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幕開け

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ジムで軽く汗を流した後、俺は西棟の3階にある自室へ戻ることにした。
俺が部屋へ引き揚げる時、愛梨、海人、寺門公人の3人はジムの奥のエアロバイクに乗りながら談笑していた。
俺は、3人の会話を遮ることがはばかられると思い、特に挨拶はせずに、そっとジムをあとにした。
3階までは、中央棟、東棟、西棟のそれぞれにエレベーターが設置されている。
最初、運動をして疲れたし、エレベーターで3階まで上がろうかとも思ったが、たかが3階まで上がるのにエレベーターを使うのも何だと考え直し、階段を登ることにした。
東棟の3階には、現在、龍昇、艶子、陽美が部屋を構えている。
艶子は本来なら中央棟の部屋で昇仁と暮らしているのだが、麻谷麗が入り浸るようになってからは東棟の305号室に移っている。
その隣の304号室には陽美が居住しており、2人の仲の良さが窺える。
そして、301号室は生まれたばかりの龍昇専用の部屋となっている。
階段を登り切って3階に辿り着くと、東棟の中央にあたる303号室の前に出る。
俺は西棟の自室に向かうために、龍昇の部屋である301号室の前に差し掛かった。
すると、その部屋の前で、暁と茜夫妻の娘である凛と舞、そして龍昇のベビーシッターである藤波綾香に出くわす。
「さぁ、龍昇ちゃんはもう寝んねのお時間だから、2人とも、もうお部屋に戻りなさい」
「やだー、私たちもう少し赤ちゃんと遊びたい」
「ダメよ、旦那様と麗様に怒られてしまうわ」
綾香の声に焦りが滲むが、凛と舞はお構いなしで駄々をこねていた。
「いい加減にしなさい!これ以上言うことを聞かないのなら怒りますよ!早く帰りなさい!」
綾香の剣幕に驚いたのか、凛と舞はピタリと駄々をこねるのを止め、部屋の前から走って立ち去った。
「どうかされましたか?」
「あっ、ええと・・・」
「小林です。随分とあの子達に手を焼いていたみたいですね」
「えぇ・・・いつもは聞き分けのいい子達なんですけど」
ふと腕時計に目をやると、時間は9時になったところだった。
「赤ちゃんはもう寝ている時間ですしね。加えて小さい姉妹の相手もしないとなると大変ですよね」
「えぇ・・・まぁ、そうですね」
さっきから綾香は気もそぞろで落ち着きが無い。気が立っていて、心を落ち着けるのに必死なのだろうか?
「ところで、藤波さんはここでずっと待機しているのですか?」
「はい、朝までここの部屋におります」
「大変ですね、仕事とはいえ一晩中ここで待機しているなんて。部屋は用意されていないんですか?」
「東棟の一階にスタッフ用の部屋が割り当てられているのですが、龍昇様が生まれてからはずっとここで仮眠を取りながら待機してます。わたくしの部屋からここまでは遠いですから、何かあった時の為にも、部屋で待機している方が何かと都合がいいのです」
「赤ちゃんはいつ夜泣きするかわからないから、目が離せませんよね」
「えぇ、それと誰かが勝手に部屋に入らないようにするためにも、ここにわたくしがいる必要があるのです」
「門番みたいですね」
「はい、そのとおりです」
「それは、何かを警戒しているということですか?」
俺の質問に、綾香は口籠った。
「・・・正直、旦那様はこの屋敷に住んでおられる方々を信用していないようです」
なるほど、昇仁自身も龍昇の身に何事かが起きるかもしれないと案じているようだな。
「そうすると、当然私も龍昇ちゃんに面会することはできないわけですね」
「そうなりますね、わたくしがお断りさせていただくことになります」
「実際にこちらに来るご家族の方はいらっしゃるのですか?」
「はい、凛ちゃん、舞ちゃんは毎日来ます。たまに茜様も付き添いで来ることがありますし、愛梨様と海人様ご夫妻、環様、美智様はよくいらっしゃいます。稀ではありますけど、加奈様も来たことがあります」
あの松崎加奈が?子供嫌いのはずなのに?
「皆さん、龍昇ちゃんの誕生を歓迎しているのでしょうか?」
「皆さんの本意がどこにあるのか、わたくしにはわかりません。ただ、龍昇様を可愛がって歓迎している素振りを見せておけば、昇仁様のご機嫌を取ることにもなるのではないでしょうか」
なるほど、綾香も他の家族のことは信用していないし、加えて嫌悪すらしているようだ。言葉の端々にそれが垣間見えるようだ。
「あの、わたくし、これから麗様がお越しになる前にいろいろと準備しなければならないことがありますので、この辺でよろしいでしょうか?」
「あっ、すいません、つい長居してしまって。それでは、おやすみなさい」
俺は藤波綾香に別れを告げて、自室へ向かおうとした。
「あっ!小林様、そちらは通れません」
「えっ?そうなんですか?」
昇仁の部屋の前を通って自室に戻ろうとしていた俺は、藤波綾香の声に反応して立ち止まった。
そういえば、修二君も昇仁の部屋に出入りできるのは、家族の一部と執事の田所と家政婦長の市原くらいと言っていたな。
「ご主人様のお部屋の前は通れませんので、一度2階に降りていただいて戻ってください」
「ありがとうございます。危うく失礼を働くところでした」
俺は藤波綾香に礼を述べ、改めておやすみなさいと告げて自室へと戻った。

部屋に戻ると、小川と修二がいた。
「遅いぞ、小林。ようやく戻って来たか」
「すまない、ちょっとあってな」
「何か収穫でもありましたか?」
修二が興味津々と言った様子で尋ねてきた。
「ジムに行く前に美智と家庭教師、ジムで愛梨夫妻とトレーナーの男と話しをしてきたよ。あと、ベビーシッターの藤波綾香とも」
「どんな話が聞けたんだ?」
俺は、2人に交わした会話の内容をかいつまんで説明して、それからそれぞれの人物の印象について付け加えて話した。
「愛梨夫妻は、本当に他の家族と違ってお人好しというか、いい人みたいだな」
「藤波さんと話せたのは大きかったかもしれないですね」
「あぁ、おかげで昇仁の家族に対する考えが分かったしな」
その時、ふと部屋の時計を見ると、10時20分になるところだった。
「あっ、僕そろそろ戻らないと。あんまり遅くなると、静香に勘繰られてしまうので」
「分かった。それじゃあ、明日のことは朝一で話し合うことにしよう。朝食のあと、またこの部屋で打ち合わせだ」
「ありがとうございます、叔父さん。それでは、失礼します」
そう言い残して、修二は部屋を出て行った。
「どうだろう?今のところは、これと言って何か起こりそうな兆候は無さそうな気がするんだが?」
「わからない。ただ、赤ん坊の誕生が歓迎されていないのは事実だ。お披露目式までは気を抜くことはできないだろう」
その時だった。部屋のドアを勢いよく連打するノックの音がした。
部屋の外からは、修二のドアを開けてくださいという懇願の声が響く。
何事かと小川が鍵を外すと、顔面蒼白の修二が部屋に飛び込んできた。
「どうした?何かあったのか?」
よっぽど急いで来たのか、修二は息も絶え絶えで、乱れた呼吸のまま叫ぶように声を絞り出した。
「大変です!龍昇ちゃんが!龍昇ちゃんが亡くなりました!」
俺は小川と顔を見合わせて、それから弾かれるように部屋を飛び出して、龍昇の部屋へと駆け出していた。






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