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第2章 蠱毒の頂

第1話  瑠璃瓦の外で

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 後宮を出た翠蓮すいれんは、髪を肩先までぎ、形ばかりの尼となった。

 そして首都・光安城こうあんじょうの西北の一角、休祥坊きゅうしょうぼうの道徳寺という尼寺に籍を置く。ここはあまり大きくない尼寺ではあるが、この寺を翠蓮が選んだのには大きな理由があった。

 それは、隣接する区画に翠蓮の亡き母方の祖父の旧邸があったからだ。
 皇帝の寵を賜っていた翠蓮には、才人さいじんの位に対する俸禄ほうろくのほかに、さまざまな「つけとどけ」がきており、その財産はちょっとしたものになっていた。
 要は、皇帝の寵を賜った者に「よくしてもらえれば」という下心を隠そうともしない贈り物だ。

 その財をもって翠蓮は、この祖父の旧宅の権利を買い取った。
 そこに祖父のためのびょうを作らせ、菩提ぼだいとむらうという目的でたびたび「自宅」に帰り羽を伸ばした。寺にいたくはない理由もあったからである。



 翠蓮が初めて持つことになった「自宅」は、渓青けいせいがすっかりと居心地よく整えてくれている。
 大きくて防音の効いた寝台、翠蓮の心を和ませる中庭に植えられた四季折々の花々。広大ではない分だけ管理も警備も行き届いており、わずかな人数の使用人を除けば、ほとんど渓青と二人きりで過ごした。

 後宮にいたころのように周囲の視線を鬱陶うっとうしく思うことも、四六時中気を抜かずに演技しつづけることもない。専用の湯殿もあり、日一日と変わる体調を労わるのには理想の環境だった。



   ***



 灯明皿の炎が風に吹かれてふっと消えた。
 突然暗くなった視界に、翠蓮は書物をめくっていた手を止めて椅子から立ち上がる。とばりごしに格子戸から差しこむ月明かりで、室内はほのかに照らされていた。

 戸棚へ火打ち石を探しに行こうとした足は、居間へと通じる扉の前でふと立ち止まる。隙間からわずかに冷たい風が入り込んでいた。

(居間の扉が開いている……?)

 もう風は冬の訪れを感じさせ、日が徐々に短くなってくる季節だ。渓青が扉を開け放しておくことなど考えられない。そうでなくとも翠蓮の体調をおもんぱかって、室内は火鉢で暖められ、掛布は綿入りのものと毛織りのものを重ね、渓青には体を冷やすなと口酸っぱくして言われていた。

 いぶかしく思った翠蓮が居間への扉に手をかけようとすると、扉がひとりでに開いた。隙間から見えた雪灰色せっかいしょくの髪に、それが一瞬で誰だが悟り、翠蓮はあとずさった。

「……お前の宦官は相変わらずちんに忠実だな」
「……陛下…………」

 そこには秀麗な顔立ちに下卑た笑みを浮かべた琰単えんたんが、濃灰に染められた微行びこう用の装束を纏って立っていた。

「……ふむ、この長さも新鮮で悪くないな」

 肩より少し長いほどで切り揃えられた翠蓮の髪を弄びながら、琰単がいう。翠蓮は体をよじってそこから逃げると、距離を取って琰単を睨みつけた。

「……お帰りください。もう即位されたのですから、このようなところへは……」
「朕は皇帝ぞ。どこへ行こうと自由である」
「きゃっ!」

 いきなり抱き寄せられ、よろめいた翠蓮は琰単の胸に縋りついたが、すぐに手で胸板を押し返す。

「お願いです……もう、こんなことは……」
「どうした、出家したからといってお前の淫蕩な体が変わったわけではあるまい。しばらく朕のものを味わっておらなくて、今も体がうずいておるのであろう?」

 するりと腰から尻へと撫でられた手を、とっさに翠蓮は払いのけた。さすがの琰単もいささか気分を害したようで、ぐっと抱き寄せられる。

「いまさら無駄な抵抗などしおって、抱き潰されたいのか」

 至近距離で凄まれ、仕方なく翠蓮は琰単の手を取ると、そっと腹部に触らせた。

「……赤子が…………」

 消え入りそうな声で翠蓮はそう漏らした。琰単は一瞬虚を突かれたような顔をしたあと、とたんに喜色満面になった。

「……これはあのときの子か⁉︎ そうであろうな、あのときの父などもはや耄碌もうろくして錯乱しておったゆえ、朕の子か!」
「きゃあっ!」

 急に抱きかかえあげられて、翠蓮は悲鳴をあげた。そのまま寝台へ運ばれて、そっと横たえられる。一瞬焦った翠蓮だったが、琰単はすぐに手をはなし言った。

「寒くはないか、体調は大丈夫か」
「……はい」
「必要なものはなんでも言え。すぐに取り寄せる。ああ、警備の者も手配せねばならんな! ここで子を産め。後宮はうるさくてかなわん。ここの方がよっぽど安全だ。子を産んだらすぐに後宮へ呼び戻すゆえ、今しばらくの辛抱だ」

 琰単は一人でうろうろと室内を歩き回り、あれが必要だこれを手配せねば、と呟いている。そんな様子を翠蓮は呆気にとられて見つめていた。

「子が産まれそうになったらすぐに連絡せよ! ああ、の子であろうか、の子か……どちらでも朕とそなたの子だ、さぞや美しかろう。そうだ、渓青! 渓青はおるか!」

 そう騒ぎ立てると、琰単はいても立ってもいられない様子で回廊へと飛び出していった。翠蓮はそれを呆然と眺めていたが、寝台の上に身を起こすとくすくすと嗤いはじめた。

(……後宮へ戻る道筋がこうもたやすくできるとは)

 やがて渓青がため息をつきながら、開け放たれたままの扉を静かに閉めてやってくる。

「……陛下は大急ぎで宮中へお戻りになられましたよ」
「あそこまで変わるとは、正直、予想外でした」
「陛下の後宮もお世継ぎも、なかなか面白いことになっていますからね。はじめて『自分の意思』で『愛した』女に子ができて狂喜乱舞しているご様子」
「……愛した女にすることがアレかと思うと、反吐が出ますね」

 面白がる渓青に、翠蓮は吐き捨てるように言った。それよりも、と前置きして翠蓮はため息をつく。

「後宮は煩くてかなわない、と言っていました。きっと以前のような状態なのでしょうね……」
「どちらかと言えばより酷いですね。先帝陛下のときの後宮は、そん皇后による恐怖政治が敷かれていましたから、統制はとれていました。無論、翠蓮様がいらしたころは崩壊していましたが。今の皇后陛下はそこまでの才覚がありませんから、無秩序と言って良いかと」

 ため息しか出ない、と翠蓮は思った。主があの琰単なのである。どんな様子になっているかは想像に難くない。

「……わたくしの標的は陛下ですが、おそらくそのためには周りの妃嬪ひひんたちをどうにかせねばならないでしょうね」
「はい、それは必須かと思われます」
「……復讐のために関わりのない妃嬪たちを手にかけてしまうのは、陛下とやっていることが変わらないのでは、と思うのです……」

 翠蓮を手に入れるために公燕を殺し、渓青を宦官にした琰単。
 その琰単に復讐するために、罪なき妃嬪たちを陥れるのでは、同じ穴のむじななのではないかと、翠蓮は思ったのだ。

 だが、そんな翠蓮に渓青は言った。

「大丈夫ですよ、翠蓮様。翠蓮様はまだ本当の後宮をご存知でない。実態を知れば――後宮の女どもなど笑顔で根絶やしにしたくなりますよ」

 そう言って渓青は凄惨な笑顔を浮かべたので、さすがの翠蓮もぞくりとした。



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