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第五章 日向ぼっこ好きは台風の目の夢を見る
第三十四話 変人の目にも涙
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「陸、本当にいいのか?」
自動車の窓から顔をのぞかせるお父さんから訊ねられて、陸は小さく頷いた。
「ちょっと腹ごなししたいから」
「じゃあせめてこれを持っていって」
助手席に座っていたお母さんから、グローブボックスから取り出した折り畳み傘を手渡された。
「お兄ちゃん、お土産よろしくね」と後部座席の妹からねだられて
「旅行に行くわけじゃねえよ」と陸は軽口で返した。
少し心配そうな視線を感じつつも、重い脚を上げる。
(さて、どうしようかな)
行く当ても歩いていると、いつの間にか河川敷まで来ていた。空を見上げると、どんよりとした雲が一面に広がっており、自然と目線が下に向く。
雨の予報があるためか歩行者は少ない。普段の喧騒が遠いためか、空気が肌を刺すほど冷たくて、思わず腕を擦る。
ポツリポツリと小雨が降り始めた。
慌てて走り出す小学生ぐらいの女の子を見て、ふと陸の脳裏には楓の姿が浮かんだ。
(青木なら傘を貸すんだろうな)
視線を河川敷に移すと、青々しい原っぱが目に映る。そこは陸と音流が一緒に日向ぼっこをし、同志になった場所だった。
(日向ならこんな時でも日向ぼっこするのかな)
陸は試しに原っぱに寝転がった。
わずかに湿った草の感触を背中越しに感じながら、両手両足を大の字に放り投げる。
針のように細い小雨が、肌に突き刺さる。鋭い冷たさが不快で、眉間に皺が寄る。
(日向とした時と比べると、全然楽しくない)
前に陸は日向ぼっこで周囲に溶け込むような感覚があった。心地よくて、テンションは上がらないのに、静かな幸福感に満たされていた。
だが今回はそうではない。ただただ不穏だ。
生暖かい風も、冷たい雨も、騒々しい草の音も、何もかもが不安を掻き立てる。
ポケットに入れていた折り畳み傘がうざったく感じて、手の届かない場所に放り投げた。すると、雨はさらに強まり、陸の全身をぐっしょりと濡らし始めた。
それでも陸は寝転んだままで、曇り空を眺め続けている。
(お腹はいっぱいなのに、全然幸せじゃない)
お祖父ちゃんの一周忌。地元のホテルで少し豪華な食事を食べた。生まれて初めて味わう抹茶塩に舞い上がったり、分厚い刺身に舌鼓を打ったり、途中までは楽しんでいた。
(嫌なことを知った)
しかし途中から味が分からなくなるほどの、衝撃的な出来事が起きた。
それはお祖父ちゃんの知らなかった一面だった。いや、隠されていた、という表現が適切だろうか。
お祖父ちゃんが実は殺人者だった、というドラマみたいなことではない。もっとありふれていて、現実的な話だ。
お祖父ちゃんの人生は全て、親の敷いたレールの上だった。それだけのことだった。
結婚相手。会社。結婚式場や墓までもが親に決められていて、本人の要望は一切通らなかったそうだ。
陸は詳しい事情を知らない。親族の話に耳をそば立てていただけで、それ以上の詳細は知らない。だが何気ない一つの言葉に、心を大きく揺さぶられてしまった。
『かわいそうな人だった』
聞いた瞬間、キンキンに冷たい水風呂に浸かった時のように、心臓が痛くなった。
陸の中にあるお祖父ちゃん像とは全く異なるものだったからだ。
陸にとってのお祖父ちゃんは悪戯好きで奔放で、いつもニコニコ笑っていて、まるでお天道様のような存在だった。出会えなくなって一年が経った今でさえ、心の中で支えになっている程、強い憧れを抱いた存在だ。
そんなお祖父ちゃんが、過去を知っている親戚からはかわいそうとみられている。そのギャップが受け入れられなかった。
「【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】か……」
陸が思わず零した言葉は、お祖父ちゃんからの遺言だった。今までの陸はその言葉を純粋な祝福や激励だと受け取っていた。しかしお祖父ちゃんが不自由な人生を送っていた、という事実を知ると、別の側面も見えてきてしまう。
(皮肉だったのかな)
祝福ではなく呪言だったのではないか。そんな疑念がコゲのようにこびりついて取れない。
【お前は恵まれているなぁ】【幸せそうでいいなぁ】【少しぐらい分けてくれよ】
自分の"やりたい"を許されなかった人間が遺す言葉として見ると、そんな解釈の方がしっくり合うように思えてくる。
(でも、お祖父ちゃんはそんなこと考えないよね)
そう考えた瞬間、陸は自明気味に笑った。
(何言ってんだ、お祖父ちゃんの過去について何も知らなかったくせに)
陸は暗い雲に向けて手を伸ばした。当たり前に届くことはない。それでもずっと手を伸ばし続ける。やがて疲れて腕を下すと、手のひらが濡れていた。
「お祖父ちゃんは、僕のこと好きだった? 一緒に遊んで楽しかった?」
答えは返ってこない。回答者にはもう耳も口もないのだから当然だ。
(国語の読解問題みたいだ。しかも答えに納得できないやつ)
陸は虚無感から、ぼんやりと雨雲を眺める。
(レアチーズケーキ、食べに行きたいなぁ)
『Brugge喫茶』でレアチーズケーキを思い出して、テンションを上げようとした。しかし君乃からされた、あるアドバイスを思い出して、実行に移してみることにした。
「お祖父ちゃんが悪いんだよ」
言ってすぐ、空しくなる。
「……バカか」
言葉とは裏腹に、陸の心は少しだけ軽くなっていた。それが君乃のアドバイスの力なのか、レアチーズケーキの力なのか、それとも他の何かなのか、本人にもわからない。
陸がゆっくりと立ち上がると、雨は止んでいた。
周囲を見渡しても人影はない。あるのは泥濘るんだ地面だけだ。
「こんなことを考えていても仕方ないよなぁ」
陸はポリポリ後頭部を掻きながら、歩き出したのだった。
しっとりと濡れた黒髪から水滴を落としながら。
曇り空の下を。
折り畳み傘を忘れて、お母さんに怒られるまで――。
自動車の窓から顔をのぞかせるお父さんから訊ねられて、陸は小さく頷いた。
「ちょっと腹ごなししたいから」
「じゃあせめてこれを持っていって」
助手席に座っていたお母さんから、グローブボックスから取り出した折り畳み傘を手渡された。
「お兄ちゃん、お土産よろしくね」と後部座席の妹からねだられて
「旅行に行くわけじゃねえよ」と陸は軽口で返した。
少し心配そうな視線を感じつつも、重い脚を上げる。
(さて、どうしようかな)
行く当ても歩いていると、いつの間にか河川敷まで来ていた。空を見上げると、どんよりとした雲が一面に広がっており、自然と目線が下に向く。
雨の予報があるためか歩行者は少ない。普段の喧騒が遠いためか、空気が肌を刺すほど冷たくて、思わず腕を擦る。
ポツリポツリと小雨が降り始めた。
慌てて走り出す小学生ぐらいの女の子を見て、ふと陸の脳裏には楓の姿が浮かんだ。
(青木なら傘を貸すんだろうな)
視線を河川敷に移すと、青々しい原っぱが目に映る。そこは陸と音流が一緒に日向ぼっこをし、同志になった場所だった。
(日向ならこんな時でも日向ぼっこするのかな)
陸は試しに原っぱに寝転がった。
わずかに湿った草の感触を背中越しに感じながら、両手両足を大の字に放り投げる。
針のように細い小雨が、肌に突き刺さる。鋭い冷たさが不快で、眉間に皺が寄る。
(日向とした時と比べると、全然楽しくない)
前に陸は日向ぼっこで周囲に溶け込むような感覚があった。心地よくて、テンションは上がらないのに、静かな幸福感に満たされていた。
だが今回はそうではない。ただただ不穏だ。
生暖かい風も、冷たい雨も、騒々しい草の音も、何もかもが不安を掻き立てる。
ポケットに入れていた折り畳み傘がうざったく感じて、手の届かない場所に放り投げた。すると、雨はさらに強まり、陸の全身をぐっしょりと濡らし始めた。
それでも陸は寝転んだままで、曇り空を眺め続けている。
(お腹はいっぱいなのに、全然幸せじゃない)
お祖父ちゃんの一周忌。地元のホテルで少し豪華な食事を食べた。生まれて初めて味わう抹茶塩に舞い上がったり、分厚い刺身に舌鼓を打ったり、途中までは楽しんでいた。
(嫌なことを知った)
しかし途中から味が分からなくなるほどの、衝撃的な出来事が起きた。
それはお祖父ちゃんの知らなかった一面だった。いや、隠されていた、という表現が適切だろうか。
お祖父ちゃんが実は殺人者だった、というドラマみたいなことではない。もっとありふれていて、現実的な話だ。
お祖父ちゃんの人生は全て、親の敷いたレールの上だった。それだけのことだった。
結婚相手。会社。結婚式場や墓までもが親に決められていて、本人の要望は一切通らなかったそうだ。
陸は詳しい事情を知らない。親族の話に耳をそば立てていただけで、それ以上の詳細は知らない。だが何気ない一つの言葉に、心を大きく揺さぶられてしまった。
『かわいそうな人だった』
聞いた瞬間、キンキンに冷たい水風呂に浸かった時のように、心臓が痛くなった。
陸の中にあるお祖父ちゃん像とは全く異なるものだったからだ。
陸にとってのお祖父ちゃんは悪戯好きで奔放で、いつもニコニコ笑っていて、まるでお天道様のような存在だった。出会えなくなって一年が経った今でさえ、心の中で支えになっている程、強い憧れを抱いた存在だ。
そんなお祖父ちゃんが、過去を知っている親戚からはかわいそうとみられている。そのギャップが受け入れられなかった。
「【好きなことをして、幸せに生きていきなさい】か……」
陸が思わず零した言葉は、お祖父ちゃんからの遺言だった。今までの陸はその言葉を純粋な祝福や激励だと受け取っていた。しかしお祖父ちゃんが不自由な人生を送っていた、という事実を知ると、別の側面も見えてきてしまう。
(皮肉だったのかな)
祝福ではなく呪言だったのではないか。そんな疑念がコゲのようにこびりついて取れない。
【お前は恵まれているなぁ】【幸せそうでいいなぁ】【少しぐらい分けてくれよ】
自分の"やりたい"を許されなかった人間が遺す言葉として見ると、そんな解釈の方がしっくり合うように思えてくる。
(でも、お祖父ちゃんはそんなこと考えないよね)
そう考えた瞬間、陸は自明気味に笑った。
(何言ってんだ、お祖父ちゃんの過去について何も知らなかったくせに)
陸は暗い雲に向けて手を伸ばした。当たり前に届くことはない。それでもずっと手を伸ばし続ける。やがて疲れて腕を下すと、手のひらが濡れていた。
「お祖父ちゃんは、僕のこと好きだった? 一緒に遊んで楽しかった?」
答えは返ってこない。回答者にはもう耳も口もないのだから当然だ。
(国語の読解問題みたいだ。しかも答えに納得できないやつ)
陸は虚無感から、ぼんやりと雨雲を眺める。
(レアチーズケーキ、食べに行きたいなぁ)
『Brugge喫茶』でレアチーズケーキを思い出して、テンションを上げようとした。しかし君乃からされた、あるアドバイスを思い出して、実行に移してみることにした。
「お祖父ちゃんが悪いんだよ」
言ってすぐ、空しくなる。
「……バカか」
言葉とは裏腹に、陸の心は少しだけ軽くなっていた。それが君乃のアドバイスの力なのか、レアチーズケーキの力なのか、それとも他の何かなのか、本人にもわからない。
陸がゆっくりと立ち上がると、雨は止んでいた。
周囲を見渡しても人影はない。あるのは泥濘るんだ地面だけだ。
「こんなことを考えていても仕方ないよなぁ」
陸はポリポリ後頭部を掻きながら、歩き出したのだった。
しっとりと濡れた黒髪から水滴を落としながら。
曇り空の下を。
折り畳み傘を忘れて、お母さんに怒られるまで――。
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