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第四章 依頼等(イライラ)に満ちた一日
第二十五話 これがあればすべて忘れられる
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どんなにイライラしていても、これがあればすべて忘れられる。
そんなものがあるのは幸運だ。
学校で友人と喧嘩した。先生から叱られた。体育で失敗した。親と言い争いになった。一つ一つは小さなイライラだが、積もり積もれば憂鬱になる。
そんな日は『Brugge喫茶』のドアをたたく。
自宅から歩くほど15分。中学校や高校に近い立地で、ガラス張りでオープンな雰囲気が印象的だ。
昼光色が漏れ出るドアを開くと、カランコロンとベルが鳴る。
店内には数人の女性客がいるだけで、比較的空いていた。
「いらっしゃいませ」
反応したのは店員の清水だった。中世的な顔立ちの好青年で、同性の目から見ても蠱惑的な風貌だ。しかし陸にとっては手強すぎる恋敵でしかない。
来店者が陸だと気づいた瞬間、清水は営業スマイルをやめて自然な態度を取り始める。
「なんだ、珍しいな」
陸は平日に来店することはほとんど無く、今日は火曜日だ。
例外の時はいつも何かを腹に抱えている。そのことを清水も把握している。だからこそ余計なことは言わず
「"いつもの"でいいか?」とだけ質問する。
陸はずるいなぁ、と思いながらコクリと頷いた。
レアチーズケーキとコーヒーのセット。陸の"いつもの"はそれ以外にあり得ない。
案内されなくともカウンター席に座る。空いていれば基本的に座る、平日での定位置だ。
レアチーズケーキを、マスターの君乃が配膳してくれる。
「悩み事があるなら、食べ終わった後に聞くよ」
「……ありがとうございます」
自然な気遣いが心を解してくれる。たった一言二言だけのやりとりでささくれだったものが丸くなっていく。
陸はむずがゆさと居心地のよさを感じつつ、目の前のレアチーズケーキに手を合わせた。
そしてレアチーズケーキを口にした瞬間に、全ての感情が吹き飛ぶ。
フォークを入れたときの感触すら別格だ。羊羹のようにずっしりとしながらも、絹のように滑らか。
口に運べばチーズの濃厚かつ爽やかな風味が広がる。甘さは最小限で酸味と旨味を引き立てている。まるで上質なバターのように溶けて、爽やかなのに脳天をつく香りが鼻腔を抜けていく。トロリとした美味が嚥下する快感に酔いしれる。残ったクッキー生地の香ばしさを噛み締めつつ、また口に運ぶ。
「本当に美味しそうにたべるよね」
君乃に声をかけられたことで陸は顔を赤らめた。
(また写真を撮られてないよね?)
以前、陸がレアチーズケーキを食べている写真を隠し撮りされたことがあったのだ。盗撮写真には天女に抱擁されたが如く緩みきった顔が激写されていた。その写真を見せられら陸は羞恥心で一夜中悶え苦しんだ。
(顔を引き締めないと)
陸は意識して表情筋に力を入れているのだが、レアチーズケーキを口に運んだ瞬間、思考が全部が吹っ飛び、ほっぺが落ちてしまう。
「はい、コーヒーどうぞ」
食べ終わって一息つくと、コーヒーが出してくれる。熱すぎず、ぬるすぎない、ちょうどいい温度。おそらくは陸に合わせてくれているのだろう。
「……ありがとうございます」
一口目のコーヒーは冷えた喉と胃をガッと温める。二口目はじんわりと広がる。三口目以降は馴染んだ温かさが心地よくなる。胃の中で至高の黒と白が混ざり合い、多幸感が吐息とともに湧き上がってくる。
コーヒーが半分ほどになったころ、君乃に声を掛けられる。
「今暇なの。話し相手になって」
もう店内には陸を含めて3人程しか客が残っていない。すでにラストオーダーの時間は過ぎており、清水は厨房で黙々と洗い物をしている。
「そんな面白い話ではありませんよ」
「面白いかどうかはこっちが決める事でしょ? きっと面白いと思うな」
「なんですか、それ」
陸は自然とえくぼを作りながら、ポツポツと話し始めた。
この一週間で起きた出来事だ。
学校で友人と喧嘩した。先生から叱られた。体育で失敗した。親と言い争いになった。忘れ物が続いた。五百円玉を下水溝に落とした。
それらは日常にありふれた失敗やすれ違いばかりだ。でも積もり積もって失敗体験の山となり、劣等感や憂鬱へと変わっていく。
「君って、案外ナイーブだよね」
君乃の何気ない一言に心をえぐられて、陸は泣きそうになった。
「ごめん、ごめん。悪い意味で言ったつもりじゃないんだ」
「悪くしかきこえないんですけど」
君乃は手を横に振りながら、言葉を付け足す。
「私の場合、へこんだ時はいつも他人のせいにしちゃう。あの客が悪いんだ。あの業者が悪いんだ。時間が無いのが悪いんだ。なっちゃんが悪いんだ。挙句の果てには世界が悪いんだ。そうやって、いつも心の中で悪態をついてる」
なっちゃんとは清水なつのニックネームだ。君乃だけがそう呼んでいる
「え? 君乃さんでもそんなこと考えるんですか?」
「意外?」
陸は少し悩んでから、コクリと頷いた。
「自分の気分が第一な女だよ。私は」と君乃は少し寂しそうに言うと
「そうは見えませんよ」と陸がフォローを入れた。
すると次の瞬間には
「よく言われる」と君乃はケロッとした顔をしていた。
(じゃあ、この話はよくしているのか)
自分が特別でないと気づいて、陸は少し落胆した。
「君は全部自分が悪いんだと思ってるよね。だから、些細なことをきにしちゃう。もっと親や友達や先生や、五百円玉が悪いと思ってもいいんじゃないかな」
「五百円だけは絶対に悪くないですよ」
君乃がいっていることがおかしくて、ついニヤけてしまう。
「だって、五百円が持ちづらくなければ落ちることは無いでしょ。もっと大きければ排水溝に落ちることは無い。丸くなければ転がることは無い。ほら、こんなにいっぱい五百円くんの過失がある。五百円くんに有罪を言い渡します」
君乃は丸めたおしぼりをハンマーに見立てて叩き、裁判長の真似ごとをした。
「いちゃもんじゃないですか。五百円玉から訴えられますよ」
「残念。五百円玉に人権はございません」
「そこは現実的なんですね」
君乃はカラリと笑い、恋する陸はその顔に見惚れた。
ふと我に返ると、自分の中の憂鬱が消えていることに気付く。
(君乃さんはすごい)
高鳴る心臓に燃料を投下するようにコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさまでした。美味しかっです」
陸は非常に満足げな顔をしており、来店時の陰鬱な顔と比べて、まるで別人のようだ。
そんな陸を見て、君乃は薄っすら微笑む。
「あと、お願いが一つあるんだけど、いいかな?」
「はい」
意気揚々と二つ返事した。今ならどんなお願いでもイエスと言える自信がある、といいたげな顔をしている。
「今度の土曜日。楓をストーキングしてほしいんだけど」
聞いた瞬間、陸の体がガクリと倒れ込んだ。
掌の上で踊らされていたことに気付いて、うなだれるように首肯した。
そんなものがあるのは幸運だ。
学校で友人と喧嘩した。先生から叱られた。体育で失敗した。親と言い争いになった。一つ一つは小さなイライラだが、積もり積もれば憂鬱になる。
そんな日は『Brugge喫茶』のドアをたたく。
自宅から歩くほど15分。中学校や高校に近い立地で、ガラス張りでオープンな雰囲気が印象的だ。
昼光色が漏れ出るドアを開くと、カランコロンとベルが鳴る。
店内には数人の女性客がいるだけで、比較的空いていた。
「いらっしゃいませ」
反応したのは店員の清水だった。中世的な顔立ちの好青年で、同性の目から見ても蠱惑的な風貌だ。しかし陸にとっては手強すぎる恋敵でしかない。
来店者が陸だと気づいた瞬間、清水は営業スマイルをやめて自然な態度を取り始める。
「なんだ、珍しいな」
陸は平日に来店することはほとんど無く、今日は火曜日だ。
例外の時はいつも何かを腹に抱えている。そのことを清水も把握している。だからこそ余計なことは言わず
「"いつもの"でいいか?」とだけ質問する。
陸はずるいなぁ、と思いながらコクリと頷いた。
レアチーズケーキとコーヒーのセット。陸の"いつもの"はそれ以外にあり得ない。
案内されなくともカウンター席に座る。空いていれば基本的に座る、平日での定位置だ。
レアチーズケーキを、マスターの君乃が配膳してくれる。
「悩み事があるなら、食べ終わった後に聞くよ」
「……ありがとうございます」
自然な気遣いが心を解してくれる。たった一言二言だけのやりとりでささくれだったものが丸くなっていく。
陸はむずがゆさと居心地のよさを感じつつ、目の前のレアチーズケーキに手を合わせた。
そしてレアチーズケーキを口にした瞬間に、全ての感情が吹き飛ぶ。
フォークを入れたときの感触すら別格だ。羊羹のようにずっしりとしながらも、絹のように滑らか。
口に運べばチーズの濃厚かつ爽やかな風味が広がる。甘さは最小限で酸味と旨味を引き立てている。まるで上質なバターのように溶けて、爽やかなのに脳天をつく香りが鼻腔を抜けていく。トロリとした美味が嚥下する快感に酔いしれる。残ったクッキー生地の香ばしさを噛み締めつつ、また口に運ぶ。
「本当に美味しそうにたべるよね」
君乃に声をかけられたことで陸は顔を赤らめた。
(また写真を撮られてないよね?)
以前、陸がレアチーズケーキを食べている写真を隠し撮りされたことがあったのだ。盗撮写真には天女に抱擁されたが如く緩みきった顔が激写されていた。その写真を見せられら陸は羞恥心で一夜中悶え苦しんだ。
(顔を引き締めないと)
陸は意識して表情筋に力を入れているのだが、レアチーズケーキを口に運んだ瞬間、思考が全部が吹っ飛び、ほっぺが落ちてしまう。
「はい、コーヒーどうぞ」
食べ終わって一息つくと、コーヒーが出してくれる。熱すぎず、ぬるすぎない、ちょうどいい温度。おそらくは陸に合わせてくれているのだろう。
「……ありがとうございます」
一口目のコーヒーは冷えた喉と胃をガッと温める。二口目はじんわりと広がる。三口目以降は馴染んだ温かさが心地よくなる。胃の中で至高の黒と白が混ざり合い、多幸感が吐息とともに湧き上がってくる。
コーヒーが半分ほどになったころ、君乃に声を掛けられる。
「今暇なの。話し相手になって」
もう店内には陸を含めて3人程しか客が残っていない。すでにラストオーダーの時間は過ぎており、清水は厨房で黙々と洗い物をしている。
「そんな面白い話ではありませんよ」
「面白いかどうかはこっちが決める事でしょ? きっと面白いと思うな」
「なんですか、それ」
陸は自然とえくぼを作りながら、ポツポツと話し始めた。
この一週間で起きた出来事だ。
学校で友人と喧嘩した。先生から叱られた。体育で失敗した。親と言い争いになった。忘れ物が続いた。五百円玉を下水溝に落とした。
それらは日常にありふれた失敗やすれ違いばかりだ。でも積もり積もって失敗体験の山となり、劣等感や憂鬱へと変わっていく。
「君って、案外ナイーブだよね」
君乃の何気ない一言に心をえぐられて、陸は泣きそうになった。
「ごめん、ごめん。悪い意味で言ったつもりじゃないんだ」
「悪くしかきこえないんですけど」
君乃は手を横に振りながら、言葉を付け足す。
「私の場合、へこんだ時はいつも他人のせいにしちゃう。あの客が悪いんだ。あの業者が悪いんだ。時間が無いのが悪いんだ。なっちゃんが悪いんだ。挙句の果てには世界が悪いんだ。そうやって、いつも心の中で悪態をついてる」
なっちゃんとは清水なつのニックネームだ。君乃だけがそう呼んでいる
「え? 君乃さんでもそんなこと考えるんですか?」
「意外?」
陸は少し悩んでから、コクリと頷いた。
「自分の気分が第一な女だよ。私は」と君乃は少し寂しそうに言うと
「そうは見えませんよ」と陸がフォローを入れた。
すると次の瞬間には
「よく言われる」と君乃はケロッとした顔をしていた。
(じゃあ、この話はよくしているのか)
自分が特別でないと気づいて、陸は少し落胆した。
「君は全部自分が悪いんだと思ってるよね。だから、些細なことをきにしちゃう。もっと親や友達や先生や、五百円玉が悪いと思ってもいいんじゃないかな」
「五百円だけは絶対に悪くないですよ」
君乃がいっていることがおかしくて、ついニヤけてしまう。
「だって、五百円が持ちづらくなければ落ちることは無いでしょ。もっと大きければ排水溝に落ちることは無い。丸くなければ転がることは無い。ほら、こんなにいっぱい五百円くんの過失がある。五百円くんに有罪を言い渡します」
君乃は丸めたおしぼりをハンマーに見立てて叩き、裁判長の真似ごとをした。
「いちゃもんじゃないですか。五百円玉から訴えられますよ」
「残念。五百円玉に人権はございません」
「そこは現実的なんですね」
君乃はカラリと笑い、恋する陸はその顔に見惚れた。
ふと我に返ると、自分の中の憂鬱が消えていることに気付く。
(君乃さんはすごい)
高鳴る心臓に燃料を投下するようにコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさまでした。美味しかっです」
陸は非常に満足げな顔をしており、来店時の陰鬱な顔と比べて、まるで別人のようだ。
そんな陸を見て、君乃は薄っすら微笑む。
「あと、お願いが一つあるんだけど、いいかな?」
「はい」
意気揚々と二つ返事した。今ならどんなお願いでもイエスと言える自信がある、といいたげな顔をしている。
「今度の土曜日。楓をストーキングしてほしいんだけど」
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