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1巻
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◇
朝食を終え、学園に着いた三人。
ナーナルは「用があるの」と言い、モモルの手を引いて真っ直ぐに職員室へ向かった。
そこで挨拶を一つ、続けて一言、
「皆様、御機嫌よう。突然ではございますが、本日をもって自主退学させていただきます」
ナーナルの声が職員室に響いた。
一瞬の静寂のあと、驚愕に満ちた声で職員室が埋まる。
「は……、えっ? 今言うんですか?」
驚いたのはモモルも同じだ。
隣に立つナーナルの顔を見上げ、ぽかんと口を開けている。
学園に着いて早々、自主退学を申し出る。
それはまあいいとして、なぜわたくしまで連れてきたのか。
突飛な行動にモモルは驚きを隠せないが、まだ終わらない。
「ナーナル君、今言ったことは……事実なのか?」
教師が一人、疑問を口にする。
爵位こそ低いが、ナーナルは優秀な生徒だ。教師陣や学友からの評判も良く、誰からも好かれる存在として認識されていた。
そのナーナルが、急に退学すると申し出たのだ。嘘だと思いたいのか、事実を確かめようと試みる。しかし、
「ええ、事実です」
ナーナルはあっさりと肯定する。
教師陣と職員室に居合わせた生徒たちは、その言葉にため息を吐く。
「一体、なぜ……理由を聞かせてくれ」
「実はわたし、婚約を破棄しようと思いまして」
「は?」
その台詞に、全員が目を丸くする。
「ここにいる妹のモモルが、どうしてもわたしの婚約者であるロイド・エルバルド様を譲ってほしいと言うので、その願いを叶えることにしました」
「ちょ、おねっ、お姉様!? 急に何を――」
「本当のことを言いますと、わたしは婚約を破棄するつもりはございませんでした……。ですが、モモルとロイド様が共に一夜を過ごした仲と知り、わたしには二人の愛を止めることはできないと悟り、諦めることといたしました」
「――ッ!!」
それをここで言うのか! モモルは心の中で絶叫した。
「お姉様ッ、二人だけの秘密だと言いましたよね? 約束は守ってくださらないと困りますわ!」
小声で訴えるモモルに、ナーナルは優しく笑う。
「二人だけの秘密……? いいえ、そんな約束は一度もしていないわ。貴女とわたしがした約束は、お父様とお母様に秘密にすることだけ……そうでしょう、モモル?」
「ッ、ううっ、そんなこと……ッ!!」
周囲がざわつく。
職員室のどよめきに興味を引かれた生徒が次々と集まってくる。
何の騒ぎだと耳を傾け、徐々に知っていく。
ナーナル・ナイデンが、妹のモモルに婚約者を寝取られたことを。
「お、お姉様……これはお姉様の恥になりますわ。妹のわたくしに負けた女として一生を過ごすことになってもいいんですか? 今ならまだ撤回できます、早く冗談だと言ってください!」
「あら、おかしなことを心配するのね? わたしは修道院に入るのよ? 王都中の人たちがわたしを馬鹿にしようとも、その声がわたしの耳に届くことはないと思うのだけれど、違うかしら?」
「っっ」
違わない。
王都の修道院は、一度入れば二度と出てくることができないと言われている。そんな場所に入る姉と比べれば、王都中の人たちから馬鹿にされる方がまだいいだろう。
そう考え、モモルは気を取り直す。
反撃は想定外の事態であったが、ロイドを寝取り、姉を修道院送りにすることができたのだ。これ以上の成果はないといえる。
「それでは皆様、わたしは家へ戻ろうと思いますので、そろそろ失礼いたします」
「家に……って、お姉様? ここまで来たのに、もう戻るのですか?」
「ええ。伝えるべきことはすべて伝えたわ。あとは身支度をするだけよ」
自主退学するのだから、これ以上学園に留まる意味はない。
確かにその通りなのだが、モモルは何か腑に落ちなかった。
「モモル、わたしの分までしっかりね?」
けれどもナーナルは、モモルに考える隙を与えない。
「も、もちろんですわ。お姉様に言われるまでもありませんから」
もういい。ナーナルがいる限り、騒ぎは大きくなり続ける。早く帰ってくれた方が自分のためだ。
その結果、モモルは二人の背を見送り、事態の収束を図るのであった。
◇
朝の学園での一騒動から、半日が過ぎた。
既に日は落ち、王都には夜の帳が下りている。
そんな中、規則正しい馬の蹄の音が響く。と同時に、白い息が二つ交じり合う。
「――ここまで来れば、安心かと」
エレンが籠の中の鳥を連れ出してからしばらく、その姿は王都の外にあった。
手綱を緩め、馬上から来た道を振り返ってみるが、そこには何もない。王都は、既に目に見える距離ではなくなっていた。
「結構、走ったわね」
背をエレンに預けたまま、ナーナルが呟く。
「お嬢様は確か、王都から出るのは初めてでしたね」
「ええ、ずっと夢見ていたわ……。いつの日か、外の世界をこの目に映したいって」
エレンの声に、ナーナルが頷く。それは他愛もない話の一つだ。
ナーナルが外の世界に憧れを抱いたのは、エレンがまだ専属執事だった頃のこと。暇さえあれば、外の世界の話や物語をおねだりしたものだ。その経験が今のナーナルを作り上げていた。
「いかがですか」
エレンが感想を求める。
だが、ナーナルは首を横に振り、小さく笑った。
「外の世界は広いのでしょう? まだ何も言えないわ」
家に戻ったあと、ナーナルは修道院に入る振りを続け、身支度を整えていった。
準備ができたらそのまま、両親とモモルには何も伝えずにエレンと二人で馬に跨り、家を抜け出したのだ。
その際、ナーナルは手持ちの貴金属をお金に換えようと思っていたが、残念ながら時間が足りず、そこまではできなかった。
とはいえ、旅の資金は問題ないとエレンが言う。ナイデン家に勤めていた頃に貯めたお金があるから、ナーナルが心配することはないのだと。
もちろん、それでも困ることがあれば、改めて換金すればいい。
故に、金銭面での不安はなかった。
「そういえば、結局行き先をまだ決めていなかったわね……。エレン、どこかおすすめはある?」
「国内では旦那様に見つかり連れ戻される恐れがございますので、隣国まで行くのがよろしいかと」
「隣国……確かローマリアだったかしら」
「はい。商人が治める豊かな国であり、私の故郷でもございます」
「えっ、エレンってローマリアの出身なの? 今初めて知ったわ」
王都の出だとばかり思っていたが、どうやら違っていたらしい。
どうして話してくれなかったの、とナーナルは少しだけ頬を膨らませる。
「まあいいわ。それなら行き先はローマリアにしましょう。着いたら案内してくれる?」
「もちろんです。……ただ、ローマリアに到着後で構いませんので、私からも一つお願いしたいことがございます」
「珍しいわね、エレンがお願いごとだなんて」
隣国に着いてからも、エレンはナーナルの傍にいるつもりだ。
主に言われたからとはいえ、王都の外までついてくる必要など本当はない。
けれどもエレンは、あえてその道を歩むことを決めた。それは心に秘めた想いがあったからだ。
「そのお願いは、わたしが叶えてあげられるようなことなの?」
「……非常に困難ですが、恐らくは」
「あいまいな答えね……でも、エレンはわたしならできると思っているのね?」
そう聞くと、エレンは頷いた。
それを見て、ナーナルはさらに続ける。
「それなら、迷わずわたしを信じなさい。貴方の願いが何なのかは知らないけれど、絶対に叶えてあげるから」
「頼もしいお言葉です」
力強い返事に、エレンは口元を緩める。
それを見たナーナルも、柔らかな笑みを浮かべた。
「エレン。これから貴方とわたしは、一心同体よ。だから何があっても離れたらダメ。いいわね?」
「それは命令ですか」
「違うわ。これもわたしのお願いの一つ。だから聞いてちょうだい」
「そういうことであれば、喜んで」
命令よりも、お願いの方がいい。エレンはしっかりと頷いた。
「ところで……本当に後悔してない? わたしについて来なければ今も――」
「お嬢様の傍にいられることは、私にとってはこの上ない喜びです」
その言葉に、ナーナルはさらに頬を緩める。
今後は普通に暮らすこともままならないかもしれないが、ナーナルは一人ではない。
それがとても心強かった。
「頼りにしているわ、エレン」
第二章 外の世界
その日は、森を越えた先の村で一夜を明かすことにした。
「……ねえ、エレン。馬鹿にされても構わないから、言いたいことがあるのだけれど」
村に入ると、辺りを歩く住民の姿を眺める。
どこでも見られるような当たり前の光景を前に、ナーナルの胸は高鳴っていた。
「王都以外にも人がいるのね」
当然のことと頭では理解していながらも、口にせずにはいられない。
王都の外に出る必要も理由もなかったナーナルだから、それも仕方のないことだ。
「私も、元は王都の外の人間です。その世界を楽しんでいただけたのであれば光栄です」
ナーナルの抱いた感想を、エレンは馬鹿になどしない。するはずがない。
エレンは何があろうともナーナルの味方なのだ。
「あ、……えっと、このあとはどうすればいいのかしら」
一先ず、村に入ることはできた。
しかしこのあと、何をすべきなのか、箱入りのナーナルには分からない。
「ご安心ください」
何をすればとナーナルが迷っている間に、エレンは宿の手配を済ませてしまう。
この村を訪ねる旅行者や行商人は思いのほか多く、幸いにも二人を怪しむ者はいなかった。
◇
「部屋はこちらのようですね」
宿の亭主から鍵を受け取り、ナーナルとエレンは部屋へ向かう。空きがなかったので、取った部屋は一つだ。
鍵を開け、室内に入ってみる。簡素な作りだが、寝泊まりするには十分だった。
ただし、問題が一つ。
「……エレン、ベッドが足りないわね」
見たところ、室内にはベッドが一つしかない。
「そのようで」
「その様子だと、まさか知っていたの?」
問うと、エレンは素直に頷く。
「私はお嬢様の執事です。その身をお守りする役目がございますので、ベッドは必要ありません」
ベッドで眠るのはナーナルで、エレンはその身を扉の前で守る。
執事たるエレンの中では、その構図が出来上がっていた。
「はぁ……。エレン、貴方はわたしの従者ではないのよ? それに、今は執事でもないわ」
「いえ、それは間違いです。今朝、お嬢様に再雇用されたと記憶しております」
その台詞を耳にして、ナーナルは大きなため息を吐く。
ここはナイデン家ではない。本来なら家を出た時点で、主従関係は切れている。
それでもかしこまるエレンの手を、ナーナルは思い切って掴んだ。
「お嬢様?」
「その呼び方はやめて。これからはナーナルと呼んでほしいの」
「ですが」
珍しく、エレンの目が泳ぐ。
それが面白かったのか、ナーナルは意地悪そうに笑った。
「ソファがあるでしょう? わたしがそこで眠るから、エレンはベッドで寝てちょうだい」
「お嬢様がソファで眠るなど、とんでもございません」
「だったら、わたしと一緒に寝る?」
いつもは、エレンに冗談を言われる側だった。
だからこんなときぐらい、仕返しをしてもいいだろうと思ったのだ。
「……そう、ですね。……ではお言葉に甘えて」
「うん、うん……え? ……へっ?」
「今宵は、お嬢様と……いえ、ナーナル様と、ご一緒させていただきます」
「――ッ!?」
まさか、真に受けたのか。
ナーナルは目を見開き、慌ててエレンの顔を見る。すると、
「冗談ですよ?」
泳いでいたはずのエレンの目は、いつの間にか元に戻っていた。
つまり、結局のところ。
「ッ、……エ、エレン。貴方って人は、本当にもう……ッ」
ナーナルはまたしても、からかわれてしまったということだ。
◇
ひと悶着あったが、結局はエレンはソファで眠ることが決まった。本人は最後まで拒んでいたが、ナーナルに押し切られた形である。
からかったことを申し訳ないと思うのであれば、この条件を呑みなさい。
そう言われてしまっては、さすがに断りようがない。ナーナルにとっては、痛み分けといったところだろうか。
そして今、二人は宿の外に出て、村を散策中だ。王都とは比べ物にならないが、それなりに賑わっている。旅行者や行商人向けの屋台や露店がいくつか並んでおり、眺めるだけでも楽しい。
「あれはなに? ――あっ、そっちのお店に並んでいるものは?」
王都にいた頃、ナーナルは家と学園を往復するだけの毎日を送っていた。
学園では学友と共に勉学に励み、家に戻ってからは復習と予習、さらには礼儀作法などを学んだ。
夕食が終わると、ようやく自分の時間を作ることができるが、本を読んだりお茶を淹れたりすることぐらいしかできなかった。
だが、詰まらないと感じたことはない。自分の好きなことや、好きなもののために、時間を費やす。それがナーナルにとっての贅沢であり、癒しなのだ。
そんな毎日の中で特に心をくすぐられていたのは、学園にある図書館だった。
図書館には数多の物語が存在し、出番を待ち侘びているのだ。心が躍らないはずがない。
外の世界に興味を持ってからというもの、ナーナルはずっとそうだった。
「ナーナル様、少し落ち着きましょう。そんなに急がなくともお店は逃げたりしませんよ」
「分かっているわ。でもね、こういうところは初めてで……」
王都の外の世界は、自分にとって本の中の世界と同じだ。今、自分はその中にいる。
だから、ナーナルは図書館にいるときと同じように、夢中になっていた。
◇
「……エレン、これがほしいのだけれど……お金はある?」
しばらく歩き、ナーナルは古書を扱うお店の前で立ち止まった。
積み上げられた本を手に取り、題名を確認する。王都にいた頃は、限られた時間の中で面白そうなものを見繕う必要があったから、じっくりと選ぶことができなかった。
しかし今は違う。
エレンと共に家を出てから、ナーナルは自分のための時間を生きている。
「もちろんです。……その本に決めてしまって良いのですか? まだ時間はございますので、ごゆるりとお選びください」
「ありがとう、エレン」
エレンの心遣いが嬉しくて、ついつい口元が緩む。
それなら、ここにあるすべての本を吟味しよう。ナーナルは気合を入れた。
「ただし、この時期はまだ冷え込みます。文字が見えなくなるまでにはお決めください」
「善処するわ」
「善処ですか……参りましたね」
季節は間もなく春を迎える。肌を突き刺すような寒さを感じることは少なくなったが、夜の間は息が白くなるので、まだ油断は禁物だ。
しかしながら、ナーナルの勢いは止まりそうにない。
両の瞳を輝かせ、本の頁を捲るナーナルの背に、エレンは己のローブを羽織らせる。
「……エレン? これでは貴方が風邪を引いてしまうじゃない」
「そう思うのでしたら、善処、ではなくできるだけ早くお決めください」
「ふふ、考えておくわ」
少しだけ意地悪そうに笑みを浮かべ、ナーナルは再び本の虫となる。
その姿を後ろから見守り、エレンもまた頬を緩めるのだった。
◇
結局、ナーナルは一冊しか買わなかった。
「本当に、それだけでよろしかったのですか?」
「わたしたちは旅行者……いいえ、逃亡者よ。荷物が多いのは困るでしょう?」
この村に、二人が根を下ろすことはない。
ここは中継地点であり、二人の旅は始まったばかりなのだ。
「それにね、一度読み終えても、また読み返せばいいわ。この本が綴る物語は、いつでもわたしのことを待っていてくれるもの」
エレンのお金だからと、遠慮したわけではない。
ナーナルには自分の考えがあり、数多くの本の中からそれを選んだのだ。
「一度読了したら、飽きてしまいませんか」
「二度目には二度目の発見があるものよ。もちろん、三度目にも、ね?」
ナーナルにとって『本』とは生活の一部であり、己を楽しませてくれる特別な存在だ。
それも一度だけではなく、何度でも。
「さあ、帰りましょう?」
本を抱えたまま、ナーナルは借りていたローブを脱ぎ、エレンに羽織らせる。
食事は宿の中で済ませることができるので、これで村の散策はお終いだ。明朝にはここを発ち、次なる中継地点を目指すことになる。
遅くなる前に、二人は宿へと戻ることにした。
「時が経つのは、あっという間ね」
空を見上げ、ナーナルが口を開く。
「今頃、あちらは大騒ぎかしら……」
ロイドとの婚約を破棄し、真実を学園でぶちまけ、挙句の果てには父の命に背いて行方をくらませたのだ。騒ぎにならないはずがない。
「そうですね……仮に、まだ私がナイデン家にいたのであれば、今頃血眼でナーナル様のお姿を捜しているでしょう」
「エレンのそういうところ、好きよ」
何気ない言葉の一つに、エレンの肩が僅かに揺れる。
だが残念ながら、ナーナルがそれに気付くことはなかった。
◇
宿に戻って食事を済ませた二人は、部屋で言葉を交わし合う。
それは空白の期間を少しずつ埋めていくための、大切なひと時だ。
主と執事だった、あの頃のように。
「――そろそろ、お休みになりますか」
今日は長い時間、馬を走らせ、村についてからもお店巡りをした。
その結果、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろう。ナーナルの瞼は重くなっていた。
「……ええ、そうしようかしら」
ふわぁ、とあくびを一つ。
明日も早い。二人並んでソファに座って語り合うのは、次にしよう。
「さあ、ナーナル様。そろそろベッドに……」
エレンがソファから腰を上げ、ナーナルに声をかける。
すると、ナーナルがエレンの手を取った。
「……もう少しだけ、ここに座っていてもいい?」
「ソファは私の寝場所ですが」
「分かっているわ。だからわたしが眠るまでの間でいいから、お願い」
ナーナルの寝場所はベッドだ。けれどももう少しだけ、ナーナルはエレンの傍にいたかった。
「ではせめて、風邪を引かないようにいたしましょう」
ナーナルの手を放し、エレンはベッドの上から毛布を取る。
ソファに戻り、ナーナルの隣に座ると、二人で毛布に包まった。
「なんだか、遊んでいるみたいね」
くすっと笑い、ナーナルはエレンに寄りかかる。そして瞳を閉じた。
「……感謝しているわ、エレン」
ぽつりと、想いの丈をこぼす。
その何気ない台詞の中には、言い表せないほどの想いが込められている。
エレンがいるから、自分はここにいる。
希望を持ち、歩みを進めることができている。
「それは私の台詞ですよ」
そしてエレンもまた同じく、ナーナルへの言葉にできない想いを胸の内に抱えている。
「貴女が見つけてくれたから、私は今ここに……」
隣に座り、眠りに落ちるナーナルに向けて。
聞こえていないことを確認したうえで、エレンは優しく微笑んでみせる。
伝えることができる日が来るか否か、まだ分からない。
たとえ来なかったとしても、傍に居続け、守り抜いてみせる。そう誓った。
「おやすみなさい、ナーナル様」
執事に身を任せ、主は舟をこぐ。
そんな主の傍で幸せを噛み締めながら、執事はその安らかな寝顔を見守り続けた。
◇
瞼の裏に、ナーナルは薄らと日の輝きを感じ取る。夜が明けたのだろう。
「……んぅ」
起きなければと、身を捩る。
しかし狭い場所にいるのか、上手く体勢を変えることができない。
「お目覚めですか?」
不思議に思っていると、すぐ近くからエレンの声が聞こえた。
まだすっきりしない頭を振って、ナーナルは瞼を開けてみる。すると、
「……エレ……ン?」
目の前に、エレンの顔があった。
「――ッ!?」
ここでようやく、ナーナルは思い出した。
昨晩、眠りに落ちるまでの間、自分はエレンと二人でソファに座っていたはずだ。
だが、なんだこの状況はと目を動かす。
寝落ちしたのは理解できる。
ではなぜ、エレンに『膝枕』されているのか。
「ご、ごめんなさ……っ」
飛び起きたナーナルは、エレンの傍から離れる。
余りの衝撃に心臓が高鳴り、全く落ち着かない。
「? 何を謝られているのですか」
けれどもエレンは、いつもと変わらぬ表情を浮かべている。
年頃の乙女に膝枕をしていたくせに、その余裕はどこから出てくるのか。
「ッ、……ううっ、なんでもないわ!」
怒りをぶつけるわけにもいかず、ナーナルは悔しそうに目を逸らす。
恐らくエレンは、ソファで眠ってしまった自分を起こさないように、その身を犠牲に枕役を果たしてくれたのだろう。だとすれば、きっと彼は十分な睡眠を取ることもできなかったはずだ。
逸らした視線をゆっくりと戻し、ナーナルは再びエレンと目を合わせる。
「……エレン、貴方は眠れたの?」
「いえ、残念ながら全く」
「――ッ!! やっぱり……」
「ナーナル様の寝顔を見ていると、眠気など吹き飛んでしまいますので」
「そう、それは本当に申し訳ないことを――って、そっち!? それが原因なの!?」
訊ねると、エレンは意地悪そうに口角を上げた。
ナーナルは、またしてもからかわれたのだ。
「……もうっ、心配させるような冗談は禁止よ、いいわね!」
「かしこまりました。それでは間もなく朝食の時間となりますので、私は部屋の外で待機いたします。準備が整いましたらお知らせください」
一礼し、エレンが部屋の外へ出た。扉一つ隔てて、エレンはナーナルが身支度するのを待つ。
その一方で、部屋に残されたナーナルは上気した頬を両手で覆う。
「ひ、……ひざ、まくら……エレンに、膝枕されていただなんて……ッ」
身悶えし、ソファの上で丸くなる。
ナーナルは恥ずかしくて一歩も動けない。
しかしエレンを待たせているのだから、早く支度をしなければならない。
無理矢理に羞恥心を胸の奥に押し隠すと、ナーナルは手早く身支度して息を整える。
そして部屋の外に出て、エレンと二人で朝食を取りに向かった。
朝食を終え、学園に着いた三人。
ナーナルは「用があるの」と言い、モモルの手を引いて真っ直ぐに職員室へ向かった。
そこで挨拶を一つ、続けて一言、
「皆様、御機嫌よう。突然ではございますが、本日をもって自主退学させていただきます」
ナーナルの声が職員室に響いた。
一瞬の静寂のあと、驚愕に満ちた声で職員室が埋まる。
「は……、えっ? 今言うんですか?」
驚いたのはモモルも同じだ。
隣に立つナーナルの顔を見上げ、ぽかんと口を開けている。
学園に着いて早々、自主退学を申し出る。
それはまあいいとして、なぜわたくしまで連れてきたのか。
突飛な行動にモモルは驚きを隠せないが、まだ終わらない。
「ナーナル君、今言ったことは……事実なのか?」
教師が一人、疑問を口にする。
爵位こそ低いが、ナーナルは優秀な生徒だ。教師陣や学友からの評判も良く、誰からも好かれる存在として認識されていた。
そのナーナルが、急に退学すると申し出たのだ。嘘だと思いたいのか、事実を確かめようと試みる。しかし、
「ええ、事実です」
ナーナルはあっさりと肯定する。
教師陣と職員室に居合わせた生徒たちは、その言葉にため息を吐く。
「一体、なぜ……理由を聞かせてくれ」
「実はわたし、婚約を破棄しようと思いまして」
「は?」
その台詞に、全員が目を丸くする。
「ここにいる妹のモモルが、どうしてもわたしの婚約者であるロイド・エルバルド様を譲ってほしいと言うので、その願いを叶えることにしました」
「ちょ、おねっ、お姉様!? 急に何を――」
「本当のことを言いますと、わたしは婚約を破棄するつもりはございませんでした……。ですが、モモルとロイド様が共に一夜を過ごした仲と知り、わたしには二人の愛を止めることはできないと悟り、諦めることといたしました」
「――ッ!!」
それをここで言うのか! モモルは心の中で絶叫した。
「お姉様ッ、二人だけの秘密だと言いましたよね? 約束は守ってくださらないと困りますわ!」
小声で訴えるモモルに、ナーナルは優しく笑う。
「二人だけの秘密……? いいえ、そんな約束は一度もしていないわ。貴女とわたしがした約束は、お父様とお母様に秘密にすることだけ……そうでしょう、モモル?」
「ッ、ううっ、そんなこと……ッ!!」
周囲がざわつく。
職員室のどよめきに興味を引かれた生徒が次々と集まってくる。
何の騒ぎだと耳を傾け、徐々に知っていく。
ナーナル・ナイデンが、妹のモモルに婚約者を寝取られたことを。
「お、お姉様……これはお姉様の恥になりますわ。妹のわたくしに負けた女として一生を過ごすことになってもいいんですか? 今ならまだ撤回できます、早く冗談だと言ってください!」
「あら、おかしなことを心配するのね? わたしは修道院に入るのよ? 王都中の人たちがわたしを馬鹿にしようとも、その声がわたしの耳に届くことはないと思うのだけれど、違うかしら?」
「っっ」
違わない。
王都の修道院は、一度入れば二度と出てくることができないと言われている。そんな場所に入る姉と比べれば、王都中の人たちから馬鹿にされる方がまだいいだろう。
そう考え、モモルは気を取り直す。
反撃は想定外の事態であったが、ロイドを寝取り、姉を修道院送りにすることができたのだ。これ以上の成果はないといえる。
「それでは皆様、わたしは家へ戻ろうと思いますので、そろそろ失礼いたします」
「家に……って、お姉様? ここまで来たのに、もう戻るのですか?」
「ええ。伝えるべきことはすべて伝えたわ。あとは身支度をするだけよ」
自主退学するのだから、これ以上学園に留まる意味はない。
確かにその通りなのだが、モモルは何か腑に落ちなかった。
「モモル、わたしの分までしっかりね?」
けれどもナーナルは、モモルに考える隙を与えない。
「も、もちろんですわ。お姉様に言われるまでもありませんから」
もういい。ナーナルがいる限り、騒ぎは大きくなり続ける。早く帰ってくれた方が自分のためだ。
その結果、モモルは二人の背を見送り、事態の収束を図るのであった。
◇
朝の学園での一騒動から、半日が過ぎた。
既に日は落ち、王都には夜の帳が下りている。
そんな中、規則正しい馬の蹄の音が響く。と同時に、白い息が二つ交じり合う。
「――ここまで来れば、安心かと」
エレンが籠の中の鳥を連れ出してからしばらく、その姿は王都の外にあった。
手綱を緩め、馬上から来た道を振り返ってみるが、そこには何もない。王都は、既に目に見える距離ではなくなっていた。
「結構、走ったわね」
背をエレンに預けたまま、ナーナルが呟く。
「お嬢様は確か、王都から出るのは初めてでしたね」
「ええ、ずっと夢見ていたわ……。いつの日か、外の世界をこの目に映したいって」
エレンの声に、ナーナルが頷く。それは他愛もない話の一つだ。
ナーナルが外の世界に憧れを抱いたのは、エレンがまだ専属執事だった頃のこと。暇さえあれば、外の世界の話や物語をおねだりしたものだ。その経験が今のナーナルを作り上げていた。
「いかがですか」
エレンが感想を求める。
だが、ナーナルは首を横に振り、小さく笑った。
「外の世界は広いのでしょう? まだ何も言えないわ」
家に戻ったあと、ナーナルは修道院に入る振りを続け、身支度を整えていった。
準備ができたらそのまま、両親とモモルには何も伝えずにエレンと二人で馬に跨り、家を抜け出したのだ。
その際、ナーナルは手持ちの貴金属をお金に換えようと思っていたが、残念ながら時間が足りず、そこまではできなかった。
とはいえ、旅の資金は問題ないとエレンが言う。ナイデン家に勤めていた頃に貯めたお金があるから、ナーナルが心配することはないのだと。
もちろん、それでも困ることがあれば、改めて換金すればいい。
故に、金銭面での不安はなかった。
「そういえば、結局行き先をまだ決めていなかったわね……。エレン、どこかおすすめはある?」
「国内では旦那様に見つかり連れ戻される恐れがございますので、隣国まで行くのがよろしいかと」
「隣国……確かローマリアだったかしら」
「はい。商人が治める豊かな国であり、私の故郷でもございます」
「えっ、エレンってローマリアの出身なの? 今初めて知ったわ」
王都の出だとばかり思っていたが、どうやら違っていたらしい。
どうして話してくれなかったの、とナーナルは少しだけ頬を膨らませる。
「まあいいわ。それなら行き先はローマリアにしましょう。着いたら案内してくれる?」
「もちろんです。……ただ、ローマリアに到着後で構いませんので、私からも一つお願いしたいことがございます」
「珍しいわね、エレンがお願いごとだなんて」
隣国に着いてからも、エレンはナーナルの傍にいるつもりだ。
主に言われたからとはいえ、王都の外までついてくる必要など本当はない。
けれどもエレンは、あえてその道を歩むことを決めた。それは心に秘めた想いがあったからだ。
「そのお願いは、わたしが叶えてあげられるようなことなの?」
「……非常に困難ですが、恐らくは」
「あいまいな答えね……でも、エレンはわたしならできると思っているのね?」
そう聞くと、エレンは頷いた。
それを見て、ナーナルはさらに続ける。
「それなら、迷わずわたしを信じなさい。貴方の願いが何なのかは知らないけれど、絶対に叶えてあげるから」
「頼もしいお言葉です」
力強い返事に、エレンは口元を緩める。
それを見たナーナルも、柔らかな笑みを浮かべた。
「エレン。これから貴方とわたしは、一心同体よ。だから何があっても離れたらダメ。いいわね?」
「それは命令ですか」
「違うわ。これもわたしのお願いの一つ。だから聞いてちょうだい」
「そういうことであれば、喜んで」
命令よりも、お願いの方がいい。エレンはしっかりと頷いた。
「ところで……本当に後悔してない? わたしについて来なければ今も――」
「お嬢様の傍にいられることは、私にとってはこの上ない喜びです」
その言葉に、ナーナルはさらに頬を緩める。
今後は普通に暮らすこともままならないかもしれないが、ナーナルは一人ではない。
それがとても心強かった。
「頼りにしているわ、エレン」
第二章 外の世界
その日は、森を越えた先の村で一夜を明かすことにした。
「……ねえ、エレン。馬鹿にされても構わないから、言いたいことがあるのだけれど」
村に入ると、辺りを歩く住民の姿を眺める。
どこでも見られるような当たり前の光景を前に、ナーナルの胸は高鳴っていた。
「王都以外にも人がいるのね」
当然のことと頭では理解していながらも、口にせずにはいられない。
王都の外に出る必要も理由もなかったナーナルだから、それも仕方のないことだ。
「私も、元は王都の外の人間です。その世界を楽しんでいただけたのであれば光栄です」
ナーナルの抱いた感想を、エレンは馬鹿になどしない。するはずがない。
エレンは何があろうともナーナルの味方なのだ。
「あ、……えっと、このあとはどうすればいいのかしら」
一先ず、村に入ることはできた。
しかしこのあと、何をすべきなのか、箱入りのナーナルには分からない。
「ご安心ください」
何をすればとナーナルが迷っている間に、エレンは宿の手配を済ませてしまう。
この村を訪ねる旅行者や行商人は思いのほか多く、幸いにも二人を怪しむ者はいなかった。
◇
「部屋はこちらのようですね」
宿の亭主から鍵を受け取り、ナーナルとエレンは部屋へ向かう。空きがなかったので、取った部屋は一つだ。
鍵を開け、室内に入ってみる。簡素な作りだが、寝泊まりするには十分だった。
ただし、問題が一つ。
「……エレン、ベッドが足りないわね」
見たところ、室内にはベッドが一つしかない。
「そのようで」
「その様子だと、まさか知っていたの?」
問うと、エレンは素直に頷く。
「私はお嬢様の執事です。その身をお守りする役目がございますので、ベッドは必要ありません」
ベッドで眠るのはナーナルで、エレンはその身を扉の前で守る。
執事たるエレンの中では、その構図が出来上がっていた。
「はぁ……。エレン、貴方はわたしの従者ではないのよ? それに、今は執事でもないわ」
「いえ、それは間違いです。今朝、お嬢様に再雇用されたと記憶しております」
その台詞を耳にして、ナーナルは大きなため息を吐く。
ここはナイデン家ではない。本来なら家を出た時点で、主従関係は切れている。
それでもかしこまるエレンの手を、ナーナルは思い切って掴んだ。
「お嬢様?」
「その呼び方はやめて。これからはナーナルと呼んでほしいの」
「ですが」
珍しく、エレンの目が泳ぐ。
それが面白かったのか、ナーナルは意地悪そうに笑った。
「ソファがあるでしょう? わたしがそこで眠るから、エレンはベッドで寝てちょうだい」
「お嬢様がソファで眠るなど、とんでもございません」
「だったら、わたしと一緒に寝る?」
いつもは、エレンに冗談を言われる側だった。
だからこんなときぐらい、仕返しをしてもいいだろうと思ったのだ。
「……そう、ですね。……ではお言葉に甘えて」
「うん、うん……え? ……へっ?」
「今宵は、お嬢様と……いえ、ナーナル様と、ご一緒させていただきます」
「――ッ!?」
まさか、真に受けたのか。
ナーナルは目を見開き、慌ててエレンの顔を見る。すると、
「冗談ですよ?」
泳いでいたはずのエレンの目は、いつの間にか元に戻っていた。
つまり、結局のところ。
「ッ、……エ、エレン。貴方って人は、本当にもう……ッ」
ナーナルはまたしても、からかわれてしまったということだ。
◇
ひと悶着あったが、結局はエレンはソファで眠ることが決まった。本人は最後まで拒んでいたが、ナーナルに押し切られた形である。
からかったことを申し訳ないと思うのであれば、この条件を呑みなさい。
そう言われてしまっては、さすがに断りようがない。ナーナルにとっては、痛み分けといったところだろうか。
そして今、二人は宿の外に出て、村を散策中だ。王都とは比べ物にならないが、それなりに賑わっている。旅行者や行商人向けの屋台や露店がいくつか並んでおり、眺めるだけでも楽しい。
「あれはなに? ――あっ、そっちのお店に並んでいるものは?」
王都にいた頃、ナーナルは家と学園を往復するだけの毎日を送っていた。
学園では学友と共に勉学に励み、家に戻ってからは復習と予習、さらには礼儀作法などを学んだ。
夕食が終わると、ようやく自分の時間を作ることができるが、本を読んだりお茶を淹れたりすることぐらいしかできなかった。
だが、詰まらないと感じたことはない。自分の好きなことや、好きなもののために、時間を費やす。それがナーナルにとっての贅沢であり、癒しなのだ。
そんな毎日の中で特に心をくすぐられていたのは、学園にある図書館だった。
図書館には数多の物語が存在し、出番を待ち侘びているのだ。心が躍らないはずがない。
外の世界に興味を持ってからというもの、ナーナルはずっとそうだった。
「ナーナル様、少し落ち着きましょう。そんなに急がなくともお店は逃げたりしませんよ」
「分かっているわ。でもね、こういうところは初めてで……」
王都の外の世界は、自分にとって本の中の世界と同じだ。今、自分はその中にいる。
だから、ナーナルは図書館にいるときと同じように、夢中になっていた。
◇
「……エレン、これがほしいのだけれど……お金はある?」
しばらく歩き、ナーナルは古書を扱うお店の前で立ち止まった。
積み上げられた本を手に取り、題名を確認する。王都にいた頃は、限られた時間の中で面白そうなものを見繕う必要があったから、じっくりと選ぶことができなかった。
しかし今は違う。
エレンと共に家を出てから、ナーナルは自分のための時間を生きている。
「もちろんです。……その本に決めてしまって良いのですか? まだ時間はございますので、ごゆるりとお選びください」
「ありがとう、エレン」
エレンの心遣いが嬉しくて、ついつい口元が緩む。
それなら、ここにあるすべての本を吟味しよう。ナーナルは気合を入れた。
「ただし、この時期はまだ冷え込みます。文字が見えなくなるまでにはお決めください」
「善処するわ」
「善処ですか……参りましたね」
季節は間もなく春を迎える。肌を突き刺すような寒さを感じることは少なくなったが、夜の間は息が白くなるので、まだ油断は禁物だ。
しかしながら、ナーナルの勢いは止まりそうにない。
両の瞳を輝かせ、本の頁を捲るナーナルの背に、エレンは己のローブを羽織らせる。
「……エレン? これでは貴方が風邪を引いてしまうじゃない」
「そう思うのでしたら、善処、ではなくできるだけ早くお決めください」
「ふふ、考えておくわ」
少しだけ意地悪そうに笑みを浮かべ、ナーナルは再び本の虫となる。
その姿を後ろから見守り、エレンもまた頬を緩めるのだった。
◇
結局、ナーナルは一冊しか買わなかった。
「本当に、それだけでよろしかったのですか?」
「わたしたちは旅行者……いいえ、逃亡者よ。荷物が多いのは困るでしょう?」
この村に、二人が根を下ろすことはない。
ここは中継地点であり、二人の旅は始まったばかりなのだ。
「それにね、一度読み終えても、また読み返せばいいわ。この本が綴る物語は、いつでもわたしのことを待っていてくれるもの」
エレンのお金だからと、遠慮したわけではない。
ナーナルには自分の考えがあり、数多くの本の中からそれを選んだのだ。
「一度読了したら、飽きてしまいませんか」
「二度目には二度目の発見があるものよ。もちろん、三度目にも、ね?」
ナーナルにとって『本』とは生活の一部であり、己を楽しませてくれる特別な存在だ。
それも一度だけではなく、何度でも。
「さあ、帰りましょう?」
本を抱えたまま、ナーナルは借りていたローブを脱ぎ、エレンに羽織らせる。
食事は宿の中で済ませることができるので、これで村の散策はお終いだ。明朝にはここを発ち、次なる中継地点を目指すことになる。
遅くなる前に、二人は宿へと戻ることにした。
「時が経つのは、あっという間ね」
空を見上げ、ナーナルが口を開く。
「今頃、あちらは大騒ぎかしら……」
ロイドとの婚約を破棄し、真実を学園でぶちまけ、挙句の果てには父の命に背いて行方をくらませたのだ。騒ぎにならないはずがない。
「そうですね……仮に、まだ私がナイデン家にいたのであれば、今頃血眼でナーナル様のお姿を捜しているでしょう」
「エレンのそういうところ、好きよ」
何気ない言葉の一つに、エレンの肩が僅かに揺れる。
だが残念ながら、ナーナルがそれに気付くことはなかった。
◇
宿に戻って食事を済ませた二人は、部屋で言葉を交わし合う。
それは空白の期間を少しずつ埋めていくための、大切なひと時だ。
主と執事だった、あの頃のように。
「――そろそろ、お休みになりますか」
今日は長い時間、馬を走らせ、村についてからもお店巡りをした。
その結果、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろう。ナーナルの瞼は重くなっていた。
「……ええ、そうしようかしら」
ふわぁ、とあくびを一つ。
明日も早い。二人並んでソファに座って語り合うのは、次にしよう。
「さあ、ナーナル様。そろそろベッドに……」
エレンがソファから腰を上げ、ナーナルに声をかける。
すると、ナーナルがエレンの手を取った。
「……もう少しだけ、ここに座っていてもいい?」
「ソファは私の寝場所ですが」
「分かっているわ。だからわたしが眠るまでの間でいいから、お願い」
ナーナルの寝場所はベッドだ。けれどももう少しだけ、ナーナルはエレンの傍にいたかった。
「ではせめて、風邪を引かないようにいたしましょう」
ナーナルの手を放し、エレンはベッドの上から毛布を取る。
ソファに戻り、ナーナルの隣に座ると、二人で毛布に包まった。
「なんだか、遊んでいるみたいね」
くすっと笑い、ナーナルはエレンに寄りかかる。そして瞳を閉じた。
「……感謝しているわ、エレン」
ぽつりと、想いの丈をこぼす。
その何気ない台詞の中には、言い表せないほどの想いが込められている。
エレンがいるから、自分はここにいる。
希望を持ち、歩みを進めることができている。
「それは私の台詞ですよ」
そしてエレンもまた同じく、ナーナルへの言葉にできない想いを胸の内に抱えている。
「貴女が見つけてくれたから、私は今ここに……」
隣に座り、眠りに落ちるナーナルに向けて。
聞こえていないことを確認したうえで、エレンは優しく微笑んでみせる。
伝えることができる日が来るか否か、まだ分からない。
たとえ来なかったとしても、傍に居続け、守り抜いてみせる。そう誓った。
「おやすみなさい、ナーナル様」
執事に身を任せ、主は舟をこぐ。
そんな主の傍で幸せを噛み締めながら、執事はその安らかな寝顔を見守り続けた。
◇
瞼の裏に、ナーナルは薄らと日の輝きを感じ取る。夜が明けたのだろう。
「……んぅ」
起きなければと、身を捩る。
しかし狭い場所にいるのか、上手く体勢を変えることができない。
「お目覚めですか?」
不思議に思っていると、すぐ近くからエレンの声が聞こえた。
まだすっきりしない頭を振って、ナーナルは瞼を開けてみる。すると、
「……エレ……ン?」
目の前に、エレンの顔があった。
「――ッ!?」
ここでようやく、ナーナルは思い出した。
昨晩、眠りに落ちるまでの間、自分はエレンと二人でソファに座っていたはずだ。
だが、なんだこの状況はと目を動かす。
寝落ちしたのは理解できる。
ではなぜ、エレンに『膝枕』されているのか。
「ご、ごめんなさ……っ」
飛び起きたナーナルは、エレンの傍から離れる。
余りの衝撃に心臓が高鳴り、全く落ち着かない。
「? 何を謝られているのですか」
けれどもエレンは、いつもと変わらぬ表情を浮かべている。
年頃の乙女に膝枕をしていたくせに、その余裕はどこから出てくるのか。
「ッ、……ううっ、なんでもないわ!」
怒りをぶつけるわけにもいかず、ナーナルは悔しそうに目を逸らす。
恐らくエレンは、ソファで眠ってしまった自分を起こさないように、その身を犠牲に枕役を果たしてくれたのだろう。だとすれば、きっと彼は十分な睡眠を取ることもできなかったはずだ。
逸らした視線をゆっくりと戻し、ナーナルは再びエレンと目を合わせる。
「……エレン、貴方は眠れたの?」
「いえ、残念ながら全く」
「――ッ!! やっぱり……」
「ナーナル様の寝顔を見ていると、眠気など吹き飛んでしまいますので」
「そう、それは本当に申し訳ないことを――って、そっち!? それが原因なの!?」
訊ねると、エレンは意地悪そうに口角を上げた。
ナーナルは、またしてもからかわれたのだ。
「……もうっ、心配させるような冗談は禁止よ、いいわね!」
「かしこまりました。それでは間もなく朝食の時間となりますので、私は部屋の外で待機いたします。準備が整いましたらお知らせください」
一礼し、エレンが部屋の外へ出た。扉一つ隔てて、エレンはナーナルが身支度するのを待つ。
その一方で、部屋に残されたナーナルは上気した頬を両手で覆う。
「ひ、……ひざ、まくら……エレンに、膝枕されていただなんて……ッ」
身悶えし、ソファの上で丸くなる。
ナーナルは恥ずかしくて一歩も動けない。
しかしエレンを待たせているのだから、早く支度をしなければならない。
無理矢理に羞恥心を胸の奥に押し隠すと、ナーナルは手早く身支度して息を整える。
そして部屋の外に出て、エレンと二人で朝食を取りに向かった。
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