壊れた王のアンビバレント

宵の月

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失意

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 扉が開く物音にも、カーティスは動かなかった。寝台に腰掛け手のひらで顔を覆い、深く項垂れたまま絶望に身を浸している。

 「カーティス……」

 親友の痛々しい姿に、足を踏み出し足元でガラスが砕ける音に足を止めた。見ればそこら中に手当たり次第、投げつけただろう物が残骸となって散乱していた。
 
 「カーティス……」
 「…………」

 静かなキリアンの呼び声にも、カーティスはなにも答えなかった。

 「……ノーラはネロのところに行かせた。エクルド卿に頼んで俺が指示した。リースを責めるなよ?」
 「…………」
 「………アルヴィナ妃は8歳だった……聖文誓約の意味を、理解していなくても無理はない。」
 「…………」

 答えないカーティスに、キリアンは立ち上がり歩き出した。

 「………後を追っていれば……」

 部屋を出ようとしたキリアンが、震える小さな呟きに足を止めた。

 「………アルヴィナ様は王でなければ手に入らない。」

 市井で生きることは許されない。あの美貌と知性はいずれ必ず見出される。

 「カーティス、それはお前も同じだ。」

 全てを振り捨て、ただびととして生きていくにはカーティスは王であり過ぎた。
 鋭敏な知性と美貌は、誰もそっとしては置かない。何よりもカーティスは、国を民を深く愛している。過ぎるほどに。

 (カーティス、お前は変わったわけではなかったんだな……)

 コラプションがあたたかで穏やかな親友を、冷酷で無慈悲に変えたと思っていた。聖文誓約の存在で、ようやくネロの主張を理解した。
 変わったのではなく、すべてを経た上の今のカーティスだと。
 愛が深いからこそ、憎しみもより深くなる。剥き出しになった本能が、感情が選んだのは粛清。悪夢に侵され、手遅れなほど壊された愛する民への慈悲。

 (俺は最後まで側にいる……)

 例えそれが理解されずとも、キリアンにとってはそれが真実だった。
 在りし日の全てを取り戻すため、血に塗れることも厭わなかった親友の、その深い愛が報われることを祈らずにはいられなかった。


※※※※※


 《アルヴィナ妃は8歳だった……聖文誓約の意味を、理解していなくても無理はない》

 カーティスは項垂れたまま、キリアンが残していった言葉を思い起こす。

 (分かっていたさ……)

 自嘲に唇を歪め、カーティスは床を見つめた。
 自分を兄のように慕っていたアルヴィナ。向ける想いは同じではない。共に過ごすことでゆっくりと愛へと変わると信じていた。悪意がそのための時間を奪っていった。
 愛に変わる前にアルヴィナは、カーティスの元を去った。長い平和が全てを後手に回させた。

 (父上に罪はない……)

 カーティスに侘びながら目を閉じた父。悔しさに握りしめた拳は、振り下ろす先を探した。
 平和であったことを恥じる必要などどこにもないのだから。

 (後悔などない……)

 アルヴィナが去ってすぐに盛られたコラプションが、カーティスの迷いを振り払った。全てを取り戻すために、何一つ躊躇わなかった。
 愛に殉じ誓いを全うする。愛した者が受けた苦しみを憎しみを、余すことなく叩き返す。
 剥き出しにされた本能と感情が選ばせた道を、カーティスは後悔していない。

 《………アルヴィナ様は王でなければ手に入らない》

 離れている間、繰り返し幻覚がカーティスを苦しめた。あの美しさが、幻覚を容易く現実にする。誰彼構わず魅了する美貌。
 愛おしかった美しさに憎しみが募り、愛するほどに裏切りに恨みが募る。堕落が深くなるたびに、アルヴィナの存在が許せなくなる。
 手を伸ばしても届かない、同じだけの愛を返してはくれない、愛しくて愛しくて、もういっそ殺してしまいたいほど憎い女。

 (アヴィー……)
 
 胸を掻きむしるような激情に、自分だけが苦しんでいる。

 (アヴィー……アヴィー……)

 愛を僅かでも期待してしまったことが、余計今を苦しくさせた。

 (お前にとって、そんなものだった……)

 聖文誓約に法的拘束力などなかった。国によって違う婚姻様式の中で、唯一聖文誓約だけが共通様式だった。
 聖文誓約は他に誓約を追記することができない。利を求める王族の婚姻で、めったに結ばれることがない誓い。
 婚約ならば婚姻にそのまま、聖文誓約が適応されることになる。
 互いの深い愛と覚悟を示し、唯一愛だけを条件とした誓約。

 (……単なる象徴……なんの意味もない……)

 それでも放棄できなかった。婚約が破棄されても。愛していた。ただ深く。
 単なる象徴だと言い聞かせても、カーティスにとっての唯一の指針であり続けた。
 もうアルヴィナへの愛しか残っていなかった。どんなに歪んでしまっても、手放せなかった想い。

 (アヴィー……)

 顔を覆った手のひらから涙が滴り、嗚咽が漏れる。彼女しか愛せない。彼女しか欲しくない。彼女だけを愛している。
 聖文に背いてまで生きようとしたアルヴィナ。死さえ厭わない自分との差は、容易に憎悪に変わった。

 《アヴィー、お前が自ら選び取り、手放さなかったものなど一つもないのだろう?》

 哀れなウォロックと自分は変わらない。深く捉えられ身動きすらできずにいても、アルヴィナは簡単に背を向ける。
 愛することなく、執着することなく、貴方のためだと背を向ける。アルヴィナしか晴らせない悪夢の中に放置して。

 「アヴィー!アヴィー!アヴィー……」

 自分を愛さない、愛する者に憎しみが尽きない。身勝手で醜悪なこの愛は、嫉妬と憎悪に焼き尽くされて、いつかセレイアのような末路を辿るのかもしれない。

 「ならばせめて、お前が私に止めを刺してくれ……アヴィー……」

 見上げた青みかがった銀の月を、カーティスは乞うように見上げた。
 アルヴィナだけが、カーティスの長く苦しい悪夢を終わらせられるのだから。

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