箱入り息子はサイコパス

広川ナオ

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第4章 少年と少女

38 忘れられない思い出

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 もう忘れたはずだった。
 エリカさんも、【リカリカ】も、それと関わってきた自分自身の過去も。
 彼女との離別を決意したあの日から、すべてを忘れ去ったつもりでいた。

 だけど、できなかった。
 すべてを断ち切ったはずなのに、それでも僕は彼女のことを思わずにはいられなかった。いや、むしろ彼女から離れようとするほど思いは強くなっていた。

 彼女が炎上騒動に巻き込まれていたと知ってからは、僕の心はどんよりと重くなったり、ときに激しく煮えたぎったりした。
 他人事に一喜一憂するなど、光輝ある《天王》の跡取りとして不甲斐ないばかりだが、こればかりはどうしようもなかったのだ。

 認めざるを得ない。
 緑川エリカは僕にとって掛け替えのない大切な人であることを。

 彼女と別れて、彼女が傷ついているのを知って、ようやくそのことに気がつくなんて、僕はなんて愚かなのだろう。

 彼女を救いたい。三成さんではないが、あなたのことを大切に思う人間がここにいるのだということを伝えたい。

 だがそのための手段がなかった。
 電話やメールはもちろん、今となっては直接会いにいくことすらも叶わない。

 不甲斐ない。どれほど怒ろうと、どれほど悲しもうと、僕には状況を変えることはできない。自分の無力さが情けない。いくら大企業の御曹司などと担がれていようと、この大きな社会の中では所詮、僕も一人の人間でしかなかった。



 そんな鬱屈とした思いのせいで、彼女が失踪したことを知った日はほとんど眠れなかった。

 次の日の朝、学校へ行こうと家を出た時、向かいにあるエリカさんの家のポストに1通の手紙が刺さっているのが目に止まった。
 その手紙は封筒に入っておらず、四つ折りの状態のまま、なんだか乱雑にポストの口に突っ込まれていた。嫌な予感がしたので、申し訳ないと思いながらもその手紙をポストから抜き取って内容を改めてみた。

 手紙には、太いボールペンでたった5つの文字が書かれていた。

『消えろゴミ』

 文面が目に入った瞬間、僕はその醜悪な紙切れを木っ端微塵に破り捨てた。

 くそっ、くそっ、くそっ!

 エリカさんがSNSや電話などの連絡手段を断つようになったから、これまでそういった手段で嫌がらせをしていた連中がついに直接攻撃するようになったということか。

 クズどもがっ……クズどもがっ……クズどもがっ!

 こんなの理不尽すぎる。彼女は何ひとつ悪いことはしていない。男遊びが過ぎているだとか、そんなことは他者に迷惑をかけることでないだろう。むしろ彼女のことを誹謗中傷している連中のほうが明確な犯罪者だ。実際に、事実無根のデマ情報をもとに他者を誹謗中傷したり、他者の外見や行動を主観だけで口汚く貶めたりするのは刑法第二百三十条、あるいは同法第二百三十一条に抵触する、明らかな犯罪行為である。

 しかし愚かな連中は自分らの行為が悪だと気付けない。なぜなら多数派が正しいと思い込んでしまうのが人間だからだ。
 ゆえに多くの人間が【リカリカ】を叩いている現状において、連中は自分らが正義であると思い込み、正義の名の下に【リカリカ】という架空の悪を成敗しているつもりになっているのだ。自分が悪だと自覚している人間よりも、自分が正義だと勘違いしている人間のほうがずっとタチが悪い。

 くそっ、このようなクズどもがのうのうと世にのさばっているのに、どうして善良な彼女がこれほどまでに惨たらしい目に遭わなくてはならないんだ。

 やり場のない怒りに、全身を駆け巡る神経がひりつくようだった。

 エリカさんは今どこで何を思っているだろうか。

『あたしには味方がいない』

 彼女の日記にはそう綴られていた。

 無論、実際にそのようなことはないはずだ。学校でとネットでも、本当は心の中で彼女のことを気にかけている人間は大勢いるのだろう。だが誰も声をあげることができない。皆、下手にいじめられっ子に手を差し伸べるような態度を示せば、今度は自分がいじめのターゲットにされるかもしれないと恐れているからだ。結果、被害者は孤独になり、その孤独感がなによりも被害者の精神を追い詰めていくことになる。

 こうしてエリカさんも孤独に陥り、姿を消すという選択をしてしまったのだろう。

 ……いや、ただ一人、彼女の味方になってやれるはずの人間がいた。

 そう、僕だ。学校やネット上の関係ではない、である僕ならば、彼女に味方として信頼してもらうことができたはずだ。

 それなのに、僕は自らの意思で彼女を突き放した。
 分からず屋な彼女のことが不愉快だったあまり、つい感情的な言葉で彼女を傷つけてしまった。

 客観性を持たない身勝手な言葉で他人を傷つける人間はクズだと思っていたけど、結局のところ、僕自身もそういった〝クズ〟のうちの一人だったのだ。

 そのことを自覚するようになってから、僕の気分も最悪になっていた。まるでこの17年間で積み上げてきたものが足元から瓦解するかのような喪失感に、生きる気力さえもなくなりつつあった。自分で自分を嫌いになるというのは、多分この世で最も不幸なことなのだと思う。

 晴らしようのない喪失感を抱えたまま、僕はエリカさんの家の前を立ち去り、学校への道のりを歩み出す。
 しかし学校へ行ったところで授業なんてこれっぽっちも耳に入らないし、休憩時間の学友との会話もまったく楽しくない。エリカさんに何かあったらどうしよう……そんな気掛かりに思考が支配され、何をやっても気が乗らない、灰色な時間だけが過ぎ去っていく。

 家に帰ってからも、習慣となっていたはずの筋力トレーニングをサボり、寝室のベッドの上で横になりながら、だらしなくスマホをいじっていた。

 スマホの写真フォルダに保存されているのは、この1年間で彼女と積み重ねてきた思い出ばかりだ。
 撮影したのはすべてエリカさん。僕は普段から写真を撮るということをしない。僕には目に映るものをイメージで記憶する能力があるから、景色を記憶するのにわざわざ写真を撮る必要はないのだ。

 とはいえ、イメージとして記憶できるのはあくまで視覚的な要素だけだ。その時々に考えていたこと、感じていたことまで記憶できるわけではない。人間の感情というのは、川を流れる水のように絶えず流動的に移りゆくものだ。流れる水の一粒一粒を固定することなど出来やしない。

 だからこそ、これらの写真は僕にとって宝物なのだ。

 お台場で撮った写真を眺めていると、もう一度あの時間に戻ったような気分になれる。

 あの時は楽しかったな。一緒に映画を観たことも、一緒にショッピングを回ったことも、一緒に喫茶店でコーヒーを飲んだことも、どれもすごく楽しかった。
 それに、食後に見にいった海辺の景色。あの美しい海辺の景色は、やはり写真では映し出せない。1億画素を超える最新鋭のスマホのカメラをもってしても再現できるものではない。

 ああ、もう一度見に行きたいな。もう一度、彼女と二人で。また映画やショッピングとセットでもいい。あの時よりも、今ならもっと楽しいと思えるはずだ。それと今度はもっと遅い時間にしよう。あの場所から眺める夜のレインボーブリッジはさぞかし美しいだろう。虹色に煌めく光が海面に映し出され、まるでファンタジーの世界みたいな幻想的な風景が広がる。想像しただけで心が打たれるではないか。

 いいな……そんな時間を過ごしたかったな……

 まるで微睡まどろみの中で心地よい夢を見ているような気分に、僕はしばし耽溺していた。

 そんな僕の意識を現実に引き戻したのはスマホの着信音だった。

 まず、ホーム画面の通知に表示された差出人の名前に、思わず目を見張った。

 メッセージの差出人は、なんと三成さんだった。彼はあの日から一度も大学には来ておらず、僕とも連絡を取り合うことはなくなっていた。

 もう縁が切れたものだと思っていた元学友から突然届いた、1通のメッセージ。通知画面に表示されていたのは文面でなく、画像が送られたことを知らせる定型文だった。

 恐る恐るトーク画面を開き、無言で送られてきたその画像を見てみる。

 スマホの画面をスクショしたと思われるその写真に映っていたのは、なんと【リカリカ】のツイッターアカウントのホーム画面だった。【リカリカ@登録者数50万人突破!】というアカウント名も、アプリでゴリゴリに盛った自撮りのプロフィール画像も、数週間前から何も変わっていない。

 ただひとつだけ変わっている部分があった。それは最上部に表示されていた最新のツイートだ。
 先週の配信を中断してしまった一件以来、久しく更新が途絶えていた【リカリカ】のツイッターが、約1週間ぶりに更新されていたのである。

 そして、そこに記されていたのは——

【さようなら】

 全世界へと向けられた、わずか5文字の遺書だった。
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