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第一章 形見の腕時計

第四話 モノの声が聞こえる①

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 腕時計は校内を探しても見つからなかった。そのため通学路で落とした可能性が高い。

 腕時計を無くした日、教室を出たとき間違いなく腕につけていたのは覚えている。しかしそれ以降の記憶曖昧だ。帰ってから落としたことに気づいて慌てて探し回ったのだが、結局は見つからずじまいだ。

「手に付けていたんだけど、バックルが緩んで落ちたんだと思う」

 陸は楓にスマホで撮った腕時計の写真を見せた。ステンレスバンドで、電波機能もないクオーツ時計。最低限の機能しかなく、華美とは縁遠いシンプルなものだ。しかし機能美を感じるものではなく、あくまで生産性を重視しただけの安物だ。全体的に傷がついており、光沢もほとんどなくなっている。経年劣化のせいか時間がずれることもしょっちゅうある。

 楓はその写真をじっくり見てから、陸のスマホに

「きみは知ってる?」と声をかけ始めた。

 突然の出来事で、陸は思わず距離を取る。その様子を気にすることもなく

「あちゃー、そっか」と一人で笑った後「君のスマホは知らないみたいだね」と告げながらスマホを返した。
 
(え? アシスタント機能はついてないよね?)

 その後、自分のスマホに変なところがないか確認したが、特に何もない。

「ちょっと待ってね。周囲のモノ達に聞いてみるから」
「え、他に通行人が……」

 制止の声も聞かず、楓は近くのモノ——塀や電柱に語り掛け始めた。

「銀色の輪っかみたいなの、君よりも古いヤツ。前の夕日の時に落ちてなかった?」

 陸は、まるで幼稚園児にするような説明だ、と思いつつ他人のフリをするためにさらに距離を置いた。それに気づくこともなく、楓は標識に向かって「そっかー」と呑気に話しかけている。

 一通り聞き終わったのか、楓は怪訝な顔をしながら陸に駆け寄った。

「みんな見て無いって」
「……そっか」と陸は頬をひきつらせながら呟いた。

(演技なのか? 正気なのか?)

 陸の興味はすでに形見の腕時計だけではない。楓の『モノの声が聞こえる』という能力をどう看破してやろうか、という意地悪な目論見があった。

 それからしばらくの間、楓は様々な塀や電柱などに話しかけ続けた。その後ろで陸は関係ない人間を装って口笛を吹きつつ、様子を観察していた。しかし努力も空しく、無邪気な小学生に「変な人たちがいる!」と後ろ指をさされていた。

(これもレアチーズケーキのため……っ!)

 陸は現実逃避のためレアチーズケーキの味を思い出すことにした。滑らかな舌触りと濃厚なチーズの旨味。思い出せば思い出すほど涎があふれる。やがて頭の中がレアチーズケーキ色一色に染まり、自然と涎が垂れていく。また小学生に「へんたいだ!」後ろ指をさされてしまったのだが、本人は気づいていない。
 
「ひっ!!!」

 突然、楓の短い悲鳴を聞いて我に返った陸は、何事かと振り向いた。

 そこに中年女性にリードを引かれた大型犬に吠えられる楓の姿があった。楓は顔を真っ青にしながら、電柱の後ろに隠れた。
 しかしその行動が気に食わなかったのか、犬はさらに激しく吠え始めた。飼い主の中年女性が必死にリードを引っ張っているが、一向に落ち着く気配はない。

「なんで……」と楓は驚愕しながら、固まっている。

 それでも容赦なく犬は吠え続けている。しかししっぽを大きく振っていることから、敵意ではないことがある。かといっても、吠えられている側からすれば恐怖でしかないだろう。

 陸は見かねて、無理矢理手を引っ張って、犬から距離を離した。犬の主人はリードを引っ張りながら「ごめんなさいね、いつもはこんなには……」と謝り、陸が代わりに「気にしないでください」と愛想笑いを浮かべた。

 犬の声が聞こえなくなると、楓はようやく胸を撫でおろした。

「ありがとう。助かった」

 楓の顔はまだ青い。余程怖かったのか、小刻みに震えている。

「犬、苦手なの?」
「犬というか動物全般がちょっと……。あの犬は特に苦手だけど」
「へー、意外」と陸が言った瞬間だった。
 
 バチン!

 突然、間近で甲高い音が響いて、驚いた陸が上体をのけぞらせた。楓が自分の頬を叩いた音だった。

「よし! はりきっていこう!」

 さっきまでの姿はどこへやら。気分を入れ替えた楓は肩で風を切りながらズンズン進んでいく。

 陸は不安に思いながらも、黙ってその後ろをついていった。

 それから数分後。

 陸は「ぁ……」と小さい声を漏らしながら足を止めた。

 気づかずに先に進もうとする楓を引き留めて「家についた」と告げた。しかし楓はまだ終わりではない、と言わんばかりに小鼻を膨らませた。

「部屋の中に落ちているかもしれないでしょ」

 陸は露骨に嫌な顔をした。視線の先にあるのは自分の家。お母さんが作っているのか、カレーの匂いが漂っている。
 陸は母親に見つかった場合を想定して、さらに顔の皺を深くした。

(根掘り葉掘りで済めばいい方だろうな)

 陸のお母さんにはデリカシーという概念は無い。基本的に放任主義なのだが、息子のことは何でもかんでも聞きたがる。それが色恋沙汰ならなおさらだ。

「よくあるでしょ? 探した場所から出てくること」
「たしかにあるけど……」
「もしかしたら、わたしが探せば見つかるかも」 

 楓はサブバッグの上辺を撫でながら、目線で陸に圧力をかけた。そこまでしないと見つからないぞ、と。

 陸が迷いながら目を背けると、向かいの家の窓から覗いているおばさんと目が合った。おばさんは慌てたようにカーテンを閉めた。カーテンが滑るシャーという音とともに、陸の心が崩れ落ちていった。

 そのおばさんは噂好きとして有名な人物なのだ。

(絶対に噂になる……なっちゃう。ならないはずがない)

 陸はうなだれながら「もういいよ、好きにしてよ」と折れた。

「ただし絶対に声を出さないでよ。お母さんに見つかったら大変なことになる」
「大変なこと?」
「勝手に未来の嫁認定される」
「うわぁ」と楓は苦い顔をした。

 陸は複雑な気分になりながら、静かに玄関のドアを開けた。
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