星空色の絵を、君に ~インクを取り出す魔法使いは、辺境訳アリ画家に絵を描かせたい~

唄川音

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第1章 後編

40.世界で一番と二番

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 リジンの涙が止まったころには、家の中が賑やかになっていた。ロエルだけでなく、マレイとソペットも目を覚ましたようだ。
 ふたりと一羽はベッドに座り、泣きはらした赤い目で床の絵を見つめる。
 宙に舞う埃を輝かせながら絵の上に陽光が差し込むと、ロティアはそのまぶしさに目を細めた。

「……この絵も、動き出すのかな」

 リジンがポツリとつぶやく。ロティアとフフランはゆっくりとリジンの方を見た。群青色の瞳は泉のように澄んでいる。その目が、ロティアとフフランを順に見た。

「この絵の元になる絵を紙に描いたのは、確かに俺だけど、それは一度、インクに戻ってるでしょう。この床にある絵は、ロティアが魔法で取り出したインクを杖で塗り広げたことでできた。それって、俺の魔法がかかってることになるのかな。俺の魔法としては、すごく間接的な状態だと思うんだけど」
「動き出す可能性は低いかもしれないってことか?」

 フフランの言葉に、リジンは不安そうな表情でうなずいた。

「都合が良すぎる話かもしれないけど……」
「ううん、あながちないとは言い切れないかもしれない」

 ロティアはベッドからスクッと立ち上がり、手帳とアンケートをまとめた資料を持ってきた。

「あのね、リジン。わたし、魔法特別技術社の社員たちに、魔法の変化についてアンケートを取ったの。五十人くらいが協力してくれて、読むたびに、この世界には本当にいろんな魔法があるなって思った。でもね、それ以上に強く印象に残ったことがあるの」
「それって?」
「自分の魔法のことは、その人が一番感じられるってこと」

 リジンは「感じられる」と口の中で繰り返す。

「そう。例えば、『自分の魔法が変化するタイミング』を感じ取ったって人が多かったんだ。なんか、今日の魔法はいつもと違うなって漠然と思った時に、別の使い方ができるようになってるんだ。例えば、楽器の奏でた音の一音一音を実体化する魔法を使う人がいるんだけど……」

 ロティアは資料をパラパラとめくり、「ディラ・メルカ」と書かれたページを開いた。

「ディラの魔法で音を実体化すると、一音一音が真珠みたいな小さい丸い球体になるの。その球体を叩くと、同じ音が出るっていう魔法なんだ。不思議だよね」
「初めて聞いた。本当に不思議だね」

 リジンはグッと資料に詰め寄り、文字に目を走らせていく。

「でね、ディラが実体化した音の玉を持ったある時、なぜか紙が欲しいって思ったんだって。どうして紙なんかって疑問に思ったんだけど、体が勝手に紙を用意してくれたの。それで何を思ったか、紙に向かって音の玉を全部落としたら、なんと楽譜が出来上がったの」

 リジンは資料から顔を上げて「楽譜が!」と声を上げた。リジンにしては珍しい大声と、ハトが豆鉄砲を食らったような顔に、ロティアはクスッと笑いながらうなずく。

「すごいよなあ。五線譜の線とかト音記号とかは現れなかったけど、音符の並びは五線譜とぴったり合ったんだっってさ」

 フフランはポカンと口を開けているリジンの膝の上にのり、お腹に頭をくっつけて座った。リジンは「信じられない」という顔のまま、フフランをゆっくりとなでた。まるで心を落ち着けているようだ。

「それから、わたしたちって、魔法の才能が開花する時も、無意識に魔法に関連するものに近づいているでしょう。わたしの場合は本だったの。その日、なぜか無性に本に触りたかったんだ。ものすごく読書が好きなわけでもないのにどうしてだろうって思ったんだけど、結果的にそれがわたしがインクを取り出す魔法を使えるって気づくきっかけになったの」
「……俺もそうだったかもしれない。その日は、何も食べず、飲まず、ずっと絵を描いてた。母さんやおじいちゃんに止められてもずっと」
「でしょう。だからね、何が言いたいかって言うと」

 ロティアは資料を膝の上に置いて、右手で床に描かれたリジンの絵を示す。

「この絵を描いたリジンが、『この床の絵は動かない』って思うなら、絶対に動かないんじゃないかな」
「オイラもそんな気がするよ。リジンも無意識にそう感じたんじゃないか?」
「……そう、なのかな」

 澄んでいたリジンの目に、不安の色が差し込む。耳にかけていた髪がさらりと垂れると、群青色の瞳は黒色に染まった。

 大丈夫だと、信じたい、期待したい。でも、もし大丈夫じゃなかったらと思うと不安で、怖い。
 瞳がそう訴えているのがわかった。

 ロティアはそっとリジンの手を取った。手は氷のように冷たい。

「わたしとフフランがいるよ。だから、一緒に確かめてみない? この絵がここに居続けてくれるか」
「……でも、ふたりは、今日帰るでしょう。ひとまず、これは消さないと」
「会社には電話で連絡するよ。あと三日お休みをくださいって」
「ダメだよっ。仕事に穴が開いちゃう」

 リジンが弾かれたように声を上げる。しかしロティアは落ち着いた表情で首を横に振った。

「今、締め切りが迫ってる依頼はひとつもないの。全部終わらせてきたから」
「でもっ、俺個人のせいで、ロティアの今後に迷惑がかかったら……」
「何よりもリジンが大事だから。リジンを優先する。それはリジンになんと言われても絶対に変えないから」

 そうだ、社長だってそう思えばよかったんだ。
 次にいつ会えるかわからない息子以上に、大切なものがあるはずがないのに。
 ロティアはそう強く思った。

「リジンに有無を言わせない材料があるの。ズルいかもしれないけど、言わせて」

 リジンは少し困ったような顔で小さくうなずく。

「ここに来る前に、かわいそうな思いをしている人を見たの。数十年ぶりに息子に会えたのに、仕事を優先したせいで、二度と会えないかもしれないって人。その人が積み上げてきたものの大切さも、十分わかってる。失っちゃいけない信頼があることもわかってる。でも、それ以上に大事な存在があるなら、すべてをなげうってでも、優先するべき時もあると思うの。その人に強要はできないけど、少なくともわたしはそうしたい。だからわたしはリジンを優先する」

 ロティアはリジンの両手を両手でギュッと握り締め、真っすぐにリジンを見つめた。

「わたしはリジンのことが大好きだから。一生一緒にいたいくらい、絶対に失いたくないくらい、大好きだから」

 リジンの目が見開かれたと思うと、カッと頬が赤くなった。それを見たロティアの頬も赤くなる。

 リジンのお腹に頭を預けていたフフランだけが、いつも通りの白い頬でニコニコしている。
 ロティアはのろのろとリジンの手を離した。リジンの手の熱で、ますます熱くなってしまうような気がしたのだ。

「……ご、ごめん、急に。こんな時に」

 うつむいてそうつぶやく。顔から火が出そうだ。
 こんな勢いに任せて、好きだと言ってしまうなんて。
 穴があったら入りたい、と思った。

「……ううん。うれしかった」

 優しい声に顔を上げると、リジンは目をとろんとさせて微笑んでいる。ロティアが一番好きなリジンの笑顔だ。

「ありがとう、ロティア。ロティアはかっこいいね」
「い、いや、考えなしなだけだよ……。ほんと、大変な時に、ごめんね」
「謝らないでよ。すごく、うれしいから」

 リジンの手が伸びてくると、ロティアは手を背中に回したくなった。すると、いつの間にか後ろにいるフフランに腕を止められてしまった。その隙に、リジンに手を握られる。火傷しそうなほど熱いけれど、優しい握り方だ。ドキッドキッと心臓が鳴り出す。

「俺もロティアが好きだよ、世界で一番。二番目はもちろんフフランね」

 最後の一言が、リジンらしい。
 ロティアがフフッと笑うと、リジンもフフランも笑った。
 フフランが肩に飛び乗ってくると、ロティアはリジンと顔を見合わせた。

「ありがとう、リジン。わたしも大好きだよ」
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