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第1章 獣の檻
第3話 紅牆の牢獄
しおりを挟むどこから道が狂ったのだろう、と翠蓮は押しこめられた馬車の中で虚ろに思った。
あの男には一度だけ見えたことがある。
昨年の春だった。
牡丹の寺として名高い興昭寺に花見に行かないかと公燕が誘ってくれた。翠蓮は一も二もなく頷き、二人連れだって牡丹を見に行った。
様々な品種の牡丹を愛でていると、前方からやってきた一団に気づいた公燕が慌てて膝を折って礼をしたので、翠蓮も習って腰を落としてこうべを垂れた。
公燕に一言、二言声がかけられた後、自分の名が呼ばれたことに気づいて、翠蓮は恐る恐る伏せていた顔を上げた。
そこには件の美丈夫――皇太子・琰単が三十人近い煌びやかな女性をひき連れて立っていた。
恐ろしく美形な男だと思ったが、全身を舐め回すような不躾な視線が気になって、翠蓮は恥じらった風を装って綾絹の団扇で顔を隠した。
今思えば、あの時に目をつけられたとしか思えない。
翠蓮は、類稀なる麗人という自分に向けられる評価が、父の任地周辺でのみ通用する、比較的局地的なものだと理解している。
京師は広い。美姫の一人や二人、探せばすぐに見つかる。だからいくら郊外の地で美しさを褒めそやされようと、それが天下に鳴り響くほどのものではないことは重々承知していた。
翠蓮は自分が原因となって面倒ごとに巻き込まれて父に迷惑をかけないように、あまり表立って出歩かないようにしていた。それに公燕との婚約を発表してからは人々の興味も他へと移っていったと、侍女からは聞いていた。
だからこそ油断していたのだ。
せめてあの日、紗くらいは被っていれば、と翠蓮は唇を噛みしめた。
探花、という言葉がある。
官吏を登用する科挙試験において、三位の成績で合格した者をそう呼び習わす。
その者に京師の数多の庭園の中から牡丹の名花を探させ、その後の科挙合格を祝う宴で披露させることからその名がついた。
今ならば分かる。
あの男のあの優越感に満ちた笑みは、自分が「探花」にでもなったつもりからくるものだと。隠れた名花を自分の手で探し出したとでも思っているのだろう。
そうしてこの後、宴で――あの男の後宮に飾られる数多の花の中の一本として、披露目されるのだろうと想像できた。
(冗談じゃ、ないっ……)
どこの世界に、愛しい婚約者を殺し、自分を凌辱した相手の後宮に入れられることを光栄だと思える女がいるのだろうか。
しかもその婚約者は、翠蓮を手に入れるためだけに殺されたのだ。
けれども皇太子の後宮に入れられてしまったら――将来的には自動的にそこは皇帝の後宮となる。そうなればもうそこからは逃げ出せない。
かくなる上は、あの男・琰単には徹底的に嫌われるように反抗的な態度をとり、死を賜るか後宮から追い出されるように仕向けるしかない、と翠蓮は拳を握りしめた。
そんな翠蓮の思いとは裏腹に、馬車はどこかに到着した。馬車から引きずりだされるように降ろされた翠蓮が見たものは、右側にどこまでも続くかのようにそびえ立つ、紅く高い城壁だった。
(紅牆の牢獄……!)
それはこの世でただ一つ、皇帝の住まう宮城にのみ許された色だった。
紅色に高く巡らされた壁と空を切りとる黄色い瑠璃瓦は、皇帝の権力の象徴だったが、翠蓮にとっては二度と戻れぬ監獄の色彩にしか思えなかった。
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