手に残っている首を絞めた感触を押し殺すように、右の拳を握りしめた。
「最初に言いましたけど、ウチからお願いしたことです。たしかに苦しくて怖かったです。ですけど――」
音流はゆっくりと息を吐いた。血色のいい唇が震えているのを、陸は見逃さなかった。
陸は目を閉じて、耳を澄ませた。それに合わせるように音流も瞼を閉じた。
「でも、じいじに会えたんです」
音流は頬を緩ませて、愛おし気に言葉を紡いでいく。
「うん」と陸は邪魔にならないように静かに相槌を打つ。
「何も言わなかったですし、何もしてくれませんでした。まるで仏像みたいにそこにいるだけでした。でも、じいじはいつでもどこでも駆けつけてくれるんだ、って思いました」
「うん」
陸は自分のお祖父ちゃんの顔を思い浮かべていた。そしてその遺言も。【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】
「ウチ、謝ったんです。ごめんなさい。じいじの最期が幸せだったのか分からない。どれだけ考えても、答えは出なかった、って。そうしたら、じいじは穏やかな笑顔で帰っていきました。ずっとずっと遠くに」
ゆっくりと目を開けた。音流が目線を上げるのにつられて、陸も空を見上げる。二人の視界には清々しい蒼しか映っていない。その先には天国があるのかもしれない。
「ウチ、考えたんです。なんであんな笑顔だったんだろうって。最初は見当もつきませんでした。でも、徐々に分かってきたんです。別に今際の想いなんて、今知る必要はないんじゃないかって」
音流の言葉を受けて、視界が明るくなった気がした。
「だって、そうじゃないですか。じいじの一生の想いは巨石のように大きくて重くて、そのまま持って進んだらつぶれてしまいます。だったら、砕いて運べばいいんです」
陸は自分の中にあった重みがスーッと引いていくのを感じた。
「じいじの想いを少しずつ削って持って行けばいいんだ、って気づきました。なくなったら振り返って戻って削って、戻って削って、戻って削って、そうやって何回にも分けて持ち運んでいけばいいんです。そうすればじいじのことを何度でも思い出せますし、全然重くならない」
それは単純なようで、陸が全く考えもしなかった答えだった。
「死ぬその時まで、ずっと一緒に生きていけばいいんです」
目から鱗だった。いや――。
「なんで、泣いてるんですか?」
瞳から、涙があふれていた。
音流の独白に、陸は勝手に救われていた。
「そうだよね。ずっと、一緒にいれば、いいんだよね」
死んだから、心まで別れる必要なんてない。忘れる道理はない。
永遠の別れは辛くて悲しい。でも、死人を偲ぶことは苦しいとは限らない。心の中で一緒にいるのだから、嬉しいことなのだと、気づいた。
(お祖父ちゃんの遺言が聞こえるのは呪いなんかじゃない。寄り添いなんだ)
【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】
好きなものは無常で――
幸せな時間は有限で――
どちらも簡単に壊れてしまう。
だから幸せを全力で噛み締めよう。お腹いっぱいになるまで。
幸せじゃない時は幸せの貯金を崩せばいい。
好きなものにはがむしゃらになろう。足腰が立たなり、指がボロボロになり、感情が焼き切れるまで。
もし嫌いになっても好きでいてよかった、と言える日がきっとくる。
音流は陸に向き直った。
「一つお願いがあります。いえ、あえて罰と言いましょうか」
陸は晴れやかな顔で待ち構えた。いまならどんなお願いも聞ける気がしていた。
「腕枕してください」
「それだけ?」と陸は拍子抜けして、思わず口走ってしまった。
「もちろん、ウチが満足するまで、です。腕がしびれても、トイレに行きたくなっても我慢してください」
「それはつらそうだ」
音流が頭を上げて、陸はその下に左腕を差し込む。
息を吐いた音流は、左手で陸の小指を握りしめた。
「その恰好、辛くない?」
音流は指を握るために、肩と密着するまで、腕を曲げていた。
「ちょっとこのままでいたいです」
「……ん」
しばらく、二人は穏やかな時間を過ごした。
いつの間にか寝て、ほぼ同じ時間に目が覚めた。
夕日が落ち始めた頃、音流はまどろんだ声で陸に問いかける。
「同志。明日も一緒に日向ぼっこしてくれますか?」
「明日は雨だよ」
「じゃあ、明後日でも。来週でも。来月でも。日向ぼっこしてくれますか? 腕を貸してくれますか?」
陸は何も言わなかった。しかし心臓はバクバクと高鳴っており、陸の感情をこの上なく表している。その音は腕を通して、音流の敏感な耳に届いていた。
音流は口を一文字に結び、腕枕の上で頭をグリグリと動かした。腕がしびれていた陸は悲鳴を上げながら飛び上がった。
笑っている音流に「何するの!?」と陸が抗議すると、音流は陸の腕を引っ張って立たせる。
立ち上がり、向き合い、瞳を射抜き合う。
「同志。これからもよろしくお願いします」
晴れ晴れとした笑顔で、言い放った。
「うん。これからも――」と言いかけたところで陸は頭を振った。
そして、口の端をありったけの想いで釣り上げる。
「これまでよりも、ずっとずっと、よろしくお願いします」
音流はスーパーボールのように弾んだ声で
「はい!」と返した。
この日、僕たちは前に進めた気がする。
グダグダ悩んだ末の偉大な一歩だ。
「あと、重大な報告があります」
音流は重大さをまるで感じさせない軽々しい口調で宣言した。
「なになに?」
陸は軽々しく催促した。
「モノの声が聞こえるようになったみたいです」
開いた口が塞がらなかった。
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