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第17話 渡る
しおりを挟むヤシュカが、来ない。
モレヤは苛立ちと焦りを抱えていつもの池のほとりでうずくまっていた。
共に逃げようとモレヤが言い、そしてヤシュカも逃げると言ってくれたあの日から、かれこれ一週間近くがすでに経った。心配して一度スハの里の近くまで行ったが、出立の日にちをいつにするかという連絡どころか、ヤシュカそのものがぱったりと里の外に出て来なくなった。
ヤシュカが里にいるのは間違いない。気配はずっと里の中にある。それどころか、ほとんど一箇所から動いていないかのような感じだ。
まさか、慣れぬこの寒さに体調を……と一瞬嫌な想像が頭を過ぎったが、里の様子を見てそれはない、と思った。
仮にも巫女姫であるヤシュカが病に倒れていたら、里の者たちはもっと動揺しているだろう。けれども山の斜面からそっと窺う限り、その気配はなかった。
もう一つ、嫌な予感がしていた。
スハの里の人数は、以前に見たときよりも更に増えていた。それもこの間はあまり見かけなかった、成人を迎えた雄が増えている。そしてその雄たちは、皆、体のどこかしらに傷を負っていた。
おそらく、ヤシュカの話していたミナカタの別働隊――ヤシュカの兄の率いる部隊が、ヒトとの戦いに敗れてこちらへ合流したのだろうと思う。
そしてその兄に足止めをされて出てこれない。おそらくそんな状況になっているのではないかと推測できる。
ヤシュカの兄・トオミは、ヤシュカを番にしようとしているらしかった。一瞬だけ、「もしや既に」という最悪の事態を想像したが、ヤシュカの気配のあるあたりからは、変わらずモレヤ自身の匂いが風に乗って微量だが嗅ぎ取れた。
普通、獣人の雄は他の雄の匂いがついた雌には、よっぽどのことがない限り手を出さない。
発情期の他の雄の匂いがついた雌は、酷く臭いものに感じられるからだ。
この時期、シャグジの集会にも既に発情期を迎えて番った雌が参加していたが、それはモレヤにとって耐え難い匂いだった。
匂いが完全に消えるまでは半月弱ほどはかかるだろうから、その間は安全だと言えた。いっそのこと夜間に忍び込んで行って、ヤシュカを盗み出そうかとモレヤが考えていた時、微かに山犬の遠吠えが聞こえた。
ピクリと耳を上げて澄ませる。
間違いない、シャグジの合図だ。
モレヤは億劫そうに腰を上げると、すっかり葉の落ちた森の中を風のように駆け抜けた。そうして四つ根の樫に近づくと、慎重に風下に回って自分の匂いが流れないようにする。
こうして風下にいると、他の雄の匂いがついた雌の匂いが流れてきて鼻が曲がりそうになるが、一族の者にモレヤがいると知られる訳にはいかなかったから、落ち葉の中に鼻を突っ込んで誤魔化した。
人形になれば手で鼻を覆うこともできるが、そうすると他の者たちの会話が聞こえない。
だが今日の会合は何やら紛糾しているようで怒号が飛び交っており、人形でも良かったかなとモレヤが後悔した時だった。
「……もうミナカタの連中には我慢がならない!」
そんな言葉が聞こえてきて、モレヤは耳をピンと尖らせて聞き耳を立てた。
「奴らは「うみ」の魚を獲り尽くす勢いで漁をしている!」
「それだけではない! こちらの縄張りにまで入り込んで獲物を狩ったり、山の恵みを根こそぎ持っていってしまう!」
「最近は今まで見かけなかった猿の獣人のような奴らまでうろついている!」
「どうにかならんのか、長! このままでは我らの冬の蓄えがなくなる!」
いつだかヤシュカが言っていた、コメの収穫量の話だ、とモレヤは思った。
先日見てきた通り、スハの里は更に人数が増えている。そこへコメの不作だ。ミナカタは冬に備えて保存食を少しでも多く蓄えようと、シャグジの縄張りについに手をつけたようだ。
スハの冬は厳しく長く苦しい。冬の保存食がなければ春を迎えられないのはシャグジとて同じだ。
ついに懸念していた事態になってしまった、とモレヤは思う。
このスハの地は確かに山も「うみ」もあって自然豊かだが、周囲をぐるりと高い山々に囲まれていて、実のところこれ以上、住む土地は拡がりようがない。
そうでなくてもコメが取れたら取れた分だけ一族の数を増やせるミナカタと、限られた縄張りで生きているシャグジがいつかぶつかるのは必定だった。
一族の者たちは今にもスハの里に直談判に向かいそうなほど激昂している。これはヤシュカに伝えた方が良いと、モレヤが思った時だった。
ヤシュカの匂いが微かにする。
最早、一族の会合に用はないとモレヤはサッと抜け出した。そうしてヤシュカの匂いがした方へと全速力で進む。だがヤシュカの気配は変わらずスハの里の方に感じられる。これは一体どういうことだとモレヤは混乱した。
もうそろそろスハのうみの、波打ち際まで到達するかというところに一頭の鹿が立っていた。
まだ若い雌の獣人だ。ヤシュカと違って白くはないが、普通の鹿族よりも色が薄い。
モレヤが跳躍して一気に距離を詰めると、その雌はびくりと震えた。
「……お前は何者だ。なぜヤシュカの匂いがする」
雌は怯えて細い脚がぷるぷると震えている。だが決心を固めたようにごくりと唾を飲み込んで言った。
「……あ、貴方が山犬のシャグジの、モレヤ?」
「……そうだ。何故俺の名を……」
「姉様を助けて! 私はヤシュカの妹のミサハ! 証にこれを持って来た!」
ミサハ、と名乗った雌は首に括り付けた衣服から、口先で器用に緑色の紐を取り出した。
「……これは、ヤシュカの……」
それはいつもヤシュカが髪を結んでいたものだった。道理でヤシュカの匂いがしたのに本人がいないはずだ、と納得した。
「ヤシュカを助けるとはどういうことだ。ヤシュカはどうした?」
「姉様はトオミ兄様に監禁されているの! 貴方の匂いがついていたから……私がこっそりと面会したら、貴方に連絡して欲しいと頼まれた。もう貴方の匂いもだいぶ薄れている。多分、今夜か明日にでもトオミ兄様は……」
ミサハの言葉を聞き終える前にモレヤは激昂した。
「ヤシュカは俺の番だ!」
モレヤの怒りがそのまま遠吠えとなって、スハのうみに広がった。遠く山々にこだまして、幾重にも折り重なっていく。
「ヤシュカはどこに捕らわれている⁉︎」
「さ、里の一番北の斜面にある、貯蔵用の穴倉に……」
「分かった! 恩に着る!」
それだけ言うとモレヤは一目散に駆け出した。うみの縁を全速力で駆ける。
激怒がモレヤを支配していた。波打ち際で水を飲んでいた小動物たちが、モレヤに恐れをなして一目散に逃げ去っていく。
こんなことならばもっと早くにスハの里に忍び込んでいれば、と思ったが後悔しても遅い。
薄氷の張ったうみ越しにスハの里があるあたりを睨みつける。間に合ってくれ、と願いながら走る距離がもどかしかった。
と、その時、その凍りついた水面に目を止めた。
(……これならいけるかもしれない……)
氷の厚さはぎりぎりだ。速度を落として一度止まり、氷結した波打ち際へと近づいた。
(いける……いや、いく!)
モレヤは大きく跳躍すると、比較的氷の厚そうなところに着地した。パリッ、と嫌な音がする。ヒビが大きくなる前に駆け出した。
鋭い爪を氷に突き立てて滑り止めにし、後ろ足でしっかりと氷を蹴って前へ進む。徐々に速度を上げると、その衝撃に耐えきれずに氷が割れ始めた。
(沈む前に、前へ!)
モレヤの駆けた跡が、さながら道のように氷が割れ、盛り上がっていく。
もしもモレヤが鳥の獣人になって空からこの様を見れたら、四つ根の樫から五つ根の樫までの道が出来たように見えただろう。
逸る心を抱えて、モレヤは一心不乱に駆けた。
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