上 下
36 / 53
色は匂へど

しおりを挟む
 じんわりと目の奥からこみ上げてくるものを必死に押し留める。ここで泣いたら、相手を悪者にしてしまう。翠とマネージャーが不仲になるのは、翠の仕事の妨げになるのは、嫌だった。


 「陽?」
 「来たか。ほら、行くぞ」


 鞄を持って戻ってきた翠は僕の顔を見ると、表情を一変させた。鋭い眼光を向けられたマネージャーは、先を急ごうとする。


 「お前、陽に何言ったんだよ」
 「sui、ここで押し問答してる暇はない。一分刻みのスケジュールだって、分かってるだろ」


 そう言ったマネージャーは、逃げるようにして玄関を出て行く。ずっと張り詰めていた糸が弛んで、僕はほっと息を吐いた。


 「陽、ごめん」
 「ううん、僕なら平気。お仕事、頑張ってね」
 「うん……、それは頑張るけど」


 問題になるようなことは、何も無かった。そう思ってもらえるように作り笑いで誤魔化そうとするけれど、翠は訝しんだまま何か言いたげだ。

 悩んだのは一瞬だった。翠の着ているシャツを掴んで、背伸びをする。なんとか届いて、触れ合う唇。すぐに離したそこから、ちゅとかわいらしいリップ音が鳴って恥ずかしくなる。目を見開いた翠がぼっと一気に赤くなるのを新鮮に思いながら、柔らかな笑みを浮かべる。


 「行ってらっしゃい」


 この期に及んでまだ手を出すのか、とまた責められそうだけど、翠の気を引くのはこれしかないと思った。僕の目論見通り、ふうと大きく息を吐き出した翠は「夜、覚悟しててね」と囁くとそのまま家を出て行った。

 よかった、バレなかった。ガチャンとドアが閉まるのと同時に、力が抜けてずるずるとその場に座り込む。

 ――覚悟、しておかないと。
 いつ捨てられてもいいように、翠から離れてひとりで生きていく覚悟を。

 ぎゅっと抱え込んだシャツから翠の香りがして、涙がぽろりと零れ落ちた。


 ◇◇

 一頻り涙を流した後、ふらふらと立ち上がって、ウォークインクローゼットまで歩く。無意識にそこを開けた僕は、たくさんの宝物を前に悩み始める。


 (これがいい……)
 (駄目、あそこに置くのは別のがいい)

 何のために選んでいるのか、自分でもよく分かっていない。選んだ基準も理由もうまく説明できないまま、僕はいくつかの服を拝借して腕に抱え込んだ。

 向かったのは、昨夜翠と交わったベッド。残り香がまだ漂っているそこはぴったりだ。この香りに包まれているだけで、自然と落ち着く。

 こだわって選んだ服を理想通りに並べていく。数ミリのズレも許されないから、丁寧に。やがて、長い時間をかけて出来上がった服の山に潜り込めば、世界で一番安心できる場所にほっと息を吐いた。

 翠に散らかしたって、怒られたらどうしよう。僕はただの家政夫だから、掃除をしたり片付けたりするのが仕事なのに。そんな不安が襲ってくるけれど、元に戻そうとは思わなかった。この中なら、あの人の意地悪だって遮断できる気がした。


しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

元ベータ後天性オメガ

桜 晴樹
BL
懲りずにオメガバースです。 ベータだった主人公がある日を境にオメガになってしまう。 主人公(受) 17歳男子高校生。黒髪平凡顔。身長170cm。 ベータからオメガに。後天性の性(バース)転換。 藤宮春樹(ふじみやはるき) 友人兼ライバル(攻) 金髪イケメン身長182cm ベータを偽っているアルファ 名前決まりました(1月26日) 決まるまではナナシくん‥。 大上礼央(おおかみれお) 名前の由来、狼とライオン(レオ)から‥ ⭐︎コメント受付中 前作の"番なんて要らない"は、編集作業につき、更新停滞中です。 宜しければ其方も読んで頂ければ喜びます。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

【運命】に捨てられ捨てたΩ

諦念
BL
「拓海さん、ごめんなさい」 秀也は白磁の肌を青く染め、瞼に陰影をつけている。 「お前が決めたことだろう、こっちはそれに従うさ」 秀也の安堵する声を聞きたくなく、逃げるように拓海は音を立ててカップを置いた。 【運命】に翻弄された両親を持ち、【運命】なんて言葉を信じなくなった医大生の拓海。大学で入学式が行われた日、「一目惚れしました」と眉目秀麗、頭脳明晰なインテリ眼鏡風な新入生、秀也に突然告白された。 なんと、彼は有名な大病院の院長の一人息子でαだった。 右往左往ありながらも番を前提に恋人となった二人。卒業後、二人の前に、秀也の幼馴染で元婚約者であるαの女が突然現れて……。 前から拓海を狙っていた先輩は傷ついた拓海を慰め、ここぞとばかりに自分と同居することを提案する。 ※オメガバース独自解釈です。合わない人は危険です。 縦読みを推奨します。

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

好きで好きで苦しいので、出ていこうと思います

ooo
BL
君に愛されたくて苦しかった。目が合うと、そっぽを向かれて辛かった。 結婚した2人がすれ違う話。

僕の番

結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが―― ※他サイトにも掲載

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

ふしだらオメガ王子の嫁入り

金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか? お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

処理中です...