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第2章 蠱毒の頂

第21話 狐狸の巣窟

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 琰単えんたんはこれ以上ないほどに上機嫌になっていた。翠蓮すいれんはそれを冷静に見やりながらも、宴席の空気を敏感に感じ取る。

 翠蓮の懐妊を諸手を挙げて喜ぶ者、こころよく思わない者、思案顔でなにやらひそひそと話しはじめる者、等々だ。後者二つについてはちらりと眺め、その顔と腰についた佩玉はいぎょく印綬いんじゅで位階を確認し頭に叩き込む。
 先日、渓青けいせいから押しつけられた官吏の一覧と頭の中で照らし合わせながら、ひそやかにしかし確実に記憶にとどめた。

 酒も料理もほどよく進み、宴もたけなわになってきたころ、琰単が自らの座るだんの近くに孫佐儀そんさぎを呼んだ。

「今宵は宴の準備やらなにやら、ご苦労であったな」
「いえ、こちらこそ陛下をお迎えすることができ、またとない誉れでございます」
けいには常日頃から世話になっておる。亡き父上もそなたと張了進ちょうりょうしんがおれば、天下は安泰だと言っておった」
「もったいなきお言葉……」

 孫佐儀が深々と頭を下げる。壇下にいた張了進も同様であった。

昭儀しょうぎも身籠ったことであるし、今宵はまことにめでたい。そこでそなたに褒美を取らせようと思う」
「ありがたき幸せにございまする」
「まずは……そうさな、そなたに妾腹しょうふくの子が三人おったな」
「はっ……」
「年明けよりその子らを朝散大夫ちょうさんたいふに任ずる」

 琰単がそう言った瞬間に、どよめきが起きた。
 翠蓮は先だってから学んでいた渓青の「教科書」を思い出す。

 朝散大夫とは、宮廷に昇殿し皇帝に直接目通りが許される官である。位階は従五品。高官としての第一歩のような位置だ。九品までに入ればひとかどの人物と言われている中で、五品以内になるとはごく一部の上層階級の人間にだけ許された特権であった。
 まして嫡子ならばともかく、妾腹の子らに、である。これは最大級の待遇であると言えた。

「それと、ともに連れてきた十数台分の品々は、今宵の宴の代金だ。それも受け取れ」

 おもわず翠蓮も息を飲んだ。渓青から聞いていたが、琰単が率いてきた車列には、金銀財宝、錦に絹、西方の玻璃はりから北方の毛織物、東方の珊瑚に真珠、南方の香木など四海の宝物が満載されているという。
 これ以上に分かりやすい「賄賂わいろ」もないだろう、と翠蓮は思った。

「格別のご配慮を賜り、恐悦至極にございまする」

 だが孫佐儀はそれをこともなげに受け入れた。そんな態度を了承ととらえたのだろう、上機嫌な琰単はついに本題を切り出した。

「……それでな、昭儀にはこうして子ができた。男か女かは分からんが、先日不幸にも夭折ようせつしたのは息子であった。今度もそうとは言わんが、このさき昭儀が男を産むことは考えられるだろう」
「そうでございますな」

「……だが、皇后には子がおらぬ。おるのは養子だけだ。朕も何度も試みたが、ついぞ身籠もらなんだ。実の子がおらぬまま、国の母として皇后を務めるのはさぞや辛かろう」

 いつの間にか宴席は水を打ったように静まり返っていた。ただ楽人の奏でる月琴と笛の音だけが、聞き手もおらずに虚しく響く。みな、固唾を飲んで琰単と佐儀のやりとりを見守っていた。

 ついに琰単が、明確に皇后交代の意を口に出した。
 いままで琰単は、翠蓮には「朝儀で翠蓮を皇后に推したものの、孫佐儀と張了進ちょうりょうしんが反対している」と説明していたが、それが嘘だということはすでに瑛藍えいらんから暴露されている。

 琰単は朝儀ではなにやら訳の分からない遠回しな言い方でそれらしいことを言っていたが、孫佐儀と張了進には強く言えていない、というのが実情であるらしかった。それでも翠蓮に対しては大見栄を切って、皇帝としての威厳を保とうという虚勢が、いかにも琰単の小者らしさを表している。

 だから翠蓮は「ようやく言ったか」程度の感慨しか湧かず、むしろ佐儀の挙動の方に全身全霊を傾けていた。

「その件に関しましては……呉昭儀様はどう思われますかな」

 翠蓮は一瞬息を飲む。まさかの矛先がこちらにきたか、と思った。だが、「清楚で貞淑、従順で主張しない昭儀」が取るべき言動は一つだけだ。翠蓮は伏し目がちに告げた。

わたくしは……いかようになろうとも陛下のお言葉に従うまでにございます」

 あくまで意思決定権は自分にはないのだと、「意見を持たない昭儀」は控えめに言った。それを聞くと佐儀はひとつため息をつく。

「……このようにしとやかな女性にょしょうは、陛下にとっては代え難き宝にございますな」
「うむ……うむ! そうであろう!」
「おまけにご懐妊されたとのことで、まことにめでたき夜にござります。さすれば斯様かように無粋な話で宴を長引かせては、腹の子にも悪しき影響が出るというもの。陛下、身籠った女人にょにんを長々と侍らせるのは、昭儀様のお体にあまりよろしくありませんぞ」
「お……おお、そうであったな。翠蓮、体調は大丈夫か。どこぞ辛いところはないか」

 勝負にならない、と翠蓮は心の内で嘆息した。
 老獪ろうかいな佐儀に愚物の琰単では、最初から勝敗は見えている。分かっていたことだが、時間を無駄にしたという感想しか出てこなかった。

 とはいえ今日の目的は果たした。
 大勢の前で懐妊を明かし、琰単からの寵愛を見せつけた。朝廷の面子にも「貞淑で清楚な大人しい昭儀」の印象は十二分に植えつけたし、佐儀の方針とそれに誰が賛同し、離反し、日和見を決め込むか見極めた。
 もうこの茶番に付き合う必要はない。

「……申し訳ございませぬ、陛下……酒精ですこし気分が……」
「なんと!」
「それは大変にございまする。陛下、別室をご用意いたしますので、昭儀様をそちらにお移しになられては……」
「う、うむ。くれぐれも気をつけるのだぞ、翠蓮」
「……はい…………」

 侍女に案内され、佐儀が用意した部屋へ向かう。ようやく面倒な場から解放された、と翠蓮は大きく息を吐いた。部屋の中で渓青と二人きりになると、力を抜いて寝椅子にだらりともたれかかる。

「……ああ……疲れました……」
「お疲れ様でございます」

 くすくすと笑いながら渓青がすっと茶をさしだした。温かいそれを一口飲むと、ほうっと一息つく。

「渓青、紙と筆を下さい。さっき確認した反対派と離反者、それに中立の者の名前を書き留めておかないと忘れてしまいそうで」
「一応私も確認しましたので、あとで答え合わせをいたしましょう」
「………………」

 自分が確認したからいいですよ、と言わないのがいかにも渓青らしい。翠蓮は恨めしげに渓青を見やると、紙と筆を受け取りさらさらと名前を書き綴った。


 そのとき、部屋の扉がこんこんと叩かれた。渓青が扉へ向かい問う。

「はい、いかようでしょうか」
「お休みのところ失礼いたします。主人より、昭儀様に贈り物を賜ってまいりました」

 孫佐儀から?と翠蓮と渓青は顔を見合わせる。佐儀と顔を合わせたのは今日が初めてであるし、向こうからしてみればこちらは非常に目障りな相手である。
 よくて毒入りの菓子か、堕胎薬でも入った茶か、と二人は互いに頷き、十分に警戒して扉を開けた。

 そこには若い男が立っていた。
 年齢は翠蓮とさほど変わらないほどであろうか。二十代前半ころと見えた。焦茶色のつんつんとした髪が印象的で、左右の髪をきつめに編み込んでいる。後頭部で一つくくりにした跳ねる髪は、短く切りそろえられた馬のたてがみを思い起こさせた。

 人の良さそうな笑みを浮かべているが、立ち姿に隙がない。もっとも、渓青は最初から刺客を懸念して毒針を隠し持っていた。

「贈り物……ですか? わたくし孫太尉そんたいいからはなにも聞いておりませんが……」
「はい。こちらは私の独断にございますれば」

 どういうことだ、と翠蓮は訝しく相手を見る。

「申し遅れました。私、吏部りぶにて宦官の人事を担当しております、林郎中りんろうちゅう付き書令史しょれいし周緑基しゅうりょくきと申します」

 書令史しょれいしと言えば、官吏の中でももっとも下流に位置する。官位を授かった正式な官人を流内官りゅうないかんと言うが、それ以外の雑務を担当する者を流外官りゅうがいかんといい、庶民から登用されていた。書令史は当然、流外官に相当する。

 つまり彼は、宦官の人事担当官配下で、文書の作成・整理などの事務処理を請け負う最下層の非正規官吏であった。

「贈り物はこちらでございます」

 彼が差し出した黒漆の箱を渓青が受け取る。蓋を開けると、そこには何通かの書状が入っていた。
 渓青がそれを開き、裏表になにも仕込まれていないことや紙に薬など染み込ませていないかを確かめる。そうしてからやっと翠蓮に手渡された。

「ご安心を。書状には毒の類は使用しておりません。 ……もっとも、書かれていることは毒かもしれませんが」

 にやりと不遜に笑った緑基りょくきの言葉を、翠蓮は書き連ねられた文章の中に認めることになる。

「これは……」

 そこには後宮に勤める宦官の経歴、異動、退職が事細かに記されていた。ただし、すべての宦官ではなく、翠蓮の麗涼殿れいりょうでんに勤める者と、翠蓮に関わる者たちだ。

 無論、筆頭は渓青なのだが、渓青の経歴にうしろ暗いところはなにもない。公燕こうえんに仕えていて、謀反の嫌疑で宮刑を受け、それ以来後宮で翠蓮付きとして働いている、という当たり前のことしか書いていない。

 だがそれ以外が問題だった。

 例えば、かの宇文貞護うぶんていご
 武官であったころに渓青と同じように皇族の護衛についていたこと、その後、宦官となり荘淑妃しょうしゅくひに仕えるも、呪詛の件を訴え出て、それから麗涼殿に・・・・配属になったこと。

 それからいま一人は皇后付きだった例の初老の宦官。
 皇后による金婕妤きんしょうよの殺害を証言したあと、彼は病にかかり皇后の宮から異動になった。配属先はそん前皇后の墓所の管理係という閑職だったのだが、休祥坊きゅうしょうぼうの道徳寺という尼寺が前皇后の墓所を整えるためとして、多額の寄付・・を行ったことまで書かれている。
 さらには彼が皇后宮で働いていたときの勤務記録と、皇子・こうの殺害に使われた皇后の髪紐が、紛失したとおぼしき時期を推定する使用履歴。

 そして麗涼殿れいりょうでんに、この一年ばかりで配属になった宦官について、武官経験者が多く、半数以上が渓青となんらかの関わりを持っていること。

「……こんなに調べ上げて、わたくしの伝記でもお書きになるつもりですか?」

 すっとぼけて見せた翠蓮だったが、それに対して緑基は笑みを崩さなかった。

「……それはもともとは、孫太尉そんたいいから私の上司に依頼があったことです。孫太尉そんたいいは、貴女とその右腕であるそこの渓青殿を葬り去るすべを探していた。
 私はしがない宦官の人事記録の整理係ですが、調べ始めてすぐに気づきましたよ。あの後宮をひっくり返した大騒動の裏は、あなたたちが布陣図を描いていたのだと」

「……おもしろいお話ですね。官吏よりも劇作家になった方が成功するのではありませんか」
「まあ、すくなくとも貴女よりは緻密な話が練れるとは思いますね」

 静かな緊張がそこには横たわっていた。翠蓮はあまりにも予想外の方向から足がついたことに、内心焦る。宦官の人事記録など、いったい誰が調べるというのだ。この男以外に。

 渓青が固唾を飲んでいる気配も窺えた。放っておくとすぐにでもこの男を毒殺しかねない、と思った翠蓮は渓青が手を出す前にそれを制止しようと口を開きかける。だがそれは男の思いもよらない言葉によって遮られた。



「なあ……あんた、俺を使わないか」



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