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壱・目覚めの刻
公主たる所以。
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「どうかしたのか?」
儚げな印象とは正反対の皮の厚い手が、宥めるように紅蘭の頭をそっとなでる。
清風。紅蘭が物心ついたころから常に傍にいた彼は、誰よりも彼女のことをよく知っている。豆花(ドウファ)に目がないことや、小豆が苦手で、実はこっそりと箸でよけていること。そして、慌てやすい彼女を落ち着かせるためには、頭をなでるのが一番効果的だということも。
案の定、紅蘭は気持ちをいくらか落ち着け、「あのね、」と呟いた。
「清風、どうしよう。お客さんが、その……急に土下座をしてきたの」
「?」
解せぬ、という表情が清風の顔に浮かぶ。それも一瞬のことで、すぐにその目に剣呑の光が宿った。「何かされたのか」と聞かれて、紅蘭は慌てて首を振った。
「違うの、そうじゃなくて。……あ、でもおでこは触られたよ。なんでかはわからないけど……」
「……面倒な客は斬り捨てる」
眉を寄せ、剣の柄に手をかけた清風を、紅蘭は慌てて引き留めた。この幼馴染は、たまに見ていて危なっかしい。
「待って!変なお客さんじゃなかったの。それどころか、身分の高そうな服を着ててーー」
「ここにいらっしゃいましたか」
ふと、渡り廊下の向こう側から声が響く。ふり向くと、ほの暗い廊下の先に、先の客人が二人、立っていた。つかつかと、二つの影が近づいてくる。清風は、そっと彼女を背に隠した。
「誰だ」
翡翠の隻眼が清風を捉えた。しばらくその視線を怪訝そうに彼に注いだかと思うと、青年は「ああ」と、合点がいったように頷くのだった。品を定めるように凝視していたのが、まるで興味が失せたかのように反らされた。
「護鳥か」
「っ!
誰だと聞いている!」
途端に荒げられた清風の声に、紅蘭の肩がびくりと震えた。彼がこんなに殺気を露わにするのを見るのは、知り合って長いにもかかわらずこれが初めてだった。
「清風……?」
「誰、と言われましても」
青年のほうはさも面倒そうに頭を振る。
「私はただ、あなたの後ろに縮こまっている公主様を迎えに来ただけ。護鳥に敵意を向けられる訳など、ないと思いますが」
「わ、私は公主じゃありません!人違いです!」
ごちょう、という馴染みのない単語に違和感を感じながらも、紅蘭は急いで反駁した。隣国の王侯貴族に間違われるなんて、恐れ多くて仕方がなかったのだ。助けを求めるように清風に目を向けると、予想と反して、見たこともないような険しい顔をしている。それが自分よりも状況を把握しているみたいで、紅蘭は少し意外だった。
「……お前は紅蘭の敵か?味方か?」
春風に晒された渡り廊下の端々を挟んで、双方はしばし睨み合う。清風がそう問いかけると、青年は不機嫌そうに息を吐いた。
「どちらでもありません。私はただ、公主様に己の責務を果たしてもらいに来ただけです」
「責務?」
「ええ。……立ち話で済むような気安い話ではございません。紅蘭様、部屋にお戻りください」
青年は静かに頭を下げた。この上なく低姿勢で頼まれているはずなのに、問答無用の雰囲気を感じるのはなぜなのか。思わず頷きそうになった彼女を制し、清風は警戒を解かずにこう言った。
「俺も行く」
「元よりそのつもりです。護鳥のあなたにも関係のある話だ」
---
四人は博雅の間に戻った。部屋周りは完璧に人払いが行われている。
部屋の前に並んでいた妓女たちは、青年に手を振り払われて、ほっとしたように各々の仕事に帰っていった。途中、楼主様がお気に召した娘はいないのかと気を悪くしながら部屋に入ってきたが、「大切な話があるから人払いを」と金を積んだ彼に、何も言えずに下がっていった。
「まず、私たちのことですが」
適当な椅子に腰かけた青年が口を開く。
「私は元聖官長、雲廷の倅の雲彫と申します。そして彼女は寒梅。私の側仕えです」
少女は静かに頭を下げた。
「せいかんちょう……。あの、雲彫様、どうして私が公主なのですか?曼華の公主様は、曼華にいるはずですよね?」
「あなたは本当に何も知らない」
青年ーー雲彫は物憂げにため息をついた。かれこれ三度目のため息だ。
「す、すみません」
「結構。それを承知でここに来たのですから。そこの護鳥は、見るからにあなたに何も伝えてなさそうだ」
清風は顔を渋らせた。先ほどから、紅蘭は話についていけないでいる。知らない単語が飛び交ったり、ただの幼馴染だと思っていた清風が、まるでこの件に関係があるように仄めかされたりすることを。
「あの……」
「十五年前、曼華国の第二妃様のもとで、公主様が誕生しました。
奇特な赤子で、生まれたときから額の右に黒いあざのようなものがあったと聞きます」
「えっ」
紅蘭は思わず額に手をあてる。そのあざは、たしかに彼女が生まれた時からずっとついてきたものだった。
「ただ、生まれた時期が悪かった。
第一妃たる正妃様には、すでにお子がいらっしゃっいました。将来的に、王位継承権を奪われるやもしれないと恐れた正妃様は、生まれたばかりの公主様を亡き者にすべく、色々手を回したらしいのです。……その結果かどうかはわかりませんが、公主様は出生からわずか三か月で、王宮から姿を消しました。彼女の守る役目を担った、護鳥とともに」
清風はふい、と目を反らした。
「護鳥、というのは?」
「王族を守るために創られた一族のことです。それは今は割愛するとして……私たちはずっと、行方知らずになっていた公主様を探していました。14年間もかけて。そして今日、やっとあなたを見つけることができた。既に死んだものとされていた、あなたに」
「ま……待ってください!
万が一、本当に万が一に私がその公主だとして、どうして私を探すのですか?その、聞いている限りでは、随分と嫌われているようですし。今更戻ったとしても、害しかないのでは……」
「いいえ」
紅蘭の話を遮るように、雲彫は強く言い放った。
「あなたにしかできないことがある。だからこそ我々は、死海を越えてあなたに会いに来たのです」
儚げな印象とは正反対の皮の厚い手が、宥めるように紅蘭の頭をそっとなでる。
清風。紅蘭が物心ついたころから常に傍にいた彼は、誰よりも彼女のことをよく知っている。豆花(ドウファ)に目がないことや、小豆が苦手で、実はこっそりと箸でよけていること。そして、慌てやすい彼女を落ち着かせるためには、頭をなでるのが一番効果的だということも。
案の定、紅蘭は気持ちをいくらか落ち着け、「あのね、」と呟いた。
「清風、どうしよう。お客さんが、その……急に土下座をしてきたの」
「?」
解せぬ、という表情が清風の顔に浮かぶ。それも一瞬のことで、すぐにその目に剣呑の光が宿った。「何かされたのか」と聞かれて、紅蘭は慌てて首を振った。
「違うの、そうじゃなくて。……あ、でもおでこは触られたよ。なんでかはわからないけど……」
「……面倒な客は斬り捨てる」
眉を寄せ、剣の柄に手をかけた清風を、紅蘭は慌てて引き留めた。この幼馴染は、たまに見ていて危なっかしい。
「待って!変なお客さんじゃなかったの。それどころか、身分の高そうな服を着ててーー」
「ここにいらっしゃいましたか」
ふと、渡り廊下の向こう側から声が響く。ふり向くと、ほの暗い廊下の先に、先の客人が二人、立っていた。つかつかと、二つの影が近づいてくる。清風は、そっと彼女を背に隠した。
「誰だ」
翡翠の隻眼が清風を捉えた。しばらくその視線を怪訝そうに彼に注いだかと思うと、青年は「ああ」と、合点がいったように頷くのだった。品を定めるように凝視していたのが、まるで興味が失せたかのように反らされた。
「護鳥か」
「っ!
誰だと聞いている!」
途端に荒げられた清風の声に、紅蘭の肩がびくりと震えた。彼がこんなに殺気を露わにするのを見るのは、知り合って長いにもかかわらずこれが初めてだった。
「清風……?」
「誰、と言われましても」
青年のほうはさも面倒そうに頭を振る。
「私はただ、あなたの後ろに縮こまっている公主様を迎えに来ただけ。護鳥に敵意を向けられる訳など、ないと思いますが」
「わ、私は公主じゃありません!人違いです!」
ごちょう、という馴染みのない単語に違和感を感じながらも、紅蘭は急いで反駁した。隣国の王侯貴族に間違われるなんて、恐れ多くて仕方がなかったのだ。助けを求めるように清風に目を向けると、予想と反して、見たこともないような険しい顔をしている。それが自分よりも状況を把握しているみたいで、紅蘭は少し意外だった。
「……お前は紅蘭の敵か?味方か?」
春風に晒された渡り廊下の端々を挟んで、双方はしばし睨み合う。清風がそう問いかけると、青年は不機嫌そうに息を吐いた。
「どちらでもありません。私はただ、公主様に己の責務を果たしてもらいに来ただけです」
「責務?」
「ええ。……立ち話で済むような気安い話ではございません。紅蘭様、部屋にお戻りください」
青年は静かに頭を下げた。この上なく低姿勢で頼まれているはずなのに、問答無用の雰囲気を感じるのはなぜなのか。思わず頷きそうになった彼女を制し、清風は警戒を解かずにこう言った。
「俺も行く」
「元よりそのつもりです。護鳥のあなたにも関係のある話だ」
---
四人は博雅の間に戻った。部屋周りは完璧に人払いが行われている。
部屋の前に並んでいた妓女たちは、青年に手を振り払われて、ほっとしたように各々の仕事に帰っていった。途中、楼主様がお気に召した娘はいないのかと気を悪くしながら部屋に入ってきたが、「大切な話があるから人払いを」と金を積んだ彼に、何も言えずに下がっていった。
「まず、私たちのことですが」
適当な椅子に腰かけた青年が口を開く。
「私は元聖官長、雲廷の倅の雲彫と申します。そして彼女は寒梅。私の側仕えです」
少女は静かに頭を下げた。
「せいかんちょう……。あの、雲彫様、どうして私が公主なのですか?曼華の公主様は、曼華にいるはずですよね?」
「あなたは本当に何も知らない」
青年ーー雲彫は物憂げにため息をついた。かれこれ三度目のため息だ。
「す、すみません」
「結構。それを承知でここに来たのですから。そこの護鳥は、見るからにあなたに何も伝えてなさそうだ」
清風は顔を渋らせた。先ほどから、紅蘭は話についていけないでいる。知らない単語が飛び交ったり、ただの幼馴染だと思っていた清風が、まるでこの件に関係があるように仄めかされたりすることを。
「あの……」
「十五年前、曼華国の第二妃様のもとで、公主様が誕生しました。
奇特な赤子で、生まれたときから額の右に黒いあざのようなものがあったと聞きます」
「えっ」
紅蘭は思わず額に手をあてる。そのあざは、たしかに彼女が生まれた時からずっとついてきたものだった。
「ただ、生まれた時期が悪かった。
第一妃たる正妃様には、すでにお子がいらっしゃっいました。将来的に、王位継承権を奪われるやもしれないと恐れた正妃様は、生まれたばかりの公主様を亡き者にすべく、色々手を回したらしいのです。……その結果かどうかはわかりませんが、公主様は出生からわずか三か月で、王宮から姿を消しました。彼女の守る役目を担った、護鳥とともに」
清風はふい、と目を反らした。
「護鳥、というのは?」
「王族を守るために創られた一族のことです。それは今は割愛するとして……私たちはずっと、行方知らずになっていた公主様を探していました。14年間もかけて。そして今日、やっとあなたを見つけることができた。既に死んだものとされていた、あなたに」
「ま……待ってください!
万が一、本当に万が一に私がその公主だとして、どうして私を探すのですか?その、聞いている限りでは、随分と嫌われているようですし。今更戻ったとしても、害しかないのでは……」
「いいえ」
紅蘭の話を遮るように、雲彫は強く言い放った。
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