2 / 9
壱・目覚めの刻
事に至る顛末。
しおりを挟む扉の奥には青年がいた。
身体を斜めに向けて、開け放たれた窓から永楽の町を見下ろしている。風に吹かれ、さらさらと揺れる金の髪は、月の光をうけて淡く輝いた。その横には、小さな少女が一人、静かに控えている。14、5才だろうか。肩までかかるまっすぐな銀髪を二つ結びにし、前髪は八つ字に分けられている。口元は白い布に覆われていて、表情がうかがえない。
二人の客人は、揃いで純白の旅装束を身にまとっていた。その奇妙極まりない出で立ちに、紅蘭は一目見ただけで、彼らが只者ではないことを感じ取った。旅装束に汚れやすい白を選ぶのは、まず汚れる心配がない身分を冠しているからだと、そう考えたのだ。
「あの…お茶をお持ちしました」
そう声をかけると、華奢な少女はこちらに目を向け、、小さく会釈をしてくれる。咲いたばかりの花菖蒲を連想させる紫の眼が、そっと伺うように隣の青年に注がれた。
「結構です」
青年はすぐさま返事をした。外の景色を眺めていた視線が、部屋の中へと戻る。きれいな人だ、と紅蘭は思った。端正な顔立ちは、その半分が右目を覆うようにして髪で隠されていたが、それでも美しさは萎えることがない。翡翠の瞳に、陶器のような肌。そこには群芳院の妓女たちを凌ぐほどの美丈夫が、まるで一枚の絵のように佇んでいた。
青年は、唯一あらわにした左目を紅蘭に向け、ため息をつく。ため息まで絵になる男だ。
「一杯のお茶でも高くつくのでしょう、ここは。それより、あの人の話を聞かない楼主にお告げ下さい。私は女性を買いに来たのではない。人を探しに来ているとーー」
ふいに、つらつらと淀みなく並べていた文句が止まる。何事かと瞬きをする紅蘭の顔を、彼はじっと見つめ始めたのだ。そばに控えていた少女までもが、穴が開くほど紅蘭に見入っている。
「あ、あの……」
「頭巾を脱ぎなさい」
「えっ?」
「聞こえませんでしたか。頭巾を外せ、と言っているのです」
突然の要求に、紅蘭はただ目を丸くするしかなかった。けれども、なぜか男の声に逆らえない。何か強制力でもあるのだろうか、力の強い声だった。命じられるがままに、黒の頭巾を脱ぐ。その拍子に、短く無造作に切られた赤い髪が、覆われていたものが消えたのに戸惑うように、はらりと揺れた。
青年はそれを確認するや否や、窓から離れ、急速に距離を縮めてきた。
そして驚く暇も与えぬうちに、彼は薄い手袋越しに、その細長い指で紅蘭の前髪を掻き上げたのだった。
「ひゃっ!」
「!やはり……」
青年は上ずった声をあげ、かすかに眉を寄せた。何を驚いているのか紅蘭にはさっぱり見当がつかない。ただ、見知らぬ人にいきなり触れられ、慌てふためく他なかった。
「な、いきなり何をするんですか!」
男から飛びのくように距離をおく。飛びのいた勢いで、盆にのせた茶器がぶつかり、カキンと嫌な音が部屋に響いた。
いくら顔がよくても、やっていいことといけないことがある。
立派な男が、初対面の、しかも未婚の女人に断りもなく触れるなど、信じられないことだ。だが当の本人は反省したそぶりもなく、ただ神妙な顔でこちらを見ているだけ。隣の少女が、オロオロと忙しなく視線を動かしている。
よもやこの群芳院を、色を売る場だと勘違いしているのではないか。
紅蘭はこの時、密かに心のうちで危惧した。実際、勘違いをする客は少なくないのだ。永楽には青楼と妓楼、二種類の店が立ち並ぶが、前者は芸を売り、後者は身を売る。群芳院は前者。ここに籍を置く妓女たちは皆、琴棋書画に唄と舞、六芸に秀でた才女たちなのだ。たとえ芸のない下働きでも、青楼と称する以上は、簡単に触れていいということはない。
だが、それは杞憂だったらしい。青年は案外あっさりと「失礼」と頭を下げた。
そして、後ろに控えた少女に目配せしたかと思うと、そのまま紅蘭の前にひれ伏し、恭しく両手をついたのだ。
「お探ししました、公主様」--と。
---
何度思い返しても、あまりに突飛な展開に脳の処理が追いつけない。
走りながらも紅蘭は、こうなった原因を探ろうと必死だった。
けれども、普段市場で値切る以外ではあまり使ってこなかった頭を、急に回転させようというのは無理な話だ。
(こんなときに清風がいたら……!そうだ、清風!清風ならきっと!)
ふと、頭の中に頼れる幼馴染の姿が浮かび上がる。
群芳院の雇われ用心棒。彼ならきっと、なんとかしてくれる。
根拠のない信頼を胸に抱き、廊下を渡ろうと角を曲がると、いきなり固いものに勢いよくぶつかってしまった。
「わっ!」
「……っ!……紅蘭?」
途端に、懐かしいにおいが紅蘭を包む。顔を上げると、そこにはちょうど探していた竹馬の友の姿があった。
「清風!」
途端に気持ちがすっと落ち着くのを、紅蘭は感じた。安心感から、呼びなれた名前を口にする。
空色の癖のない髪の隙間から、琥珀の瞳が心配そうに細められてた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる