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壱・目覚めの刻
彼女の決意。
しおりを挟む「自分に都合のいいことばかりを、随分つらつらと口に出せるな、王宮の人間は」
清風は真正面に座る雲彫に睨みをきかせた。その左手はすでに鞘を握り、親指を鍔にかけている。紅蘭ははっとした。この雰囲気だ。彼が、人を斬ろうとするときの危うい空気。その空気が今、また醸し出されようとしている。急いで彼を止めようと右の袖を引っ張ってみるが、一触即発の臨戦態勢が崩れることはなかった。
「お前たちは」
清風が、重々しく口を開く。
「15年前、紅蘭を殺そうとした。何度も何度も、しつこく。一族から紅蘭の名前を消そうとしていた。なのに今、一度は消そうとしていた人間に責務を果たせと迫る。ーー恥を知れ。紅蘭はお前たちに協力しない」
「せ、清風」
まるで実際に見てきたかのように清風は語った。それが紅蘭には解せなかったが、考えてみれば、この幼馴染といつから、どうやって知り合ったのか、実ははっきりと覚えていない。物心ついたときから、彼はもう傍にいた。下働き仲間として遊んでくれたし、紅蘭にだけはいつも甘くて、優しかった。仕事で粗相をしてしまい、落ち込む夜には、決まって台所からこっそり甘味を持って来ては、慰めてくれたのだ。
誰にでも優しいわけじゃない。群芳院の人々は皆、無口で表情に乏しい彼のことを、「顔はいいけど、何を考えてるかわからない。近寄りがたい人」と評してきた。けれど紅蘭にとっては、誰よりも優しく、面倒見のいい幼馴染兼、兄のような存在だったのだ。それがずっと不思議でならなかった。なぜ清風は、自分に特別甘いのかと。
てっきり群芳院で出会い、そこから友情を深めていったと思ったが、それが思い違いであることを今、認めなければいけないようであった。
(雲彫様は清風を護鳥って呼んでた。それに、護鳥は王族を守る一族だって。じゃあ、清風は……)
「俺はあの時、第二妃様に約束した。王宮から離れ、紅蘭に平穏な生活を送らせると。だから、お前たちの都合に利用される訳にはいかない。紅蘭に害をなす人間は、誰であろうと斬る」
琥珀の瞳が怒りに燃える。その横顔を、紅蘭は暫く呆然と見つめていた。見知ったはずのその存在が、ひどく遠のいていくような気がする。彼は、偶然この群芳院に居合わせたんじゃない。必然的に自分の側にいたのだ。そして自分が公主であることを知っているにもかかわらず、それを一言も伝えずに接してきた。普通の暮らしをさせてきた。
すべては紅蘭を守るため。彼女は、自分が意図的に曼華のいざこざから離された身であることをこの場で悟った。
「……清風、私、本当に公主だったんだね」
「……もう違う。曼華から離れた時から、お前は公主じゃなくなった。こんな馬鹿馬鹿しい話に耳を傾けるな。自分を捨てた国を、助ける義理などない」
「でも……」
最も信頼する幼馴染のこの一言。紅蘭のぐらぐら揺れる心に、また迷いが生まれた。その時だった。
「愚かな」
見れば、雲彫は口元を鉄扇で隠し、こちらに向かって目を細めている。いつの間に取り出したのだろう、黒の扇子が威圧を与えるようにぬらりと光った。
「護鳥、あなたのそのちっぽけな頭には、公主様のことしか入ってないようですね。
しかし考えたことはありますか?彼女がここで平和に暮らす代価に、一体今までどれほどの命が犠牲にされてきたことを。ここで生きるということは、魔族による民の虐殺を許し、曼華国を亡ぼすことと同様。紅蘭様、あなた一人に平穏な日々を過ごさせるために、曼華の民を見殺しにしろというのですか」
「そ、そんなことは」
翡翠の瞳に射抜かれて、紅蘭は身震いする。扇で顔を隠しているが、怒っている、と確かに感じられる勢いだった。
「それに、」
鉄扇が勢いよくぴしゃりと閉まる。
「魔族がいつ、死海を越えて東雲に攻め入るかもわからないでしょう。ここが絶対に安全だという確証はありません。あの者たちが、勢力を拡大すべく動き出すこともあるでしょうから。
東雲の平穏を守るためにも、公主様には剣を振ってもらわなければいけません。どのみちこの方は、流蛍剣を手にしなければならない定めにあるのです」
「何を……!」
「清風!」
清風はなおも彼に噛みつこうとする。今にも抜刀しそうなその腕を、紅蘭は慌てて抑え込んだ。
曼華に行くことは、正直怖い。未知の種族相手に、剣を振るわなければいけないのだから。けれど東雲にいても、遅かれ早かれ剣を握ることになるというのならーーみんなが平和に生きている、この群芳院、そして東雲国を守りたい。紅蘭は、そう思った。
「……雲彫様、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
一つ、深呼吸をする。心臓の鼓動が早まるのを感じながら、紅蘭は胸の前で両手を強く、握りしめる。
「私は、役に立てますか?曼華の人たちにとって、必要な存在ですか?」
月明かりが降り注ぐ部屋の中に、窓から一片、梅の花びらが舞い込んだ。
「……ええ。
あなたがいなければ、魔族を退けることは不可能です。剣をとり、国をお救い下さい、公主様」
「……わかりました」
「紅蘭!」
今度は清風が焦る番だった。彼女が了承するなど、思ってもみなかったのだ。
「流されるな!王宮の人間ほど、信頼におけないやつはいない!戻ったらまた、なにをされるか……!」
「いいの」
紅蘭はこぶしを強く握りしめる。それは彼女の決意表明だった。
「昔されたことって、正直全然覚えてないし。今、みんなが私を必要としてくれるんだったら、私は行きたいって思ってるんだ」
それに、と呟く。憂いを孕んだ琥珀の瞳を見上げ、彼女はにっと笑顔を作った。
「清風がそばにいてくれたら、何だって怖くないよ!」
「っ、紅蘭……」
清風の目が見開かれる。
途端に勢い良く手を引かれ、視界がすべて紺に染まった。彼女の背に手を回した清風は、かすれた声をその耳元に残す。
「お前がいくというなら、俺は無理に止めない」
「清風」
「でも俺も行く。そして必ず、お前を生きて東雲に戻す。だって俺はお前のーー」
「護鳥だから?」
一瞬、清風は驚いたように固まった。しかしその緊張はすぐにほどけ、「ああ」と優しい声音が戻る。
「主を守るのは護鳥の務め。たとえこの先何があろうとも、俺が紅蘭を守り通す」
王の道はいばらの道。紅蘭たちの波乱万丈の旅路は、ここから始まりを告げたのだった。
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