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第1章 前編
18.黒い塊
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リジンの家を離れる前日、ロティアとフフランがハーブガーデンで収穫をしていると、リジンが絵画教室から帰って来た。今日はフォードたち四兄弟のお宅だ。
ロティアは汗をぬぐいながら顔を上げて、カバンを持ったまま歩いてくるリジンに手を振った。
「あ、リジン。おかえりなさい」
「お疲れさんっ」
「ただいま。収穫してくれてたんだ」
「うん。今日の夕食に使うローズマリーとかがほしくて。ついでに水やりもしてたの。暑いからみんなよく水を飲むね」
「ロティアこそちゃんと水飲んでる? 汗すごいよ」
「心配ないぞ、リジン。オイラがちゃあんと見張ってるからな」
リジンは肩にとまったフフランの首元をホリホリとなでながら「ありがと、フフラン」と言った。
「そうだ。今日、サニアが種を分けてくれたんだ」
リジンはカバンを下ろすと、上着のポケットから包み紙を取り出した。ロティアもハーブを摘んだカゴを下ろしてから、袋を受け取る。袋には「ロティアとフフランとリジンへ」とサニアの字で書かれている。
「なんの種?」
「カモミールの種だって。俺のハーブガーデンにカモミールは咲いてないって話をしたら、驚いて分けてくれたんだ。そんなのハーブガーデンじゃないって持論を展開されちゃった」
リジンは眉をハの字にして困ったように笑った。
「ふふふ、ハーブに熱心なサニアらしいね。それじゃあ、この種は明日植えようか。今日は疲れたでしょう」
「そうだね。植えるのは……」
リジンの「明日にしよう」という言葉はかき消された。
突然、リジンのカバンがザクッと音を立てて破けると、中から黒い塊が飛び出してきたのだ。
ロティアとフフランは何が起こったかわからず、その場に立ち尽くし、ポカンと黒い塊を見つめた。小刻みに震えながら自転する黒い塊は宙にとどまっている。
一方で、リジンは血の気の引いた顔で、両手を広げて「しゃがんで!」と叫んだ。そして、バケツが置かれた手押しポンプの方へ一目散に走って行った。
黒い塊は動くものに反応したらしく、ロティアの目の前を通り過ぎて、リジンの方へギルギルギルという耳をつんざくような音を上げながら向かっていく。
「な、なに、あれ」
細長い筒ような形の黒い塊は、自転しながらリジンの方に一直線に飛んでいく。
「リジン! 危ない!」
ロティアがそう叫ぶが早いか、リジンはバケツ一杯の水を黒い塊に豪快にかけた。すると黒い塊の勢いは弱まり、頭がふらついている人間のようにヨタヨタとリジンの横をすり抜けた。
リジンは舌打ちをして、もう一度ポンプでバケツに水を汲んでいく。そして、また自分へ向かってきた黒い塊に水をかけた。すると、今度は黒い塊の勢いは一気に衰え、地面に落ちて、ドロッと溶けた。
ほんの一瞬の出来事だった。
ロティアはその場に座り込み、黒い塊だった液体に水をかけ続けるリジンを見つめる。全身が震え、目は爛々と見開かれ、切迫した表情が浮かんでいる。いつもの穏やかリジンからは想像できないような顔だ。
空に逃げていたフフランは、そろそろと降りてきて、ロティアの頭にとまった。
「だ、大丈夫か、ロティア?」
「……う、うん」
ロティアは震える足をなんとか動かして、水をかけ続けるリジンに歩み寄った。
黒い塊だった液体はもうとっくに水で薄まって地面の中に染みている。それでもリジンは何度も水を汲んで、何度も水をかけている。
「……リ、リジン?」
うつむいているリジンの肩がビクッと大げさに震える。
「……あ、ありがとう、リジン。助けて、くれて……」
「……ま、まだ、動くはず、ないんだ」リジンの声は震えている。「……だって、あの絵は、今日、さっき、書いたばかりで」
リジンの黒い髪の向こう側から、ポロッと雫がこぼれた。一粒こぼれると、まるで雨のように次々にこぼれてくる。
「……いや、でも、そんな、の、言い訳だ。ご、ごめん。……ふたりを、危険な、目に」
リジンの声が震えだす。
「あ、謝らないでって、前にも言ったでしょう、リジン。リジンの意志じゃないんだし、わたしもフフランも、ケガ、してないよ」
ロティアはゆっくりとリジンに近づき、目の前でピタリと止まった。鼻をすするような音が聞こえてきて、ロティアも鼻の奥がツンとした。
リジンの震える手からバケツが滑り落ちる。ロティアは空になったリジンの手をそっと握った。そして氷のように冷たい手を温めるように、優しくなでた。
フフランもリジンの頭に飛び移り、温めるように丸くなって座った。
「……家に入ろう、リジン」
フフランの言葉にリジンは小さくうなずくと、ロティアの歩調に合わせて歩き出した。
ロティアは、どうか手から自分の心臓の鼓動がリジンに伝わらないように願った。
家の中に入ると、ふたりと一羽は嵐の日の夜のように、またリビングルームに行き、ソファに座った。
リジンの涙はもう止まっているが、顔を上げようとしない。
ロティアはリジンの肩を優しくポンポンと叩くと、お茶を淹れにキッチンへ向かった。フフランはリジンの頭の上から動かずにジッとしていた。
リジンの好きなダージリンの茶葉を入れて、お湯を注ぐ。
透明な液体が紅色に染まるのを待ちながら、ロティアは考えた。
リジンの「絵に命を宿す」という魔法は、ロティアが想像していたよりもずっと深刻なものだった。
リジンは「人を襲うこともある」と言っていた、ちょうど今のように。
それを初めて経験したのは、いつだったのだろう。
魔法使いの才能が開花するのは、早くて十歳、遅くて十六歳。いずれにしてもまだ未熟な年齢だ。
最初の衝撃は計り知れない、ロティア自身もそうだったように。
「紙からインクを取り出す」という魔法が使えるとわかった時の衝撃、そして、それを家族から疎まれていると勘違いしていた時のつらさは、今思い出すだけでも、胸が締め付けられる。
ロティアは唇をかみしめて、涙をこらえた。
「……今、泣きたいのはリジンなんだから。わたしは、フフランにたくさん泣かせてもらったでしょう」
そう言い聞かせる。そして、口に出したことで気づいた。
自分がリジンのフフランになればよいのだと。
フフランがロティアのそばにいてくれるように、ロティアもリジンのそばにいて、支えたいと思った。
しかし同時に、それは難しいことにも気が付いた。
明日、ロティアとフフランの試用期間は終わり、一度魔法特殊技術社へ帰るのだ。
郵送された仕事もこなしてきたが、依頼人の中には直接ロティアに会いたいと言う者もいる。一か月と予告をしてしまった以上、ひとまず帰らなければならない。
こんなにつらい時に、リジンを一人にしなければならないなんて。
ロティアは悔しさとふがいなさで、ギュウッと手を握り締めた。
リビングルームへ戻ると、ドアの向こう側からフフランとリジンの声が聞こえてきた。声から判断すると、リジンは少し元気になったようだ。笑い声も時々上がる。ロティアはホッとして、優しくドアをノックした。
「お茶持ってきたよ。あと、この前買ったクッキーも」
「あのナッツ入りのやつか! うまかったよなあ!」
フフランはロティアの方にビュンッと飛んでくると、木製のトレーの端にとまって、クッキーを一つパクッととった。
「あ、そんなに大きいの食べて大丈夫?」
「ふぁんふぉふぁふふぉ!」
おそらく「ちゃんと噛むよ」と言ったのだろう。ロティアは「はいはい」と答えて、ソファに囲われたテーブルの上にトレーを置いた。
「ありがとう、ロティア。悪いね」
「ちっとも。ちょうどのどが渇いてたし、お腹も減ってたの」
ロティアも二ッと歯を見せて笑い、フフランのようにクッキーを一つ取ってパクッと食べた。その顔に、リジンもクスッと笑ってクッキーを食べた。二人分のボリボリという歯ごたえの良いクッキーが砕ける音が鳴り響く。
リジンは紅茶でグッとクッキーを流し込むと、背筋を伸ばしてロティアとフフランの方を見た。
「……改めて、ごめん、ロティア、フフラン」
「なんだよ、謝られるようなこと無いだろ」とフフラン。
「……いや、俺の、魔法のせいで」
「驚いただけでケガしてないから、謝らなくて良いよ、リジン。それよりも、リジンこそ大丈夫?」
リジンはソファの背もたれに寄り掛かり、右手で口元を覆い隠した。額には冷汗がにじんでいる。
「……正直、すごく、動揺してる。これまで、三日を待たずに、絵が動いたことは、なかったから……」
リジンの瞳が震えている。
ロティアはごくっとツバを飲んだ。
「……ロティアも、そうだと思うけど、特殊な魔法は、自分以外に使う人がいないから、前例がないでしょう。誰かと共有も、できない。だから、この魔法について、まだ、俺が知らないことが、あるのかもしれない」
「……そうだね。わたしも、まさかペンの食い込みを直せるようになるなんて思わなかったから、最初は驚いた。いつからできるようになったのかも、もともとできていたのかも、わからないし」
ふたりはジッと黙りこんだ。
「きっと大丈夫だよ」などという安い慰めの言葉をかけるのだけは避けたかった。
しかしロティアは、このことをきっかけに、リジンが絵を描くのをやめてしまったらと思うと、何か言わなければ、と思った。
「オイラ、珍しい魔法を使うやつをたくさん見てきたんだ」
フフランの声に、いつの間にかうつむいていたロティアとリジンは顔を上げた。
「珍しい魔法ってのは、確かに予想しえない変化をすることがあるよ。例えばオイラに夜目をくれた魔法使いは、今じゃ夜目を奪うこともできるようになったんだ。アイツが悪い奴じゃなくて良かったって心底思うよ。夜行性の動物の夜目を取っちゃうような奴がその魔法を使えたら、危険だろう」
ロティアは「そうなんだ」とつぶやく。
「ああ。で、話がそれたけど、でも、珍しい魔法の変化って、何も全部が悪い方じゃないと思うんだ。良い方にする可能性だってあるだろ。実際、ロティアの紙を再生する付加要素は、紙に書き足すのに役に立ってるし」
フフランはパッとソファから飛び上がり、リジンの膝にとまった。
「だからさ、今のリジンには難しいかもしれないけど、希望は捨てないでおこうぜ。一番最高な未来なら、魔法をコントロールできるようになって、動く絵でみんなを喜ばせられるようになるかもしれないし」
「……今は、あんなに、乱暴なのに?」
「それだって変化するかもしれないだろう。もう一度言うけど、今のリジンには、前向きに考えるのは難しいと思う。オイラたちのことすごく心配してくれてるし。だから、思う存分落ち込んでくれ。でもさ、リジンにはオイラとロティアが付いてるだろ。一緒に考えるから、花の種くらいの希望は捨てないでくれよな」
フフランはそう言って、膝の上をテテッと移動し、リジンの腹に翼を広げてしがみついた。
「リジンには、オイラとロティアがいるからな」
今ここに、フフランがいてくれてよかった。
ロティアは心からそう思った。そしてスッと立ち上がり、リジンの肩にそっと手を乗せた。リジンはまた一粒だけ涙をこぼした。
「……ありがと、フフラン、ロティア」
ロティアは汗をぬぐいながら顔を上げて、カバンを持ったまま歩いてくるリジンに手を振った。
「あ、リジン。おかえりなさい」
「お疲れさんっ」
「ただいま。収穫してくれてたんだ」
「うん。今日の夕食に使うローズマリーとかがほしくて。ついでに水やりもしてたの。暑いからみんなよく水を飲むね」
「ロティアこそちゃんと水飲んでる? 汗すごいよ」
「心配ないぞ、リジン。オイラがちゃあんと見張ってるからな」
リジンは肩にとまったフフランの首元をホリホリとなでながら「ありがと、フフラン」と言った。
「そうだ。今日、サニアが種を分けてくれたんだ」
リジンはカバンを下ろすと、上着のポケットから包み紙を取り出した。ロティアもハーブを摘んだカゴを下ろしてから、袋を受け取る。袋には「ロティアとフフランとリジンへ」とサニアの字で書かれている。
「なんの種?」
「カモミールの種だって。俺のハーブガーデンにカモミールは咲いてないって話をしたら、驚いて分けてくれたんだ。そんなのハーブガーデンじゃないって持論を展開されちゃった」
リジンは眉をハの字にして困ったように笑った。
「ふふふ、ハーブに熱心なサニアらしいね。それじゃあ、この種は明日植えようか。今日は疲れたでしょう」
「そうだね。植えるのは……」
リジンの「明日にしよう」という言葉はかき消された。
突然、リジンのカバンがザクッと音を立てて破けると、中から黒い塊が飛び出してきたのだ。
ロティアとフフランは何が起こったかわからず、その場に立ち尽くし、ポカンと黒い塊を見つめた。小刻みに震えながら自転する黒い塊は宙にとどまっている。
一方で、リジンは血の気の引いた顔で、両手を広げて「しゃがんで!」と叫んだ。そして、バケツが置かれた手押しポンプの方へ一目散に走って行った。
黒い塊は動くものに反応したらしく、ロティアの目の前を通り過ぎて、リジンの方へギルギルギルという耳をつんざくような音を上げながら向かっていく。
「な、なに、あれ」
細長い筒ような形の黒い塊は、自転しながらリジンの方に一直線に飛んでいく。
「リジン! 危ない!」
ロティアがそう叫ぶが早いか、リジンはバケツ一杯の水を黒い塊に豪快にかけた。すると黒い塊の勢いは弱まり、頭がふらついている人間のようにヨタヨタとリジンの横をすり抜けた。
リジンは舌打ちをして、もう一度ポンプでバケツに水を汲んでいく。そして、また自分へ向かってきた黒い塊に水をかけた。すると、今度は黒い塊の勢いは一気に衰え、地面に落ちて、ドロッと溶けた。
ほんの一瞬の出来事だった。
ロティアはその場に座り込み、黒い塊だった液体に水をかけ続けるリジンを見つめる。全身が震え、目は爛々と見開かれ、切迫した表情が浮かんでいる。いつもの穏やかリジンからは想像できないような顔だ。
空に逃げていたフフランは、そろそろと降りてきて、ロティアの頭にとまった。
「だ、大丈夫か、ロティア?」
「……う、うん」
ロティアは震える足をなんとか動かして、水をかけ続けるリジンに歩み寄った。
黒い塊だった液体はもうとっくに水で薄まって地面の中に染みている。それでもリジンは何度も水を汲んで、何度も水をかけている。
「……リ、リジン?」
うつむいているリジンの肩がビクッと大げさに震える。
「……あ、ありがとう、リジン。助けて、くれて……」
「……ま、まだ、動くはず、ないんだ」リジンの声は震えている。「……だって、あの絵は、今日、さっき、書いたばかりで」
リジンの黒い髪の向こう側から、ポロッと雫がこぼれた。一粒こぼれると、まるで雨のように次々にこぼれてくる。
「……いや、でも、そんな、の、言い訳だ。ご、ごめん。……ふたりを、危険な、目に」
リジンの声が震えだす。
「あ、謝らないでって、前にも言ったでしょう、リジン。リジンの意志じゃないんだし、わたしもフフランも、ケガ、してないよ」
ロティアはゆっくりとリジンに近づき、目の前でピタリと止まった。鼻をすするような音が聞こえてきて、ロティアも鼻の奥がツンとした。
リジンの震える手からバケツが滑り落ちる。ロティアは空になったリジンの手をそっと握った。そして氷のように冷たい手を温めるように、優しくなでた。
フフランもリジンの頭に飛び移り、温めるように丸くなって座った。
「……家に入ろう、リジン」
フフランの言葉にリジンは小さくうなずくと、ロティアの歩調に合わせて歩き出した。
ロティアは、どうか手から自分の心臓の鼓動がリジンに伝わらないように願った。
家の中に入ると、ふたりと一羽は嵐の日の夜のように、またリビングルームに行き、ソファに座った。
リジンの涙はもう止まっているが、顔を上げようとしない。
ロティアはリジンの肩を優しくポンポンと叩くと、お茶を淹れにキッチンへ向かった。フフランはリジンの頭の上から動かずにジッとしていた。
リジンの好きなダージリンの茶葉を入れて、お湯を注ぐ。
透明な液体が紅色に染まるのを待ちながら、ロティアは考えた。
リジンの「絵に命を宿す」という魔法は、ロティアが想像していたよりもずっと深刻なものだった。
リジンは「人を襲うこともある」と言っていた、ちょうど今のように。
それを初めて経験したのは、いつだったのだろう。
魔法使いの才能が開花するのは、早くて十歳、遅くて十六歳。いずれにしてもまだ未熟な年齢だ。
最初の衝撃は計り知れない、ロティア自身もそうだったように。
「紙からインクを取り出す」という魔法が使えるとわかった時の衝撃、そして、それを家族から疎まれていると勘違いしていた時のつらさは、今思い出すだけでも、胸が締め付けられる。
ロティアは唇をかみしめて、涙をこらえた。
「……今、泣きたいのはリジンなんだから。わたしは、フフランにたくさん泣かせてもらったでしょう」
そう言い聞かせる。そして、口に出したことで気づいた。
自分がリジンのフフランになればよいのだと。
フフランがロティアのそばにいてくれるように、ロティアもリジンのそばにいて、支えたいと思った。
しかし同時に、それは難しいことにも気が付いた。
明日、ロティアとフフランの試用期間は終わり、一度魔法特殊技術社へ帰るのだ。
郵送された仕事もこなしてきたが、依頼人の中には直接ロティアに会いたいと言う者もいる。一か月と予告をしてしまった以上、ひとまず帰らなければならない。
こんなにつらい時に、リジンを一人にしなければならないなんて。
ロティアは悔しさとふがいなさで、ギュウッと手を握り締めた。
リビングルームへ戻ると、ドアの向こう側からフフランとリジンの声が聞こえてきた。声から判断すると、リジンは少し元気になったようだ。笑い声も時々上がる。ロティアはホッとして、優しくドアをノックした。
「お茶持ってきたよ。あと、この前買ったクッキーも」
「あのナッツ入りのやつか! うまかったよなあ!」
フフランはロティアの方にビュンッと飛んでくると、木製のトレーの端にとまって、クッキーを一つパクッととった。
「あ、そんなに大きいの食べて大丈夫?」
「ふぁんふぉふぁふふぉ!」
おそらく「ちゃんと噛むよ」と言ったのだろう。ロティアは「はいはい」と答えて、ソファに囲われたテーブルの上にトレーを置いた。
「ありがとう、ロティア。悪いね」
「ちっとも。ちょうどのどが渇いてたし、お腹も減ってたの」
ロティアも二ッと歯を見せて笑い、フフランのようにクッキーを一つ取ってパクッと食べた。その顔に、リジンもクスッと笑ってクッキーを食べた。二人分のボリボリという歯ごたえの良いクッキーが砕ける音が鳴り響く。
リジンは紅茶でグッとクッキーを流し込むと、背筋を伸ばしてロティアとフフランの方を見た。
「……改めて、ごめん、ロティア、フフラン」
「なんだよ、謝られるようなこと無いだろ」とフフラン。
「……いや、俺の、魔法のせいで」
「驚いただけでケガしてないから、謝らなくて良いよ、リジン。それよりも、リジンこそ大丈夫?」
リジンはソファの背もたれに寄り掛かり、右手で口元を覆い隠した。額には冷汗がにじんでいる。
「……正直、すごく、動揺してる。これまで、三日を待たずに、絵が動いたことは、なかったから……」
リジンの瞳が震えている。
ロティアはごくっとツバを飲んだ。
「……ロティアも、そうだと思うけど、特殊な魔法は、自分以外に使う人がいないから、前例がないでしょう。誰かと共有も、できない。だから、この魔法について、まだ、俺が知らないことが、あるのかもしれない」
「……そうだね。わたしも、まさかペンの食い込みを直せるようになるなんて思わなかったから、最初は驚いた。いつからできるようになったのかも、もともとできていたのかも、わからないし」
ふたりはジッと黙りこんだ。
「きっと大丈夫だよ」などという安い慰めの言葉をかけるのだけは避けたかった。
しかしロティアは、このことをきっかけに、リジンが絵を描くのをやめてしまったらと思うと、何か言わなければ、と思った。
「オイラ、珍しい魔法を使うやつをたくさん見てきたんだ」
フフランの声に、いつの間にかうつむいていたロティアとリジンは顔を上げた。
「珍しい魔法ってのは、確かに予想しえない変化をすることがあるよ。例えばオイラに夜目をくれた魔法使いは、今じゃ夜目を奪うこともできるようになったんだ。アイツが悪い奴じゃなくて良かったって心底思うよ。夜行性の動物の夜目を取っちゃうような奴がその魔法を使えたら、危険だろう」
ロティアは「そうなんだ」とつぶやく。
「ああ。で、話がそれたけど、でも、珍しい魔法の変化って、何も全部が悪い方じゃないと思うんだ。良い方にする可能性だってあるだろ。実際、ロティアの紙を再生する付加要素は、紙に書き足すのに役に立ってるし」
フフランはパッとソファから飛び上がり、リジンの膝にとまった。
「だからさ、今のリジンには難しいかもしれないけど、希望は捨てないでおこうぜ。一番最高な未来なら、魔法をコントロールできるようになって、動く絵でみんなを喜ばせられるようになるかもしれないし」
「……今は、あんなに、乱暴なのに?」
「それだって変化するかもしれないだろう。もう一度言うけど、今のリジンには、前向きに考えるのは難しいと思う。オイラたちのことすごく心配してくれてるし。だから、思う存分落ち込んでくれ。でもさ、リジンにはオイラとロティアが付いてるだろ。一緒に考えるから、花の種くらいの希望は捨てないでくれよな」
フフランはそう言って、膝の上をテテッと移動し、リジンの腹に翼を広げてしがみついた。
「リジンには、オイラとロティアがいるからな」
今ここに、フフランがいてくれてよかった。
ロティアは心からそう思った。そしてスッと立ち上がり、リジンの肩にそっと手を乗せた。リジンはまた一粒だけ涙をこぼした。
「……ありがと、フフラン、ロティア」
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